彼女の親切
小林勤務
第1話 発端
さっきから、ずっとトイレにこもっている――
便座をつかみ、顔を底に近づける体勢のまま、どれくらいの時間が経ったのだろう。何回吐いても、嘔気は止まらず、この狭い場所からわたしを解放してくれない。夏場のトイレはただでさえ匂いがこもり、不快極まりないのに。
ここまで体に異変をきたしてしまったのには理由がある。
彼女だ。
彼女が、ここまでわたしのストレスを増大させているのだ。
きっかけは、一ヵ月前――
梅雨の夜だった。
わたしが勤める会社は、長引くコロナ禍によって全社的にテレワークを推進した。
片道一時間半という長い満員電車のストレスから解放されたものの、一日中座りっぱなしでパソコンと向き合うため、まず腰がやられた。そのため、適度な運動が必要だと理解して、業務を終えたら、夜の散歩にでかけるようになった。近所を三十分ばかり、ぐるっと回るだけだが多少気晴らしになる。一人暮らしのワンルームに一日中閉じこもるよりましだ。最近ではストレスからなのか、部屋の物音すら気になってしまう有様。案外、半ば軟禁状態であるオフィスワークも悪くはないのかもしれない、とさえ思ってしまう。
コンビニで弁当を買いマンションに戻ると、
「あら? お隣さんかしら? 最近、ここに引っ越してきたの。どうぞよろしくね」
齢は五十代だろうか。みるからに気さくな中年女性に声をかけられた。
「マンションってだめね。普段、誰とも顔を合わせないから、逆に不安になっちゃう。でも、お隣さんの顔がわかってやっと安心したわ~」
どうやら遠方から越してきて、慣れない一人暮らしに不安を感じていたようだ。その日は、ああそうですか、こちらこそよろしくお願いします、と簡単な挨拶だけをして部屋に帰った。
あくる日――
ピンポーンとベルが鳴らされた。どうやら、オートロックではなく直接玄関からのようだ。普段、わたしの家を訪れるものはいない。誰かと思いドアアイを覗くと、お隣の中年女性がいた。
面識はあるが、宗教の勧誘といったこともありえる。警戒心をもちながら玄関を開ける。「どうかしましたか?」
すると――
「ああ、ごめんなさいね。お仕事中だったかしら?」
「ええ、まあ……」
時刻は六時。仕上げなくてはならない報告書があり、まだまだかかりそうだ。
「これ、もしよかったらどうかなって思って」
視線を落とすと、彼女は両手に鍋を持っていた。
「カレーなんだけど、量を間違えちゃって。いやあねえ、一人暮らしだっていうのに」
映画やドラマではよくある光景だが、実際にこんなことがあるとは思わなかった。あまりに突然のことで、断るという選択肢が咄嗟に思い浮かばず、彼女にすすめられるままに鍋を受け取ってしまった。
「行き違いになったらあれだし、鍋は玄関の前に置いてくれればいいから」
とだけ言われて、彼女はにこりと笑った。
彼女なりのコミュニケーション……なのだろうか。東京でこんな場面に出くわすとは。
まさか、毒が入っているわけじゃないよな……?
まあ、狙われるいわれもないし、もしわたしに何かがあったら真っ先に疑われるのは彼女だし、いくらなんでもそんな馬鹿なことはしないだろう。
今日は十二時近くまで仕事がかかりそうだ。しかも、窓の外は生憎の雨模様。鍋から漂う香辛料の香りが食欲をそそる。ごくりと唾を飲み込んだ。
夜飯を食べにいくにも億劫だし、お言葉に甘えて頂くとするか。
その日、食べたカレーは懐かしい田舎の味がした。結論からいえば、外食ばかりのわたしにとって大変美味しかった。
翌日、午後六時――再び、ピンポーンとベルが鳴らされた。
「大したことなかったでしょう? ごめんなさいね。あんなもんで」
「いえいえ、美味しかったです。ごちそうさまでした」
「ほんとうに? あんなんもんでよかったら、またおすそ分けしてあげるわね」
「いえいえ、ご迷惑なんで大丈夫ですから」
彼女はこちらの話を聞いていないふうで、何を思ったのか「ちょっと待ってね」と小走りに隣の部屋に戻ると、ふたたび鍋を持ってきた。
「実はね、今日も作りすぎちゃったのよ。麻婆豆腐なんだけど、好きかしら?」
「いや……」流石に連続は結構ですと言いかけたが、
「なによう遠慮することないじゃない。お隣さんなんだから」と半ば強引に鍋を手渡された。「お腹減ってそうじゃない。若いんだから、大丈夫よね」
彼女はにこりと笑い、その場をあとにした。
またしても受け取ってしまった。なんだか一気に距離を縮めてきたのが気になったが、ご近所付き合いというのはこういうものかと自分を納得させた。昨夜に引き続き、外は雨。依然、仕事は片づきそうにない。鍋からはいい匂いが漂い、自然と唾液が口中にあふれてしまう。
昨日のカレーも美味しかったし、今夜も頂くか。鍋に入った麻婆豆腐はかるく二人前以上あったが、あまりの旨さにひとりで完食してしまった。
*
彼女はいつも決まった時間にやってくる。
午後六時。今年の梅雨は例年以上にしっかりと降り続き、水不足の心配はなさそうだ。
「私ね、普段は小学校で栄養士をやってるの。それでついつい作りすぎちゃうのよねえ」
彼女は背を向けて、外に向かってあそこよと指をさす。夜の街が広がるだけで、彼女がどこを指しているのかはわからなかった。見える?と訊かれて、返答に困る。
「子供が好きだからいいんだけど、毎日大量に残されるしね。給食ってあるのが当たり前だから、あんまり感謝はされないし……」
なんだかね、とぼやく。
確かに、給食って出ないと文句こそ言われるけど、あって当たり前だと思われているふしはあるかもしれない。
わたしが適当に相槌を打つと、彼女はこちらが聞いてくれるとふんだのか、せきを切ったように身の上話を始めた。大抵は職場の文句だったが、聞く限り、決して怪しい人ではないようだ。世間話が好きな気のいいおばさん、といった印象を持った。
「あ。また作ったから食べてね。今夜はボルシチよ。顔色悪いじゃない。たくさん野菜取らなきゃ」
みたび、断る隙を与えられず鍋を手渡された。流石に悪いと思ったが、素性を知ることで少しだけ距離も縮まったため、結構ですと言いづらくなったのも事実ではある。
「給食とちがって、反応があるから私もうれしいわ」
だが、この日を境に彼女のおせっかいは加速していった。
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