くじらが降るまち

藤原くう

第1話

 そのアラートが、鳴り響くのはいつだって唐突だ。

 街の高いところに設置されたスピーカーが、ハウリング気味の警報を吐き出す。それと同時に、人々が携帯する情報端末が一斉に鳴った。地震雷火事親父――警報が鳴り響く条件というのはいつの時代も変わらなかったが、この大航海時代においては追加されたものもある。

 目の覚めるような青空を見上げる人々の先に浮かぶのは、クジラだ。

 そのクジラは、地球で見られるようなナガスクジラに似ていたが、腹は濃紺色で背が白色をしている。この惑星でしか見られない固有種である。最大の特徴は、なんといっても空を浮遊していることだろう。

 クジラはフィンを動かし、空を泳ごうとしている。その動きはいつもよりも緩慢であった。何か月前かに発表されていたクジラ観測所の情報によると、クジラの一頭の寿命が尽きようとしているらしい。死ぬのは早くても一年後のことだろう、と。

 しかし、クジラは予報に反して、その生命活動を終えようとしていた。

 じわじわと、高度を落としていくクジラ。その濃紺の体が、街中を照らす警報の光で赤く染まる。

 街に落ちた。クジラの体重は百トンを優に超える。にもかかわらず、落下地点にクレーターができることはない。せいぜい、街に住んでいた人々が揺れを感じたくらいだ。それは、木の葉が舞い落ちるようにゆっくりとクジラが落下してきたからだ。――だからといって、街に被害がないわけではない。ゆっくりと落ちてきたクジラの下敷きになった建物が、押しつぶされる。車はひしゃぎ押しつぶされ爆発するが、クジラの巨体の前にはクラッカーも同然であった。少なくとも今はまだ。

 地面に横たわったクジラが、尾ひれを動かす。ただ、空をかくだけだ。二度と空を漂うことはない。そして、その動きはどんどん力を失っていって、ついには動かなくなった。

 地上にあるものを押し倒し、クジラは亡くなった。

 だが、問題はここからであった。



 警察からの連絡を受けた女性が舌打ちをした。

「遅いっての」

 吐き捨てたフライスは長い髪を一つに結び、ジーパンを脱ぎ捨てる。窓からは、墜落寸前のクジラが見えた。

「どこに落ちる?」

 下着姿のままロッカーへと向かったフライスは、同僚へと声をかける。質問を投げかけられたスコヤは、キーボードを打鍵。

「アップル二番街」

「ってことは、ブラボー警察署の所長は肝を冷やしただろうな」

 くつくつと笑いながら、フライスはロッカーからスノーマンを取り出して、着替え始める。スノーマンと名付けられた作業服は宇宙服や潜水服に似ていたが、宇宙服ほど気密性があるわけではないし、潜水服ほど耐圧性に優れているわけでもない。対爆性に優れているのだ。目の前で爆発しても命だけは助かるように、全身を覆うスーツは爆風の衝撃を分散する丸っこいシルエットをしている。多段式の雪だるまの中身は、衝撃吸収材で満たされていた。金魚鉢のようなヘルメットには電子装備が詰め込まれている。背面に張り付いた厚い円盤は換気システムだ。ここまでしていたが、手は防護されていない。守ることはできたが、そうすると精密操作ができなくなるというジレンマから装備は見送られていた。手が吹き飛んだところで命に別状はない。

 半分に開いたスノーマンにフライスが身を預けると、装着者を認識して自動的に閉まる。ちょうど、アイアンメイデンに収められていくような感じだ。後はヘルメットをかぶれば装備は完了。

「やっぱコイツ。暑いから嫌いなんだよ……。冷却スーツはないのか」

「資金がないから無理」

「そこを何とか一肌脱いでさ」

 フライスの手が、わきわき動く。スコヤは眉をピクリと上げて、キーボードを叩く。

 次の瞬間、吊るされていたヘルメットがフライスの頭めがけて落下した。ゴチンと頭を打ったフライスは、なにすんだ、とスコヤを睨む。

「下品」

「別に、スコヤに脱げって言ったわけじゃないっての。それにアンタは貧相だし」

 リズミカルな音が止む。スコヤは指を止めて、フライスの方を向いた。フライスといえば、胸部やら臀部やらを強調するかのようなポーズを繰り返す。プロポーションに自信のあるフライスであったが、スノーマンを着ている今はプロポーションもへったくれもなかった。

「…………サポートしないから」

「アタシが悪かった。この通り」

 しばらくの間、スコヤはへそを曲げた。それはフライスの準備が終わるまで続くのだった。


 車が、人気のなくなったチャーリー五番線を疾走する。それを操作しているのはスコヤだ。彼女は、キーボードを片手で打鍵しながら、もう片方の手で耳元の通信機を操作する。

『準備できた』

「できましたよーっと。……どうしてアタシらが出なくちゃいけないんだか」

 ヘルメット内部に備え付けられた通信機の具合を確かめるためにも、フライスはそんなことをぼやく。しばらく、無言が続いた。

『WEODの正式名称は?』

「そりゃああれよ。クジラを解体するためのあれがこうして――」

『……爆発クジラ処理班です』

「そうそうそれそれ。んで、いきなりどうしてそんなことを?」

『アナタがWEODのことを税金を泥棒するための組織だと思っているのではないかと心配になったから』

「んなことは思ってないわよ? でもまあ、たまにしか起きないなら、警察全体で動けばいいのにっては思うけど」

 目的地であるアップル二番街の方では、警察車両の赤い光がいたるところから上がっている。動いているのは警察車両だけではないかもしれない。消防とか救急とか――このWEODの車両も含まれる。おんぼろのバンを改造したこの車両には赤色の回転灯が備え付けられている。緊急性のある場合にはこれを点灯させて、現場へ急行するのだ。警察車両等と同じ扱いなので信号を無視できたが、点灯させる必要はなさそうである。住人のほとんどは地下シェルターへの避難を終えており、人っ子一人いない。

『歓楽街で享楽に耽っているくせに、という声が聞こえてくる気がしました』

「そんなの幻聴よ幻聴。それにお給料を何に使おうがアタシの勝手じゃない」

 フライスの言うことはもっともらしかったが、WEODは一応、警察組織の一部である。窓際部署で危険が伴う仕事とはいえ、警察官。フライスに向ける目は、市民だけではなく、警察官からさえも冷たい。フライスは気にしていなかったが。そんな彼女に何を言っても聞くわけがない。スコヤはため息をついた。

『情報には目を通しましたか』

「まあ、一応。被害は、いつも通りって感じよね?」

『建物は倒壊し、一部では火災が発生しているという情報もあります。ビルが多いので、延焼はほとんどないそうです』

「それはよかった。でも、ビルが倒れたってことがレスキュー隊の皆々様はさぞかし大変でしょうね」

『問題はそこです。救助活動が遅々として進んでいません。レスキュー隊からは、要救助者が見つかった場合は――』

「助けろってことでしょ。わかってるわよ。できることはしてみるわ」

『お願いします。それから』

 スコヤは警察や消防、レスキューからやってくる情報をまとめて、フライスへと伝達する。フライスは話半分にそれを聞く……。

 そうこうしているうちに、バンはアップル二番街へと入った。

 アップル二番街という地区は、金融機関こそはなかったが、大企業がひしめき合う場所であった。そんな場所であるから、いつだって車と人で混雑しているのだが、今はそうではない。人の姿はなく、不気味なまでに静かである。角を曲がると、涅槃像のように横たわるクジラの体が見えてきた。

 WEODのある建物の窓から遠巻きに見た時よりも迫力のある姿に、フライスが息を呑んだ。

「これは大きいな」

『今まで墜ちてきた中では最大級です。正確な大きさは、クジラ観測所のデータ待ちですが、100トンは超えると思ってください』

「ここまで大きいと、被害も大きいか」

 苦々しく呟かれたフライスの予想は、的中した。

 車窓から見えるアップル二番街の街並みは、クジラへと近づけば近づくほどにひどくなっていく。損害した建物のほとんどは、クジラのボディプレスを受けたのが原因だったが、あれだけの体積のものが地面と衝突したのだから、その時に生じた風圧はすさまじいものがあった。道のそこここにひっくり返った車があり、がれきに混じって、交通標識やら自転車やらが散乱している。どれもこれも、風圧で飛ばされたのだ。風圧に負けたのは看板だけではなく、建物だってそうだ。道路に面していた高層ビルの一つは、クジラから遠ざかる方向へと倒れていた。その倒れたビルによって、それよりも低かった建物が押しつぶされている……。

「こりゃあひどい」

 バンの動きが荒っぽいものとなる。AIに急ぐようにと指示があったわけではなかったが、先へと進むにつれてがれきの数が増えているものだから、急な方向転換を行わざるを得ないのだ。そうやって、車体を傾かせながら道を進んでいくと、バンは大通りへと躍り出る。

『ここはブラボー四番線ですね。そういえば、ここから――』

 車内にキーボードの打鍵音が響く。

『ここからレスキュー隊は近づいていったようです』

「それなら、がれきも片付いているだろう。こっちから行ってみようじゃないか」

 フライスの言葉に、スコヤが頷く。車が動き始めた。

 幹線道路の一つであるブラボー四番線には、がれきの数が少なかった。碁盤状の街を突き抜ける十本のうちの一つの大通りであったから、車の数は多かったはずだ。道も車によって塞がれていてもおかしくはなかったが、ない。レスキュー隊が脇へと避けながら進んでいったのだ。 

 ガラガラの車道を走れば、クジラの体のすぐ近くまでたどりつく。その頃にはすでに、フライスはヘルメットをかぶっている。

「膨張率は?」

『正確な数値はわかりません。けれど、それほど早くはないと思われます』

「じゃあ、大気成分はどう?」

 キーボードを叩けば、すぐにレスキュー隊が計測したものが、スコヤのガスマスクに表示される。

『ブラストゲンを検出したそうです』

「それはまずいわね」

 ブラストゲンは、この惑星を浮遊するクジラに特有の成分である。高い揮発性と可燃性を有した気体で、人間が吸引してしまうと幻覚作用がある危険なものでもある。高い可燃性は酸素と結合することで生じるものだという説があるが、検証されたわけではない。また、クジラが体重のわりに空を漂うことができているのはこのブラストゲンを体の中で生成し、貯蓄しているからと考えられている。

 それはさておき、フライスが案じているのは可燃性だ。ブラストゲンは酸素と結合することで燃焼してしまうことがある。その結果どうなるのかといえば、爆発が生じるのである。巨大な体の中に充満したブラストゲンは、一ブロックをまるまる焦土に変えるだけのエネルギーがあった。

 ここにいる人間の――専用の対爆服を身にまとっている人間を除けば――命はない。それを防ぐためにWEODは、フライスとスコヤはいるのだ。

 車が停車する。対爆服を装着したフライスが、各種道具を装備してバンの扉を開ける。

 あたりには、白いもやかかすみのようなものが漂っている。これこそがブラストゲンである。この厄介な気体は、クジラの噴気孔から漏れてくる。ガス抜きを兼ねているのだが、人間にとってはいい迷惑だ。ちなみに、ブラストゲンの濃度が高い日は注意報が発せられることになっている。だが、ここまでのものではない。現在の濃度では、人間は一分もせずに気を失ってしまうことだろう。

『レスキュー隊はクジラの方にいます』

「了解っと」

 フライスは、クジラの方へ歩いていく。対爆服は、フライスの鍛えぬかれた体にとっては普通の服装を変わらない。変わるとすれば、汗ばんでしょうがないということと、動きにくいということくらい。

 レスキュー隊が見えてくる。オレンジ色の対爆服に身を包んだ彼らは、フライスの趣味によってピンク色に染め上げられたスノーマンを目にすると、動きを止める。何か良くないものでも見たかのような一瞬の沈黙ののちに、敬礼がやってくる。フライスは気の抜けた敬礼で応じる。

 フライスは、レスキュー隊の面々と情報共有を行う。情報自体は、スコヤから知らされてはいるものの、現場の生の声を聞きたかった。そうでなければ、話したくもない。相手の言葉の端々から、WEODへの不満や侮蔑の感情が見えた。気分が悪くならないわけがない。自然、フライスの口調まで刺々しいものとなって、関係は悪化していく。

 それでも何とか会話の体をなしていたのは、人々を守りたいという気持ちだけは共通していたからだ。

 目新しい情報もほとんどなく、レスキュー隊隊長との会話を終えたフライスは、少し離れたところで舌打ちする。

「あーくそ。腹が立つ」

『気にしなければいいのに』

「それは無理。できてるなら上司殴ってないし」

 フライスは、WEODへと左遷された形で赴任した。左遷理由は、上司を殴ったからである。上司というよりは、爆弾処理班の隊長といったところか。それでお払い箱となったところに、WEODの前任者が辞めたのでちょうどいいかと移動が決定したのだった。

 腹の立つ連中から離れて、クジラの方へと向かう。近づけば近づくほどに、白いもやは濃さを増す。一寸先も見えない、白い闇にすっぽりと囲まれたかのようだ。そんな中でも先へ進むことができたのは、大きすぎるクジラの体がもやの向こうに見えていたからだ。

 ほどなくして、フライスはクジラの表皮に触れられるほどの距離までたどり着いた。

 ぬめぬめとした皮膚の壁が、空を遮るかのように伸びていた。ぬめり成分はブラストゲン化合物の一種だ。強アルカリ性を有しているため、間違っても手で触れてはいけない。

「対象発見」

『ポイント固定。落下予想位置とほとんど変わりません』

「アタシとしては変わってほしかったけどね」

 てらてらとした壁に沿うように視線を向ける。クジラと地面の間に挟まれたビルがあれば、クジラにもたれかかるビルもある。もっと平坦で障害物の少ない場所であれば、解体の手間はかからない。

 解体。

 そう、フライスは、爆弾と化すクジラの死骸を解体する解体士だ。

「こんな大物をアタシが解体しないといけないとはね……」

『税金で食っているのですから、文句を言わないでください』

「わかってるわよ。ま、アタシだって死にたくないし、やれるだけのことはやりますよ」

 フライスはヘルメットのライトをつける。腰部のポシェットを開き、円筒状の装置を取り出す。それはSマイン――スプラッシュマイン――という。遠隔操作によって液化した樹脂を噴き出す装置だ。ゴムにも似た弾力性を有した樹脂で覆うことによって、ブラストゲンの酸化を防ぐというわけだ。本来ならば、レスキュー隊のヘリコプターで散布するところなのだが、ブラストゲンは揮発性が高い。ローターの摩擦で発火する恐れがあるので、飛行機類は飛ばすことはできない。

 Sマインは、クジラの死骸の近くに一定の間隔で設置していく。液体の散布を均一に行うためだ。塗りにムラがあると、そこに圧力が集中して、樹脂製の膜が破裂してしまう恐れがある。それを防ぐためにも、円形の散布範囲を思い浮かべながら、設置を行っていくのだが……。

 ここで、障害物の多さが問題となる。クジラに沿って歩きたくてもビルが邪魔で迂回しなければならなかったり、がれきが多いために、Sマインの設置が不安定になったり。

「やっぱ、面倒だ……」

『あと三つです』

 わかってるっての――その言葉を口の中で転がし、フライスは斜めに転がるがれきの上にSマインを立てる。その根元に、船外活動員が用いる補修材――トリモチとか呼ばれる奴だ――をくっつける。これで、てこでも動かない。

 がれきから降りたフライスは、クジラを横目に見ながら設置を進めていく。ビルは倒壊していたが、通行の邪魔になるほどではない。多少は迂回する必要があったが、時間はかからなそうだ。

「クジラがゆっくり降りてくれたかな」

『クジラに知性はないそうですけど』

「……まあいいや。とにかく、大物だったが何とかなりそうだ」

『まだ終わっていないのに、それは』

 スコヤが言い終わる前に、すでに変化は始まっていた。遠くの方で――レスキュー隊のいた方角だ――パーンと何かが弾けるような音がした。フライスにとっては耳なじみのある音。前職で嫌というほど耳にしたあの破裂音。

「誰か爆薬を使ったな……!」

 顔をしかめながら、フライスが吐き捨てる。大方、レスキュー隊の人間が、人命救助のために指向性爆薬を使用したのだろう。

 一度目は、何も起きなかった。しかし、二度目は違った。一度目よりも派手に音が鳴る。ドーンという低い音は、ブリーチングの音よりもずっと大きな爆発音だった。

 それはレスキュー隊にとって、想定外のことであった。ブラストゲンの濃度が加速度的に上昇していることに気がつかなかったのだ。その結果、ブリーチングの爆発が滞留したブラストゲンに引火し、大きな爆発が発生した。多数の被害が出たが、それをフライスが知るのはもっと後のことである。

『爆発を確認』

「見えてる!」

 大爆発の余波が、フライスを、周囲のがれきを襲う。弾かれるようにがれきから飛び降りた。がれきがガラガラと崩れ、先ほどまでいた場所に落下する。

 冷汗を覚えながら、がれきの落ちた場所を見る。幸いなことにSマインはがれきに潰されてはいなかった。

 ふうと息をついたのもつかの間のこと。周囲のビルがぐらぐらと揺れている。

「これ、がれきの直撃には耐えられるっけ」

『可能ですが、損傷すると爆発に耐えられなくなる』

「なら、気合で避けるしかないわね……」

 フライスは走り始めた。彼女がまとっているスノーマンは、着ぐるみのような感じで、普通の人であれば歩くのもやっとだろう。しかし、爆発物処理班としてこの手のスーツを着用したことがあるフライスにとって、走るのは難しいことではない。それよりもがれきを回避する方に集中していた。

 ――急いだ方がいい。直感が叫んでいた。

『膨張率が早まっています。おそらくは』

「理由は後! あとどのくらいで爆発しそうなのっ」

『計算中……約十分』

「十分!? なんとかしてみせようじゃないの」

 唇を舐める。緊張からか、乾燥していた唇はざらざらだ。

 左手を、左側のホルスターへと伸ばす。そこに収められているのは、ワイヤーガンだ。ガンというだけあって、銃の形をしているそれにはトリガーしかなく、撃鉄部分は円形に膨らんでいる。射出したワイヤーを巻き上げる部分だ。

 銃口に、RPGの弾丸のようなものを差し込み、クジラへと向ける。引き金を引くと、ラグビーボール型の弾丸が火薬によって飛んでいく。突き刺さったそれは遅れて、返しのようなものを立てる。ぶよぶよとしたクジラの体にもしっかり刺さって抜けない。それを確認してから、フライスは飛び上がった。

 引き金を一度引くと、内部のウインチが作動し、ワイヤーを巻き上げる。ワイヤーガンを握り締めたフライスは、弾丸の方へ、弧を描くように近づいていく。

 弧の中ほどまでスイングしたところで、もう一度引き金を引く。ガチンという音とともに、ワイヤーと弾丸との接続が断たれる。フライスの体は、慣性に従って空中へと飛び出していく。しかしながら、この惑星には重力というものが存在している。地球のそれと変わらない1G。勢いを失うと、地面へと落下していく。

 放物線を描きながら、フライスはワイヤーガンの弾丸をポシェットから取り出し、装填。そして、射出。それを繰り返していく。ターザンのように空中を移動するフライスに、スコヤが呆れたような声を上げる。

『危険なことをしますね』

「こうでもしないと、間に合わないじゃない」

 実際、がれきを乗り越える必要がない分、先ほどまでよりもずっと早く動いていた。最初からワイヤーガンを使わなかったのは、クジラに弾丸を打ち込む関係上、爆発の危険を避けることができないから。もう一つは、ワイヤーガンの弾丸は無駄遣いできないからだ。弾丸はWEODの多くない資金から、ひいては税金から賄われている。

 とにかく、大金を湯水のように使いながら、フライスは移動する。そのおかげで、三分とかからず、地上の分は設置を終えることができた。

「しっかし、ここからが問題よね」

 フライスは、目の前の壁を見上げる。ぬめりの収まりつつある壁を上って、噴気孔のあたりにしなければならないのだ。そうすることではじめて、ブラストゲンの反応を止めることができる。

 上るための方法は一つ。ワイヤーガンを使用するのだ。しかしながら、先ほど弾丸を利用したので、無駄遣いはできない。もっと言えば、降りるための弾丸もない。

「……アタシがやらなきゃ誰がやるっての」

 ワイヤーガンをきつく握りしめる。それから、顔を上げたフライスは覚悟を決めたように銃口を向けた。ぬめるクジラの表面は、ブラストゲン化合物の発生による膨張のために、丸くなっている。下手なところへ撃ってしまえば、弾かれる危険性もあった。

 慎重に、しかし、素早く。狙いをつけて射出。しっかりと突き刺さったのを確認してから、巻き上げる。

 繋がったままとなっている通信からは、スコヤのカウントダウンが聞こえてくる。手に汗が滲む。急かさないでくれと叫びたくなったが、スコヤも善意でやっていることなのだと、思いとどまる。

 無言のまま、同じ作業を繰り返す。

 そして、いつしかクジラの背中へとたどり着いていた。体を、背中へと乗り上げる。十分なんて、とっくの昔に過ぎ去ってしまったかのような感覚。しかし、ヘルメットに表示された時刻では一分くらいしか経過していない。

 唖然としつつも、そうやっている暇はないことをフライスは思い出す。噴気孔へと駆けだし、Sマインを設置した。


 それからは、なんてことはない。遠隔操作によってSマインが炸裂する。放たれた樹脂によってクジラがオレンジ色に染め上げられる。ぴったりと張り付いた樹脂のサナギは空気が入る余地をつくらない。そうして、酸化が進行するのを防ぐのである。

 その後、機を見てガス抜きが行われる。これも、WEODの仕事だ。

 しかし、主だった仕事は今まさに終わったのだ。


「祝杯じゃーっ!」

 宣言ののち、朝方の街へと駆けだそうとしたフライスを、スコヤの手が掴む。

「その前に報告書」

「んなもの後からでも」

「いいから書いて。減給されたくなかったら」

 スコヤの目は本気である。一応、フライスよりもスコヤの方が先輩であり、上司でもあった。

 もう片方の手で差し出されていた、まっさらな報告書をひったくるように受け取ったフライスは、不承不承といった調子で自らのデスクへと向かう。それを見たスコヤは、満足そうに自分の席へと戻る。

「本日も快晴なれど、風強し。クジラは落下してきたものの――」

「普通に」

「いいじゃん。どんなふうに書いたって、誰も読みはしないんだから」

「それでも。後任の人間が読むかもしれない」

「どうだかね……」

 そもそも後任がやってくるかもわからない。第一、後任のあてがあるならば、その前に人員を増やす。それがないということは、あてすらないということだろう。そのように、フライスは考えていた。

 つまりは、スコヤと二人で来るべきクジラに対処しなければならないということ。そう思えば、ため息が出てきてしまうのだった。

「あーあ。上司がかっこいい男だったらなあ」

「またろくでもないことを考えている」

 頭を抱えるスコヤに、フライスが食って掛かる。

 騒々しくなってきたWEODの建物に、朝を告げる光が差し込める。その空には、地上の人々のことなど知らぬクジラが悠々と揺蕩っていた。

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くじらが降るまち 藤原くう @erevestakiba

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