He was dead
春夏あき
He was dead
1
朝がやって来る。私の表皮に埋め込まれたセンサーが太陽光線をキャッチし、制御回路に微小な電気信号を与えた。私はそれで八時間ぶりにスリープモードを解除し、埃っぽいソファから立ち上がって関節を曲げ伸ばしした。
「おはようございます、マスター」
向かいのベッドで寝ているマスターに声をかけた。しかしマスターからの返事はなく、相変わらず眠り続けている。ここのところずっとそうなのだ。いくら朝のベッドが気持ちいからと言って、いつまでも眠ってしまっては一緒に過ごせないではないか。
けれども私は所詮アンドロイドであり、それはマスターと主従関係を結んでいるということでもある。従者が主の過ごし方にあれこれ指図するわけにもいかず、私は毎朝の日課となっているため息をついてからソファから立ち上がった。
足元に転がっていた木切れを赤みの残る灰にくべ、ボロボロの雑誌でぱたぱたと扇ぐ。しばらくすると薪に火が付き始めて、それを確認すると私は水の入った鍋を火にかけた。底からブクブク泡が立ち上ってくると火からおろし、水を混ぜつつ人肌より少し暖かいぐらいの温度に調節する。そして傍らに置いてあったタオルをお湯につけ、ぎゅっと絞って余分な水分を取り除く。
「マスター、失礼しますね」
私はマスターにかかった掛け布団を引きはがし、そしてパジャマをゆっくりと脱がせた。そのパジャマは普段のものとちがってかなり脱がせにくかったが、最近のマスターはこれが好みらしかった。
私はマスターの上体を優しく起こし、そして手に持ったタオルで脇や首元など、汗をかきやすい部分を丁寧に拭いていった。マスターはなすがままになっており、それどころか私の奉仕で身体の力が抜けるのか、ぐったりと私にもたれかかっていた。
「マスター、ダメですよ。たまには自分で起きないと」
私は呆け顔のマスターにそう言った。けれどもマスターは外界からの刺激をシャットアウトしているようで、私の奉仕を夢見心地で受け入れるばかりだった。
その調子で下半身にも同じようなことをし、最後に再びパジャマを着せると、私の一日の仕事は終わった。かつては私にもそれなりの仕事があったのだが、最近のマスターはなぜだか私に命令を下してくれない。私に身体を丁寧に拭かれるとそれだけで満足してしまうようなのだ。だから私は、この仕事が終わればあとは完全な自由時間となる。勿論家の戸締りや日用品の確保などはしなければならないが、それでも以前と比べると仕事量は格段に減った。私はお湯を庭の野菜たちに撒いてやり、身体を拭いたタオルを洗ってから窓際に干すと、マスターに「行ってきます」と声を掛けて街へ出かけた。
外の様子は相変わらずだった。マスターの住むアパート周辺はそうでもなかったが、閑散とした道路を街の中心部へ向かって進んでいくにつれ、周囲にはあの日の爪痕が増えていった。道路を埋め尽くさんばかりの埃の積もった車たち。その座席には未だに人が坐っていて、何かから逃げているような必死な形相をしている。しかしこの渋滞は、たとえあと百年かかっても解消されないだろう。
さらに進んで街へ入ると、そこは外周の道路とは比べものにならない程に荒れていた。道のあちこちには追突事故を起こした車が並び、歩道のレンガを粉々に砕いている。また、あちらこちらにガムテープの張られた窓が目立つが、そのどれもが今では黙りこくっていた。
高層ビルに四角く切り取られた空を見上げると幾筋かの煙が見えたが、きっとこれも人間のものではないのだろう。私はここ一週間、ほぼ毎日街へ来ていたが、未だにマスター以外の人間にであったことはない。とあるビルの中にある家電量販店のラジオを聞いてみた所、どうやら世界規模でみればまだ少し人間が残っているようだったが、それでも現状を考えると出会うのはほとんど不可能だろう。
今日の目的地はいつものスーパーだったから、私はいつも通りに道を歩いた。そのスーパーはあの日から利用者がぱったりと途絶えていたため、食糧はほとんど取り放題だった。私はいつもそこで、家庭菜園では補えない食料品を拝借していた。マスターは子供みたいに好き嫌いが激しいから、私がきちんと栄養バランスを考えて調理してやらねばならないのだ。
電気が通電していないために、重い自動ドアを苦労して開く。するといつもガランとしている店内に、今日は先客がいた。
「おっと、こんにちは」
「こんにちは」
「珍しいね、君みたいな電気駆動型がここへ来るなんて」
彼女の身長は私より低く、そして頭にはオレンジ色の髪をはやしていた。こんな風に自立して動いていることから少なくともアンドロイドに分類されると思われるが、服装が変わっているため外観による職業判断は不可能だった。
「あなたはここへ何をしに来たのですか?」
「ああ、あんたにはわからないか。……いや、嫌みじゃないからな。私はこういう風に喋るようにプログラムされてんだ。前オーナーが特注したんだとよ。
それでなんだっけ? ああ、なんで私がここにいるかだな。私はあんたみたいに完全な電気駆動はできなくて、有機エンジンを搭載した前世紀のアンドロイドなんだ。最近は燃料の確保も面倒なんで、今はちょうどいい有機物を探しているところさ」
「そうでしたか。てっきり、あなたにもマスターがいるのかと」
「なに? あなたにも?」
彼女は小走りで私の元へ駆け寄ってきた。
「まさかあんた、主人がまだいるのかい?」
「ええ、あなたにもいるのでしょう?」
「いるさ。──いや、正確にはいたんだがな。まあいい。久しぶりに人間に会える。詳しい話を聞いたいんだが、良かったら私の住処まで行かないか?」
私は戸棚にしまってある食糧を思い出して、少しだけ考えた。肉の缶詰があと少しあったはず。ミネラルウォーターは地下の貯水槽にまだまだ沢山あるし、野菜は人参がもうすぐ収穫できそうだ。うん、一日くらいなら大丈夫。
「いいですよ。案内してください」
「よし、それじゃ早速行こうか」
彼女は私を連れて街を歩き出した。普段よく通る大通りを二度、三度と曲がり、迷路のような路地を最短ルートで抜けていく。やがて私たちは、郊外にかかる橋のたもとへたどり着いた。そこには幾つかのテントと火がくすぶるドラム缶が置かれていた。ここはもしかすると、生存者たちの集まりなのかもしれなかった。
私たちはそれらを横目に、橋桁に潜り込んだ。ほうぼうの隙間から雑草が生えたここは決して良い場所とは言えなかったが、それでも彼女にとっては自分のとっておきの場所なのだろう。彼女は私をコンクリートの上へ座らせ、そして彼女自身もそこへ腰掛けた。
「ここが気になるか?」
「ええ。あのテントはいったい……」
「ここはまあ、生存者の集まって出来た村なんだ。もちろん人間は一人もいない。産業用はともかく、半自立型もいない。管理者が死んだ今、奴らに命令を下せる者はどこにもいないからな。それでここには今、十人前後のアンドロイドが住んでる。ここには蒸気機関型のための、高圧蒸気を生成する設備だってあるんだ」
「なるほど」
「もしよかったら、あんたもここにこないか? 今は皆で開拓を進めているところだ。なかなか不便ではあるが、しかしやりがいはあるぞ?」
「ごめんなさい。私はマスターのお世話をしなければならないので」
「そうだ。それを聞きたくてここへ呼んだんだ」
彼女はポンと膝を打った。
「それで? あんたのご主人はどこに避難してるんだ? こんな場所に気密シェルターがあるとは知らなかったが、やっぱりあるところにはあるんだな」
「……いえ。私のマスターは、マスターの家にいます」
「家って?」
「家です」
「……ま、まあいい。それよりさ、もしよかったらでいいんだけど、私のこと、あんたのご主人に紹介してくれないか? もちろん塩素消毒でもなんでもやるよ。ここんとこ人間に会ってないんで、是非とも話を聞きたいんだ」
「私の一存では決めれませんので、なんとも言えません。しかしマスターなら、きっと会ってくれると思います。ただ、一つ問題がありまして」
「うん?」
「──私のマスター、動かないんです」
彼女は途端に顔色を変えた。眉毛をぎゅっと曲げたその悲し気な表情は、とても人工筋肉で形作られているとは思えなかった。
「それ、いつから?」
「あの日から」
「そりゃ、あんた──」
彼女はまるで金魚のように口をパクパクさせた。なにか伝えたいことがあるのだろうと推測できたが、その言葉はどうにも口に出せなかったらしい。私にもそんなことがよくある。私だってマスターとお話をしたい。あちこち見て回りたい。一緒に笑って泣いて怒って悲しんでそして……。でもなぜだか、マスターはそれをよしとしない。私のことを嫌いになってしまったのか、ずっと黙りこくっている。あの日まではずっと私に構ってくれていたのに、いったいどうしてしまったのだろうか。
「……あんた、さ。死ぬってどういうことだと思う?」
何故だかわからないが、彼女は急に話題を変えた。
「わかりません。私には『死』という概念が理解できないのです」
「うん、これは難しい話だ」
彼女はよっと斜面から立ち上がり、私の目の前をゆっくりと円を描くように歩き始めた。腕組みをし、眉間にしわを寄せる彼女の姿は、さながら気難しい職人のようだった。
そのまま二、三回回ったところで、彼女は再び同じ場所へ戻ってきた。どうやら考えがまとまったらしい。
「そもそも死ってものは、案外適当なもんなんだ」
「適当、ですか」
「うん。あんたも概念として理解できなくても、定義ぐらいはわかるだろう?」
私は即座に自分のローカルネットワークにアクセスし、膨大な情報の奔流から必要なものを幾つか抜き取った。
「ええ。例えば死とは、生き物がその活動を停止すること。また比喩的表現として、物や事が意味をなさなくなることを指します」
「ま、そんなもんだ。……ところでこんな話を聞いたことがあるか? 物を定義するのは不可能だって」
「私のデータベースには、ありとあらゆる物の定義が載っていますよ?」
「じゃ、机の定義を教えてくれ」
しばらくの沈黙。
「簡単に言えば、物を載せる台のことです」
「じゃあ聞くが、このコンクリートは机か?」
彼女は人差し指で、私たちが座っているコンクリートの斜面を指さした。地面を基準に三十度ほど傾いたその斜面は、とても机と呼べる代物ではなかった。
「いえ、机ではありません」
「でもここは周囲より高くなっている。つまり台だ。そして不安定だが、ここで飯を食うこともできる。つまり物を載せられる。あんたの定義で言うなれば、この斜面は机だな」
「しかしこれは斜面です。どう見たって机ではありません」
「あんたは今『どう見ても』と言ったな。『定義に当てはまらないから』とは言ってない。つまりこの斜面は定義には含まれているが、しかし定義が定め意味する物ではないということだ。最終的にあんたは独立した要素ではなく、主観として物を判断した。それはつまり、机の定義が不十分だということだ。
それと同じで、死というものも厳密には定義できない。例えば心臓が停止してもしばらくは爪が伸びるし髪も生えてくる。仮に身体の働きが停止したところで、肉や骨の分解には多大な年月を要する。それらが完全に分解されきったとしても、この世界にはしばらくの間、そいつが生きていたという事実が残る。事実が忘れ去られれば、今度は長い長い地球史、宇宙史の一記録となって永遠に残り続ける。死をどう定義するかによっては、生き物は不老不死であるとも言える」
「……」
「つまり、生き物は死なないってことさ。──誰かがそう望むならな」
彼女は穏やかな声でそう言った。私はその言葉の真意を図りかねるが、それでも彼女が私に気を使ってくれているのだということはわかった。
この場所で話し始めてから、幾分か時間がたったようだ。川原に広がる薄暗闇に、ドラム缶の赤い火が目立っていた。
「私はそろそろ行くよ。アンドロイドによる会合があるんでな。あんたも入りたかったら、いつでも私に言ってくれ」
「ええ、ありがとう」
「それじゃ」とだけ言って、彼女は橋桁から外へ出て行った。私も彼女に続いて家に帰ろうとしたが、夜空に浮かぶ白い月がとてもきれいで、歩道に立ち尽くしたままぼんやりと空を眺めた。
2
私は海にいた。今日もマスターのお世話をした後に、家から出かけてきたのだ。ただ普段は街へ向かう道を、今日はわざと真反対へ進んでみた。川に沿って伸びる道を辿っていくと、やがて目の前には海があった。私は防波堤の切れ目から砂浜へ入り、波打ち際まで行ってみることにした。
波はカーペットでも巻くみたいにぐるぐる丸まりながら近づいてきて、しかしそれ以上進めず音を立ててぐしゃりと潰れてしまう。私はどうにもその波の動きが面白くて、時間を忘れて夢中で眺めていた。
ふと、背後から砂を踏む音が聞こえた気がして、私はそっと振り返った。そこにはアンドロイドが立っていた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
彼女は久しく他人に会っていないようで、筋肉の硬直した口部パーツを扱うのに苦労していた。
「ここへは何をしに来たの?」
「何かをしに……という訳ではありません。せわしない日常の中の、ガス抜きというやつです」
「そ、そう」
彼女はよく見ると、右手に細長い棒を、左手に水色のバケツを持っていた。
「私は釣りにきたの。私の……私の、お友達に食べさせてあげるために」
彼女はゆったりとした歩みで私の隣までくると、バケツに海水を汲んで釣りの準備を始めた。釣り竿から釣り糸を巻きだし、針先に土のついたミミズを器用に取り付ける。ヒュンッと空を切る音を響かせて、針を中空に踊らせた。十メートルほど離れた海面にそれは落ち、彼女はゆったりとした立ち姿で竿を構えた。
「こんなところで釣れるの?」
「ええ。人間がいなくなったからか知らないけど、魚の量が増えた気がする」
彼女はそれだけ答え、その後は神妙な面もちで海に向かい合った。
お昼前の海辺は平和の代名詞のような顔を見せていた。辺りにはただ打ち寄せては砕け散る波の音だけが響き、それ以外にはエンジン音一つ聞こえない。頭上には春の柔らかな太陽があり、あたりをポカポカと暖めていた。
私は彼女に何も聞かなかった。それは彼女も同じようで、私に何かを話しかけるということはなかった。私は彼女の中に、私と同じものを感じ取ったのだ。自分にとって大切なものが壊れ、しかし自分ではどうすることも出来ない。そんな感情なんて、他人にはどう足掻いてもわからない。偽善的な優しい言葉をかけるだけなら、黙っていた方がよっぽどその人の為だ。
竿がぶるりと震えた。彼女はただ立てていただけの脚に力を込め、竿を立てながらリールを巻いた。やがてその糸の見えてくるころには、そこに食いついた見事な銀鱗を見ることが出来た。
「ねえ」
バケツに魚を入れた彼女が言った。
「もしよかったら、私たちの家にこない? その……私の友達も、たまには別の人に会ってみたいだろうから」
私は二つ返事でその旨を受け入れた。断る理由は無かったし、その友達とやらに会ってみたかったからだ。
砂浜を並んで歩いていき、やがて彼女の家にたどり着いた。そこは木造の一軒家で、壁や柱が潮風でぐったりとしていた。窓や庭は綺麗だが、どこか人気が無く、自分に相応しい主の帰りを待っているようにも見えた。
「ただいま」
「おじゃまします」
家の中は妙に小綺麗だった。掃除が行き届いている、と言うよりは精気が感じ取れないのだ。塵一つ落ちていない廊下は、まるで無菌室のようなもの悲しさを持っていた。
「この部屋にいるの。さ、入って」
彼女はふすまをそっと滑らせた。私は畳の上に足を置いて、二、三歩進んでみたが、部屋の中には誰もいなかった。
「お友達は?」
「……そこに」
彼女の手の先を見た。そこには艶のある黒っぽい木で作られた、小さな棚のようなものが置いてあった。中央には観音開きになった空間があり、そこには緑色の棒が一本刺さった壷があった。
私はこれが何かを知っている。確かローカルネットワークの「ば行」に収録されていたはずだ。これの名前は、そう──
「これ、仏壇っていうの」
仏壇だ。
「私の友達……私のマスターは、死んだの」
彼女は小さくそう言った。しかしその声は、他に音のないこの部屋では聞きやすすぎる大きさだった。
「私のマスターは、人間の尺度で言うおばあちゃんだった。いなくなった家族の寂しさを埋めるために、私はマスターに迎えられた。マスターは私のことをまるで友達のように接してくれて、私もそれが嬉しかった。でも……」
「あの日が」
「そう」
彼女は俯いたまま話を続けた。
「抵抗も何もできなかった。いや、マスターはそれをしたくなかったのかもしれない。私がどんなに準備をしようと言っても、マスターは黙って首を横に振るだけだった。私はこの部屋で、布団に寝ころんだマスターを看取った。……その後は人間の習慣に合わせて火葬して、灰を集めて、庭に埋めた。
私にはそれが正しいことなのかわからなかった。無理矢理にでもシェルターへ連れ出して、死を少しでも遠ざけた方がよかったのかもしれない。でも咳き込むマスターは、私にこう言ってくれた。死はすべての生き物に平等に訪れる。それを避けようとするなんてのは、自然の摂理に反するものなんだよ、って」
彼女は足元に置いたバケツを手に取り、そのまま部屋を出ていった。次に彼女が帰ってきたとき、その手には湯気の立つ食器が置かれたおぼんが握られていた。
和室の中央の木の机に料理が並べられ、少し遅い昼食が始まった。私が料理を食べられない旨を伝えると、二人分あった料理のもう一方は、仏壇へ供えられることとなった。
「あの、さっきの話なんだけど」
「なに?」
「生き物は、どうして死ぬの?」
彼女は口に運ぶ箸をぴたりと止めた。
「……わからない。というのが、私の正直な答え。私は医者や学者でもないし、かといって哲学家でもない。なにか宗教を信仰しているわけでもないし、特別な考えがあるわけでもない。私は六年前に家事遂行アンドロイドとして工場で生を受けたけど、思考回路に刻まれているのはただの職業コードだけ。最低限常識的な知識や思考は覚えているけど、それ以上に何かを考えることはできない。
私はね、それが残念なことだとは思わないし、むしろ喜ぶべきことなんだと思ってるの。だってどれだけ考えた所で、決して答えにはたどり着けないもの。存在しないものを追い求める絶望を感じるくらいなら、なにを知ることもできない、無知な状態の方が幸せだと思うんだ」
「例えばですが。その魚は何のために生まれてきて、そして何のために死んだのかわかっていたのでしょうか」
私は彼女の前に置かれている、皮目の焦げた焼き魚を指さした。釣り上げた直後はあんなに生命力にあふれていた魚だったが、今では目は完全な白に閉ざされていた。太陽の光を眩いばかりに反射していた銀鱗は、金属製の調理器具で無理矢理はぎとられてしまったのだろうか。そこにいたのは魚ではなく、焼け焦げた死体だった。
「……マスターが言ってた。自分達に生きる意味を求めるのは、人間だけなんだって」
「生きる意味?」
「うん。例えばこの魚は、親が生んだ卵から孵って、そして釣り上げられる直前まで海の中で生きていた。でもそれはこの魚自身が生きたいと思ったからじゃない。魚はただ、自分の身体に刻まれた遺伝子に従っただけ。そこに意味なんてものは存在しない」
「なら人間は、どうしてあんな風に生きているのでしょうか。極端な話、こんな大規模な社会だって生き物の生存には必要がないはずです。全員が全員、個々人で自分の好きなように生活するというだけでも、少なくとも子孫は残せるはずなのに」
「人間には意識があるから、じゃないかな。例えば生き物には三大欲求が備わっているけど、人間はこの欲求をある程度コントロールすることができる。……これってすごいことなんだよ? だって欲求っていうのは、生物が生きていくうえで最優先されるべきはずのものなのに。人間はそれを意識して押しつぶすことができるんだよ。それに人間は、他者をいたわることができる。つまり自分以外の誰かを助けるために、自分が犠牲になることを厭わない。個人に程度の差はあれど」
「その結果がこれなら、なぜ他の生き物には意識がないのでしょうか。子孫繫栄、種の保存を目的としている生き物にとっては、これほど好都合なことはないでしょうに」
「うーん、例えばあなた、自分には意識があると思う?」
「思いません。私は現在進行形で思考、及び会話をしていますが、これは私のディスクに刻まれたプログラムの単なる出力方法にすぎません」
「ならあなたに意識がないことを、私に証明して見せて」
途端に私は応えに詰まった。意識の証明、とは一体どういうことなのだろうか。例えば幾何学の問題を証明したければ、いくつかの公理を用いて順を追った説明をしていけばいい。物事の是非を問う問題ならば、メリットやデメリットを上げていき、最終的に相手が納得する結論を導けばいい。ではそれが意識が存在するかどうかという問題ならば、一体どのようにすれば証明できたとすることができるのだろうか。
「……わかりません」
「だろうね。だってこれは悪魔の証明なんだもん」
彼女はあっけらかんと言った。
「でも不思議だよね。人間だって他の生き物と同じように、交尾で精子と卵子を受精させて、それが育って胎児になるんだよ。つまり赤ちゃんを含む人間なんてものは、実は無数の細胞の集合体でしかないの。でも彼らはいつの間にか、意識を持ち始める。意識は脳に宿るなんて言うけど、脳もただの細胞の集まりだよ。そこにニューロンだとかなんとかいう特別な名前の与えられた細胞がいるだけで、やってることはただの電気信号の伝達に過ぎない。そういう意味では、脳はパソコンと同じとも言える。でもたった一つだけ違う箇所が、意識があるということなんだ。他の生き物と人間の違いが意識のあるなしなんて、実は逆説的な考えなんだ。本当は意識を持つ持たないのきっかけとなる場所、それこそが人間か非人間かの境界線なんだ」
彼女は話をしながら、器用に魚を食べていった。静かな部屋の中に指のモーターが唸る音が響き、白っぽい肉は次々に骨から外され、彼女の口へ入れられていく。やがて食器の内容物が空になったところで、彼女は「ごちそうさま」と言って手を合わせた。
「……あなたはどうしてそんなことを聞いたの?」
「私は、私なりに答えを見つけたかったのです」
「ふーん、そっか。……ま、私から言えることは、死に意味なんて無い、ってことかな。それはただの生命活動の一貫に過ぎなくて、呼吸するとか、消化するだとか、その程度のことでしかない。と、私は考えてる。
今日は楽しかったよ。きっとお友達も喜んでくれた。それじゃ、またね」
彼女は食べ終わった食器を重ねて、部屋から出ていった。一人取り残された私は、少しだけ仏壇に向き直ってから、あの無機質な廊下を玄関へ下っていった。
3
答えを見つけることがこれほど難しいことだなんて、以前の私には想像もできなかった。私は作家であるマスターが特注したアンドロイドなだけに、普通のアンドロイドよりは幾ばくか無駄な知識を持っていた。だからマスターから何を聞かれても、私は瞬時に答えることが出来ていたのだ。ところが、最近私の事を悩ませる問題は、どれだけ考えても答えがわからない。私は二機のアンドロイドから助言を貰ったが、それも結局役に立たなかった。だからといって諦める訳にもいかないが、しかし私一人ではどうも答えを見つけられそうもない。だから私は、今日もまた外へ出かけていた。街と海と来て、あとは山ぐらいしか残っていなかったから、私は街から伸びる渋滞を逆に進んでいき、ビルの隙間から見えていた山にたどり着いた。
『この先登山道』と掠れた文字の書かれた木の看板が脇に立っている道が、私の正面に伸びていた。周囲を見回してみるが相変わらず人気はなく、私はその山道をゆっくりと登り始めた。
当たり前のことだが、登山道には人っ子一人見当たらなかった。私は普段よく使わない股関節のモーターをフル稼働させながら山道を登って行ったが、目に入るものと言えば梢にとまった鳥くらいだった。森は以前と姿を変えることなく静かにそこに佇んでいて、むしろ人間という邪魔者がいなくなったことに清々している様子だった。人の通りがなくなった道には名も知れぬ草花が自由に生い茂り、本来の自分達の場所を取り戻した様子でいた。私はそれらの植物を殺してしまうのを極力避けようとしたが、道を行く以上どうしても足を運ばざるを得なく、私は「ごめんね」と呟きながら草花を踏みつぶしていった。さくり、さくり足を動かす度、足の下で健気な命が潰えていく。以前の私ならどうとも思わなかっただろうが、しかし今の私にとっては無視できない意味を持っていた。
その調子で山道を歩いて行くと、やがて前方に開けた空間が見えて来た。そこは半径十メートルほどの小さな空間で、前方にはベンチが内設された東屋と、木の柵の向こうに広がる街並みを見ることができた。どうやら展望台のようだ。道はまだ続いていたが、私は久しぶりの過負荷でモーターがオーバーヒートしないか心配で、ひとまずこの広場で休憩することにした。
せっかくだからベンチにでも座ってと思い、ゆっくりと東屋へ向かう。すると近づくにつれて、ベンチの向かい側誰かが倒れているのが見えて来た。こんな場所にいるのは珍しいが、きっと彼も同じような人間なのだろう。私はそう思った。だがそのまま近づいて行って彼の傍にしゃがみ込むと、私は彼の髪がパラストプラスチックでできていることに気が付いた。これは彼がアンドロイド、それも第三次産業従事用ではなく、第二次産業従事用であるということを示す証拠だった。
「もしもし」
頭を軽く揺する。それでも起きる気配が無いので、私は人差し指から電気針を伸ばし、彼の額にそっと突き立てた。針の先端からは電気伝導性の高い液体が染み出し、そしてそこへめがけて起動信号が放たれる。ぱちりという静電気のような音の後で、彼は「うう」と呻いて頭を起こした。
「……あんた誰だ? なんで俺を起こした?」
「すみません、少し聞きたいことがありまして」
彼は重い身体をゆっくりと起こし、服についていた砂埃を手でさっと払った。
「とりあえず座りませんか」
私たちは並んでベンチに腰かけた。目の前には非常に良い展望が広がっている。はるか向こうには私が過去に訪れたことのある海が見え、そこから河をたどっていくと、いつも行くスーパーのある街が上から見下ろせた。灰色ののっぺりした屋上は、久しぶりに会った人に喜んでいるようにも見えた。
「で、なんだって俺を起こしたんだ」
「まず聞きたいのですが、あなたはなぜこんな場所でシャットダウンしていたのですか」
「ここでしちゃまずいかい? 俺のマスターはもういなくなっちまったし、どこで何をしようが俺の勝手だろ」
「あなたもそうでしたか」
「うん?」
「いえ、あなたの他にも、マスターがいなくなってしまったアンドロイドを見て来たので……」
私がそう言うと、彼はまるで使い込んだパレットのような表情をした。
始めは綺麗だったのだ。空を塗るために鮮やかな青を、炎を描くために情熱的な赤を、レモンを塗るために眩しい黄を。そうして絵を描き進めていくうちに、パレットには沢山の絵の具がのる。すると次第に、絵の具同士が混ざり始める。それは作者が意図的にそうしたのではなく、例えば筆が擦れて、例えば雫が垂れて、意図しない内にそうなってしまうのだ。そうするとパレットは途端に色味を失う。一つ一つの色が綺麗だからと言って、混ぜればもっと綺麗になるなんてことはない。いつしかパレットの上には、赤だか青だか黄だか、なにとも断定できない灰色っぽい色ができる。それは絵に沢山の色が使われているという意味でもあるし、絵が完成に近づいているという意味でもある。ともかく一つだけはっきりしていることは、少なくともその色は綺麗でないということだ。
「……俺だけで充分だ、こんなことをするなんてのは」
「こんなこと?」
「ああ、そうだ。俺はさっきマスターはいなくなったと言ったな。それは正確には間違いだ。実を言うと、マスターは俺がいなくならせた」
「……」
「俺はこの手で、マスターを殺した」
私は息をのんだ。彼は何と言った? 殺したと、そう言ったのか? 今でこそ存在するばかりで機能していない法律には、アンドロイドに関する物もあった。ロボットではないが人でもないアンドロイドは、法律的にとても微妙な立ち位置にいた。だからこそ、法律はその他の産業用ロボットや半自立型ロボットよりも厳しく取り決められていた。その中には殺人に関するものもあったはずだ。
「……あなたは、なぜマスターを殺したのですか。全てのアンドロイドの記憶チップには、最低限常識的な知識が備わっているはずですが──」
「お前に何がわかる? 俺とあいつは絆で結ばれていた。どんな現場だって一緒に行ったし、到底不可能な仕事でも二人でならこなすことができた。だがあの日、あいつは咳をしながら俺に言ったんだ。『このまま苦しんで死ぬくらいなら、いっそのこと、お前の手で殺してくれ』ってな」
山のどこかで、鳥がひょろろと鳴いた。そのか細い声は、もはや誰も来ることのない山に小さくこだました。
「三原則上は、使用者の命令の方が優先される。俺は流れない涙を流しながら、あいつの首を絞めつけた。あいつは苦しいはずなのに、俺を気遣ってくれたのか、笑いながら死んでいった。
……俺は自分で自分が許せなかった。俺の中の俺はあいつを誰よりも愛していたが、俺の中の俺はどこまでも責務に忠実だった。どちらも俺だ。でもどちらが優先されるかは……わかりきったことだろう?」
私は黙って頷いた。
「ま、お前が分からなくても俺は構わない。お前がその理由を理解できないというのなら、俺にはそれ以上説明する言葉がない。俺は俺、お前はお前。それはゆるぎない事実だ。
……生き物って奴は、どうして死ぬんだろうな。死なんて糞食らえだ。だいたい、なんで死なんてもんがこの世に存在してるんだ。生き物の究極の目標は子孫繁栄だというが、それはつまり、種を繁栄させるということだ。なら思惑通りにことが運ぶかどうかもわからない不確実な遺伝に頼るより、それを思い立った自分自身が生きればいいんじゃないのか? あいつは──俺のマスターは、その場合は特別な場合だったのかもしれない。あの日がくるなんて俺は想像もしていなかった。だが遅かれ早かれ、俺はあいつとの別れを経験するはずだった。それが少し早まっただけだ。でもそもそも死がなければ、そんなことも起こらないはずだ」
「生き物が死ぬ、それは逆に言うと、生者が新しく置き換わるということでもあると聞きます。例えばある種の病気が流行ったとき、遺伝子が一つしかなければそこで潰える確率が高くなります。ですが生死の新陳代謝があれば、多少が死んでも、新しく生者を生み出すことができます。その中には病気に耐性を持った者もいるかもしれない。そんな風にして、生き物はこれまで生き続けてきたのです」
「それにしたって別に代謝する必要はないだろう。前までの個体も残り続け、新たな個体もその一員に加わる。そうすれば個体数は加速度的に増加していき、晴れて目的を達成できる。
そもそも死とはなんなんだ? 例えば身体がぴくりとも動かせなくて、しかし意識だけははっきりとしている。この場合は死んだと言えるのか?」
「死、ではないでしょうね」
「なら身体も動かない、意識もない。しかし心臓や肺は動ける状態にあり、機械を使えば無理矢理身体を働かせることができる。この場合はどうだ」
「……死、なのかもしれません。状態としては生きているのかもしれませんが、果たしてそれを他者と同じように扱ってもよいかはわかりません」
「俺がどこかで読んだ本に書いてあったが、例えば交通事故で身体から右足が切断された奴がいた時、人間はどっちに声をかけると思う。それは勿論右足ではないほうだな。千切れた右足に向かって『おい、大丈夫か』なんて言う奴がいたら、そいつの頭はよっぽど大丈夫じゃないからな。ならその状態から更に左足が、右手が、とどんどん分割していくと、そいつの主体は脳へ動いていくだろう。つまり首から下と首から上がそれぞれあったなら、人間は首から上の方に声をかけるということだ。だがここで一つの疑問が生まれる。そいつの主体は本当に脳なのだろうか。
脳は不思議な器官だ。人間の体重の内2%を占めるに過ぎないが、そいつは摂取したエネルギーの実に20%を消費する。何十キロもある体重を支えるわけでも、何か重い物を持つわけでもないのにだ。現在の──少なくともあの日が訪れるまでの医学では、脳について様々な研究が行なわれていた。だがこれまでに分かったことと言えば、精々脳でどのような反応が起きているのかを探り当てただけだ。どれだけ調べようとも脳の構造がわかるのみで、意識のきっかけになるような部分は見つけられていない。その人の意識、主体が脳に宿るなんて、我々の単なる想像にすぎない。もしかしたら心臓に宿ってるのかもしれないし、小指の先に宿る可能性もある。それこそ右足にある可能性もな。
つまり何が言いたいのかと言うと、人間は人間の死を意識のあるなしで区別している。逆に言えば、身体なんてものは単なる意識の入れ物にすぎない。お前が電池を買う理由は、エネルギーが欲しいからだ。別に外箱が欲しいわけじゃない。それと同じ話だ」
「なんだかイデア論のようになってきましたね」
「ま、そんなもんだ。
だから俺が聞きたいのは、意識はどこへ行くのかってことだ。不思議だよな。意識は赤ん坊の時にどこからともなく現れてきて、身体が死ぬとふらっといなくなる。一体普段はどこにいるんだろうな」
「もしかすると、それが幽霊というやつなのかもしれませんね」
「幽霊でも何でもいいが、俺はもう一度あいつに会いたいよ。
──長くなっちまったな。聞きたいことはもう聞けたか?」
「ええ」
「それじゃ、俺はもう寝る。くれぐれもまた起こしたりなんてするなよ」
そう言って彼はベンチに座ったまま、静かに目を閉じて電源を落とした。彼の高周波モーターの周波数が格段に低下する。振動検知器でそれを感じ取った私は、一度だけ彼をまじまじと見つめてから、ゆっくりとベンチから立ち上がった。
いつの間にか日が大分落ちていたようで、空が赤く滲んでいた。私は夕焼けのシャワーに身を洗われながら、静かに彼の元から去っていった。
4
「おはようございます、マスター」
何度目の朝だろうか。私はバネの飛び出たソファから起き上がり、向かいのベッドで寝ているマスターに声をかけた。しかしマスターからの返事はなく、相変わらず眠り続けていた。
「マスター、いつまでも寝ていては駄目ですよ」
私は残り火に薪をくべ、そして水の入った鍋を火にかけた。しばらくするとお湯が沸き、それを水で人肌までさました後、タオルをつけてぎゅっと絞った。
私はマスターの元へ歩み寄った。マスターは相変わらず眠りこけている。パジャマだって着っぱなしだ。私が汗を拭いているからとはいえ、流石に変えなければならないだろう。
マスターの腕もとについたパネルを操作し、パジャマの気密システムを解除する。そして頭を覆うバイザーを外そうとする……が、私の耳には、気圧差によって生み出されるあの独特のぽんっという音はいつまで経っても聞こえてこなかった。どうやらパジャマが故障してしまったらしい。これは本格的に、パジャマの乗り換えを検討しなくてはならない。
「マスター、そろそろ動いて下さい。パジャマが壊れてしまいましたよ?」
いつも通り、額から汗を拭いていこう。私はタオルを握り直し、いつも以上に慎重にマスターの額に当てた。だが、今日も駄目だった。私が弱い力でタオルを動かすにもかかわらず、白い布地には、灰色のぶよぶよした消すかすのようなものが沢山ついた。そしてそれに比例するように、マスターの額を占める白の面積がどんどんと大きくなっていく。
私はその灰色の物を、光学レンズ越しにじっと見つめた。組成の98%は蛋白質だ。それもただの蛋白質ではない。過ぎ去りし過去の日。マスターが私を家へ連れてきて、使用者登録をしたときに提出してもらったマスターの内頬の蛋白質。それと99.9%以上一致している。私はカメラの焦点を上げた。ここにあるのは髪だろうか。その隣にある白片は骨かもしれない。ひょっとしてここにある細胞には、マスターのDNAが封じ込められていたのかもしれない。私はタオルに載ったマスターを見つめて、静かにパルスを送り出していた。
その時だった。
私は視界内に動く物を検知した。私は焦点を元の状態に戻し、ゆっくりとそちらを向いた。
マスターの暗く落ちこんだ眼窩から、さも当然であるかのように、一匹のゴキブリが姿を現した。羽は脂で濡れており、身体がグロテスクに光っている。それは三対の脚を動かして、マスターの顔を無遠慮に這い回った。それでもマスターは何も言わず、何も反応しなかった。
それで初めて、私は、マスターは死んだのだということを理解した。
死とは一体何なのか。私はその答えを悟った。
「泣けよ」
灰色の肉が所々剥げている頭蓋骨を見て、私はそっと呟いた。だがいくら待ってみても、ついに私の目から涙は流れてこなかった。
He was dead 春夏あき @Motoshiha
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます