自筆のエピローグ

乃々沢亮

第1話 落とし物

「やっちまったぁ」


 あたしはぐちゃぐちゃになっているカバンの中にその本があるのを見て、おでこを手のひらで叩いた。病院の談話スペース近くで拾ったハードカバーの単行本だ。


 ここは外科病棟ですお母様が盲腸なのでしたらそれは内科病棟です棟が違います一旦一回まで降りて隣のエレベーターホールからエレベーターに乗ってください内科病棟と案内が書いてありますからわかります病室はナースステーションでお問い合わせください面会時間は七時半までですもうあまり時間がありませんのでご注意くださいではお大事に。


 セリフを言うように滑らかに話してくれた看護師さんは何かとても忙しそうだったし、他の看護師さんたちも誰もが忙しそうに立ち働いていたので、話をしそびれてしまったのだ。

 

 ――明日、返しに行かなきゃ。


 どのみちお母さんのお見舞いに病院へは行く。


 あたしはその本をバックから取り出して見た。

 綺麗な包装紙を使った手作りのブックカバーに装われたその本に、持ち主の本に対する愛情が表れている。

 なんの本だろう?そのくらいは見てもいいよね。あたしは表紙を開いた。


『見えない壁』


 うむ。只今絶賛大ヒット中の小説だ。舞台は大正時代。華族と平民の男女が互いに惹かれ合いながらも目に見えぬ身分制度や慣習に翻弄され、結ばれぬまま別の道に歩み出すという悲恋の物語だ。ストーリーとしては目新しくもなく陳腐といえる。

 なにがそれほど面白いのか理解しがたいが、おそらく今どきの若者にはこの不条理な道徳観が、レトロな時代背景と相まってかえって新鮮に思えるのだろう、などと言うのはライター業界の場末でジタバタしているアラサー女のあたしの僻みだ。


 ――うあっ、な、なに?


 何気なく裏表紙を開いたあたしは、そこにびっしり文字が書かれているのを見てびっくりしてしまった。芳一の身体にびっしりとお経が書かれているのを見たときの驚きに似ている。もちろん見たことないけど。

 

『終章』と記されている。


 若干のためらいはあったものの好奇心を抑えることなど到底できず、あたしはその文章を読んだ。


『「(…略…)僕がいま見上げている夜空は小夜子さんに見えている夜空と違いやしない。僕が立っているこの地面も小夜子さんが立ってる地面と一緒です。誰の頭の上にも同じ空が広がっているし、僕らが立っているのは同じ地球なのです。…世界はひとつだけだよ。見えない壁なんてありやしない。見えないならそんなものは無いんだ。それがあると思うのは心の中だけだよ。僕は決心した。心の中の壁を壊してしまおうと。誰かの心の中の壁までは壊せないけど、覚悟があれば自分の心にある壁は壊せるよ。小夜子さん、あなたはどうですか?」

「ええ、もちろん私にも覚悟はありますわ」

「よかった。さぁ、では一緒に参りましょう」

 顕煕あきひろが差し伸べた手を、小夜子は包むように柔らかく握った。』


 なるほど。原作のビターエンドをハッピーエンドに変えたかったのか。なかなかにロマンチックだわね。

 それにしても流麗な美しい字だ。万年筆だろうか。


 ――ん?


 署名? これは署名だな。ずいぶん小さく書いたわね。


 『綾川己子』


 あやかわ…なんて読むんだ? ここ? きこ? んー。


(つづく)

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