荒野に立つ紳士 FINAI ROUND

 第4ラウンド、ゴングと共に雄吾の足がキャンバスを蹴った。

 鐘の音がまだリングに残っている間に、ジャブがロナルドのガードを突いた。

 続け様に右ストレート、ジャブ、ジャブ、フックと拳を重ねていく。

 ロナルドの反応は、鈍かった。

 3ラウンド目に喰らったダメージに体ががんじがらめにされているのだろう、ちょっと強く小突いたジャブですら固めたガードは綻びを見せていた。

 脚はろくに動いちゃいない。ロナルドの華麗だったフットワークは、失われてしまっていた。

 できたことといえば、亀のようにガードを固めてただひたすら雄吾の猛攻を凌ぐだけだった。

 そんなロナルドを前に、拳は加速する。

 この男もまだ完全にダメージが抜けているわけではないのに、嵐を思わせる凄まじい拳でロナルドをガードの上から叩く。

 一気に決めにかかっていた。

 綻んだガードに目ざとく拳を突き入れ、時には無理やりグローブでガードを押しのけ叩いて叩く。

 やっと手にした勢いを手放すなんてできるわけがなかった。

 こんな肝心なところで気を緩ませて汚泥を舐める結果にでもなってみろ、雄吾はいくら自分を殺したってやりきれやしないだろう。

 なればこそ、苛烈になれた。

 いくら痛みという鎖が体を縛っていても、目の前の勝ちを獲るためならば、男はどこまでも苛烈になれた。

 ロナルドの腕に、水面を打ったような波紋が止めどなく立つ。

 固めた腕の上からでも受けたパンチの衝撃を耐え抜くことは難しいのか、くず折れそうになる身体を必死に支えているようにも見えた。

 反撃しろと、必死に訴える観客。

 ついにリングチャンプがここで倒れてしまうのかと、不安のあまり目に涙を溜める長年のファンの姿もあった。

 構わず、リング荒らしの拳がリングで唸る。

 顔面めがけてぶつけていた礫が、突然に軌道を変えた。

 拳が、低い軌跡で小さな弧を描く。

 ボディブロー。

 正面に意識を取られていたガードを超えて、グローブが脇腹に波を立てた。

 リング外まで響く様は、まさに銃声音。

 前に折れる、ロナルドの体。

 無防備にも差し出された頭。

 絶好のチャンスが雄吾の前に転がっていた。

 とどめを刺しに行かないわけがなかった。

 左右の肩甲骨を開き切り威力を底上げしたスマッシュが、差し出されたロナルドの頭蓋に放たれる。

 喰らえばダウン必至の拳が、着弾する。

 刹那、閃光が瞬いた。

 スマッシュを放ったはずの雄吾の頭部が、跳ね上がっていた。

 血が飛沫く。

 アッパーカット、ロナルドのカウンターだった。

 差し出した頭は布石だった。

 十分に沈めた上体を押し上げて生み出した反動に乗せて、雄吾のスマッシュに見事カウンターを合わせてみせたのだ。

 見事、その二文字を送るべきはむしろ雄吾の側か。

 顔面を跳ね上げられながらも、雄吾の体は沈まない。

 バックステップでロナルドから距離を取り、体勢を立て直す。

 頬を刀傷が如く切り上げられながらも、クリーンヒットは避けていた。

 着弾の直前に無理やりパンチの軌道に顔を流し、威力を削ぎ落としていたのだ。

 これぐらいの芸当の一つや二つ見せてきてもおかしくはない、そう敬意を払えばこそできた対応だった。

 そうだ、敬意だ。

 数多の拳を喰らわされながらも、ずっとガードの向こうから己を狙い澄ますロナルドの視線に、どうして敬意を払わないでいられるか。

 勝負を全く諦め切っていないからこそ、雄吾はギアを上げたのだ。


 この程度で俺は止ま────ッ?!

 

 逃さない。

 そう言わんばかりの拳が、目前。

 防ごうとしても遅かった。

 ロナルドの鋭い左が雄吾の顔面を弾く。

 鼻から熱いものが溢れる。

 身体は、仰け反らない。

 怯みは一瞬だけだった。

 すかさず返すは左拳、しかし、グローブの先にロナルドの姿は無かった。

 たった一瞬が、雄吾を一手遅らせていた。


 ────左ッ

 

 当てられた殺気に視線が向かんとしたと同時に、今度は側頭部が弾けた。

 一閃、再び。

 拳を打ったタイミングを見計らって、雄吾の左サイド、背中側からテンプルを狙ってストレートを突いたのだ。

 脳が、揺らされる。

 倒されるほどのダメージでは無かったが、反しの拳を握る時間は完全に潰されていた。

 雄吾が体勢を立て直す前に、勢いに乗じたロナルドの拳が叩く、叩く、叩く。

 やぶれかぶれの滅多打ち、だなんて言葉は似合わなかった。

 正確無比。

 いくらガードを固めても、針の穴を通す的確さで綻びを拳が打つ。

 ウェービングをはじめとした上体の動きで凌ごうとしても、コンピュータじみた正確な読みで雄吾の動きの先を行き、確実に捉えて喰らいつく。

 ましてや、一方的な展開を許してやれるかと反撃の兆しを見せたとて、一段上を行く拳が次々と出鼻を挫き、鋭さに磨きのかかったカウンターが牙を剥く。

 リングチャンプの繰り出すコンビネーションも、見せつけてくるテクニックも、一層研ぎ澄まされている。

 それでいて、相変わらず中距離以上には踏み込まない。踏み込んだとしてもヒットアンドアウェイで、握った拳を返すにはすでに届かぬ位置に身体は置いている。

 それまで防戦一方、幾多の傷とダメージとを背負った身体とは思えない、驚異すら覚える攻めざまだった。

 流れが、ロナルドに傾いていく。

 遂に反撃の狼煙を上げたリングチャンプに、観客は総立ちだ。


 ──いけッ、ロナルドさんッ!

 ──アンタは俺達の誇りだッ!

 ──ロナルドさんッ! そこだ、ロナルドさんッ


「わかって……いるともッ!」

 次打つ拳が、速度も精度も過去の拳を超えていく。

 拳を重ねれば重ねるほど雄吾の反応も置き去りにしていっていた。

 鉛のように重たかった脚が、今じゃ羽根のように軽い。

 熱を帯びてきた声援に文字通り背中を押されたか、崖っぷちに立たされたはずの体が思い描く以上に突き動かされる。

 そうだ、これこそロナルドが離さず背負ってきたものだ。

 誇りを背負い、期待を背負い、失う恐怖と戦ってここまできた。

 その強さが、決して彼に劣るとは限らない。

 否、劣ってなど断じてない。

 今更気付かされた、彼らがいつも背中を押してくれていたからこそ、恐怖を乗り越え、夢に向かって明日へと邁進できていたのだと。

 なれば、ロナルドが為すことは決まっている。

 栄光の明日に踏み出せ。

 夢に向かって、拳を伸ばせ。

 声援が熱狂の渦を巻く。

 その渦を乗せた渾身の一打一打を、雄吾の身体に強く深く撃ち刻む。

 何も持たぬリング荒らしには、決して手の届かない拳だった。

 追い立てるような左ストレートが雄吾を撃つ。

 さらに、右の強振が固めた腕の間に捩じ込まれ、これを崩した。

 ロナルドの目前に晒される、雄吾の右テンプル。

 閃光が、また雄吾に向かって瞬いた。

 空気を裂く音が顔面に迫る。

 そのスピードは、スウェーもダッキングも間に合わせない。

 万事休す、喰らえばノックアウトは必至だった。


 だからって、俺は────!


 凄まじい音が、鳴った。

 その光景を切ったシャッターには、リングを照すライトでキラキラと舞う汗と血とが映っていた。

 ぐらりと揺らぐ影は、二つだった。

 見ろよ、ロナルドを。

 雄吾を撃った腕の上から絡むように放たれたグローブが、奴の顔面に突き刺さっているじゃあないか。

 クロスカウンター、だ。

 躱すことも、防ぐことも叶いやしない。

 目前にグローブが迫ったその時、雄吾の瞳には拳でもロナルドでもなく、『ミット』が見えていた。

 昔、勝ちを獲るために骨の髄まで叩き込んだ、”ヤツ”が構えていたあの『ミット』が確かに見えていた。

 だったら、やることは一つだけだった。

 相打ち覚悟、事実雄吾の頬にはロナルドの拳が突き刺さっていた。

 喰らった頬骨はとてもじゃない音が鼓膜にこだましていた。

 もらったダメージは見た目通り決して軽くはない。

 もうあと糸の一本でも切れたら、途端にリングに沈んでもおかしくはない。

 下手を打てば、この先のボクシング人生に支障をきたす傷痕を残すかもしれなかった。

 ──構う、ものかよッ!

 前に進む脚が、アクセルを思い切りに踏み込んだ。

 不意の渾身を喰らい驚きに顔が染りながらも、リングチャンプは未だ拳を構えている。

 落ちそうになる膝を支えて、再び熱狂の渦を拳に乗せて眼光を雄吾に向けて狙い澄ましていた。

 つくづく、払った敬意を超えてくる男だった。

 はじめにアッパーが切り上げた頬からは、まだ血は止まりそうにない。

 一転攻勢のラッシュには、技術の高さに追い付けない己の不甲斐なさに何度歯噛みしたことか。

 次第に精度と速さを増す拳には、もう思考を放棄したくもさせられた。

 されど、舌なんぞは巻いてやらない。

 男は、勝ちを獲らなきゃしょうがない。

 明日なんて知ったことか。

 後のことを考えるのは、後の自分に任せればいい。


 そうだ、明日なんざどうだっていいッ 

 俺が欲しいのは明日よりも何よりも、今日だッ

 今日、今この瞬間の勝ちを獲らなきゃ、明日が来たってしょうがねェんだよッッ!


 雄吾は、止まらない。

 懐に入れさせまいと放たれた拳に体を打たれながらも、ブレーキを踏むことは決して無かった。

 ガードもディフェンスもへったくれもない。

 絶え間なく繰り出されるロナルドの拳が雄吾を打つが、腹が波を打っても顔面の形が酷く崩れても、雄吾の前進に緩む気配はなかった。

 上下のジャブで意識を散らそうと仕掛けても、リング荒らしは見向きもしない。

 良い一打を喰らわせたとしても、リング荒らしは臆さない。

 確かな手応えを得た、そう確信を得たロナルドがコンマ一秒後には顔面を弾かれていた。

 ノーガードカウンター。

 ディフェンスをも捨てた男は、ロナルドの拳が己を撃ったその瞬間を狙い、まだハッキリと見える『ミット』へと拳を返したのだ。

 技術に水をあけられている雄吾が、ディフエンスにまで頭を回していたら到底ロナルドには敵わない。

 なればこそ、被弾覚悟で意識全てを攻撃に集中する。

 奴が攻撃の瞬間、どうしたって狭まるだろう視界の外から、ロナルドの喉笛に喰らい付く。

 雄吾の頬は生々しい青痣と鬱陶しい血にすっかり染まっているにも関わらず、自身を打つ拳に遅れずロナルドに拳を刻み込む。

 ジャブにも拳。

 フックにも拳。

 ストレートにも、拳だ。

 コンマ一秒後じゃあまだ遅い。

 速く、疾く、奴よりも迅く。

 勝つためにはなりふりだって構わない。

 明日が訪れなかったとしても今日が欲しいこの男は、自身に積み重なるダメージなんぞに目もくれない。

 男は、愚直に愚直を重ねて今日に全てを賭ける。

 爪で肉を抉られ、突き立てられた牙で血を流しても構いやしない肉食獣のように、拳を振り上げロナルドに見えた『ミット』を叩く。 

 苛烈だ。

 苛烈で野蛮、ただただアグレッシブなだけの拳が、技術に磨きをかけた拳を真正面から粉砕していく。

 相打ったとは思えない拳のキレは、ロナルドの肉を切り、骨をも削らんばかりの凄まじさ。

 ロナルドには、理解ができなかった。

 まるで、今ここで死んだって構わないと言わんばかりの拳をどうして撃てるのか、さっぱりだった。

 死んでもいいなど、何故思える。死んでしまったなら明日に手を伸ばすことも叶わないじゃあないか。

 思わず巡った思考を、リング荒らしは有無も言わさず顔面ごと叩き潰した。

 ただ一点を目掛けてひたすらに牙を構える男の凄味は、人間どころか獣にすら見えなんだ。

 化け物だ。

 得体の知れない化け物とでも戦っているような気分だった。

 体が冷や汗に濡れていく。

 拳を打つ腕はすっかり鳥肌まみれだ。

 荒れる息は疲れとダメージからなのか、瞳に映る奴に臆されているのかすらもわからない。

 脚を折ってリングに膝をついたならどれほど楽だろう、などというみっともない思考すら脳裏を過ぎった。

 しかしだ。

 熱狂の渦は、まだ止まらない。

 張り上げた数多の声がさらにリングに響き渡り、渦は勢いを増していく。

 憧れの男だってセコンドからずっと自分の背中を見守ってくれている。

 言葉は無いが、眼差しはロナルドに真っ直ぐだった。

 無様な姿は、見せたくは無かった。

 何より、奴のボクシングの野蛮さにこのロナルドが負けるわけにはいかない。

 父から継いだ、打たれずに打つを理想とする本来のボクシングが、荒々しいだけの野蛮な奴のボクシングに負けるなど、決して許してならない。


 何よりも、このロナルド・ジャーマンには夢があるッ!

 誰にも譲れない、夢がなッッ!


 ロナルドが、息吹く。

 栄光の明日を男は諦めない。

 勢いを増した渦を乗せて放ったは、右ストレート。

 それがリング荒らしの鼻先に触れるその前に、ロナルドの顔面は弾かれていた。

 雄吾の左がロナルドの拳に追いつき、抜き去った。

 顔を打たれた勢いで足がもつれ、背中がロープすれすれにまで追いやられる。

 雄吾の足がさらに力強くキャンバスを蹴って、ロナルドを仕留めにかかる。

 あまりに殺気立った踏み込みだった。

 当然だ、身体中の神経がリングチャンプの冷たいあの視線をひしひしと感じているのだ。

 鼻が曲がり血が滴って端正な顔が台無しになっても、怯みをも見せず据えた瞳で雄吾を映し、ロナルドは拳を構えている。

 追い込まれたロープ際、勝負を賭けんとする男の姿がそこにはあった。

 背筋に冷たいものが奔ってゾクゾクする。

 裏腹に、体の底から熱いものが込み上げて、心臓を叩く音が加速していく。

 勝っても負けても、たった数秒で全ては終わる。

 この数秒が、堪らない。


 凄えよ、ほんとにアンタは凄え男だ

 こんなに熱くなるのは久々だ……払って良かったぜ、敬意をよ

 ──でもな、勝たなきゃあ全部台無しなんだよ

 勝って終わりにしてやるッ

 勝ちを獲るのは──俺だ、リングチャンプッッ!

 

 雄吾とロナルドの視線がぶつかり、火花が散った。

 間合いが詰まる。

 リングチャンプの左が僅かに動くのを、雄吾は見逃さなかった。

 拳が放たれるだろうタイミングに被せて、リング荒らしの右ストレートが奔る。

 クロス狙いの一撃は猛烈なスピードだった。

 ロナルドに拳を出す間も与えなかった。

 軌道も正確だった。

 なのに、拳は虚しいばかりに空ぶっていた。

 刹那、死神の鎌を首にでも当てられたような、怖気。

 視線だ。

 あの冷たい視線が、近い。

 懐を見ろよ。

 そこにいるのは紛れも無くリングチャンプだ。

 左の拳の代わりに踏み込んでいたのは、右足。

 サウスポー。

 土壇場のスイッチ、左のあの僅かな動きはジャブでもストレートでもない、カウンター続きの雄吾を嵌める罠だった。

 右足を踏み込みざま、誘ったストレートを躱すと同時に距離をさらに詰めていた。

 獲物を捉えた眼差しは、もう二度と喉笛を逃さない。

 拳が唸る。

 リングチャンプが咆える。

 勝利を掴まん右拳が打つは、チェックメイト。

 充分に距離を詰めたテンプルに狙いを澄まし、最後の閃光は放たれた。

 グローブの白が、眩い拳線を描く。

 拳が呼んだ颶風で汗が舞った。

 同時に、歓喜をも呼ぶはずだった拳がもたらしたのは、驚くほどの虚無だった。


「舐めんじゃあねェぜ……!」


 リング荒らしは、健在だった。

 グローブは髪の毛に触れさえしていなかった。

 不意だったはずの拳は、膝ごと頭を沈めたリング荒らしに躱し切られていた。


 テメェが最後に狙うのはいつもテンプルだったな、リングチャンプ

 忘れるものかよッ、テメェの拳一つ一つをよォッッ!

 

 勝ちを獲る、ただその一点にのみ向かってひた走る執念は伊達じゃあない。

 散々喰らった拳を、どうしてこの執念が忘れることができる。

 その拳から勝ちを獲るために、男はここに立っていた。

 屈辱を舐めた拳を忘れることなど、雄吾には死んだってできやしない。

 何より、ダウンを喰らわされた拳なんぞは身体の芯深くまで刻まれていた。

 リーチもタイミングも、ましてやクセだって、体を焼く痛みでハッキリと覚えている。

 不意のフィニッシュブローだったとしても、避けられない方が馬鹿だと言わんばかりに、余裕をかまして雄吾は躱し抜いていく。

 牙を剥いた先には、ガラ空きになったボディがあった。

 思わず口端が上がっちまうほど、ハッキリと『ミット』が見えていた。

 ブレーキがぶっ壊れちまうくらいにアクセルを踏み切れ。

 身体が焼けちまうほどフルスロットルにエンジンを蒸せ。

 針の振り切れた拳は、ロナルドのガードも間に合わせない。


 桁違いの純度で迸る執念は、もう誰にだって阻むことなどさせやしなかった。


 号砲、劈く。

 ぶちかました拳は肉ごと中身を貫くように打ち抜き、抉り穿った。

 衝撃が、一点から身体中を稲妻の如く駆け抜けていく。

 忘れ得ぬことなどできやしない、指先にまで至る全身の神経が悲鳴を上げるこの一打。

 再びのレバーブロー、もう二度とは喰らいたくない拳だった。 

 それも腹に拳痕がありありと刻まれた一打の痛みは、ロナルド以外には計り知れない。

 いくらマウスピースを食いしばっても、踏み止まる事は叶わない。

 視界が、どうしたって落ちて行く。

 膝がリングに着いた。

 力を込めても、ガクガクと震える脚を落ち着かせることはできない。

 脚どころじゃない、身体中が言うことを聞いてくれそうにはなかった。

 リングにぶっ倒れそうになる体を支えるだけで、精一杯だった。

 それでも、レフェリーは泣きそうな顔でカウントを数える。

 誰が見ても決着がついた試合を、それでもと顔をくしゃくしゃにさせながらカウントを張り叫ぶ。

 くしゃくしゃにするのは、何もレフェリーだけじゃない。

 ──ロナルドさん! 立ってよ! 立ってあのリング荒らしを倒しちゃってよぉ!

 涙交じりの幼い声が、リングに向かって投げかけられていた。

 それを皮切りに、観客たちもロナルドの背中を押して奮い立たせようと、声を張り上げる。

 暖かかった。

 敗北に瀕して、しかし決して見捨てない観客の優しさが、心に沁みた。


 ────だから、残念だ


 ロナルドがセコンドに向くと、今もなおロナルドを見守ってくれていた父と視線が合った。

 父は暖かい眼差しで頷いてくれた。

 カウントがゆっくりと進む中、リングに舞った影が一つ。

 ロナルドの父が、真っ白なタオルを投げていた。

 レフェリーどころか、会場中が水を打ったようにしんと静まってしまっていた。

 涙が落ちる音、鼻を啜る音ばかりがこだまする。

 目の前の現実をどうしても拒絶したい、そう言わんばかりな静寂だった。


「潔いんだな、リングチャンプ」


 不遜な物言いが静寂を破る。

 雄吾だ。

 リングに落ちたタオルを茫然自失なレフェリーに変わって手に取っていた。

「リングチャンプだったら、負けを認めるなんざ屈辱以外の何物でもねえと思うんだがな」

「……君の言うとおりだよ。屈辱さ、私だって」

 絞り出すような声で、ロナルドは応える。

 身体中の脂汗が、彼が背負ったダメージを物語っていた。

 指先すらまともに動かない。

 口を開くことも、正直に言えば無理をしていると言っても過言ではなかった。

「認めたくないよ、私も。でもね……ここまでされたなら認めずにはいられないじゃあないか、敗北を。君の執念に、私は負けた」

 敗北。

 リングチャンプが発した言葉に、傍で彼らの言葉を聞いていたレフェリーの瞳から徐に雫が落ちた。

 裏腹に、雄吾は眉を顰めている。

 耳にするのも嫌いだった、その二文字は。

「もしも、ここに膝をついているのが君だったら、君は私とは違う答えを出すのだろうね」

「……」

 沈黙。

 だが、ロナルドの言葉の通りであるのは確かだ。

 体が言うことを聞かなくたって、痛みに脳髄がままならなくなっていたって、この二つの脚は立とうとするだろう。

 死んだって、自ら敗北なんざ認めたくなどない。

 敗北を自ら認めることなど、死ぬ以上に屈辱なのだ。

 諦めの悪さは人一倍。

 否、常人の比ではない。

 散々足掻いて、踠いて、意地を張った今が、何よりの証明だった。


「でもね……たった一度の敗北で、私は終わらないよ」


 ロナルドの眼光が、雄吾に向く。

 敗北の汚泥に体を沈めてなお、鋭い輝きは失ってなどいなかった。

 一層強く、鋭さが増していた。

「まだ、私には明日がある。栄光が来なくとも今日の敗北は糧となる……栄光の明日に近づく糧にできるのだよ、雄吾くん」

「……だから、なんだってんだよ」

「───次は、負けない」

 負け犬の遠吠え。

 そう切り捨ててもおかしくない言葉のはずなのに、真実味のある重さがその言葉にはあった。

「私は、またいつか君に挑戦しよう。私には、夢がある。こんな敗北一つでは、やっぱり諦められない夢が、ね。だから、君を倒して私は夢へとまた進む」

 清々しい笑みだった。

 暗い澱みひとつも感じさせない。

 清々しすぎて、払っていた敬意も吹っ飛んでしまっていた。

 代わりに湧き上がるのは、沸々とした、黒い熱。

 気付かないうちに奥歯がぎしと、唸っていた。

 笑みは、未だ戸惑いの渦中にいたレフェリーへも向けられた。

「さあ、レフェリー……勝者の腕を上げたまえ」

 その物言いが、腑を煮立たせてしょうがなかった。

 負けたコイツが、何を偉そうに言っているのだろう。

 敗者が、そんな口の利き方をしてくれるものだろうか、普通は。


 ──違うだろ


「……腕くらい一人であげられるぜ、リングチャンプ」

 言うや否や、雄吾は自ら腕を掲げあげた。

 高らかに、しかしどこか、やりきれないものを突き上げるようにやり投げで、震えていた。

 いつもあるはずの気持ちよさは、どこにも無かった。

 折角獲った今日は、味わう前に腐ってしまった。

 死に物狂いだったはずなのに、今じゃあもうドブの底に捨ててしまいたい。

 相手にヘラヘラと笑みを浮かばせるような勝ちじゃあ、台無しだ。

 奴にそんな顔を浮かばせる程度にしか、己は勝てなかったのか。

 その程度の勝ちしか獲れなかったのか、己は。

 この程度の勝ちで、喜んでいられるほど奴は、ちっちゃな男じゃあない。


 俺は、死んだっていいくらいの勝ちが欲しい──ってのになんだ……

 ────なんだってんだッ、畜生がァ……ッッ!


 掲げた腕を振り下ろすと、雄吾の眼差しがロナルドへと向いた。

 ロナルドの瞳は、敗者にしては妙に光があった。

 見上げる立場でありながら、清いものがそこにはあった。

 膝をつきながらも健闘を称え合おうとばかりに、グローブを伸ばす。

 気に食わなさはひとしおだった。

「……お前は言ったなロナルド・ジャーマン、俺を倒して夢に進むってよ」

「ああ、言ったとも」

「だったらなあ……ッ、何度だって俺はテメェをリングに沈めてやるッ、そんな顔二度とさせてやらねえくれえになッ──いいなッッ!」

 伸ばされたグローブを、撥ね付けた。

 粗暴な振る舞いにまだ清々しい笑みを向ける一人の紳士の顔など、もう見たくもなかった。

 勢いに任せて背を向けるや、振り返りもせず奴はリングを降りていく。

 雄吾の態度に非難の声を上げる観客も、投げつけられてくるビンや缶なども知ったことじゃなかった。

 こんな荒野に向ける目など、奴の中から失われていた。

 満たされない。

 少なくとも、今日のような勝ちじゃあ満たされやしない。

 欲しいのは、日照りを行く喉を潤すような、空っぽになった胃を満たす肉汁が迸った極上の獣肉のような、そんな勝ちだ。

 じゃあなければ、勝ちは勝ちにたり得ない。

 歩みを止めないで、いられるか。

 勝ちたり得ない勝ちなんざ、それしか獲れやしなかった己自身に腹が煮え立つだけだった。

 男は、進む。

 飢えと渇きとを抱えて、男の足は次の勝ちを求めて荒野へとまた踏み出していく。

 数多に傷を背負った野良犬の背中は、明日なんて見えない五里霧中を彷徨っているようなのに、今日をゆく歩みだけはやたらに力強かった。

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