模型屋
蜜蝋文庫
Parnassius mnemosyne
記憶の蝶が呼んでいる。
白昼の、人で賑わう往来で、僕はふと足を止め、顔を上げた。
網膜を灼くような白い陽光がちかりと視界に瞬き、己がそれまで如何に伏目がちに歩を進めていたかということを思い知る。
空は清しく晴れている。人々は忙しなく行き交い、こんな道端で立ち止まるなどもっての外であり、さも邪魔だ、迷惑だといった風情で僕の傍らをすり抜けて行く。つい今しがたまでそうした人々の一員であったにも関わらず、何と勿体ないことかと僕は思う。皆、その思い詰めたような険しい表情をほどいて、ただほんの少し顔を上げてみるだけでいいのだ。そうすれば曇りのない、気のすくような青空が、ずっと僕たちの頭上にあったことに気づくだろう。
しかしそんな考えも、今となっては無用の長物である。もはや僕の視線は吸い寄せられるように、見慣れたはずの町並みの、ある一点に釘付けになっている。
比較的近代的な、鉄筋コンクリートの二つの建物の隙間で、窮屈そうに身を屈め、しかしその建物は明らかに他とは異なる、異質な存在感を放っていた。
古びた木造の戸建である。たとえばその建物だけが、明治だの大正だのといった時代から切り取られてきて、景色に馴染むように注意深くピンセットで貼り込まれたのだと言われても、少しも不思議ではないような違和感と、古い物だけが持ち得るしっとりと落ち着いた趣き深さを併せ持つ、そんな佇まいだった。
廃屋だろうか。そう思ったが、引き戸に嵌め込まれたソーダ硝子越しに目を凝らせば、朱の筆書きで数字を記した札を括り付けられた造形物が、暗がりにいくつも並べられているのが見える。軒先に看板らしき物も掲げられているところを見ると、何らかの
そもそも昨日まで、このような鋪があっただろうか。第一に、こんなに目立つ──この町においては、という意味で──鋪があれば、僕はもっと早くに興味を抱き、この如何にも建て付けの悪そうな引き戸に手を掛けていたはずだ。だからと言って鋪のできる以前にこの場所に何があったかと問われれば、てんで思い出すことが叶わないのである。
もう一つ、奇妙なことがあった。これほどまでの存在感を持ちながら、道行く人々は皆、鋪の方を見向きもせずに素通りして行くのだ。相変わらず、道端に立ち尽くしている僕を蹴散らさんばかりの勢いで、まるでそんな鋪など初めからそこになく、僕にしかその鋪が見えていないかのように。
僕は不思議とその鋪に、親しみと懐かしさを抱いた。僕と鋪だけが、気忙しいこの町にあって、清しい空の青さを知っている。そんな気がした。幸い今日はこれといった予定もない。何より僕には、この鋪をどうにも放っておけない訳というものがあった。
三日前のことである。僕の腕に、皮膚炎のような赤い爛れができた。日頃の勤めの疲れのためか、肌が荒れているのだろうと、最初はさほど気にも留めていなかった。しかしその綻びは急速に、僕の体中に広がっていったのである。肉体が腐敗するかのように崩れていくのを、僕は止める術を持たなかった。誰にも言っていないが、腕の他、服で隠れる脇腹や太腿などの部位は、ところどころ柘榴のような肉が剥き出しになっている。明らかに、これは異常な事態だった。休日になってもどういうわけか医者にかかる気にはなれずに町をぶらついていたところ、見つけたのがこの鋪だ。この鋪を見つけたことと、僕の体の異変には、何らかの因果がある。ばかばかしい話だが、僕はそう直感していたし、その直感を確信することができた。
がたつく引き戸をどうにかこじ開け、おもむろに足を踏み入れる。後ろ手に引き戸を閉めてしまうと、外の喧噪が嘘のように、鋪の中は静謐で満たされていた。ひんやりと温度を落とした空気が肌を撫で、呼吸や鼓動の音さえも辺りに響き渡るかのように思えた。ふと暗がりの底に、得体の知れない怪物の唸り声を聞いたような気がして、ぎくりと身をすくませる。しかし耳を澄ませてみれば、そんな音は少しも聞こえないのである。
外から見受けた印象より、意外にも奥行きがある。数えきれないほどの棚がずらりと並び、その上には所狭しと奇妙な造形物が並べられている。僕は樹木のように立ち並ぶ棚の間を奥へと進む。どんなに足音を忍ばせても、硬い革靴の底はコツリ、コツリと音を鳴らす。こんなに音を立てては、あの怪物に見つかってしまう。爬虫類じみた瞳孔と目が合った途端、その場に射すくめられて一歩も動けなくなった僕は、鋭い爪を持つ前脚に乱雑に押さえつけられ、牙の並んだ大きな口で体躯をずたずたに引き裂かれてしまうのだ。
そんな想像さえ脳裏をよぎるというのに、僕は何かに取り憑かれたかのように、殊更に奥へ、奥へと足を踏み進めていくのを止められない。
改めて目を凝らしてみれば、棚の上に並べられている奇妙な造形物は全て、何らかの動物や乗り物の姿を象った模型で、しかし僕の知っている物とはどれも似ているようでどこか違う。見渡す限り、実在しない物ばかりの模型が、不揃いに並んでいるのである。全くもって、ここは奇妙な舗であった。模型は鉄細工のような
「いい品でしょう」
たった数歩先から真っ直ぐに僕を見つめているのは、得体の知れない怪物などではなく、一人の青年であった。舗の古めかしい佇まいとは裏腹な、まだ年若い美男である。僕より十は若輩だろう。ここが舗であるからには、品物の売人がいるのは当然のことなのに、まさかこんな廃屋と見紛うような場所に生身の人間がいようとは、僕の浅はかな脳味噌は考え付きもしなかったのだ。彼の瞳のオパールのような複雑な色味の輝きが、舗に僅かばかり射し込む光の加減のためであるのか、或いはただの思い過ごしであるのかは、判断がつかなかった。
その、胸元にもたげた手の甲に、一匹の白い清楚な蝶がとまっている。翅は半透明に透け、ゆっくりと羽ばたきの動きを見せている。
「そいつは、かなりの年代物ですよ。三百年くらいは昔の代物です」
「そんなに古いものなんですか」
青年の手元の蝶に視線が向かってしまいながらも、僕は素直に驚いた。僕の手にした模型は、どういう仕掛けなのか関節のひとつひとつまできちんと曲がるようになっており、今にも動き出しそうな精巧さだった。彼の言うほど古い時代の物にはとても見えない。現代の技術をもってしても、これほどまでに精巧な代物を造り上げることは困難なのではないだろうか。
「ええ」
青年は微笑んで相槌を打つ。その瞳の、瞬きのやけに少ないことが、僕は少し気に掛かる。
「今となってはこの町の模型文化もすっかり廃れてしまいましたが、かつては模型たちにとっても人々にとっても居心地のいい、それはそれは美しい町だったんですよ。空は見違えるように澄み渡り、花は咲き乱れ、道行く道を模型たちが駆け回っていました」
「駆け回る?」
青年の口にした奇妙な言葉を聞き留めて、僕はその言葉を繰り返した。
「ええ、今も動きますよ。ほら」
青年は蝶のとまった手を軽く掲げた。蝶は音もなく手を離れ、鋪の奥の方へと飛んでいく。
「あれはクロホシウスバシロチョウの模型です。実在する種の、たった二つの模型のうちの一つです。学名は〝
蝶が模型であったということに、僕は目を瞠る。もう一度、手にした模型をとっくりと眺め回してみる。確かに今にも動き出しそうな精巧さではあるが、ぜんまいのような仕掛けもどこにも見当たらない。だというのに模型が動くとは、一体どういうことだろうか。
「もし宜しければ動くところ、お見せ致しましょうか」
僕の心中を察したかのように、青年は言う。
「宜しいんですか? 是非、見せてください」
「ではどうぞ、こちらへ」
やはり音もなく歩く青年に付き従って案内されたのは、舗の最も奥だった。小ぢんまりとした扉があり、近くでは蝶が未だ当て所なく彷徨っている。表の引き戸とは異なり、こちらは真鍮のノブが取り付けられた開き戸になっているようだった。
「舗の中庭になります。さあ」
青年に促されるがままに、僕は真鍮のノブに手を掛けて、押し開いた。錆び付いた蝶番の軋む、厳かな音が響き渡る。不意に僕を照射する、目も眩まんばかりの光。思いも掛けぬ眩しさに、僕は暫し目を細め、そして次に己の目を疑った。
──それはそれは美しい町だったんですよ。
先ほど耳にしたばかりの言葉が、まさに体を成して目前にあった。
青空の下、そこには色とりどりの花が咲き乱れていた。その隙間を縫って、ありとあらゆる種類の模型たちが、動物のようなものも、乗り物のようなものも、唄うように、踊るように、文字通り駆け回っていたのである。
「ほらね。ちゃんと、動いているでしょう?」
すぐ背後で青年の声がし、僕ははっと振り返る。
扉から燦々と射し込む陽光の中にあって、青年の双眸は一層オパールの輝きを増し、僕は吸い込まれるように、その精巧に造り込まれた瞳から、目を離せなくなる。
「私のこと、思い出せませんか? 何も?」
模型の青年は淀みなく僕を見つめる。彼の造り物の瞳からは、何の感情も読み取れない。
「僕は、君を知っている?」
美しい虹彩に目を奪われているうちに、覚えのないはずの響きが胸の底から込み上げてきて、僕はおかしなことに戸惑った。それでも口は、自然とその音色を紡いでいた。
「グリモワ……?」
「はい、あなたのグリモワです」
グリモワはにこりと微笑んだ。
突如として、グリモワと過ごした日々がいくつも、幾重にも湧き出し、僕の意識を彩っていく。
自分が彼を、寵愛していたこと。
二人で連れ立って歩いた花の小道。
彼に愛を囁くたびに、美しい微笑みを返されたこと。
彼は男の骨格を持つのに、ふざけて〝ファム・ファタール〟──運命の女と呼んだこと。
注がれた甘美な貴腐ワイン。
シーツの上に晒された、陶器のように白い、骨組みの浮いた背中。
その骨組みをなぞるように這わせた手。
造り物の唇を濡らしたくちづけ。
壊れた、パーツ。
そうだ、彼は、どこか壊れて。
部品の一つが床に落ち、キン──と澄んだ高音を立てた、と思った刹那、その音色に重なるように思考が軋みを上げ、意識を現実に引き戻された。目の前のグリモワは、完璧な微笑を携えたままそこに佇んでいる。今見たものたちは、なんだったのだろう。
「他も見て回りましょうか」
グリモワはつと視線を逸らし、僕の返事も待たずに中庭へと出ていった。
「うん、案内をお願いするよ」
僕もグリモワの後に続き、連れ立って扉を潜る。蝶は陽光の下、暫くひらひらとグリモワの周囲を舞い遊んでいたが、やがて気まぐれにどこかへ飛んで行っていってしまった。
「模型を製作できる者は亡くなりました。この中庭はロストテクノロジーの結晶です」
花の小道を歩きながら、グリモワは語る。足元を音もなく駆け回る模型たちを、踏まないようにそっと避けながら歩くのには、少しこつが要った。どこか、既視感を覚える。
「模型の町の王の住んでいた御殿はとうに取り壊され、当時の建物で残っているのも鋪だけです。ですが、王が大事にしていたいくつかのものはここに保存されているんですよ。この花園もですし、あの川や、林檎の木なんかもそうですね」
関節までよく造り込まれたグリモワの指が、いくつかの方角を示す。煌めく小川と、よく手入れされた林檎の木が、それぞれのあるべき場所に整然と納められている。
「この町には王がいたんだね」
「ええ。と言っても、彼が王として君臨していたのは遠い昔の話です」
「あそこは何?」
指し示したのは、鮮やかな色彩の中にあって黒ずんで見える遠い一角だ。模型たちの残骸らしきものが積み重なっており、そこだけは些か陰鬱とした気配を纏っている。
「あの辺りは、壊れて動かなくなった模型たちの残滓が向かう辺獄です。中庭を見回って、壊れた模型を拾い集め、辺獄へと運ぶのが私の日課です。あそこは残しておかないと、そういう模型たちの行き場がなくなってしまいますから」
「君は……」
壊れたらどうなるんだ?
そう尋ねようと出かかった言葉は喉の奥に捩じ込まれ、彼に届くことはなかった。グリモワは変わらずに微笑んでいる。
「あの小屋は私の私室ですけど、覗いていかれては如何です?」
いつしか花園の中にぽつねんと、一つの小屋が佇んでいた。鋪よりも比較的新しい木材で誂えられた、簡素な建物だった。
「君が嫌じゃないのなら」
「嫌だなんて、そんな。とんでもありませんよ。行きましょう」
グリモワと共に、模型たちを気遣いながら小屋のそばまで進む。近くで見ると、飾り気のない扉の木目は、飴色に光ってささやかな美しさを湛えている。
「中へどうぞ」
グリモワが扉を開けて僕が先に中へと入り、彼も後に続く形で外界と屋内とは遮断された。中は綺麗に整頓された、確かに私室のようだった。椅子が二脚とテーブル、ベッド、小型のワインセラーなどがある。余計なものは埃の一つですら排除され、生活感はあまりなかった。一つ異質なものがあるとすれば、台座に鎮座する十字架のような短剣だ。
「お掛けになってください」
「ありがとう。失礼するよ」
グリモワに勧められるがままに椅子に掛け、僕は物珍しそうに短剣を眺めた。
「貴腐ワインはお好きですか?」
「お酒は嗜む程度かな」
短剣から彼の所作へと視線を移すと、彼はワインセラーからボトルを一本持ち出し、僕の向かうテーブルの傍らに立ったところだった。
「そうですか。今のあなたのお口に合うでしょうか。私は模型ですから、残念ながらその味も香りも知りませんが」
テーブルの天板を滑らせるように目の前に一つだけ置かれたグラスに、琥珀色のとろりとしたワインが波打ちながら注がれていく。僕の体内で血液も一緒に脈打つような、そんな錯覚を起こす。彼は仕上げにそのグラスに、銀の水差しから水を一滴だけ落とした。
「ムネーモシュネー、記憶の川の水です。大丈夫、これを入れてもワインは不味くはならないそうですから。飲むか否かは、あなたがお決めになってください」
「いただくよ。せっかく注いでくれたんだしね」
「ええ、遠慮なく」
僕はグラスを手に取ると、まずは琥珀色を目で楽しんだ。口元に近づけると芳醇な貴腐香が鼻先をくすぐる。僕はその貴重な杯を一口含み、舌の上で蜂蜜のような甘さを転がした。
嚥下した直後に体躯を打ったのは、脳天を殴りつけられたかのような衝撃。頭の天辺からつま先まで電流にも似たシグナルが駆け抜け、僕は思わず身を仰け反らせた。
目まぐるしく移り変わる瞼の裏の景色。おそらくは、己の見てきた視界だ。
ある時は男であった。
ある時は女であった。
ある時は赤子や子供であり、ある時は杖を突く老人であった。
どんな姿になろうとも、何百年が経とうとも、僕は初めから変わらずにこの町の住人であった。鋪を訪ねグリモワと出会うのは、もう何回目なのだろうか。
いつ何時も、グリモワはあの十字架のような慈悲の短剣で僕を貫いた。成り代わり立ち代わり、貫かれては僕が私が俺が、ぼくが、死んでいく光景が、場面を変えて次々と繰り返される。あれはずっと昔の僕が、己とグリモワのために誂えた、魂をくり抜く短剣だ。
気が狂いそうな光景の中、いくつもの映像に共通している点が一つあるのに気がついた。
グリモワの瞳からは、何の感情も読み取れないこと。
「あなたは持てる技術の全てを私に注ぎ込んだと言いました。そして私をこう呼びました。グリモワ、と」
グリモワは、全てを承知している様子でそう口を切った。
「ああ、そうだったね……」
脳の許容量を遥かに超える膨大な記憶を叩き込まれて、僕は呆けたように、天井にぽつんと付着した茶色いしみを見ていた。呆けてはいたが、そのしみの正体が何であるかも、グリモワの言葉の意味するところも、今となっては理解することができた。
僕はかつて、模型の町の王であった。
「あなたがどこから来たのか、私は知りません。最後まで教えてくださいませんでした。ある時この地を訪れ、模型の町を築き上げたのだそうです」
より正確に言えば僕は、王であった人間の魂を引き継いだ存在だ。とはいえ、思い出せる記憶は朧げなものでしかない。僕自身にも僕が何者であったのか、もはやわからない。無論、模型を製作したり、直したりする技術も持ち合わせてはいないのだ。
「ですがあなたは愛に溺れるあまり、後世にどんな技術をも残しませんでした」
模型の町の人々は、自ら動く模型をいとも容易く造り上げてみせる、その人智を超越した技に恐れを為し、その男を王と呼んで畏怖した。王たる僕は孤独であった。人の世からは敬うべき存在として遠ざけられ、模型たちは動きはすれども会話はできない。そこで完成させた、心を有し言葉を話す人型の模型グリモワは、僕にとって特別な存在だった。
僕はグリモワに己の魂をくり抜かせては、魂の器である肉体を幾度となく取り換え、悠久の時を在り続けてきた。赤の他人の体を生きたまま乗っ取って。
僕がそんなことを続ける理由はただ一つ。
愛するグリモワにもう一度、何度でも会うため。
「魂が欠ければその器もまた欠けるのだと、あなたはおっしゃっていました」
魂を移し替える方法には難点があった。それを繰り返すたびに一度全てを忘れ、それにより魂が、記憶が、劣化していくのだ。魂が劣化すれば、それを内包する肉体もまた形を保っていられない。だから、近頃では乗り換えたそのそばから肉体の腐敗がはじまる。
「私は逆なのです。器が欠ければ与えられた心が、欠けていくのです」
グリモワはやにわに自分の服の裾を捲った。その有様を見て、僕は思わず息を飲んだ。脇腹の白い人工皮膚は剥がれ落ち、隠されていた模型の骨組みが露わになっていた。それが既にいくつもの部品を失い、壊れてしまっていることは、傍目に見ても明らかだった。
「……酷く壊れているじゃないか」
「ええ。私の体はもう随分壊れて欠けてしまいましたから、じきに自身の限界を悟れば、自らの足で辺獄へ向かうでしょう」
「僕には直せないんだ、もう」
「はい、知っています。仕方ありませんね」
グリモワは、己に迫る最後を、どうしてそんなにも当たり前のことように受け入れてしまうのだろう。僕の胸は、こんなにも痛むのに。
「もうほとんど、心と呼べるものは残ってはいないんです。あなたへの愛も、とうにどこかへ失くしてしまいました。ですが、あなたと愛し合った日々の記憶は、全てとは言えずとも残っているのです。この造り物の体のそこかしこに。あなたが触れてくださったぶんだけ」
「僕が触れたぶんだけ……」
模型の彼とは幾度も体を重ねた。僕だけのファム・ファタール。
「あなたも、もう、限界のようですね」
「ああ、気づいていたんだね」
服の上から体をさすると、出かける前に確かめた時よりも更に、腐敗が進んでいるのがわかった。誤魔化すようにグラスを取り、残りの杯を一気に煽る。
「決めてください、王。あなたの初めの望み通りに、互いが壊れるまでここで共にあるか、それとも他の道を選ぶのか。あなたが願うのならば、もう一度慈悲の短剣で王を貫いてだって差し上げます。私はあなたの、グリモワですから」
グリモワは僕の手を取り、その甲に恭しくキスをした。
「そんなの、答えは一つしかないに決まっている。僕の望みはずっと変わらないよ」
僕はその所作に、困ったように笑った。
「私と共に、ここにいることを選ぶのですね」
「うん」
「ではあなたが朽ち果て、私が壊れて動かなくなるまで、或いはその先も、共に。あなたの望んだとこしえの愛は、間違いなくあなたのものです」
グリモワは美しく微笑んだ。
「あなたのために今一度、祝いの杯でも注いで差し上げましょうか」
「ああ、お願いしようかな」
空いたグラスに、新たな貴腐ワインが注がれる。
「いつかあなたはおっしゃいました。貴腐ワインの材料となる葡萄は、果皮を菌に冒され、常に腐敗と隣り合わせなのだと。条件が少し崩れれば、簡単に腐り落ちてしまうのだそうです。うまくいけば、糖分などが凝縮した貴腐葡萄へと変貌を遂げます。私たちの愛もまた、甘美に熟しました。この体の隅々に刻み込まれた愛の記憶を、最後のときまで覚えています。王」
「僕も君を愛しているよ、グリモワ」
僕はグラスを目線の高さに掲げ、ようやく完成した愛に乾杯をした。
僕の終わりを、夢想する。
グリモワは慈悲の短剣を台座から手に取り、僕に向き直る。幾度となく僕を貫いてきたはずなのに、その刃は曇り一つなく、よく手入れされている。
「おやすみなさい」
そう囁かれた次の瞬間、その切っ先は真っ直ぐに僕を貫く。それはただ手を前に差し出しただけのような、躊躇や迷いの一切ない所作だ。熱のような痛み。どくどくと耳元で鳴る血流の音。生温かいものが滴り、木目の床に赤いしみを作っていく。
そのとき僕は、薄ぼんやりと光り輝く魂の最後の一片が、朽ちゆく様を見る。肉体の異変が急速に進む。手の指やつま先の末端まで、脆く腐食した惨めな肉に変わっていく。そのそばから、崩れ落ちていく。
グリモワは、僕という個の形が完全に失われるまで、その様を無感情に見つめている。全てが床に落ちきると、淡々と後片付けを始める。彼の体に刻み込まれた、愛し合った日々の記憶は鮮やかなのに、そこには何の感慨もないのだ。一人残された彼は、動かなくなるその時まで、これまでと何ら変わりなく、中庭を見回って壊れた模型たちを拾い集める日々を送る。
その肉体が朽ち果て、或いは壊れ果てるまで、二人は寄り添い続ける。たとえ片方の肉体は腐敗し続け、もう片方の心は欠けてしまっていたとしても、その愛はとこしえのものだ。
僕たちは完成された甘美な味わいを楽しみながら、終焉の時を待つだろう。
模型屋 蜜蝋文庫 @bonbonkotori
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