飛行少年

香久山 ゆみ

飛行少年

 とべ、とべ。無意識に口の中で呪文のように唱えていた。

 勉強部屋の窓から、向こうの方に見えるマンションは、最近できたもので、この近所では一番高い建物だ。気付いたのは一週間くらい前。勉強する気もないのに学習机に座ってぼんやりと窓の向こうを眺めていた時。あのマンションの屋上に人影があるのに気付いた。屋上の柵の部分に腕を乗せてじっと立っている。遠くて、顔とか身長とかは判然としないが、白い半袖に黒いズボンで、華奢な印象だから、たぶん僕と同じ男子中学生ではないか。学校から帰ってきてふと見ると佇んでいて、トイレやご飯なんかで目を離すと、いつの間にかいなくなっている。それでも大抵三十分以上はあそこでじっと立っている。

 だから、飛ぶ気かな、と僕が思うのも当然だろう。きっとあいつ、飛ぶつもりだ。そう思うと、目が離せなくなった。それで、あいつの観察を続けている。胸がざわざわと、変な高揚感を感じている。

 そして。気付くと、とべ、とべ、と念じていた。これには参った。

 いつの間にか、僕はあいつに自分を重ねていたようだ。いや、あそこに立つのは僕自身だと思い込んでいる。学校で虐められて、奴らに反撃もできず、かといって打開策もなく、この世界からの逃避を夢想するだけで、何一つ行動に起こすこともできない。学校から帰ると自分の部屋に籠もるだけの、虚無的な人生。その決着を屋上のあいつにつけさせようというのか。

 くそ。へたな舌打ちをして、僕は部屋を飛び出した。あのマンションまで駆ける。途中で学校の奴らに出くわさないようにと祈りながら。自分の小者ぶりに嫌気を差しながら、駆けた。マンションに着いて、ボタンを押してエレベーターを呼んだものの、知ってる奴が乗ってるかもと考え、階段を駆け上がる。最悪だ最悪だと、世界と自分の体力のなさを呪いながら。

 屋上の扉を開けると、真っ赤な夕日を背にして、あいつが立っていた。

 逆光で、よく見えない。僕は吸い寄せられるように近付いていった。近付いて、ようやく、あいつが柵の向こう側ではなく、こちらを見ていることに気付いた。

 あいつは、僕ではなかった。

 白いポロシャツに、黒いズボンを穿いている。確かに子どもだと思ったのに、そこに立つのは、大人の男だった。

「やあ」

 男が軽く手を上げる。逆光で、表情は見えない。

「こんな所で何をしているんだい」

 と男が聞く。それはこちらの台詞だ。

「おじさんこそ、何してんの」

「ああ。空を眺めてた」

「空を?」

 納得いかない表情が向こうからはよく見えるのだろうか、男は面白そうに訊いた。

「じゃあ、何してると思ったんだい」

「……飛ぼうとしているのかと思った」

「なるほど。それで、慌てて駆けつけてくれたんだね」

 少年が否定も肯定もできず言葉に詰まっていると、「正解」と男が言った。少年は驚いて顔を上げる。

「僕はね、飛ぼうとしている」

 そう言うと、少年はぎくりと体を強張らせる。分かりやすく緊張した表情にはまだあどけなさが感じられる。

「でもね。飛ぶのは、下ではなくて、こっち」

 僕が空を指差すと、つられるように少年も天を仰ぐ。

「宇宙飛行士なんだ。もうすぐ宇宙に飛び立つから、その前に生まれ育ったこの町からの景色を見ておこうと思ったんだ」

 少年は「うちゅう」と呟いただけだが、その表情には微かな輝きが宿っている。そうだろう、きみも宇宙が好きだものな。

「少年」

 呼び掛けると、少年が顔を向ける。たぶん、あちらから僕の顔は見えないだろうけど、じっとこちらを見ている。

「何か、きみの持ち物も一緒に宇宙へ連れて行ってあげようか。それとも、宇宙からサインを送ろうか。それより、月の石が欲しいかい。そうしたら、友達に自慢できるだろう」

 すると、夕陽に照らされた少年の顔がさっと赤く染まった。

「いらない」

「どうして」

 案に反した、少年の断固とした拒絶に驚く。

「それで僕のことを助けてやろうってんなら、いらない。自分の困難は、自分の力で乗り越えたいから。僕はまだ、自分ができることを全て試してはいないから。だから、まだ手助けはいらない。気持ちだけありがたくもらっとく」

 迷いのない少年の口振り。そうか、こんなに気の強い子だったか。真っ直ぐで頑固で、だから敵も多い。けれど、生きるエネルギーに満ちた、この強さ。この強さに触れたかったのだ。

「なるほど。では、一言だけ。宇宙飛行士になるには、柔軟性も必要だ。柔軟さが知識の吸収を良くする」

 知識だけでなく、人間関係も。とは言わなかったが、聡い少年は素直に頷いている。

「じゃあもう暗くなるからお帰り。またね。今度は宇宙で。待っているよ」

 そう言うと、少年は白い歯を見せて笑った。

「じゃあ」

 声変わりしかけのこそばゆい声。少年の後ろ姿を見送りながら、男は思った。ああ、僕が旅立つ前に見ておきたかったのは、あのしなやかな強さだったのだ。

 少年は階段を駆け下り、家まで走ったが、もう誰かに出くわすことなんて考えもせず、その足取りは軽い。

 嘘を吐いてしまったな。少年はふっと口角を緩める。つい、自分の力で乗り越えるなんて、大口を叩いてしまった。でも、今まで口に出さなかっただけで、本当のことだ。今ならできるような気がしている。だって、逆光に立っていたあの男、あれは――。僕が、宇宙へ行くというくらいだもの。

 世界は広いのだし。

 まあ、何とかなるだろう。

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