オセロの盤面は、青い
香久山 ゆみ
オセロの盤面は、青い
「死ってのは、最悪なものだぜ」
黒い人が言う。
「まあ。そんなことありません。死とは、救いです」
白い人が言う。
「ばかな。死よりも悪いことがこの世にあるかよ」
「生きることは苦痛でしょう。死だけが生けるものの救いになるのですよ」
黒い人と白い人の言い合いは続く。
僕は蚊帳の外で、ぼんやりと二人のやり取りを見ながら溜め息を吐く。面倒なことになったな。空が青い。
「死は最悪だ。こいつらに生きてる方がましって思わせるために、最後に死があるのさ」
「精一杯生きることは尊いから、だから神は最期に幸を与え給うのです」
二人の論争はいつまで続くのだろうか。晴天とはいえ、まだまだ空気はひんやりしていて、足元から冷えてくる。靴下まで脱ぐことはなかったか。自分の裸足の指を見て、ひとり苦笑する。靴と靴下は、この屋上フェンスの内側に置いてきた。
ぜんぶ、置いてきた。
全部向こう側に置いてきて、僕は飛び立とうと思ったのだ。あの青い空に向かって。この面倒臭い世界から。
人生最後の仕事だと思って、しっかり準備した。見晴らしがよく、屋上に上れるビルを探し、下の人通りがないことも確認した。晴天の日を選び、かつ、後始末の迷惑が少しでも軽減するよう明日は雨天の予報。下ろしたてのシャツを着たし、身元も分かるようにした。身内はいないけれど、家には世話になった人の連絡先とささやかながら御礼も置いてきた。あとは、ここから飛び立つだけだった。
なのに。
靴を脱ぎ揃えて、屋上のフェンスを越え、最後に大きく息を吸い込んだ時。いつの間にか僕の目の前に、二人がぷかぷか浮かんでいた。白い人と、黒い人。天使と悪魔、もしくは死神?
二人はどうやら、どちらが僕を連れて行くかで揉めているらしい。天国か、地獄か。
確かに僕は平凡なつまらない人間で、気の弱さから誰かを裏切ってしまったことだってあるし、あれは悪かったなと後悔することだってある。一方、まあ悪人ではないので、人に親切にしたことだっていくらかあるし、損な役回りもよく引き受けたりしていた。つまり、良くも悪くもない、平凡な男。僕が閻魔大王なら処遇に困るだろうなあ、と我ながら思うわけだが。
しかし、この二人、いつまで言い争っているんだろうか。早くこの面倒ばかりの世界からおさらばしたいのだが。
「なあ、おい。地獄に来てみろよ。うひひ。針の山に、血の池地獄」
黒い人が意地悪そうに笑う。でも、僕は別に。僕にとっては現状こそが地獄だ。いわゆるブラック企業に勤め、寝る間もなく馬車馬の如く働いてもほとんど得るものもなく。毎日毎日ただただ自分を磨り減らすだけ。血の池地獄の方がましかもしれない、とか思う。
「うひひ。B山課長も焦熱地獄で苦しんでるぜ」
な、なに! B山課長だって? 先月急逝した、あの、B山課長が? あいつにはずいぶん虐められた。なんだって仕事をさぼってばかりのB山が僕より先に死ぬんだよ、と訳が分からなかったが。でも、そうか。B山は地獄にいるのか。なら、地獄には行きたくないな。
「天国は最高ですよ。毎日神様がお食事会を開いてくださいますから。皆でお食事、楽しいですよう」
白い人が微笑む。
「それって、絶対参加しなきゃいけないの?」
「そりゃあそうですよ。神様のお招きですから。あ、それにね。A子先生もいますよー」
な、なに! A子先生だって? 僕の小学生の時の担任教諭だ。そうか、亡くなったのか。彼女は若く優しく使命感に燃えた、いわゆる良い先生だった。休み時間に教室で一人でいる僕を、強引にクラスの人気者のいるグループに参加させた。この子も仲間に入れてあげてよー、なんて。お陰で僕は、中学を卒業するまで、そのグループの連中に虐められることになった。人に言えないような陰湿なやり方で。その元凶であるA子の顔なんて、もう二度と見たくない。
「さあ、どうすんだよ」
「さあさあ。どうしますか」
「地獄行くだろ、地獄。なあ、おい。うひひ」
「もちろん天国ですよねー。ねー」
二人はぐいぐいと僕の両腕を引っ張る。僕の足が屋上の縁にかかる。僕は。
ばっと、二人の手を振り払った。
そしてフェンスをよじ登り始めた僕を、二人が呆然と見ている。
「おいおい、どこ行くんだよ」
「おーい」
二人の声を背中に聞きながら、靴下を履き、靴を履き、僕は屋上の階段を下りた。
やってらんねえ。死ぬの、面倒臭い。
あの二人も面倒臭いし、どうやら死後の世界はいずれにせよまるで自由がないようだ。
ならば。
この世界と変わらないじゃないか。いや、むしろ。そうだ。やめよう。生きるのをやめるより、もっと簡単な方法があった。仕事を辞める。それだけでよかった。なあんだ。
地上に下り、見上げると、もう白い人も黒い人もいなかった。ただ青い空だけ。
オセロの盤面は、青い 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます