第2話 闇
「ええええ? 外で食べてきたの?」
今日は、仕事も早く片づいたので久しぶりにラーメンを食べにいったのだが、帰ってくるなり、彼女がやってきた。部屋に入ると間髪いれずにベルが鳴ったので、少し気味が悪くなる。しかも――
「そんなの聞いてないわよ。もう作っちゃったから」
まるでこちらが悪いかのように凄まれた。当然、両手には鍋をもっていた。
「す、すみません」とわたしが悪いわけではないのに思わず謝ってしまった。だが、これがよくなかった。彼女は主導権をとったとばかりに、
「次からはちゃんと言ってよね。まだまだ入るでしょ? 今日は豚汁だから」
有無をいわさず強引に鍋を手渡された。
ずるずると断れずに、あれから毎日、おすそ分けををもらっているわたしも悪いのだが、元はと言えば、彼女が夕飯を作り過ぎたから、余った分を頂くという建前のはずだ。だいたい彼女も彼女だ。毎回、こちらが要望していないのに、午後六時に決まってベルを鳴らして、一方的に職場の文句を言いながら鍋を手渡してくる。
カレー、シチュー、コーンスープといった汁ものは、作り過ぎたというのはわかるが、サバの味噌煮やハンバーグなんて、明らかにわたしにあげる前提で作っているではないか。
そもそも彼女はわたしの恋人でも、母親でもない。少々、おせっかいが過ぎるのでは。
もしや、彼女はわたしのことが好きなのでは……?
それならば、少々難しい問題だ。彼女はわたしのタイプではない。それに、二十代のわたしと彼女とでは歳も離れすぎている。彼女のおせっかいが好意からくるものならば、無下にするのは変にこじれそうだ。
だが、やはりおかしい。
もし、好意であるならばこんな回りくどいことはせずに、デートなりに誘うものじゃないだろうか。ドラマじゃあるまいし、こんな、おすそ分けをずっと繰り返したところで、男女の仲というのは進展しないはずだ。まあ、それが彼女なりの恋愛だと言われればそれまでだが、果たして、本当に彼女のおせっかいは恋愛感情からくるものなのだろうか。
そう思えば思うほど、彼女の行為が不気味に思えてきた。
一旦、疑いだすと、手に持った鍋もなんだか怪しく見えてきた。本当に、彼女の料理には何も混入されていないのだろうか。今のところ、体に不調は起きていないが、毒というものは徐々に体に蓄積されると聞いたことがある。
まさか、彼女は……。
わたしはトイレを開けると、鍋のフタを開けて、二人前以上ある豚汁を捨てた。ジャーと水を流すと、なぜ今までこれをしなかったんだと後悔した。冷静に考えれば、お隣さんとはいえ、見ず知らずの人間が作った料理を食べるなんて行為は、今のご時世、危険なのでは。そう思った。
その夜――悪夢を見た。
どんな内容かと問われれば、はっきりと思い出せない。ただ、不気味な夢だったとしかいいようがない。何かに追われて、追い詰められて、そのまま布団に押し付けられて。やたら現実的な肌触りがあった。
目覚めると、窓の外は雨。下着はぐっしょり濡れていた。
翌日、彼女がいないのを見計らって、彼女の部屋のまえに鍋を置いた。
今日はベルが鳴っても出ないことを決めていた。彼女はわたしがずっとテレワークだというのはしらない。どんな会社に勤めて、どんな仕事をしているか教えていないので、わたしは外出していると思ってくれればいい。
面と向かって、もうおすそ分けは結構ですと断るのもこじれそうでいやだし、今までの経験から、いくら拒否しても彼女から強引に鍋を手渡される可能性もある。そのため、居留守によって、相手に暗にわからせることが一番良い策のように思えた。
午後六時――案の定、ピンポーンとベルが鳴った。
わたしは無視を決めこむ。
一分ほど経っただろうか、再びピンポーンとベルが鳴らされた。わたしは呼び掛けには応じない。考え過ぎかもしれないが、足音を聞かれるのがイヤだったので、身動きせずに部屋の中央で待機した。
十分経ってもベルは鳴らなかった。諦めて帰ってくれたようだ。これでいい。居留守を毎日決めこむことで、彼女に暗に理解してもらうんだ。それが誰も傷つかない、賢い大人のやり方なんだ。
この日のために、昼間、近所のスーパーで大量に冷凍食品を買ってきた。今日の夜飯は冷凍チャーハンだ。レンジに入れて、チンをする。一口食べると、なんだか妙に旨く感じた。思えば、濃い味付けの冷食なんて久しぶりだ。今まで、彼女の家庭的な料理ばかり食べていたから新鮮だった。元の生活に戻るだけだ。冷食や外食を繰り返す、独り身の食生活に。
最後の一口を食べ終わる前に、ふと嫌な汗が頬を伝った。
レンジの音って――隣に聞こえないよな。
まさかと思い、なるだけ音を立てずに玄関に向かう。
息を潜めてドアアイを覗くと――
彼女がいた。
両手に鍋を持って。向こう側からこちらを睨むように。
「ひっ」と思わず声が漏れる。今さら遅いが慌てて口をふさぐ。
ドア一枚隔てた向こう側に異常が存在している。明らかに彼女はおかしい。なぜ、こうまでしてわたしに執着する。わたしは、彼女に気をもたせるようなことは一切していない。
胃が逆流するような気持ち悪さを感じて、トイレに駆け込んだ。
便器にうづくまり、おええっと盛大に吐くとともに、そのまま体がしびれて動けなくなった。いったい、なんなんだ。
このとき、はじめて自分が得体の知れない存在につきまとわれていることを理解した。世に出る凄惨な事件の発端というものは、ふとしたことが切っ掛けとなって起こっていくのだろう。
なんとか立ち上がり、ふらふらと敷きっぱなしの布団に仰向けになると、そのまま意識が遠のいていった。
あれから何時間経ったのだろう。薄っすら目を開けると、部屋は灯もなく真っ暗であった。かろうじて窓から街灯の光がぼんやりと照らされるだけだ。朧気な意識のなか、なにかが聞こえた。
――……ら。
……ら?と宙に向かって口を動かす。
――……しら。
すぐ近くで声がする。
そのことに気付くと、はっと意識が覚醒する。まさか、彼女は勝手にこの部屋に侵入したのでは。呼吸を止めて、上半身を起こして身構える。暗いワンルーム。見る限り人の気配はない。さすがに合いカギでも持っていない限り、不法侵入はできない。緊張から解き放たれて壁に背をもたれかける。
すると、ふたたび声が聞こえた。
――……しら。
ごくっと唾を飲み込む。その声は、壁越しから聞こえてくる。よくないことが起こるとわかっちゃいるのだが、吸い寄せられるように耳を壁に当ててしまった。
――……のかしら。
ただ、おすそ分けをもらったばかりに。
――たべ……のかしら。
なぜ、こんなことに。
壁一枚隔てた向こう側に彼女がいる。
ずり……ずり……という壁に顔をこすりつけながら。
はああという息づかいまで聞こえて。
こちらの様子を窺っている。
*
ピンポーン――
スズメの鳴き声に合わせるように、部屋からどたどたと足音が聞こえた。「はーい」という朗らかな声とともに、がちゃりとドアが開く。
「あら? こんな朝早くにどうしたの?」
彼女だ。あれからわたしは決意した。警察に通報することも考えたが、ただでさえストーカー被害なんて事件として扱ってもらう可能性は低く、実害は出ていないと一蹴されるに決まっている。それに、女性が被害届をだすのでなく、男が被害届をだすので、なおさらだ。
もう、こうなったら直接対峙するしかない。あれから、ずりずりという壁を這う音が耳鳴りとなり、一睡もできなかった。このまま放置しては正気を保つことができない。わたしはきっぱりとこう告げた。
「もう結構です」
彼女は怪訝な顔をする。「いったい、なんのこと?」
「とぼけないでください。言いたくはありませんが、わたしはあなたに好意をもっていません。それに、もうおすそ分けはいりません」
「ちょっと……」
「はっきりいって迷惑です。これ以上、強引におすそ分けを続けるなら警察に通報します」
湿った朝に、緊張が粘りつく。
彼女が取り乱す可能性もある。何をしでかすかわからないので、いつでも対処できるように、ぐっと腹に力を込めて身構えた。
だが――そんな、わたしの不安は別のかたちとなってあらわれた。
「……ほんとうにいいの?」
いやいや、もしかしてわたしがこの関係を望んでいるとでも思っているのか。
「結構です」
「ほんとうに?」
「何度も言わせないでください」
「あなたたちはそれでいいの?」
「本当にけっこ……」
ここで何かが引っかかる。なんだ、この嫌な予感は。全てが崩壊する、負の引き金は。
「あなたはいいかもしれないけど、もうひとりは随分げっそりしているから、大丈夫なのかなって」
「えっと……」
「ちゃんと食べてないんじゃないの?」
ああ、そういえば思い出した。
「あまりにもお腹が減っちゃうと――」
あのとき、彼女が壁越しにささやいていたのは、確か――
「あなたが食べられちゃうわよ」
たべるのかしら。
目の前が黒く暗転する。
わたしが本当に逃げなくてはならないのは。
了
彼女の親切 小林勤務 @kobayashikinmu
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