エデン
昏夜あかる
第1話
そうして人類は永遠の眠りについた。人から神へとなるために。
電子世界「エデン」を開発したチームの一人、ルツ博士が残した有名な言葉だ。神から造られた人間が神へと至るためのシステム。大層な名目の元に造られたそれを端的に言い表すなら、人が人を辞めること、だ。脳だけを取り出して、残った肉体は卵子と精子以外破棄する。取り出された脳は電子世界「エデン」へと繋げられて、そこで人類は新たに生を得る。脳を繋げば繋ぐほどに電子世界は鮮明となり、現実と何も変わらなくなった。いや、むしろどんどん快適に美しくなっていく。汚れ切った大気も、濁り切った水も、枯れ果てた大地すらも蘇り、清潔に透明に、一切の淀みもなく。病も老いも限りなく0へと近づいていった。永い旅を終えた人類はようやく楽園へと戻ってきたのだ。もはや、肉体を維持することに誰も価値を置かなくなり、夢でも見るかのようにエデンへと眠りにつく。
そう、未熟な私たちだけを除いて。子どもである私たちだけが、体を持っている。
◆◆
あ、やりすぎた。
生まれ育ったこの第5ドームから別のドームへ送られるとの告知を受けたとき、一番に思ったことはそれだった。しかも第7ドーム。
「いや、第7ドームってどこ?」
この地区には子どもを育てるためのドームが6つあるはずだが、7つ目があるとは初耳だ。
体内へ埋め込まれた端末で検索してみるが、当然の如く出てこない。わたしはため息をつきながら、届いたメッセージを再度開き眺めてみる。メッセージは教育委員会からだ。私がエデンに対して強い拒否反応を示しており、このままエデンへ繋ぐのは不可能であること、そして再教育が必要であるといったことが非常に堅苦しい言葉で綴られていた。
拒否だなんて大げさな。再教育? わたし、あと数か月で15歳になるのに。
先生にエデンへ行くまでの期間を伸ばせないのかと聞いただけなのに。だって練習の成果が全然出ていないのだ。そう思うのだって無理ないだろう。あの練習が上手くいきさえすれば、エデンへ諸手を上げて向かうのに。
そう、エデンへいく恐怖が消えさえすれば、わたしは。
わたしはエデンへいくのが怖い。どうしようもなく怖いのだ。エデンへいくのだと聞かされたその日から、ずっと恐れ続けてきた。エデンについての作文はいつだって一文も書けなかったし、エデンの体験授業は一人吐き続けて碌に接続できなかった。
体を破棄? 脳だけで生きるってなに? 考えるだけで背筋が凍りそう。得体のしれない恐怖が、ぴたりと被膜のように全身を覆っていた。みんな、怖くないの? わたしだけがおかしいの? 気が狂いそうだった。
わたしは一体何が怖いのだろう。今までと全然違う場所へいくこと? 脳だけで生きること? 考えに考えて、わたしは1つの結論へと辿りついた。わたしは生まれたときから当たり前にあった体を失うことが怖いのだと。多分。きっと。恐らく。
脳の発達を促し、健全な精神を育むため、私たち子どもは15歳の誕生日まで体を持つことを強制されている。以前生まれてすぐの子どもをエデンへ繋いだところ、適応できなかったケースが報告されたらしい。そのため現代では、体を捨ててエデンへ繋ぐのは15歳からと定められていた。
15歳か。幼かったわたしは考えた。OKOK。幸いにもまだ時間はある。それに備えて今から練習をしておくのが得策だ。この恐怖を抱えて生きていくのはしんどすぎる。予習、復習。傾向と対策。努力を重ねていくしかない。テストは苦手だけど、勉強をしないタイプの人間ではないから。
そう考えて、初めて皮膚に刃物を突き立てたのは、8歳のときだった。体をなくすための、練習。体を持ち続けることの不快さを理解すれば、きっと体をなくす恐怖も消えるだろうと思ったのだ。
そうして、あっという間にわたしの体は傷だらけになっていった。先の尖ったものや刃物を早々に取り上げられたため、今度は自らの爪や歯を使って全身に傷をつけていくことに勤しんだ。引っ搔いては、噛んで。噛んでは、引っ掻いて。終いにはやらないと落ち着かなくなってしまった。自分を傷つけるそのときだけは、あの窒息しそうな恐怖を感じなかったから。
みんな、わたしのことを理解できないって言う。
『楽園にいけるのに』『病気も老いもない世界にいけるのに』『一体、何が怖いの?』
みんな、理解できないといった表情で。
そんなことを言うなら、わたしに教えてほしい。どうしてあなたたちは怖くないの? わたしとあなたたちで一体、何が違うの? 同じように生まれ、育ったのに。あなたたちとわたしは、本当に同じものでできているの? 教えてよ、わたしに。
そして、わたしは……。
現代教育の敗北。AIが生んだ失敗作。欠陥人間。そんな言葉を頭に思い浮かべながら、わたしは越えてはいけない一線を越えた。とうとう振り切れたわたしが、罪を抱えていく。
わたしにも、もうわたしがわからなかった。
さらば、第5ドーム。アンドロイドのスタッフたちにがっちりと脇を固められながら、わたしは地下にある流線形の移動ポッドへと押し込められた。主に輸送に使われるものだけど、人間をのせることもできるらしい。真空チューブの中をポッドが高速で移動すると説明された。輸送関連は動力確保も含め、独立型のAIが管理している。ドームから出たことなんて滅多にないから、緊張してしまった。
果たしていけるだろうか、エデンに。再教育がどんなものか知らないけれど、それを受けてもだめだったらどうなるのだろう。今朝、入念に引っ掻いた肩の部分がヒリヒリとしだした。その慣れた痛みにわたしはほっとする。関節の近くを傷つければそこが動くたびに痛むから、わたしは関節の周りを好んで傷をつけた。肘、膝、首、肩、指……。
ポッドの中に入った後は、ずっと目を閉じていた。15分ほどで着くと言われている。随分遠くへ行くのだなと感じた。
到着のアナウンスが流れ、わたしは移動ポッドを下りる。静まり返ったポッドのホームには一人のアンドロイドが待っていた。綺麗な女性型のアンドロイドだ。ドームのスタッフで、ベルだと名乗った。彼女に案内され、エレベーターで上へ上へとあがっていく。ベルは簡単にこのドームの説明をしてくれた。エデンの大人たちが接続して操作している「先生」と呼ばれるアンドロイドはおらず、オフライン型のアンドロイドであるベル一人が管理をしているという。わたしはそれを聞いて驚いた。今どきオフライン型のアンドロイドがいるなんて。しかも一人だけ? さらにベルは驚くべきことを告げた。ドームにいるのはわたしを含めてたった4人の子どもたちだという。前のドームには少なくとも30名ほどの子どもがいたのに。思わず聞き返した。
「4人? 少なくないですか……みんな再教育をされているのですか?」
「ここに来たみなさん、不便だけど楽しいって言いますよ」
わたしの質問に一切明確な答えを返さず、ベルは微笑んだ。旧型だから質問の意味が分からなかったのかもしれない。
「ここに来た子が、エデンになんていけるわけないし」
第7ドームへ来た早々、わたしは爆弾発言を聞くはめになった。
来たばかりのわたしにそう堂々と言い放った女の子は、キナといった。アジアベースの顔立ちで、幅の広いくっきりとした二重が印象的だ。眼窩には夜色の瞳が嵌っている。僅かに緑がかった虹彩が星屑のように輝いていた。年の頃はわたしと同じくらいだろうか。
「エデンにいらない子たちが、集まるところだから。ね、リカ」
キナの隣、リカと呼ばれた女の子はせっせとお菓子を口に運んでいる。キナよりは幾分幼い印象を受けた。話を聞いているのかいないのか、彼女は一向に手を止めることなく、小さな口へ無表情でお菓子を詰め込んでいた。彼女の周りにはスナック菓子やプリン、ゼリーなどのゴミが散乱しており、とても味わって食べいるようには見えない。まるで何かの作業のようだ。そして何より特筆べきは、彼女がちょっと見たことないくらい大きな体を持っていたことだろう。栄養管理が行き届いた現代では信じられないほどの肥満体だった。創作物の中でしか見たことがない。
「皆、罪人なの。だからエデンから追い出されちゃった」
「罪人?」
キナがさらに引っかかることを言う。好奇心に駆られたわたしは、彼女の罪状について聞いてみた。
「キナは何の罪を犯したの?」
「人殺し」
こっわ!
どうやらわたしは再教育とは名ばかりの、犯罪者たちが集まる収容所に入れられたようだった。
◆◆
キナ、リカ、ノア、アンドロイドのベル、そしてわたし。総勢5人。これがこのドーム内にいる全員だった。
キナは自由奔放、神出鬼没をまさに絵に描いたような人物で、ドームの中をあちこち縦横無尽に動きまわっている。いつも歌ったり、くるくる踊ったりしていた。他人の部屋にだっておかまいなしで入ってくるから、わたしはここに来て自室のカギを閉めるという行為をするようになった。信じられないことにここは手動式のカギしかない。
リカはいつも食べている。食べ物がないときは氷を口に入れているのを見た。ドームにはカロリーや栄養のない合成食品が沢山置いてあるけれど、彼女は昔ながらの天然食品を好んで食べていた。また自分から話すということがほとんどない。質問すれば首を振って答えることはあったけれど。
アンドロイドのベルはわたしたちの世話をしてくれている。1か月に1回アップデートで別のドームへ行くらしいけれど、それ以外は問題児だらけのわたしたちにつきっきりで面倒を見ていた。キナは「監視役だよ。看守なの」なんて言っていたけれど。
そして最後の一人、ノアは……。
「端末が使えない……」
第7ドームにへ来てから数分がたったときだった。体内に埋め込まれている端末が、全然反応していないことに気がついた。近眼のため視力の補助も任せており、それが使えないため遠くが見づらい。てっきり壊れてしまったのだと思った。するとわたしの独り言が聞こえたのか、後ろから声がかかった。
「ここオフラインだよ」
振り返ると、ショートカットの女の子がすぐ後ろに立っていた。透き通るような淡い金髪を短く切りそろえている。切れ長の青い瞳が理知的な光を湛えていた。人形のように整った顔立ちの子だ。普段であれば見惚れてしまうような美貌だったが、わたしは彼女の放った言葉に衝撃をうけてフリーズする。なんだって?
「おふらいん?」
「うん。オフライン。ごめんね。私はノア。よろしく」
「え?」
オフライン? 未開の奥地かよ、ここは。
面食らっているわたしを残して、ノアはどこかへ行ってしまう。今どきオフラインの場所があるなんて信じられない。せめて説明をしてくれ。オフラインってなんだ。メッセージの1つも飛ばせないってこと? コミュニケーションをとるのにもいちいち喋って伝えないといけないってこと? そんなの喉が潰れる。
まだそこらへんをぶらぶらとしていたキナに聞いてみると「そうだよ」なんてあっけらかんとした声が返ってきた。
「ここへ一番最初に来たのがノアなんだけど、ノアはエデンを壊そうとしたのがバレてここに来たんだって。エデンのネットワークに干渉して、生命維持装置ぶち壊して何人か死なせてるよ。だからエデンに繋がるようなネットワークはここに敷けないんだよね。それで謝ったんだよ、ノア」
超特大級の犯罪だ。なぜそんな子と一緒にわたしはいるのか。茫然とする。
しかもそんなことが起きていたなんて全然知らなかった。ニュースにもなっていないし。隠蔽されているのかな。
「ネット使いたかったら、エデンと直接繋がってない端末が部屋にあるからそれなら使えるよ。制限かかっているから、不便だけど……もともとここはノア一人を隔離するための施設だったらしいよ。最近はエデンへの適性がない子も送るようになったみたいだけどね」
「……ノアって子、すごいね。エデンの大人って殺せるんだ……え、エデンのセキュリティってそんな簡単に破れるものなの?」
エデンがさらに怖くなったわたしの質問を聞いて、キナは少し馬鹿にしたような表情を浮かべた。
「そんなわけないでしょ。ノアは特別。だってルツ博士の子どもだもん」
ルツ博士? 唐突に出てきた名前にわたしは驚く。
エデンの生みの親の一人。神になりたくてエデンを作った人じゃないか。その人の子どもか、なるほどね? 最後の一人、ノアはとんでもない子ってことだ。
私たちは保管されている膨大な卵子と精子から、AIが選別した組み合わせを元に人口子宮で生まれてくる。より健康で穏やかで善良な性質を持つ遺伝子を。だけど未だに一部の病気などは防ぐことができなくて、死んでしまうこともあった。AIは学習を続けているけれど、それでも人間が持つ遺伝子のランダム性に対応できていないからだ。もちろん自然繁殖だった昔よりは、病気も少なくなって子どもが死ぬこともなくなったけれど。
そう考えると昔の人はすごい無謀だ。子どもどころか、下手したら自分が死ぬこともあったのだから。それしか繁殖方法がなかったからだけど。勇気があるというのか、リスクを顧みないというのか。人類繁栄。未来への期待が強くて、今よりみんな楽観的だったのかもしれない。
「未来の期待はいつだって持って下さい。期待するというのは人間の特権ではないですか」
キナの話を聞いて連想したことをベルに話すと、無表情でそう返された。ベルはリカが散らかしたお菓子のゴミをひたすら片付けている。でも片付けたそばからまたリカが散らかすから、あまり綺麗になっていなかった。
◆◆
ばりばりばり、ばりばり……。
深夜3時。音がするほど爪を突き立てて、皮膚を食い破るように掻きむしる。剥離した皮膚が床へ落ちていった。ぷっくりとした赤い血が、皮膚から滲みだす。痛い。痛い痛い。痛い痛い痛い。痛みが信号のように全身を駆け巡る。体を持つことって不自由だ。だから……。
キナからエデンへいけないと言われてからも、わたしは練習を続けていた。何故なのかは自分でもよく分からない。ここまでくると、ただの惰性なのかもしれない。
エデンにいけないということは、ここで死ぬということだ。わたしは掻きむしりながら、ぼんやりと考えた。人類がエデンへ繋がれるようになってから120年余り。人類の寿命は今も延び続けている。病気は脳由来のものしかなくなり、半永久的に生きられるようになった。たまにエデン内での事故やあるいは自殺――勿論非合法だ、でもできないわけではない――はあるけれど、人が死ぬということ自体がほとんどなくなった。ルツ博士の言葉通り、死を克服しつつある人類は神への階段を着実に昇っている。楽園への回帰。開かれたエデン。
でも、わたしはここで死ぬのだ。そのことを一体どうとらえたらいいのか、よく分からなかった。普通だったらもっと怒ったり悲しむのだろう。楽園への切符を永遠に失ったのだ。でもわたしはエデンにいかなくてよくなったことに、少しほっとしていた。わたしは、わたしだけは、死ぬことができる。
血が流れる。じくじくと体が痛む。生きていること、死んでいくこと、起きていること、眠っていること……。考えれば考えるほど、分からなくなっていった。段々落ち着かなくなってきたわたしは、部屋を出る。
何となくホールへ向かうとこんな時間にも関わらず、ノアがいた。特に何をするでもなく、ソファーに座っている。微動だにしないその姿は本当に人形のようだ。ぼんやりとその姿を眺めていると、わたしに気がついたノアが声をかけてくる。
「イブ、指が血だらけだよ。どうしたの?」
そこでわたしは禄に止血もせず出てきてしまったことに気がついた。何となく恥ずかしくなって、手を後ろに回し、彼女から傷が見えないようにした。
「何でもない。練習」
「練習?」
「……体をなくすための」
「イブはエデンが怖いのに、エデンへ行きたいんだ」
ノアは面白そうな表情をして、そう返した。彼女はわたしが言った、要領の得ない言葉の意味を正確に理解してしまった。頭が良い人ってこれだから。話を変えたくて、わたしは尋ねる。
「ノアは何をしてたの?」
「何も。イブ、おいで。手当をしてあげるよ」
ノアは丁寧にわたしの指に包帯を巻いていった。包帯はホールに置いてあった救急箱から取り出したものだ。キナがよく踊ってる最中にぶつけて怪我をするからと置いてあるらしい。ノアは器用にくるくると慣れた様子で巻き付けていく。
「他のところは? 指だけ?」
「うん」
「ねぇ、楽しい話をしてあげようか」
手当が終わると、ノアは唐突にそんなことを言いだした。わたしを元気づけようと思ったのかもしれない。別に元気がないわけではないのに。わたしの返答を待つ間もなく、ノアは話始めた。
「エデンは崩壊し始めてるよ。繋いでいる脳たちは次々と劣化して、エデンへの適正をもう持たなくなってる。そうなったら、後は本当に永遠の眠りってやつだね。眠っているだけだ」
わたしは驚いてノアの顔をまじまじと見た。そんな話聞いたことがなかった。彼女の妄想だろうか。
「本当の話。崩壊を止めたくて、エデンへ適正を持つ子どもたちを作ろうと大量生産に踏み切ったのが少し前。でもそれもなかなかうまくいかなくて、最近では選別なんてせずに、ランダムな配合で子どもを作り始めてる。エデンがこのまま崩壊するよりかはって、多少の危険因子を許容する方向にしたんだね。イレギュラーが欲しいんだ、発展のために。でもそれだって上手くいかないよ」
ノアは淡々とした口調であったけれど、どこか怒っているようだった。そして彼女の言っているランダムな配合で生まれた子どもたちが、第7ドームの子どもたちであることはなんとなく予想がついた。エデンに適応できない子どもたち。少しだけ逸脱し始めたわたしたち。
「ねぇ、イブ。もうすぐ終わりの日が来るよ。大洪水なんかよりもっと鮮やかで冷たい終わりが。私がそうしたの。でもどのみちエデンは崩壊するのだから。それを早めただけだ」
ノアはエデンのシステムを弄って、何人も殺すような力を持った子だった。もしかしたらその事件を起こしたとき、すでにエデンを壊す仕込みを終えていたのかもしれない。大人が死んだのは副次的なものであって、そのとき彼女はもう目的を果たしていたのだ。わたしは少し怖くなって、彼女に尋ねる。
「何でそんな話をわたしにしたの?」
「似てると思ったから」
彼女は不思議なことを言った。似てる? わたしが? あなたに? 訝しむわたしへ彼女は言葉を続けた。
「体をなくすための練習、他の人では試さなかった?」
そう言うと、ノアは微笑んだ。
◆◆
「ベル?」
ベルがホールの掃除をしている最中、急に目を閉じたまま、動かなくなった。まるで大人のように眠ってしまったみたいだった。
「どうしたんだろう、ベル」
近くにいたキナも寄ってきて、不思議そうな顔でベルを見上げた。
「故障かな、旧型だし」
「昨日アップデートに行ってたのに。ちょっとノアに知らせてくる!」
そう言うとキナは駆け出した。残されたわたしはお菓子を食べていたリカへ声をかける。
「困ったね。リカも困るよね、掃除してくれる人がいないと」
リカが僅かに首を傾げた。気にも留めてなかったようだ。あれだけお世話になっているのに……。ベルも世話のしがいがないだろうな。数分すると、キナがノアを連れてホールへやってくる。動かなくなったベルを見て、ノアはぽつりと言葉を零す。
「終わりの日が来たね」
最悪の日。終末。世界の終わり。そして、永遠の眠り。
多分、大人たちが生きていたらそう表現するのだろう。こうして、エデンは崩壊したのだと。
「ルツ博士は遺伝性の難病だったんだ。徐々に死に至るような病。脳は正常なまま、体の機能段々と低下していく病気。だからエデンを作ったんだよ。死から逃れるために」
移動ポッドを使うため、地下へとエレベーターで降りている最中だった。ノアは話し出した。
あの後、ノアから電子世界「エデン」が崩壊したと告げられた。彼女は第7ドームへ来る前、エデン内に遅延型のウィルスを流していて、それが今ようやく大人たちの生命活動を止めたのだと説明した。エデンの管理補助をしていたAIたちも軒並み壊れ、復旧もできないだろうとのことだった。ベルはエデンのネットワークでアップデートしていたみたいだから、そのあおりを受けたらしい。キナもリカもどうでもよさげな顔でノアの説明を聞いていたのが、少しわらえた。
「ノアは親のことなんて気にしないと思ってた」
「え?」
ノアは驚いたような表情をした。彼女にしては珍しい。青の瞳が大きく開いている。しまったと思って、わたしは慌てる。わたしたちは親の顔も知らずに生まれてくる。だから両親がどんな人かも気にしないことが多い。育てるのだってアンドロイドやそういう勉強をした先生たちだし。でも確かにプライべートなことではあるから、聞かれるのを嫌がる人もいるにはいるのだ。
「ごめん。プライベートなことを聞いて……」
「ううん、別に……あぁ、キナがそう言ったの?」
「そうだけど……」
ノアは何か思案するかのように、少しだけ目を細めた。そしてそのままノアの顔が近づいてくる。何をするのだろうと思っていると、すぽっとノアはわたしの首元へ顔をうずめた。彼女の柔らかい金の髪が皮膚にこすれて、くすぐったい。
「ルツはエデンを本当に愛していたんだと思う。自分を生かした世界で、同時に自分が育ててきた世界。文字通り彼女が神だった。エデンが少しずつ崩壊し始めていると気がついたときは焦っただろうな。原因を探して、そう、少しだけ条件を間違えたと思った。外からそれさえ直せば、エデンは存続するって考えたんだ。救えるのは自分だと思ったし、また自分でないといけないって思ってた」
ノアの話は続いている。ルツ博士の遠い話。まるで御伽噺でも聞いているような気がした。
「でも、彼女は死んだ。私が殺した。そして、私はもう自由だ。イブ、私と一緒に来てくれる? それとも……」
続きの言葉はなかった。黙っていると、ゆっくりと顔を上げた彼女の青い瞳が、じっとわたしを見ていた。悔いているのか、まるで許しでも乞うかのように。似てると彼女がいつか言ったのは、きっとわたしが自分のために他人を害せる人間だからだ。
「いいよ。一緒に行く」
彼女の青い瞳が、綺麗な弧を描いていく。あ、わらってる。
そう、気がついたときには、彼女の唇がそっとわたしの唇に触れていた。
青が静かに揺れて、雫が零れる。そうして彼女は呟いた。囁くような小さな声で。
「私はルツだ」
ノアは各地のドームへわたしたちにした説明と同じ内容のメッセージを送った後、第7ドームを出ていくと言った。自由を手にいれた彼女は「どこか遠いところへ行きたい」なんてことを大真面目な顔で言った。そしてわたしはそんな彼女についていくことを決めたのだ。キナとリカは第7ドームに残ると言ったから、オフライン型のアンドロイドを見つけ次第、送ることを約束した。第7ドームは完全独立型のシステムだから、しばらくは2人でも大丈夫だろう。
わたしたちはポッドに乗りこむと、ノアが画面を操作して、適当に目的地を選んだ。さぁ、出発の時間だ。
楽園を永遠に失ったわたしたちは、放浪の旅に出る。エデンを壊したことを、エデンを拒否したことを、いつか後悔する日が来るだろうか。でも、あのぴたりと被膜のようにわたしを覆い続けた恐怖が消えていた。そしてわたしは気がつく。わたしが恐れていたものを。あのとき、ノアが続けなかった言葉の先も。
「ノア、わたしたちだけの楽園をみつけにいこう」
そう、楽園だって眠り方だって、いつだってわたしが決めるのだ。それが人間の特権だと思うから。
エデン 昏夜あかる @kuraiyo12
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