彼岸の花

浦科 希穂

彼岸の花

 はぎさんという女性と知り合ったのは、私が脳に記憶の引き出しを造るよりも前の事で、初めて顔を合わせた時に彼女がどんな声で私を呼び、どんな顔を向けたのか、私は覚えていない。

 この世に生を受けた時には、すでに萩さんは私のそばに居たし、それが当たり前のことだったので別段不思議に思う事もなかった。

 そうして互いに年を取り、気づけば私は五十代に突入していた。萩さんに至っては八十代後半だ。

 それでも変わらず、私たちはずっと傍にいた。

 話すことと言えば、もっぱら病気や健康の話だったが、年をとったのだから当然だ。

 そんなある日、萩さんは私に言った。

「どうしてもお墓参りに行きたいの。ほら、今日はお彼岸でしょう?」

 萩さんは両手を合わせて、お願い、と私を見上げた。

「ずっと会いたかった人がいるの。戦争で遠くへ行ったきり、帰って来なかった私の初恋の人のお墓」

 萩さんは当時のことを思い出したのか、薄く頬を染めながら、まるで若い娘のように照れ笑いをした。

 それは、萩さんから繰り返し聞いた話だった。

 随分昔に想いを通わせた幼馴染がいたこと、赤紙がきて二人は引き裂かれてしまったこと、彼はその戦争で帰らぬ人となってしまったこと、そして、一度も彼のお墓に行けていないこと。

 その話を聞くたびに、私はとても寂しい気持ちになった。

 うん、うんと相槌を打ちながら、こぼれてしまいそうになる涙をぐっと堪えるのがやっとだった。

「そしたら、駅前でお花を買って行きましょう」

 私は無理やり明るく笑って萩さんの手を取った。

 叶えてあげようと思った。この愛らしく笑う萩さんの笑顔を守ってあげようと思った。

 いままで私にそうしてくれたように、きっとこれからは私が萩さんにそうしていく番なのだと。


 萩さんの初恋の人のお墓は都心から少し離れた郊外にあった。

 駅前で花を買い、ゆっくりと歩く萩さんを隣で支えながら汽車に乗った。

 人がまばらの汽車に揺られながら、私はじっと車窓の外を眺めていた。

 高いビルの密集する都会から一軒家のひしめく住宅街へ、そして、田畑の広がる平坦な土地へと徐々に移り変わる景色をぼんやりと眺めながら、それらを黙って見送った。

 暫くして下車駅が近づいてきたので、ふと萩さんを見やると、萩さんはニコニコと微笑みながらお花を大切そうに胸に抱いている。

 よほど楽しみなのだろう、口角が上がりっぱなしだ。

 私はそんな萩さんを見て、来てよかったなと安堵した。

 最近は時折膝に痛みがでるそうで、あまり外出せずに家にこもることが多かったから、こうして一緒に外へ出られるのは私も嬉しかった。

 汽車を降りて予め呼んでおいたタクシーに乗り込み、霊園へと向かう。

 霊園で借りた手桶に水を入れ、彼のお墓の前へ誘導すると萩さんは感嘆の声を上げた。

「ああ、やっと……やっと会えたわ」

 声を震わせて、夢にまで見た再会に目を潤ませながら喜んでいる。

 私はそんな萩さんの姿を見て、こらえきれずに顔をしかめた。それと同時にある想いが胸をついたが、それを振り払うように小さく頭を振った。

 やめておこう。

 ようやく今、彼女の悲願の花が咲いたのだ。邪魔はしたくない。

 私は楽しそうに墓石に話しかけながら花を生ける萩さんを黙って見守ることにした。


 青と白の秋晴れだった空は徐々に橙色に薄く染まり始め、世界を黄金色こがねいろに照らしていく。

 いつの間にか現れた赤とんぼの群れが、ふい、ふいと上下に揺れながら踊っている。

 時を忘れたかのように、いつまでもお墓に手を合わせる萩さんの背中に私はそっと声を掛けた。

「そろそろ帰ろうか、お母さん」

 そう言って、私はそっと萩さんの手を握った。

「お父さんもきっと喜んでるよ」

 そう呟いた私を見て萩さんは不思議そうに小さく首をかしげたけれど、次にはニッコリと笑って私の手を握り返してくれた。

――幼い頃にそうしてもらったように、今度は私が手を引く番だ。

 秋の夕暮れ時は妙に肌寒く、けれども、握られた手はひどく温かかった。

 それがあまりにもアンバランスで、私は思わず声を上げそうになった。

 萩さんにバレないようにぎゅっと口を結ぶと、鼻の奥に沸き起こった小さな痛みをかき消すように大きく息を吸った。

 そうだ、今夜はおはぎを作ろう。

 甘いのはあまり好きではないけれど、うんと、うんと砂糖を入れよう。

 私の作るおはぎは、何だかしょっぱくなってしまいそうだから。

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彼岸の花 浦科 希穂 @urashina-kiho

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