第14話 斜陽と旭日

 10月24日。


 新羅辰馬は寝室のベッドにいる。


 目は開いているが、その表情は憔悴しきって力がない。これまで、どれだけ弱っても不屈の強い意志が宿っていた緋き瞳も、儚く落剝していた。


 辰馬が眠ることをやめてから、1週間がすぎていた。脳や臓器を稼働させるに自意識が必要となった辰馬にとって、眠ることは即、死に直結する。ゆえに眠ることをやめた辰馬は6人の皇妃を1日ごと、寝室の枕元に呼んで言葉を交わし、そして7日目の今日、6皇妃と近臣たちを呼び、とうとう眠りという名の死の奈落に落ちようとしていた。


「まー、これまで楽しかったし。後悔もしてねーわ。死ぬのはこれまで世話んなったみんな一人一人、全員に礼を言ってからにしたかったが、さすがに間に合わんからな。それはあきらめる」

 辰馬はそう言って、むしろ晴れやかに微笑う。その笑顔には気負いもなく、虚勢もなく。自分がこの世に降りてなすべきこと、すべてを成し遂げて畢らせた人間に特有の、満ち足りた雰囲気があった。


 その姿を見つめる6皇妃の瞳にも、涙はない。彼女らはもう泣きたいだけ泣いた。あとできることは最愛の夫の旅立ちを笑顔で見送るのみであり、それができないほど彼女らは弱くはない。


 まだ心構えができていないのは子供たちである。瑞穂との間のふたりの息子、獅廉と乕は対照的な反応を見せた。瑞穂に手を引かれた8歳銀髪の獅廉は涙に暮れ、2歳紫髪の乕は実母・瑞穂ではなく雫の膝の上で笑う。辰馬は獅廉と乕の頭を交互に撫で、乕に頼もしさを覚えるとともに、しかし獅廉にとって人生はつらいものになるだろうと予感する。


 エーリカの息子で、乕に少しだけ先立って生まれたシェティは父の死に目というものにあまり関心もなさそうに、母の足にしがみついていた。こちらも場の重苦しい感情に左右されてはいないが、乕に比べると甘えの色が強いか。


 穣の娘、第2次魔神戦役当時に生まれた此葉はすでに19歳。辰馬にとっては初子であるだけに、その愛情を向ける度合いも強い。頭を撫でようとする父にくすぐったそうにしながらも大人しく受け入れる此葉はほかの幼い子供たちと違って、父ともう二度とは会えないことを至当に理解している。


 美咲の娘、智咲は17歳。どちらかといえば内向的な母に比べて社交性が旺盛そうな雰囲気を纏うのは辰馬の奔放不羈を受け継いだゆえか。辰馬に対して、思春期の反発が多少ありそうな此葉に比べるとまだそうした性質が発露していない(このあたり、新羅の血筋は反抗期が世間標準より遅かったり、なかったりするのかもしれない)此葉に比べて、素直に辰馬に頭を撫でられた。


「おまえらが大人になるまで……、ずっとそばで見ててやりたかったんだがなぁ……この期に及んであとからあとから望みが湧くから、人間は度し難いわ……」


 寝室に集ったのは典医と皇帝一家の家族……ほかに辰馬の両親新羅狼牙、アーシェ・ユスティニア・新羅、雫の両親牢城訓、フィーリア・牢城と辰馬の叔母でアーシェの妹ルーチェ・ユスティニア・十六夜とその夫十六夜姿の姿もあった……の姿もあったが、彼らはもう十分に辰馬と話してこうなることを覚悟していたので覚悟もできていた。それでもアーシェとルーチェは大泣きであったが、それ以上に辛いことになっているのは皇帝一門とは違う二人、上杉慎太郎大将と出水秀規宰補であった。とくについ先日、辰馬と肩を抱き合って民衆に手を振っていたシンタの悲嘆たるやすさまじく、いらんこと皇妃たちの覚悟を揺るがしかねないほどであったから、典医はシンタに退去を勧めた。ちなみに桃華帝国国境で魔王辰馬に受けた傷の療養中である朝比奈大輔は間に合わず、後日大輔は辰馬の死に目に会えなかったことを長く悔やむことになる。


 それはさておき。


 最後にもう一度、子供たち一人一人をやさしく愛撫し、辰馬は目を閉じた。このまま意識を手放し、眠れば。そのまま辰馬の命は終わる。そしてもう、人生に固執する理由はない。


 静かに、目を閉じる。


「グロリアが消えて、もう一本の柱であるおれが残っちゃ不公平だからな。つーわけで、瑞穗、エーリカ……あとは任せた。これからの世界のことを、宜しく頼む……誰もが平和で、笑って暮らせる世の中を……。みんなが幸せであるように、人生が実り多くありますように……」


 それが赤龍帝国皇帝、新羅辰馬の最後の言葉になった。最後に瑞穂とエーリカの名前を呼んだのは二人の和解を望んだゆえか。脈を取る典医が「ご臨終です」と小さいがはっきりとそう告げ、その瞬間に皇妃たちはいっせいに大泣きした。泣きたいだけ泣いたと思ったのに、まだ止まることがなかった。


「ご主人さま、ご主人さまあぁ~~~っ!」

「たぁくん……やだよ、たぁく~んっ!」

「たつま、ホントに、逝っちゃったの……?」

「これだから! 新羅は嫌いです! 勝手に人を惚れさせて、勝手に先に死ぬんですから!」

「新羅くん……もっと、二人の時間が、欲しかったわ……」

「陛下……いえ、辰馬さま……」

 哀しみの慟哭。涙も枯れ果てよと泣き暮れる皇妃たちを乕は無邪気に見上げ、シェティと獅廉は人の死ということが本当の意味でしっくり来てはいないが父がもう動かないのだと悟って落涙した。ひとの死に理解が及ぶ年になっている此葉と智咲は母と一緒になって泣いた。シンタと出水も男泣きに泣いた。室外にいて皇帝快癒を祈願していた海軍元帥・梁田篤と元帥・戚凌雲も膝から崩れ落ち、落涙した。皇帝崩御の報せが公表されると、大陸全土の民が昼夜を問わず泣き崩れた。それこそ涙で湖ができるほどに。


 荼毘に付された皇帝の遺体は仮陵墓に葬られ、葬儀には百万を超す民が列をなした。後世、辰馬が歿した10月24日は祝日として残ることになる。


 アルティミシア九国史赤の章、赤き竜の帝、新羅辰馬についての記述はここで終わる。赤き帝が開いた新しい世界で、人々は強く生きていく。もはや神の定めた運命というものに縛られることなく、自由に。


 黒き翼の大天使

   第5幕・黒き翼の大天使・完


………………

…………

……


 そして、蛇足。

 あるいは外篇・紅蓮の女帝・序


 皇帝・新羅辰馬の葬儀は質素なものだった。


 皇帝として威儀を持たせないわけにはいかないから最低限を削るわけにはいかないが、歴代のアカツキ皇帝たちに比べればその規模は微々たるもの。これは辰馬と皇妃たちの意向であり、後世にのこる新羅辰馬皇帝の陵墓はごくごく小さいものである。


 遺体は火葬にされた。これも辰馬の意向だった。女神崇拝の残滓が血脈の中に残る皇妃たちにとって遺体は土葬が当然であり、火葬という一種暴力的な葬祭制度に対して忌避感を抱かないでもなかったが、ここでほかの皇妃を説得したのは巫女として一番、女神崇拝の血が濃いであろう瑞穂だった。辰馬の死体は焼かれることで浄化され、また新しく生まれ変わるのだという瑞穂の言葉は、彼女が炎の女神ホノアカの巫女であったことから説得力を帯びる。エーリカは辰馬の意向に背いてもその身を焼いて無にするということに抵抗、北嶺院文も貴族出身の保守性からエーリカに賛同した。火葬を主張する瑞穂、穣、美咲に対してエーリカは自分と心を同じくするであろう雫を抱き込んで対抗しようとするが、ここで雫は瑞穂派につく。たぁくんの最後のお願いだから、と言って雫が瑞穂派についたことで4対2となり、火葬が執り行われた。しかしながら瑞穂派とエーリカ派の間で中立を守り、両者の調停役であった雫が明確に瑞穂派についたことでこのことはのちに禍根を残す。


 そして、2年後。


「作業中の帝陵を廃し、旧ヴェスローディアに移します!」

 女帝、エーリカは高らかに揚言した。あの後、宮廷内の権力の地歩を固め、瑞穂派の威力を削いだエーリカの威望威勢は確実に瑞穂派を凌いだ。所属する皇妃の数では劣るエーリカは文武の官と諸侯を抱き込むことに腐心し、国固めが進んでいく中で皇妃個人の権力よりそうした配下をより多く手ごまに揃えたエーリカが勝利した図式である。


 そして今日。エーリカは2年前、先帝が崩じた時には影も形もなかった、現在もまだ造営中である陵墓を、旧アカツキ領からヴェスローディア領に移す、と言い出した。もちろんその後ろには遷都の案を腹蔵している。


帝国の運営は帝政と議会制の併式だが、やはり帝の鶴の一言、その効果は大きい。現在の序列は女帝エーリカ、第2皇妃瑞穂、第3皇妃雫、第4皇妃文、第5皇妃穣、第6皇妃美咲であり、すでに筆頭者であるエーリカと2位以下の瑞穂たちの権力には天地の開きがあった。


「ここ、旧アカツキ領は先帝の本貫地、そこを移すというのは承服できかねます」

 静かにそう反論するのは第5皇妃、磐座穣だが、いかに智謀に優れる穣と言えどここまで巨大化したエーリカの政治力の前には太刀打ちできない。せめて第2皇妃・瑞穂派の筆頭である神楽坂瑞穂が奮起すれば対抗のしようもあるのだが、2年前のあの日以来瑞穂は抜け殻になってしまっている。二人の息子を育てるという生きがいがなければ、自殺すら考えて実行していたかもしれない。


 そうする間に議会は閉会。エーリカは穣を突き放して陵墓の移動、そしてそれに伴い、数年をかけて権力基盤の中心地をアカツキからヴェスローディアに移すことを決策させた。穣以外の皇妃は政治力において無力であり、議会役員たちはほぼすべてがエーリカの配下で固められているのだからどうしようもない。


「さて……それじゃ、仕上げをしましょうか」

 議会解散後、エーリカは瑞穂に書信を出す。おなじ京城柱天に住んでいるといっても女帝、皇妃という立場上、議会の場でもないとなかなか顔を合わせる機会がない。皇帝・新羅辰馬が存命の当時はもっと、皇帝一家はアットホームな家族だったのだが。


「手紙?」

「はい……エーリカさまから…」

 手紙を受け取った瑞穂は、それを穣に見せる。皇妃同士、久しぶりに親睦を深めるため会食の場を設けたい、そうした旨の手紙は、疑えばいくらでも疑える。ましてエーリカ派が軍備を拡充する中で瑞穂派藩屏の上杉慎太郎大将は新大陸ウラーへの移住政策推進という名目でアルティミシアから遠ざけられており、瑞穂派に現状の戦力はない。この状況で瑞穂を誘い出すのは間違いなく罠だと穣は思い、そう言った。


「罠ですね。行くべきではありません」

 穣の言葉に、瑞穂派の数少ない謀主である趙衙公・戚凌雲元帥もまた硬い顔でうなずく。瑞穂にもエーリカの糸がわかっていないはずがなかったが、しかし瑞穂の返事はふたりの期待したものとは違った。


「……磐座さんがそう言うなら、間違いないでしょうね。では、行きます」

「!?」

「……わたしは、もう疲れました。……ご主人さまと同じところに、行きます……」

 儚く微笑む瑞穂。その声はもう人生というものに疲れ果てた女性の厭世感に満ちており、彼女が感じている絶望、新羅辰馬を失ってからの2年がどれだけの苦痛であったのかを物語る。もう修復不能なのだろうと、穣は気づいてしまったからなにも言えなかった。


「牢城先生?」

「うん。みずほちゃん、これまでよく頑張った。終わらせちゃってもいーよ、あたしは怒んない。獅廉ちゃんとトラちゃんはあたしにまっかせろ♪」

「はい。そう言っていただけると……」

「……磐座さん、止めないんですか?」

「一度、神楽坂さんが決心してしまったならどうしようもありません。わたしたちも野に下りましょう、晦日さん」

「……そう、ですか」


 その数日後。

「では、わたしたちは」

 穣はそう言って、傍らに立つ美咲と娘たちを見遣った。聡明さは十分だが王宮育ちの此葉と智咲は、外の世界への挑戦に少し緊張の面持ちを見せる。そして晦日美咲は

「……エーリカ・リスティ・ヴェスローディア、今は私たちの敗北ですが、いつかその歪んだ権力の座から、引きずり降ろして差し上げます」

 ここにはいない女帝に向けて戦意十分であった。

そうして彼女らも皇城を去る。この後、穣たちはヒノミヤに迎えられ、その息女に自らの技を伝授してかの地に骨をうずめることになる。この時点で戚凌雲はまだ赤竜帝国への士官をやめていないが、この後10数年、帝国に面従腹背を続け、その後旧桃華帝国南方の都市・趙衙を拠点に反帝国レジスタンス活動に身を投じる。

 


 さらに数日後の夜。

「では、あとはお願いします、牢城先生」

「はい。いってらっさい」

 瑞穂は雫から一回、抱擁を受けて、そしてエーリカとの会食に挑む。もとより生き延びるつもりはない。死を受け入れて、彼女は派閥の勝利とか敗北とか、そうしたものからようやくに解き放たれた。抱き合う瑞穂の顔にも、雫の顔にも涙はなく、むしろ晴れやかな笑顔があった。


 そうして、瑞穂はエーリカの催した会食の場で、箸に塗られた毒にあたって死ぬ。享年37歳。末期の言葉は伝わっていない。


 瑞穂が落命したころ、雫は獅廉と乕の手を引いて逃亡を開始した。新羅辰馬の正統の男子はシェティ、獅廉、乕の3人のみであり、エーリカにとってシェティに安泰な権力を移譲するためにも獅廉と乕の命は絶対に摘んでおきたいところ。よって瑞穂の居室は瑞穂が会食に赴いたその瞬間、すでに囲まれており、この重囲を潜り抜けることを可能ならしめるのは牢城雫を置いてほかにはない。しかし雫をしても幼子二人……それも片方はまだ4歳に過ぎない……を連れての逃避行は簡単ではなかった。このままでは逃げられないと感じた新羅獅廉は自らの身体を囮に使い、追手は二人の皇子の兄の方をまずは仕留めるべく獅廉に群がる。獅廉はここで父親譲りの身体能力を発揮して腕利きの追っ手たちを翻弄するが、所詮は正式に体術を学んだわけでもない子供。稼げた時間は数分で、組み伏せられ、扼殺されてしまう。しかしこの犠牲、数分の時間をもって牢城雫は京城を抜け、新羅辰馬の血統を城外に逃すことに成功した。


「獅廉ちゃんを犠牲にして拾った命。これは死ねないねぇ、トラちゃん?」

「うん、雫かーさま。僕はかならず、兄さまの敵を討ちます」

「うん……まあ、敵とかそーいうことは考えなくてもいーんだけど……、でも、これから先、強くはあったほーがいいかな。あたしが徹底的に鍛えたげるから、覚悟しろよー、トラちゃん!」

「うん……いえ、はい! 強くなります!」

 雫の言葉に、新羅乕は気丈に元気な声を上げる。4歳の幼児にしてすでにいっぱしの男としての気概と使命感を、乕は身に着けつつあった。


 その後。


 政敵の瑞穂たちを排したエーリカが順調に中央集権の独裁者としての専権を振るい、その力を絶対のものとしていく中、歴史の陰に落とされた新羅乕は義母・牢城雫の指南で武芸を磨く。それこそ毎日口から尿から血を流し、睡眠は気絶させられたときに取るだけというぐらいの指導を受ける乕が歪むことなく育ったのは最初、兄の敵を討つという悲願のためだったのだが、それはやがて義母への思慕にスライドしていく。乕の10代20代において雫は50過ぎ、60過ぎなのだが半妖精種の肉体は容色衰えるどころか日を追うごとに美しさを増し、どんどん可愛くなっていくのだからタチが悪い。普通の男子は母親に懸想してもその容色の衰えに失望して健全な恋愛に目を向けることができるようになるものだが、乕の場合雫がかわいすぎるためにまっとうな道に戻れず、こじらせてしまう結果になる。


 それはさておき。


 雫に鍛え上げられて新羅乕という原石は花開く。26歳で戚凌雲のレジスタンスに迎えられ、帝王学と軍人としての才能にも磨きをかける。晦日美咲の孫娘・晦日緋咲にも出会った。


そして。


「この城が……」

「は。京城柱天。今からは我々の……陛下、あなた様の城です」

 戚凌雲のその言葉に、乕は小さくうなずく。


 城城柱天。


 29年前、雫に連れられて落ち伸びた城。その城がいま、自らの手で覆される、その瞬間を待っている。


「では、行きます……」

 帝国領サトラ・アカツキ(アカツキ地方)解放の戦、根回しはすでに完了してあとは号令一つ、今回乕自身がやることはほとんどないが、それでも。


 帝国奪回の事始め、その号令を、高らかに新羅乕はかけた。


「……出陣!」

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黒き翼の大天使~第5幕~黒き翼の大天使 遠蛮長恨歌 @enban

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