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空は青いが、朝から巨大な入道雲が立ち込めていた。頭頂は綿菓子のようにまっさらに白いが、下部は
この木陰を訪れるのは、おおよそ一年ぶりだ。穂積が都会から電車を乗り継いでこの地に降り立ったのは昨日の夜、もうすっかり辺りが暗くなってしまってからのことだった。穂積の母はやはり今年の夏も穂積を叔父と祖母の家に預け、穂積は朝食が済むと一冊の本と祖母の握り飯を肩掛け鞄に詰めて出かける。妹とは会っていない。もう、忘れられてしまったかもしれない。
穂積は慣れた所作で木陰に腰を下ろすと、鞄から分厚い本を取り出し、頁を捲り始めた。ひとりぼっちで座る木のうろに、わずかな違和感を覚える。風に煽られて頬に掛かる髪が邪魔だ。掻き上げようと手を伸ばすと、今度は本の頁がぱらぱらと捲れて閉じた。それでもどうにか収まりのいい場所を見つけると、穂積はとっくりと文字をなぞり始める。かなの曲線と漢字の造形は美しく、綴られた物語は穂積を引き込む。この場所で本を読むという行為は、やはり穂積に一抹の安寧をもたらす。またひと夏を世話になる叔父と祖母に余計な気を配らせることはなく、穂積は確かにひとりぼっちではあったけれど、別段一人が嫌いなわけではなかった。ただ、誰かが隣にいてくれることの居心地のよさを知ってしまっただけで。
「
文字をなぞっていると、額に軽い衝撃があった。ぶつかったものはそのままアスファルトに転がり落ち、穂積はそれを何とはなしに目で追う。美しく光り輝く、一匹の玉蟲だった。穂積は驚く。この土地にあっても、玉蟲と巡り会うことはひと夏に一度あるかないかだ。それを、今年訪れて一番に見ることになるなど、思ってもみなかった。何か、必然じみたものを感じる。
「人にぶつかるなんて、鈍臭い奴だな」
穂積はふっと頬を緩める。指先で注意深く玉蟲を摘み上げて、光に透かす。玉蟲は六本の足を使って器用にもがいている。木漏れ日を受けて、翅はより一層、慎ましやかに煌めく。
「こうして見ると本当に宝石みたいだなあ。綺麗だ」
玉蟲は存外、飛ぶのが速い。人の気配を察知して飛び立つのを目の当たりにして、ようやくそこにいたことに気がつく、といった具合なので、こうしてじっくりとその輝きを観察するのは穂積も初めてのことだった。暫く眺めると、穂積は空に掲げる手を下ろして、もう片方の掌に玉蟲を乗せてやった。足場を得て、玉蟲はもぞもぞと肌の上を這い回り始める。
──ふと、懐かしい面影が脳裏をよぎる。もしかしたらと、今なお鮮烈な記憶に、魂が震える。
「なあ、お前もひとりぼっちなのか?」
なるべく驚かさないようにそっと囁きかけたその時、
「あっ」
玉蟲は翅を広げ、それまでぎこちなく掌を這い回っていたのが嘘のような速さで、天高く飛び去ってしまった。玉蟲の消えた空を、穂積は仰ぐ。夏の空は突き抜けるように高く、遠い。穂積は暫し、呆然としていた。南風がどうどうと木々をざわめかせる。本の頁が再び閉じてしまったのも、どうでもよかった。圧倒的な喪失に、今になってようやく、気づかされたような気がした。
「君は、どこへ行ってしまったんだろうなあ」
ひとりごちた言葉は、誰へ届くこともない。
「生きて、いるのかな」
そんなことはあり得ないと、とうに頭では理解しているはずなのに、心だけがあの夏の柔らかく膿んだ疵に囚われて、追いつかずにいる。淡い期待を抱き続けてしまう。この場所にいればあの日のように、無愛想な声が『そこをどけ』と言ってくれるのではないかと。仕組まれた邂逅に、不器用に、はにかんだように笑いかけてくれるのではないかと。それはあまりにも報われない期待だ。優しく愚かな檻に、閉じ込められている。
「また、会いたいなあ」
ぽたり、何かがアスファルトに黒々としみを作った。頬を、濡れた感触が伝っていた。生ぬるい。汗ではない。何だろうかと、顔に手をやる。涙だった。自分でも気づかぬうちに、透明な雫があとからあとから、堰を切ったようにこぼれ落ちてくるのだった。
「──たま」
きっと自分だけしか呼ぶことはなかったであろう、彼の名を呼ぶ。一度その名を口にしてしまえば、もう止まらなかった。
「たま。たま……!」
幾度も幾度も鮮やかなその名を呼びながら、穂積は泣いた。蝉の歌がじわじわと、穂積の全てを蝕んでいく。己でも気づかぬうちに手遅れなほどに膿み、熟した
それでも、祈らずにはいられない。もう一度、あの涼しげな横顔に触れたいと。懐かしい面影を探るには、世界はあまりにも明るく、巨大な入道雲を抱くあの空よりも広大で、たった一人の孤独な少年の腕をどんなに広げても余りあるほどに残酷だった。
もういくらも立たないうちに、雨が降り始めるだろう。
玉蟲色の翅に透かせば 蜜蝋文庫 @bonbonkotori
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