はじまらなかった宇宙

面川水面

第1話

 そこにいれば届く距離に足跡があった。

 砂浜のように粗い砂の粒が、靴の底の模様までもはっきりと残している。若干のくぼみが影を落として、太古からの石板を思い浮かばせた。そのかかとからつま先までゆっくりと視線を降ろし、後ろを振り返った。

 4階建ての校舎の屋上に光が見えた。逆光で建物の表面は薄く陰っており、なにもない屋上だけ光が入り込んでいる。

 忘れる前に行かなくては。



 すれ違いざまにケチャップがワイシャツに引っかかった。すれ違った本人は気づいているのか気づいていないのかわからないが、フランクフルトの持っていないほうの手にお菓子の詰まったビニール袋を持って、なにがそんなに楽しいのか大きな声で笑いながら廊下をかけていく。明らかに文化祭に浮かれまくった奴だ。いや、たぶん普段から騒がしいんだろう。

 自作のみっともないプラカードを邪魔にならないように立てかけ、肩口についたシミを確認すると、案外べっとりとついていて、うへぇと素直な感想が口から転がり出る。

 これだから、これだからと言うにはまだ二回目だけれど文化祭は好きではなかった。人は多い、騒がしい、蒸し暑いのお祭り騒ぎ三重苦。おまけにプラカードを持たされて、鬼のような形相の部長から客を呼んで来いと教室を蹴り出された。小脇に抱えたプラネタリウム上映のビラは一枚も減っていない。このまま教室に戻れば、やる気がないだなんだと小言を言われること必至だ。

 部室で今年とった蝶の標本群の整理したい。

 2、3枚を脇から引っ張り出して丸めてゴミに入れた。ゴミ箱にはお菓子の袋や、ほかの部活のビラでいっぱいだ。酷いことに文芸部が無料配布している冊子も捨てられている。酷いけれど、文芸部に知り合いはいないし物語は読まないのでスルー。

 若干の罪悪感を覚えながら、さっさとケチャップを洗い流すためトイレ方面に続いている人の波に入ろうとしたとき声がかかった。

「酷いなぁ。このビラ一枚だって部の予算がかかっておるのだよ、加賀見君。その鱗粉にまみれた脳みそはそんなことも考えられないかね」

「どうやったら脳が鱗粉にまみれるんだよ。俺はちゃんとゴーグルと手袋付けてるし、というかお前は何杯目のかき氷なんだ」

 予算のやりくりを部長に押し付けられていた副部長が、青いシロップのかき氷を片手に仁王立ちしている。このあまり広くない廊下で邪魔なことこの上ない。呼び込みの名目で校内に放流しているが、見るたびに色の違うかき氷にがっついているのはなんなんだ。

「このクソ暑い中で水分補給と体温調整を一手に引き受けてくれるスーパーフードだ、称えろ。君の提案した黒板いっぱい虫の標本展よりよっぽど需要があり、利益率が高く、キャッチャーで魅力的だ」

「キャッチーだよ。それにお前の火打石で焚火を起こそう体験なんて即却下だったじゃないか。室内だってのになんで通ると思ったんだ」

 科学部と生物部と天文部と地学部が人が減ったせいで統合され、3年前に理学部の名のもとに一つになった。そのせいで毎年毎年なにを文化祭で発表するかで目も当てられない醜い言い争いになる。そして今年も公平な口喧嘩のもとプラネタリウムになった。副部長とは初戦敗退の仲間である。

「そんなことより午後の2回目の解説は君だ。あと15分ではじまるぞ」

「ケチャップついたところくらい洗わせてほしいんだけどな」

「ずいぶん珍しいことになっているようだが駄目だ。さっき中学生が3人来たって連絡が入った。後輩候補を逃がすな。ほら、いったいった」

 腕時計の針は14時に迫っている。投影の準備は済んでいるためマイクと台本の確認のみだが、いかんせん1階東廊下のここと3階西廊下の端の教室では5分はかかる。プラネタリウムの解説で外の雑音が入らないように、わざと文化祭の中心からは離れた場所にあるのだ。

 人込みを歩くには邪魔なプラカードを副部長に預け、言葉ひとつも聞き取れない騒がしさに入っていった。



 手作りのドームの中は完全な暗闇と引き換えに通気性が殺しにかかってくる。広いので窮屈だとはかんじないが、息苦しさと暑さのワーストタッグが不快指数のカウンターを、ハムスターが疾走する回し車のごとく更新していく。

 空気を吸うのさえ嫌だったが、台本に載った長文を一気に読むには意識的な呼吸が必要になる。頭の中でこの台本を書いた部長を磔にする光景が何度も浮かんだ。そうだ、頭を下にしよう。

 一応暗幕で教室の窓とドアの小窓を覆ったけれど、それでも光を完全に遮断するには足りず、段ボールで1週間がかりで作ったのが、大人6人は余裕で入れるこのドームだ。だが先ほども言ったように通気性はすこぶる悪い。本来ならばそこまで悪くなかったのだが学校中から適当にかき集めたよれよれの段ボールを、テープで何重にもつなぎ合わせたり紙を上から貼ったりしたせいで中は蒸し風呂状態だ。準備物リストに計画性をいれなかったのが一番の敗因だろう

 そんなことをまったくみじんも知らず、ドームに入った中学生は哀れだった。ただでさえこの惨状を謝りたいのに、星座をうつすための紙コップが紛失してしまったため、ただの星空しか映せず急遽星座の由来から宇宙の始まりになってしまった。

「約137億年前、ご存じの方もいるであろうビッグバンから宇宙は始まりました。ビッグバンは名前の通り大爆発のことです。ビッグバンから宇宙が始まったなら、ビッグバンの前に何があったのか、そう疑問に思うでしょう。ビッグバンの前にあったのは、無です。

 何もない、そんな状態です。では一度光を消して、無を感じてみましょう」

 机の上にある豆電球にかぶせた穴だらけの紙コップを外す。指先程のスイッチをOFFにずらすと、カチと小さな音と一緒にまっくらになった。

円形の床の上で、机を挟んだ反対側に座った少女と少年たちが消えた。一切の光のない空間におびえた声をあげたが、それもすぐ隣の子がなだめて止んだ。

 ここから台本は使えない。この部分だけはアドリブで通せと開始5分前に言われた無茶ぶりだ。

「隣の人は見えますか?」

 声が聞こえないので勝手に首を縦に振っているものとする。3人の間はお互い腕を伸ばしても届かない距離を空けてあるので、この暗さでは不可能だろう。

「では、自分の手は? 目線の高さまで持ち上げてみてください。触覚でわかるでしょう。その感覚は無視してください。あなたの見えているものだけがすべてです。誰もいない、手もない、足もない」

 手に持っていたはずの台本がパサリと落ちた。落ちたのは、落ちたということは重力の法則に従ったらしい。しかし暗闇の、それも音がこもるドームではどこから音が聞こえたのかわからない。下か、あるいは上か。

「目を閉じてください。あなたの視覚もありません。そしてそれを感じる脳もありません。最後に残ったあなたの意識を感じてください」

 一面まっくろで遠近がおかしくなる。ドームの中にいるはずなのに1枚の絵に閉じ込められている気もするし、地平線のない八方が無限に広がった空間に放り出されたような気もする。

「あなたの存在もありません」

 暗闇が入り込んだ気がした。

 その中から宇宙が生まれました、と続けようとしてパッと明るくなった。豆電球の明かりではなく、間違いなく白熱電球の白い光だ。

「午後の第二回は終了だ。お疲れ様、あとは部室で休んでいいぞ」

 段ボールのドームの上部分が取り払われ、そこから部長が覗いてくる。そして逆光で真っ黒な顔で言った。



 三階の渡り廊下から部室棟へ行く。旧校舎をそのまま利用したその場所に移れば、急に祭りの喧騒が遠のいた。ガラスのヒビをガムテープで補修したドアの先、あちこちに備品の詰め込まれた段ボールが散見する廊下の突き当りに生物部の部室がある。

 理学部に統合されたが部室はもともとの部屋を使っていいらしく、生物部にあたる自分はただ一人でこの教室を使うことができる。旧校舎のため普通の教室より狭い、15人入れば精一杯な広さだ。しかし生徒一人が活動する分の備品をしまうためならちょうどいい。掃除には骨が折れるけれど。

 人差し指と中指の間に挟んでぶらぶらと持っていたペットボトルから冷えた水を飲んだ。一口分を口に含み、飲み下すと喉から体の中心をとおって下に落ちていく感覚を覚える。くすぐったいような、きもちいいような。

 プラネタリウムの上映が終わってから、うすいガラスを隔てたようにぼんやりしていた頭の中が、冷たい水のおかげで徐々にはっきりしていく。気合を入れるためふっと短い息を吐くと、机からゴーグルをとった。

 水泳に使うような細いゴーグルではなく、安全保護ゴーグルだ。両目がつながった一眼型で顔との接触部には分厚いクッションがある。固定用の伸縮性のあるベルトを引っ張り、頭で止めた。毎日のように使って作業しているため、もはや顔の一部だ。

 授業中も使う木製の椅子に飛び乗って、右手は机の収納部から作業セットを取り出した。数種類のピンとピンセット、それと展翅板。昨日採集した蝶の標本作業がまだ終わっていない。

 昨年からこつこつと採集を続けた蝶の標本が、黒板の前の机に山のように重なっている。この作業が終わって、標本の山に新しい仲間が加わったら整理に手を付けよう。

 適当な鼻歌を無意識に歌う。この上なく上機嫌だ。

 長いピンセットを片手で弄びながら、殺した蝶の入った金属のペンケースを机の上に置いた。昨日採集した蝶は三角紙に包んでこの中に保存してある。

 学校帰りたまたま公園で見つけた……ナミアゲハだったかスジグロシロチョウだったか。

 昨日のことを思い出そうとするが、景色がぼんやりとしてあいまいな情報しかわからない。家を出る前に電気を消したっけ、なんてそんな感じで。

 乱獲はいけないと生物教師である父親に教えられた。だから一度よく観察して標本にするか決める。そうだ、季節型の蝶をそろえたくて公園を探し回っていたはずだった。あれ? でもさっきたまたま見つけたと自分で思い出したはずだ。

 ゴーグルを頭の上に引っ張り上げ、左側の顎から額に左手を滑らせる。汗で額の表面は濡れていた。

 公園にいたのは?

 夏型のナミアゲハは羽が大きく黒い、夏型のスジグロシロチョウは全体的に色が薄くなる。覚え間違えるはずがない。いや、ど忘れしたとしてこの銀色の棺を開ければわかることだ。

 右手で蓋をつかみ、親指を縁に引っ掛ける。そっと持ち上げると蓋は簡単に開く。それだけなのに、体全体にかかる空気が急に重さをもったように感じる。発表会のときと同じ緊張感と不安がないまぜになった感覚。ただ蝶の種類を確認するだけなのに。

 中にきれいに折りたたまれた三角紙があった。殺した蝶はその紙に包んで保存する。とても薄く半透明なその包みに、蝶の姿はなかった

 


「酷いなぁ。このビラ一枚だって部の予算がかかっておるのだよ、加賀見君」

 部室の黒板の前に副部長が立っていた。部長は三年生が、副部長は二年生が就く。そして文化祭が終わり、部長が退部すると繰り上がりで副部長が部長になる。

「そんなことより午後の2回目の解説は君だ。あと15分ではじまるぞ」

 副部長とは長い付き合いだ。小学校、中学校と同じで高校まで同じだった。そのせいか自分の周りの人間の顔ぶれは変わらなかった。電車が二時間に1本レベルの過疎化が起きている地域で学校が少ないからでもある。

 なのに名前も思い出せない。

 青いラインの入った白い中履きのスニーカー、制服の灰色のズボン、しゃれっ気のない黒いベルト、第二ボタンを開けた真っ白なワイシャツ。

 顔は逆光になっているかのように真っ黒だ。

「ずいぶん珍しいことになっているようだが駄目だ。さっき中学生が」

「消えろ」

 ほころびは崩壊を生む。ほつれた布の部分からどんどん裂け目が広がるように、砂の城の崩れた部分からぐしゃりと倒れるように、だからきれいに切り取ってしまおう。

 姿も声も、まるっとすべて消えた。自分の頭の中から? いや、この世界から。

 じっとりと汗を吸い込んだ椅子から立ち上がって、黒板の横に立てかけてあった箒を手に持った。肩に届くほど長く、先のほうがまっすぐ横に広がった学校によくあるT字型の掃除箒だ。柄の先のほう、全体の三分の一にあたる部分を両手でもって、標本の山に背がそるほど振りかぶった。

 振り下ろすと、複数のガラスが折り重なり、傷つけあい、粉々になる音がした。そこに蝶の姿は一匹たりともなかった。白く割れたガラスが床に散乱していた。

 忘れる前に行かなくては、忘れる前に。

 頭の中で鐘がずっと鳴っているようにガンガン痛み出した。ゴーグルをつけた頭の両脇に手を添えて、それで何にもならないけれど、そうしなければ耐えられそうにない。頭痛の原因はわからなかった。多分混乱かもしれないし、そうではないかもしれない、もしかしたら怒りかもしれない、あるいは万感の憂いかもしれない。

「図鑑、図鑑があった。図鑑、図鑑、図鑑。入口の横の、焦げ茶色で三段のうち二段目の板が歪んでいて取りにくい。その段の左から三番目、白い背表紙の、蝶の、図鑑」

 入口のほうに体を向けると、はたしてそこにはちゃんと本棚があった。もうあてにならない記憶の通りに並んでいる。そこにあるべきものがそこにある、そんな奇跡に顔がくしゃくしゃになるほどうれしかった。

 風邪を引いた時のように定まらない視界とおぼつかない足取りで本棚に歩み寄った。白いつやのある背表紙を間近で見ながら、中指でそっと一筋撫でる。指の腹に埃がついた。

 本は記憶媒体だ。もう覚えている、あるいは時々思い出すだけでいいことを書き記し、必要なことがあれば中身を開いて確認する。

 棚板の歪んだ二段目から無造作に本を引っ張り出した。本の縁が少し凹んだが、構わず本の表紙と裏表紙を鷲掴みにして開いた。

 中身は白紙だった。開いたページも、その次も、そのまた次も。そうして一文字でも残ってやしないかと、カバー裏を含めたすべてを食い入るように見てもただただ真っ白だった。



 逃げるように部室から転がり出た。逃げているのがあの白紙の図鑑なのか、粉々になったガラスからなのか分からない。あの当然を捻じ曲げた空間全体は自分が出たとたん崩壊した。ドアから見える壁が倒れかかると、ドアも同じ方向にゆがみ、あとはすました顔をした廊下のクリーム色の壁があった。

「なん、だっけ……」

 のっぺりした壁を見ているとだんだん荒かった息が落ち着いてきた。頭の中をガンガンと攻め立てていた頭痛もなくなっている。体を駆け巡ったショックはどこかへ消えさっていた。朝起きて、夢の内容がなかなか思い出せないように、自分がここに尻もちをついているさっきまでの出来事が思い出せなかった。

 何かを忘れている。

 忘れる前に行かなくては。

「何を?」

 立ち上がって廊下の端まで歩いた。頭の中で文化祭の日だと言うこと、ここは旧校舎であること、自分は生物部であることが水槽で泳ぐ魚のようにぐるぐると回っているが、どれもてんでバラバラでまとまりがない。どれも他人のことに思えて、ちゃんとそうだという実感がわいてこなかった。

「廊下、こんな長かったっけ。それに教室も……、もっとたくさんあったような気がするのに」

 小窓がついた引き戸のドアが均等の間隔でついている。一つドアがあって、掲示物を貼るホワイトボードや、大き目のロッカー、箒をかけるフック、その向こうにまたドア。そしてまたホワイトボード、ロッカー、フック、ドア。部屋の構造を考えれば教室の前後にドアとそれぞれの教室を隔てる壁があるので、ドアとドアの間隔が壁一枚分の箇所があるはずだ。だというのにどのドアも一定の距離をあけてついている。

 違和感しかないその配置に、胸の奥から突き上げる恐怖があった。しかしそこから眼をそらせそうもない。好奇心ではなく、見るべきだとか、見なければならないとか、急き立てる何かがある。

 心底嫌だったが、体は勝手にドアの前で止まった。

 息が荒い、何も食べていないのに口はもごもごと動くし、さっきから両手はにぎったり開いたりとせわしなかった。

「あ、開けるぞ!」

 中にいる何かへの了承ではなく、自分への鼓舞のために声を張り上げた。そしてやけくそになりながら右から左にドアをスライドさせる。

 ドアの先はただの教室だった。

 前に4、奥に5と机が20つある。教室の壁を横断する窓には淡いグリーンのカーテンが夏風に揺れ、教室の前後には黒板がついていた。白い蛍光灯が教室を照らしている。

 見慣れた空間にほっと胸をなでおろす。教室のドアは部屋の真ん中の位置についていた。ただそれだけだったのだ。ドアの先が異空間だとか、怪物がいるだとかそんなことはなにもなく、見知ったものしかない。

 少し軽くなった体で教室に入った。電気がつけっぱなしで誰もいない。まだ昼間なので電気のスイッチを押した。もったいないだろ、と心の中でつぶやく程度には余裕が出てきていた。

 人が一人通れる程度の隙間を歩いて、それに近づいた。それは教室の真ん中らへんの机の上にあって、手首の裏の白い肌をこちらに向けて、待っている様子だ。

 それはたぶん机の上に生えていた。もしかしたらおいてあるだけかもしれない。腕の第一関節部分が机の表面に接触している。色は白かったが、肉のつき方からして男性のものだとわかった。青紫の大小の血管が手首に見え、それは枝状に分かれて手のひらに続いている。手のひらは折り込まれた指に隠れて見えない。

 机の上の腕の前で立ち止まった。正確には両腕だ。二本の腕は手の側面をぴったりとくっつけ、どちらも手のひらを覆うように握っている。

 その指がゆっくりとひらくのは、早送りの花の開花を見ているみたいだった。

 手の中には蝶があった。

 黒の地に上から白い絵の具を垂らしたような模様の、夏型のナミアゲハだった。

 空漠とした意識に、はっきりした自覚が戻ってくる。

 ナミアゲハは死んでいた。しかしちゃんと役目は終えたという誇りに満ちている。無下にすることができず、そっと羽が欠けないように机の上に置いた。

 両手がほかに何か持っていないか観察しても、ほかに何もない。

 振り返って前後にドアのついた教室の、前のドアから廊下へ出た。延々と続いていた廊下はいつも通りの長さに戻っている。しかしこれがいつまで続くかはわからない。ほんの少し手がかりを手に入れて、ほんの少し崩壊が止まっただけだ。この空間、この世界、この自分自身を忘れる前に行かなくてはならない。

 廊下の校庭に面した窓が開け放たれている。そこには二つの足跡があった。



 ビッグバンはなかった。無の中にできたのはただ一つの自我だけで、それは何でもなかった。だってそうだ、できたという表現だって怪しい。すべての事象は観測者によって認識され、実像を持ち、干渉によってそれ自身も己を認識する。瞳に映らなければ姿は見えないし、触れられなければ形はない。

 だから世界なんて本当はただの悪あがきでしかなかった。この社会という仕組みを作ったのも、重量などの法則を作ったのも、加賀見恭弥なんて設定を作ったのも、それを取り巻く環境も、誰にも届かない言葉も、無に溶けていきそうな自分を少しだけでも留めるための手段だ。だがそれも永遠には続かず、こうしてほんの少しでも無が入り込めば崩壊する。一人だということをはるか彼方に忘れてしまえればいいのに、わずかな実感が自覚と崩壊の芽を生んだ。

 見えなくなった暗闇の中の手を、誰かが握ってくれれば存在することができる。

 渡り廊下を渡り切り、振り返るとすでに旧校舎は跡形もなく消えていた。リネンの廊下の先が星のない夜空のように真っ黒だ。心なしかじわじわとこっちに向かってきているように見える。

「誰かー!」

 大声で希望を叫んだ。校舎の壁に反響して空気が震える。応えはない。

 頭の中は校庭に残された足跡の事で一杯だった。一つの足跡は自分だろう。そしてもう一つはずっと待っていた誰かかもしれない。足跡だってこの廊下の床のように自分が生み出した妄想かもしれない。だけれどこれだけは違うはずだと思った。

 三階から階段で一気に一階まで下る。道中の踊り場の大鏡を見たが、やはりそこには何も映っていなかった。

 三階も二階も一階も誰もいない。あの途切れないがやがやした人込みの音はもうないし、窓の外に目をやっても蝉の声一つしない。がらんと口を開けている校門の向こうの景色はゆらゆら揺れて、今にも消えていきそうだ。

 校庭へ出て足跡を見に行こうにも、すでに砂はなかった。床と大地の中間のような材質の何かが校庭をしめている。足跡はもう残っていない。

 覚えている限り足跡は校舎へ続いていた。いるとすればこの校舎しかない。

 走って校舎の中に戻る。まだ文化祭の飾りつけが残っている廊下や教室を手当たり次第に見て回る。聞こえてくるのは自分の足音だけだ。

 あの足跡を残したのはどんな存在だろうか。

 もしかしたら自分のことを探してこの校舎に入ったのかもしれない。それか文化祭が楽しそうに見えたか、それともただ偶然か。自分のことを探してくれたならうれしいけれど、自分が作ったこの世界を楽しんでくれててもいいと思う。

 最初の言葉は何だろう? 無難にはじめまして?

校舎の中もあいまいになりはじめていた。均等な間隔のドアが再び出現し、外にいれば中だったり、中にいれば外だったり、一階にいれば三階にいたり、水の中だったりした。迷路のような校舎はそんな風にどんどん異質なものに変わりながらも狭まっていく。

そうして三十分近くは探し回っただろう。おそらく一階の廊下で二本の腕が伸びていた。



 腕の前で止まると、教室のときと同様に握っていた手がひらく。

 また蝶を握っているのかと思った。しかし予想は外れ、手は何も握っていなかった。代わりに手のひらに文字が彫ってある。

誰もいない

「誰もいない」

 読み上げると同時にぐっと視界が狭まる。いや実際に狭まった。もう廊下でも校舎の外でも中でもなかった。ただただこの腕と自分だけが在る。

 血が付いた手を握ったが何も感じない。同じ体温だからだ。文字が彫られた手のひらをよくよく観察すれば見知った手だった。横一直線に走る手相、自分の手と全く同じ。

 自分で自分に言うのか。諦めろっていうのか。あれはただの幻想で、ここには自分しかいないんだって。いやだ、いやだ、いやだ。

 膝をついたまま横に崩れた。途端上下左右がめちゃくちゃになる。床の感触はないが浮いている感覚もない。まるっきりあのプラネタリウムのドームの中に戻っている。手もない、足も見えない。二本の腕もすでになくなっている。あの暑さ息苦しさが恋しくなった。今、どんなものでも愛おしい。

「隣の人が、みえますか」

 消えたくない、自分を見失いたくない、それ以上にほかの何にも認められないのが怖かった。ここに一対の目があるだけでそれは何も見ないし、何にも見られない。口があって声をかけても応えはない。手を伸ばしても何に触れることもできない。

真っ暗な中で、この自分だけを強く感じる。これがなくなる、なににも知られることのないまま。

 果てのない虚しさを感じたが、この気持ちもあと少しすればなくなるのだ。

 このまま言葉も忘れていき、考えはとらえきれなくなって意識は散り散りになる。極限までちいさくなった意識は溶けるように無に消えるだろう。そうして何もなくなる。色も空間も時間もない、自分もいない無だけがある。眠りで意識を閉ざしている間に酷似した状態が永遠に続いていく。それを安らぎというのだろうか、でも自分には温度もないに秋風のような寒々しさを感じるのだ。

暗闇が終わり、何もないが視界をどんどん、どんどん浸食していく。

『目を閉じてください。あなたの視覚もありません。』

 宇宙が生まれる前のアドリブ、あれさえなければ崩壊が起きずに済んだのだろう。紙コップが紛失して、宇宙の始まりに演目を変更しなければずっとあの想像の中だった。部室で蝶の標本を整理し、副部長と通学路を歩いて、家に帰って休み明日を迎える。それが延々続く。

 でも、独りぼっちのままだ。

『あなたの存在もありません』

 見えない手で自分の肩を抱きしめる。

 自分の肩があるであろう部分、そこに感触があった。とても小さい粒子を含む完全な液体ではない何かが付着している。

 血? いや、血ではない、これは……。

 ずっと遠くに扉が見えた。ほんの少し開いた先から何も見えないほど明るい光が漏れている。光がその足元の階段を照らしていた。

 足音が聞こえた。たんたんたんと軽快に走る足音、それにとても楽しそうな笑い声が一つ。

 足もとを光が照らしている。

 忘れる前に行かなくては。

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