母だった友へ

野森ちえこ

友だった母へ

 あの人はコーヒーが大好きだった。

 少しおおきめのマグカップにたっぷりのブラックコーヒーを毎日、四杯か五杯。朝の目覚めから夜眠るまで、コーヒーにはじまりコーヒーにおわる。

 あの人の数すくない楽しみのうちの貴重なひとつだった。

 そのコーヒーを残すようになったのは数か月まえ。

 最初はカップに三割くらい。それが半分になって、ちいさめのカップにかえた。それも残すようになって、やがて拒否するようになった。


『飲みたいのに飲めない』だったものが『飲みたくない』になる。そのときの、あの人のさびしそうな目が忘れられない。

 大好きだったものも受けつけなくなっていく。

 命の期限が、はっきり見えた瞬間だった。


 ごめん、母さん。


 そんな状態になってもぼくは、あなたを『母さん』と呼べなかった。

 あなたはとっくに母だったのに。もうずっと、ちゃんと母だったのに。

 最期までぼくは声にだせなかった。

 なんでかな。

 なんとなくきっかけをつかみそこねて、そのまま大人になってしまっただけなのに。


 父が純粋にあなたを妻として迎えていたなら、ぼくもそこまで反発しなかったかもしれない。でも父は、あなたをぼくの『母として』迎えた。自分の好きな女性ではなく、ぼくの母親としてふさわしいと思う女性をえらんだのだ。

 ぼくの実母というのはずいぶん奔放な人だったらしいから、父もトラウマになっていたのかもしれない。だったら無理に再婚なんてしなくてもいいのに、子どもには母親が必要だとおかしなところにこだわって、父はあなたを連れてきたのだ。それをぼく自身に、バカ正直に話してしまうあたり、父のポンコツぶりがわかるだろう。


 しかし腹が立つことに、ぼくはすぐにあなたを好きになった。

 ――いいんですよ母親だなんて思わなくて。そうね、友だちになってくれないかしら。友だちからよろしくお願いしますっていうやつ。一度やってみたかったの。

 友だちからって、それは恋愛の告白によくあるやつではないのか。小学生でもそれくらい知っている。

 当時十歳だったぼくのツッコミに、あなたはコロコロと笑った。

 ――こまかいこと気にしないの。モテないわよ。

 一事が万事そんな調子だったものだから、ぼくの『母親だなんて認めない』『母なんて呼ばない』というかたくなな決意も反抗もまるで意味をなさなかった。


 あなたのかたわらにはいつもコーヒーがあった。

 ぼくには最初ミルクコーヒーを淹れてくれた。子どもあつかいするなと怒ったら『子どもあつかいは子ども時代にしかしてもらえないんだから、今のうちに楽しんでおかなきゃ損よ』と真顔でいわれた。ふいに展開されるあなた独特の持論には、いつも不思議な説得力があった。


 母さん。

 母さん。

 何度も呼ぼうとして、どうしても呼べなかった。

 あなたはちゃんと母だったけど、ずっと大切な友だちでもあったから。

 なあ、ケイちゃん。やっぱりこっちのほうが呼びやすいや。


 ケイちゃん。こんなぼくの母親になってくれてありがとう。ずっと友だちでいてくれてありがとう。


 母さんケイちゃん

 コーヒー淹れたよ。

 ほんとうかどうか死んだことがないぼくにはわからないけれど、生前のケガも病気もあの世ではぜんぶ治ってるって聞いたことがある。遺された人間のためのなぐさめかもしれないけど、あなたならきっと、こまかいこと気にするなと笑うだろう。

 遺影のまえに置いたカップからうっすらと湯気が立ちのぼる。

 ほら、母さんケイちゃん

 母さんケイちゃん愛用の少しおおきめのマグカップ。

 今ならカップ一杯、余裕で飲めるだろう?



     (了)

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