スーツで海に浸かれば

印田文明

スーツで海に浸かれば



 波打ち際で、砂浜がサラサラと音を立てている。


 潮騒、とは言うけれど、騒がしいとは正反対な独特な落ち着いた雰囲気が、季節のピークを過ぎた海岸にはあった。

 西日が沈み始め、オレンジ色のまん丸が水平線に差し掛かろうとしている。


 スーツを着た男が砂浜に鞄を置き、ずぶずぶと海に入っていく。手に持っているスーパーの袋が、水面に浮かんで男についていっているように見える。その中にはなんてことない、夕飯の買い物でも入っているように見えた。


 男は背広の半分ぐらいまで浸かるところまで海に入ると、徐に袋から豚肉のパックを取りだした。表面からラップを指で裂き、中身を海に放り投げる。

 ゴミをきちんと袋に戻すと、次はスナック菓子を取り出し、開けたそばからまた海にばら撒いた。

 りんごのパックジュースにストローをさし、握りつぶすみたいに噴射させ、これも海に撒いている。


 最初の肉に引かれたのか、うみねこが集まりだした。ミャーオ、ミャーオという鳴き声を聞き、確かにうみねこだな、なんてくだらないことを考える。



「・・・入水自殺なんて、こんな浅瀬じゃできないよ。手足を縛っているとか、重りを抱いているならまだしも」



 自暴自棄になって自殺でも企てたのかと思い、砂浜から男の背中に声をかけた。男は振り返ることなく、チョコレート菓子を剥いては、海に投げている。左手の結婚指輪が、男の動きに合わせて光を放つ。


「・・・自殺なんてしないさ」

「じゃあ餌やりのつもり?」

「それも違う」


 ゴミは丁寧に袋に戻している。単に環境破壊がしたい訳ではなさそうだ。グレーのスーツが水を吸い、着水していない部分まで変色し始めていた。


「じゃあ、そこで何をしているの?」

「・・・なんだと思う?」


 男は振り返ることをしない。ただ夕陽に向かい、お菓子やら食材やらを投げていた。あれだけ投げてもそれらが浜辺の方へ戻ってこないことを思うと、素人が沖の方まで泳いでいくことはやはり危険なことなんだろう。


 質問に質問で返されてしまったので、少しだけ頭を使ってみる。


 スーツをキッチリ着込んだまま、海に入る男。靴すら脱いでいない。何かを海に落とした? いやいや、なら何故今色々なものをばら撒いているのか。


 夕陽が三分の一ほど水平線に沈んだ。ちょうど陽に収まるように立つ彼の背中は、スーツの濡れ具合を隠すように影に包まれている。


「・・・海って、この季節に服着たまんま入ると意外とぬるいんだよね。なんだか、人の温もりに似ている」


 なに気持ち悪いこと言ってんの、と一蹴しかけたが、チラリと見えた男の横顔がとても悲しそうに見えて、何も言えなかった。


 私の足元に置かれた男の鞄に目をやる。さすがに鞄には濡れたら困るものが入っているんだろう。鞄に付けられた薄汚れたキャラもののキーホルダーが、夕陽に照らされてチカチカと光る。

 このキャラ、10年前ぐらいに流行ったやつだ。子供の頃、私も大好きだった。


「・・・スーツを着たまま入ることには、何か意味があるの?」


 男は動きを止め、こちらを振り返ろうとしたが、何かに気づいたように夕陽へ向き直った。


「・・・ああ、もちろんある。から、今スーツを着て入っているのさ」


 いや、入らなかった、か。と男は悔恨を込めて言う。


 彼の周りで波が巻きつき、チャポチャポと音を立てる。

 あの水位だと、あの人は身長180cmぐらいだろうか。子供ならきっと、足すら着かない。




 の合点がいった。




 @@@@@@@@@@




 毎年、9月18日だけは、どんな事情があろうと仕事を早上がりし、スーパーに向かう。花屋とかでもいいんだけど、スーパーに行くことが大事なような気がして。

 特に目当てのものがある訳でもない。適当に、普通にスーパーに行けば買うようなものを雑多に選んで、カゴに放り込む。


 そこから電車に乗り、20分程で海水浴場に着く。夏場はテーマパークさながらに人でごった返すが、9月も中旬ともなれば、しかも夕陽が傾く時間だと、散歩する老人ぐらいしか他人は見当たらない。


 鞄を浜辺に置いて、革靴のまま海に入る。進むにつれて靴の中に水が入り、ぬるぬるとした不快感が足を包む。スーツも徐々に水を吸って重たくなり、僕を海底へ引きずり込もうとしているみたいだった。


 スーパーの袋から、豚肉を取り出し、海へ投げた。極力海を汚さないように、ゴミはちゃんと回収する。


 パックのりんごジュースを海に注いでいると、次第にうみねこが寄ってきた。鳴き声を聞いて、確かにうみねこだな、と思う。毎年同じことをやって、毎年同じ感想を抱いている気がして、なんだか少し笑えた。


「・・・入水自殺なんて、こんな浅瀬じゃできないよ。手足を縛っているとか、重りを抱いているならまだしも」


 急に背後から声をかけられた。

 でもこれは数年に一度はあること。はたから見れば相当奇怪なことをしているように見えるのだろう。2年前には、おじいさんが飛び込んできて、「馬鹿なことはやめろ!」なんて怒鳴られたこともあった。


「・・・自殺なんてしないさ」

「じゃあ餌やりのつもり?」

「それも違う」


 声だけで、背後にいるのは若い女性だと分かった。面白いもの見たさで声をかけてきたのだろう。まともに相手をしようという気分には、到底ならなかった。


「じゃあ、そこで何をしているの?」

「・・・なんだと思う?」


 わかるはずも無いのに、彼女に問いかけた。

 適当にあしらうつもりだったのだ。



 10年前のことだ。



 僕は昇進に取り憑かれていて、身を粉にして働いていた。まだまだ手のかかる娘がいる家庭を顧みずに、だ。

 ある日、仕事中に自宅から電話がかかってきた。何か緊急の用事かと思い出てみると、娘が泣きながら「今日は海に行く約束だったのに!」と叫ぶ。

 そこで僕は初めて、今日が日曜日だったのだと気づいた。そして、久しぶりに娘の声を聞いたような気さえしたのだ。


 僕は急いで、いや、これは嘘だ。嫌々、仕事を切り上げて娘との時間を作ることにした。数日間ぐずられ続けるより、今日済ませてしまおう、なんて考えたのだ。

 すでに陽が沈み初めていたが、僕は娘を海に連れて行った。

 当然水着なんて持っていない。スーツのまま砂浜に立ち、海の中ではしゃぐ娘を見ていた。

 いや、これも嘘だ。見ているふりをして、携帯で仕事の連絡を取り合っていた。


 30分程経った頃、お得意先から電話がかかった。なんでも、至急で対応してほしい案件があるらしい。

 こうしちゃいられない、娘を連れ戻さねば、そう思って海を見た。

 が、そこに娘の姿はなかった。


 目を凝らして沖の方をみると、娘らしきものが背を水面に出して浮かんでいるのが見えた。



 助けに行かなくてはならない。海に飛び込みかけて、僕の足は止まる。



 これから会社に戻り、得意先の案件をこなさなければならない。

 


 どこまでの愚かで救いようのない僕は、あろうことか、自らの手で救おうとはせず、シーズン終盤で気の抜け切ったライフセーバーに駆け寄った。


 ライフセーバーの手で引き上げられた娘はすでに息をしておらず、病院に運ばれてすぐ、息を引き取った。


 妻は娘の亡骸に縋るように泣き崩れた後、小綺麗なままの僕のスーツに気付く。



 その後のことはあまり覚えていない。この時になってやっと、僕は、自分の愚かさに気づいたのだ。



「・・・海って、この季節に服着たまんま入ると意外とぬるいんだよね。なんだか、人の温もりに似ている」


 独り言だ。昔、僕のベットに潜り込んできた娘が、寝ションベンをした時のことを思い出していた。まさしく人肌に温められた水が、じんわりと服に染み入る感覚。そんな記憶ですら、今となっては愛おしく、そして、耐え難い胸の痛みを感じさせた。



「・・・スーツを着たまま入ることには、何か意味があるの?」



 その問いかけは、今の僕の姿を見た者なら誰しもが抱く疑問のはず。

 なのに、今だけは、絶対に失敗してはならない、振り向いてはならないという予感だけを僕に与えた。


 袋にもう撒くものは残っていない。それでも僕は、半分ほど沈んだ夕陽を見つめた。


「・・・ああ、もちろんある。から、今スーツを着て入っているのさ」


 いや、入らなかった、か、と溢れる。

 贖罪、というにはあまりにもただの自己満足だ。


 スーパーで買ってくるのも、娘と出かけた記憶が家の近所のスーパーぐらいしか無いからだ。娘とのか細い思い出をたどり、何か、娘の好きなものでも供えてやれないかと手当たり次第に買う。ただの当てずっぽうなのだ。



「・・・僕にこんなことを、言う資格はないけれど」


 姿は見ていない。それでも、これが奇跡なのだと思いたかった。


「苦しい思いはしていないかい。悲しい思いは、していないかい」


 目からこぼれそうな海水に似たものを、必死に堪えて訪ねる。


「・・・んー、苦しくはないかな。でも、悲しい」


 悲しいと言う彼女を、抱きしめにいくことができれば、どれだけ救われるだろう。しかし、振り向いてしまえば、この奇跡が終わってしまうことだけは分かってしまう。


「どうすればいい? 何か、僕にできることはないか」


 夕陽が沈んでいく。きっとあれが沈みきってしまえば、この時間もそこまでだ。どうか、ゆっくり、ゆっくり。


「・・・私ね」


 背後から、ちゃぽちゃぽと海を歩く音がする。


「よくお母さんとスーパーに行くと、りんごジュースをねだってたの。いつも1リットルのおっきいりんごジュースを買ってくれようとするんだけど、それじゃない! ってお母さんをよく困らせてたっけ」


 手元にあるスーパーの袋の中に入れた、パックのりんごジュースのゴミを見る。ストローの先から、ほんの少しだけジュースが滴っていた。


「ストローを刺して飲むパックのやつが好きだったんだよ。こう、自分だけのものって感じがして、特別感があって。当時の私は、そんなこと説明できなかったんだけどね」


 衝動的に振り返りそうになり、グッと堪えた。

 もし彼女が娘なら、その口ぶりからして、15歳ぐらいになっている。

 きっと妻に似て、目鼻立ちのしっかりした美人になっているに違いない。そのうち彼氏なんぞを家に連れてきて、娘の選んだ人なら、なんて言いつつ、僕は拗ねていたのだろう。

 そんな日は、誰でもないこの僕のせいで、未来永劫訪れることはないのだが。


「だからね、私、お父さんとスーパーに行くの、好きだったの。何考えてるかわかんなかったけど、パックのりんごジュース、買ってくれるから」


 当時の僕は、その時何も気の利いたことを考えちゃいない。ただ、言われた通りのものを買っておけば騒がれずに済む。きっとそんなことを考えていたに違いない。


 堪えきれなくなった涙が、海に落ちていく。自分と海に境目がなくなり、ドロドロと溶けていくようだった。



 不意に、背中が温かくなった。



 そこには誰もいない。でも確かに、娘がいる。

 一度も娘を抱きしめてやれなかった僕が、娘に抱きしめられている。


「さっきのりんごジュースの話、お母さんにしてあげて。きっと、私の言葉だって分かってくれるから。そして、もうこれ以上、お母さんを一人にしないで。私はもう、大丈夫だから」


 娘への後ろめたさで、10年もろくに妻と話していない。それでも離婚しなかったのは、きっと、妻も妻なりに、娘への罪の意識があったのだろう。




 陽が沈んでいく。空はもうほとんどが黒く塗りつぶされている。




「・・・必ず、話すよ」


「うん、ありがとう、お父さん」



 背中の温もりが消えていく。

 堪らず後ろを振り返る。


 そこには、誰もいない。


 それでも僕は、娘を抱きしめた。



 すでに暗くなった海岸を走る。

 びしょ濡れでも構わない。スーパーに寄って、パックのりんごジュースを二つ買って帰ろう。



 それを飲みながら、妻と娘の話をしよう。



 了



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