幕間 一
荒野を劈くヤツの声
拳の音がこだましていた。
そこかしこに埃が溜まっている古倉庫の中だった。
倉庫、と言っても内装は倉庫らしくはない。
まず目を惹くのは、リングだろう。試合でも使われるような四角いリングが中央に配置されている。
壁には何枚ものチラシが貼られていた。どれも、火星のリングチャンプを喧伝する派手なチラシだ。
あと目につくものといえば、パンチングボールやダンベルといったトレーニング用具。
そして、ちょうど今揺らされているぶっとい腸詰のようなサンドバッグが一つ。
──そこは、ボクシングジムそのものだった。
ボクシングジム、といっても寂れているという印象を抱かずにはいられないだろう。
リングロープはくたびれていて擦り切れそうな箇所がいくつもある。
キャンバスなんかは汗と血の滲みが残っていてろくに掃除もされていない。
パンチングボールも年季が入っている。そう言えば聞こえはいいが実際は使い古しなのだろう、そろそろ革が破れそうなものがそこかしこに見受けられる。
そもそも、火星の他のジムでは最新式のトレーニングマシンが徐々に導入されてきているが、ここにはそれらしきものは一つも見当たらない。
人の出入りも少ないらしい。本来ジムにあるべき活気どころか人が通わせる空気も乏しかった。
ジムとして機能しているのか怪しいくらいだった。
そんな様子に、拳を振るう雄吾は見向きもしちゃいなかった。
サンドバックが、激しい音を立てて軋む。
雄吾の左フックだ。
続けて左が二発、締めに右ストレート。
どれも骨をも砕かんばかりの拳だ。
サンドバッグも悲鳴を上げずにはいられない。
革には波が立ち、踏み込めば踏み込むほど、逃げるように後ろへと揺れる。
雄吾は、サンドバッグ相手にも容赦はしない。
さらに前へと踏み込んで、左、左、右、左。
サンドバッグを猛烈なラッシュで攻め立てる。
反動で返ってくれば、ステップを刻んで躱し抜き、角度を見切ってまた拳を穿ち抜く。
サンドバッグに──いや、己自身にも休む暇など与えはしないと言わんばかりの激しさだった。
がむしゃらだったが、決して闇雲ではない。
どの拳も常に急所や、猛烈な一打を浴びせるためのコンビネーションを意識して打ち込まれている。
闇雲の拳なんかじゃあ、勝ちなんて獲れやしない。
勝ちを獲る拳というのは、相手の心を砕く拳だ。
そんな拳を、男は探る。
コンビネーションをいくつも試し、どんな拳なら勝ちを獲れるか飽きもしないで探っていく。
雄吾が、また一歩を踏み出していった。
左、左、右、どの一発もサンドバッグに重たく叩きつけられるが、本命は次だ。
腕の角度は九十度、思い切りに肩甲骨を開き、”そこ”に拳を疾らせる。
────レバーブローッ
十八番の拳に、サンドバッグはまたも耐えられない。聞き飽きた悲鳴を上げながら身をくの字に歪ませた。
これがもう、数時間。
拳を叩いた数は三桁──四桁をも超えているかもしれない。
男の周りだけが、尋常じゃない熱気を孕んでいた。
水を被ったように男の身体は濡れている。
滴った汗は、水たまりのようになっていた。
なのに、サンドバッグを叩く男の拳は力強い。
むしろ、拳は数を重ねていくうちに苛烈さを増している様子すらあった。
サンドバッグが正面から返ってくる。
ふとその姿に、いつかの“ヤツ“が脳裏を過ぎる。
「────ッのッッ!」
バックステップで躱しながら、腰を入れた左ストレートをヤツの顔面に。
ついで、背中を思い切りに開いた右アッパーで顎を穿つ。
いいや、まだ終わらない。
逃げるサンドバッグを追って、拳をさらに打つ、撲つ、撃つ。
ガソリンをかけた火が一気に噴き上がったように、苛烈さに拍車がかかる。
負けたくせに清々しい笑みを浮かべやがった、あの憎らしい”ロナルド・ジャーマン”をぶっ倒す拳を畳み掛ける。
撃たれる前に、拳を放て。
ミドルレンジからのインファイト。左、右、左の強振をみじろぎも許さずぶちかます。
顎に、肝に、鳩尾に、テンプルに、笑みなんて浮かばせる余裕も与えない拳を喰らわせる。
余裕どころじゃあない。余裕を生む心をも砕かんばかりに、男は叩く。
凄まじい闘志だった。
いいや、滲むのはそれだけじゃあない。
畜生ッ──打ちつける拳はそう叫びたがっているようでもあった。
凄い男だった。それは認めていた。
それだけ追い詰められた。技術の差は圧倒的で、得意のインファイトも悉く封じられた。
文字通り死に物狂いなカウンターを狙って、ようやく勝てた相手だった。
認めたくなくとも、認めるところは素直に認め敬意を払わねば勝てやしない。否が応でもそう理解させられた男だった。
だとしても、憎らしい。
憎らしいのは如何に敬意を払ったところで変わらなかった。
「俺に負けたくせに……負けたくせにッ、どうしてあんな笑みを浮かべやがれたんだッ、アイツはッッ!」
空気が爆ぜたような音が響く。
抉り打った右ストレートに、ざあと落ちる砂の滝。
目の前には、今にも崩れ落ちんばかりな風穴の空いたサンドバッグ。
ろくな手入れをされていなかったせいか、それとも男の立て続いた拳に遂に敗れたか。
無惨なサンドバッグの姿に、雄吾は反吐を吐かずにはいられなかった。
体の中に沸々と湧いた熱が、まだ収まらない。
せっかく買った高い肉に舌鼓みを打っても、数時間猪武者のようにサンドバッグを叩いても、体の中で煮え激った熱をどうにかすることはできなかった。
負けってのは悔しいもんだろ
笑みを浮かばせるなんてできやしねえくらい、悔しいもんじゃあないのか
俺はそうだ
悔しくて悔しくて、飯も不味くなりゃ首だって括りたくなるってのに
それなのに、奴は────ッ!
男の顔が、あまりにも醜く歪んでいた。
剥き出しの歯。
無数に皺が寄った眉間。
化物のように迫った瞳。
先ほど己が散々歪ませたサンドバッグ以上に、歪んでいた。
勝者の顔とは思えない表情だった。
勝つには勝った。勝ちはその手に握られた。
だが、あの程度の勝ちで──相手に笑みを浮かばせる程度の勝ちで満ち足りていたなら、男は破れるまでサンドバッグを叩いてなどいやしない。
結果だけの勝ちなど、勝ちたり得ない。
もっと、空きっ腹が美味い飯で満ちるような勝ちが欲しい。
心の底から俺は勝ったんだと、叫べるような勝ちが欲しい。
悔しさに悶える昨日の自分など、振り切ってしまえるほどの勝ちが──
『そうだ、昨日より今日だ!
昨日の自分に勝つんだよッ、雄吾ッッ!』
懐かしい声が、鼓膜に劈いた。
ような、気がした。
辺りを見回しても人の影はどこにも見当たらない。
人の放つ温度すら感じられない。
元から、このジムを使っているのは雄吾一人だ。雄吾の人柄も相まって顔をだす人間は物好きしかいない。
その物好きも、今日は来ていないはずである。
だとすれば、幻聴か。
聞こえもしないはずの声が聞こえたというのか。
それはそれとして、アテはあった。
いつまでも鼓膜に残るあの濁声なら、聞こえたっておかしくはない。
「……全く、あのおっさんはいつまでも……」
思わず、呆れ笑いが浮かんでいた。
ゴシゴシと頭を掻くと、思い出したように足がどこかに向かい始める。
寄り道に冷蔵庫から手付かずの酒とブロック肉を取り出して、おもむろに歩む先はジムの裏。
狭い敷地だが、ちょうど日が当たる見晴らしのいい場所だった。
そこに、ポツンと石が一つ置いてあった。
立派とはいえないが、両手では収まらないくらいには大きい。
無骨で、日を背にしてるせいかやたら堂々とした石だった。
ついで、石に立てかけられてるのは写真。
少しくたびれた古い写真だ。
無骨な石に相応しい筋肉質で髭面の男が、歯を剥き出しにして笑っていた。
石と向かい合うように座った雄吾も、それを見て思わず笑みを溢す。
「よう、坂東のおっさん。相変わらずアンタはうっせえな」
きゅっぽん、と小気味のいい音を立てて酒の瓶を開けると、勿体無さすらどこ吹く風でトクトクと石に酒を注いでやる。
”坂東のおっさん”は、酒が好きだった。
「確か、この銘柄だったろ。十年以上も一緒に暮らしたんだ、ちゃんと覚えているぜ。それに、アンタのミットの姿もな」
他の誰にも向けることがないような、親しげな口調だった。
売り言葉に買い言葉の勢いでボクシングを始めた、そのきっかけになった男が坂東だった。
なにせ、出会いはケンカまがいだった。トレーニングも、どつきあいを繰り返すようなスパーリングばかりが記憶に残っている。
それでも、奴の構えたミットは神経の奥深くまで、忘れようもなく刻まれていた。それこそ、試合でも見えてしまうくらいには。
数年前に病で死ぬまで、この男は確かに雄吾を鍛え上げたのだ。
この男がいなければ、リング荒らしの雄吾はどこにもいなかったのかもしれない。
「やっぱ、アンタがいねえトレーニングは物足りねえな。アンタと馬鹿みたいに殴り合うスパーは楽しかった。こんなこと言ってばかりじゃあ、勝ちなんて獲れねえのはわかってっけどよ」
思い出語りをするうちに、瓶の酒は勢いよく減っていく。
この瓶をそのままラッパのように飲み干して、ケロッともう一本に手を伸ばす坂東の姿を思い出す。
下戸である雄吾には真似ができないし、酒はボクサーにとって大敵の一つだ。あまり尊敬できる姿じゃあないな、と当時はため息すら漏らしていた。
元から尊敬もへったくれもない。
大人げもなく自身をぶちのめしたこの男をぶっ倒すのが最初の目的だったのだから、尚更だ。
『昨日の自分に勝てねえようじゃあ、お前をボコした俺になんて勝てねえぞッ!』
「わあってるよ、おっさん」
もう瓶に、酒は一滴も残っちゃいなかった。
死んでも、酒豪ぶりは相変わらずらしい。石が全て飲み切ってしまっていた。
そうだ、いつまでも昨日を引きずっていてもしょうがない。
昨日の自分に勝つために、今日の自分がいる。
昨日の自分に勝てなきゃ、目の前に立った相手にもきっと勝てない。
ロナルド・ジャーマンは言っていた、もう一度戦いたいと。
きっと奴も昨日の自分を超えてくる。
昨日のままの自分じゃあ、あんな勝ち方をさせられるどころか、汚泥を舐める羽目にもなりそうだ。
それは、嫌だ。
嫌ならどうする。
──答えなんて、とっくのとうに決まりきっていた。
「さて、と……そろそろ休憩も終わりだな」
そう呟くと、伸びをして立ち上がる。
「後は肴がわりの肉だ」
と、手に持っていたブロック肉を供えようとするが、出したところでその手が止まる。
二、三秒。
そして、肉を持った手が引っ込んだ。
「……死んだ人間にくれる肉は、やっぱねえわ」
草葉の陰から、怒鳴り声が聞こえてきそうだが、死人に口などありゃしない。
火星で肉は高価な代物だ。特に獣肉は、人工肉が主流となった火星では贅沢そのもの。
そして肉は、雄吾にとっちゃ譲れないものの一つだ。
せっかくファイトマネーで買ったご馳走を死人に食わせるなんて優しさを、雄吾は持たない。
どうせだったら、次の勝ちの肴にしたほうがずっと肉もいいだろうて。
「そういうこった、おっさん。次は勝ちを獲った後に来るぜ。今度は、ケチのつけようのない勝ちを引っ提げてきてな」
──好きにしやがれ
歯を剥き出しにした笑みの写真が、そう言うように笑い飛ばしていた気がした。
ジムに戻ると、男はロープを潜ってリングに上がっていた。
首を一回、二回と鳴らすや、両腕を高く構え膝でリズムを刻み始める。
ステップを踏み、目線が真正面を見据えた。
一呼吸。
鐘が、鳴った。
刹那、ジャブが奔る。
ストレートが唸る。
フックが、アッパーが、またストレートが風を切る。
汗が散った。
その散った雫を弾くように、拳が駆けた。
常に視線は、見えない獲物の喉笛を狙い澄ましていた。
男のトレーニングは終わらない。
いいや、これはトレーニングなどではなかった。
瞳に浮かぶ一人の影。
憎らしいあのロナルド・ジャーマン──じゃあない。
目つきが野良犬のように飢えており、イメージながら苛烈に拳を振るってくるその男。
殺気立った影は、己そのものの姿をしていた。
其奴に、雄吾も容赦のない拳を叩き続ける。
そろそろ、昨日の悔しさを引きずるのも最後だ。
悔しさを握る、昨日の己をぶっ倒せ。
超えてみせろ、笑わせる程度の勝ちしか獲れなかった昨日の己を。
本物の勝ちを獲らんとするなら、まずは己一人くらい簡単にのめしてみせろ。
烈火の如く迫る拳を受け流し、躱し抜きながら、拳を撃ち抜く一歩を男は踏み込む。
無尽の荒野をゆくに相応しい、力強い一歩がキャンバスに刻まれていた。
荒野をゆけ 一齣 其日 @kizitufood
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