第2話 落とし主
昨日迷い込んだ外科病棟に来た。
看護師さんたちは今日もやはり忙しそうだ。あたしはまずは自分で病室に『綾川己子』の名札がないか探してみた。
あっさりと見つけた。ここは個室らしい。
ノックしてみると内側から「はい」と硬質な声が帰ってきた。するするとドアが開く。
パンツスーツの大柄な女性が現れ、入口を塞ぐように仁王立ちした。40歳くらいだろうかとても立派な体躯をしている。
――え、これが綾川己子、なの?
想像と違う。もっと幼くてふんわりしてるけど利発そうな乙女をイメージしていた。
「あ、あの、綾川さんですか?」
「いいえ。私は綾川ではありませんが、ここは綾川の病室です。あなたはどちら様ですか」
女性が胡散臭そうな目であたしを見下ろした。
「あ、あ、あた…わたしは
差し出した本を無造作に受け取ると、その女性は後ろを振り返った。
「お嬢様、このご本はお嬢様のものでしょうか?」
――やっぱり。この
それにしてもお嬢様って。
「えっ、えっ! よかった! 私の本です。よかった、見つかった」
鈴を転がすような声とは正にこのことだ。
「あの、ありがとうございます、あ、あの、ありがとうございました」
女性の盾の後ろから、こちらを見ようとひょこひょこと顔がのぞく。
「もうっ、みゆきさん、脇に一歩
「でも、お嬢様」
「きちんとお礼を申し上げたいのです。みゆきさん、避けて」
みゆきさんと呼ばれた女性はあたしを一瞥すると、渋々といった感じで入口から一歩脇に移動した。
開けた視界のその先に…あたしは見た。
白いパジャマに薄いピンクのカーディガンを羽織り、白い病床にちょこんと座っておられるお嬢様を。背後から差す柔らかな日差しがまるで後光のようだ。
「
ミコ。名前まで可憐で美しい。
「あ、あ、あた…わたしは氷野美紀と言います。ごめんなさい、昨日はうっかり持ち帰ってしまって。すぐにお返しできればよかったのに」
「いいえ、全然。わざわざ届けにお出でくださり感謝をいたします。ほんと良かった。嬉しい!」
己子ちゃんは本を胸に抱きしめ身体を弾ませている。サラサラのボブを揺らしながら足をバタバタ…足を…。
あたしは思わず目を止めてしまった。
「骨肉腫で。私、左脚が膝上から無いんです。三年前に手術しました。あ、でもいま入院してるのは単純に転んで鎖骨を骨折しただけなので、大丈夫です」
「あ、そう…なの」
こんな時、なんと言えばいいのかわからない。何を言っても傷つけてしまいそうで。さ、さりげなく話題を…
「字がすごくお綺麗なのね。文章も面白かったわ。小説とか書いてるの?」
げっ!
言ってしまってから気が付いた。裏表紙の内側に書いてあった『終章』を盗み読みしましたと言ったようなもんだ。
「やっぱり、お読みになりましたよね、終章を」
己子ちゃんがふっくらした口元に微笑みを浮かべながら、上目遣いにあたしを睨んだ。怒ってるの? 怒ってるよね? でもそんな顔もカワイイ。
「はい…ごめんなさい、読んでしまいました」
「面白いって本当ですか」
「それは本当。あたしもライターの端くれだから、文章のことでウソはつかない」
「え、氷野さんはライターさんなんですか?! すごい。私も文章を書く仕事をしたいなぁって思ってるんです」
それはあまりおすすめできないけど。食っていけないから。
「あの、ごめんね、無断で読んじゃって」
「全然! 恥ずかしいけど誰かに読んでほしかったから。それが氷野さんでよかった! あの、不躾で生意気なんですけど…私とお友達になっていただけませんか?」
「へ? あたしが? こんなガサツな女が己子ちゃんの?」
あ、今度は馴れ馴れしく己子ちゃんって呼んじゃった。
「ダメですか?」
「ダメというか、でもあたしはアラサーのしがないライターで、」
「世界が違う?」
――世界はひとつ。見えない壁なんてない。己子ちゃんの文章にそうあった。
「…違わない。あたしなんかで良ければ友達にしてちょうだい」
「やった!」
ドアが薄く開いてみゆきさんが顔を覗かせた。
「いらっしゃいましたよ」
全開になったドアから制服を着た高校生五人がぞろぞろと入ってきた。お見舞いのお友達だろう。
「じゃあ、あたしはこれで。明日も来ていい?」
「はい。ありがとうございます。あ、待って、」
入れ替わりに病室を出ようとして呼び止められた。
「紹介させてください」
己子ちゃんに友達を紹介され、あたしは自己紹介をした。姉でもない母でもないこの微妙な年齢の差に、友達たちとあたしの間にどう処していいかわからない戸惑いの緊張感が漂った。あたしは帰るタイミングを逸し、居たたまれぬ気持ちのまま病室に残った。
(つづく)
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