荒野に立つ紳士 ROUND4

 ロナルドが、立つ。

 よろめいて、息が上がっていた。

 全身には球のような脂汗が噴いている。

 たかが一発だけなのに、ロナルドの脇腹は青く拳痕が滲んでいた。

 それだけで、彼の身体にいかほどのダメージがあるのか察したのか、ロナルドを見守るセコンド陣の顔は青い。

 ただ、ロナルドはこの間、一瞬たりとも雄吾から目を離さなかった。

 自身に膝をつかせたチャレンジャーをひたすらに見据え、ファイティングポーズを取ってみせた。

 ゆっくりと進むカウントを、目一杯に使っていた。

 しかし、リングチャンプは未だ沈まず、男の背中はそう語っているようだった。

 不安げになりながらも、レフェリーは再開の合図を取るしかなかった。

 残り時間は二十秒にも満たない。

 肝臓に食らったダメージは、10にも満たないカウントで回復できる代物ではなかった。

 雄吾にもまだダメージは残っている。ロナルドのダメージに合わせ、休みに徹するのも作戦としては悪くなかった。

 男が取った選択は、攻めだった。

 やっと手繰ることができた好機を、雄吾が逃すわけがなかった。

 鉛の様な重さが残る体なはずなのに、繰り出したジャブは軽くなかった。

 普段のロナルドならまだまだ躱せるジャブだが、思い描く通りにロナルドの脚が、腕が動かない。

 ワンツーと凌いだディフェンスも、三発目で綻びを突かれた。

 ガードしようとした腕を越えて、ロナルドの頬にグローブが刺さった。

 手応えは浅い、が今のロナルドが崩れるには充分だった。

 好機逸せず、顎を狙った右フックが薙ぐ。

 やっとのことで固めたガードが間に合い致命傷には至らなかったが、腹が空いた。

 咄嗟に視線を向けた懐、既に雄吾がそこにいた。

 野良犬の嗅覚はチャンスの匂いを逃さない。

 ゾッと血の気が引くよりも、拳は疾かった。

 インファイト、ショートなストレートにフックがピストンの如くロナルドの腹で唸りを上げた。

 内臓の底の底まで滅茶苦茶に掻き乱すような拳だった。

 一秒二秒の瞬間でしかなかったというのに、腹を焼いた拳の数は時間の倍も超えていた。

 噛み締めた歯の隙間からは、どうしたって苦悶が漏れる。

 マウスピースを食いしばってなければ、悶絶のまま汚泥を舐めさせられていたに違いなかった。

 咄嗟に雄吾の頭にパンチを返し、間合いから外れたロナルドだったが、ダメージに脚がもつれる。

 雄吾はというと、全く怯んじゃあいない。

 当然だった、返した拳は腰が入りきらなかったのだから。

 射抜く様な視線は、決してロナルドを離しやしない。

 野良犬が吠える。

 キャンバスが鳴った。

 間合いが外れた分だけ後ろ足で体を蹴り上げるや、飛び込みざまのストレート。

 大胆だった。

 あまりの大胆さが、ロナルドの顔面を思い切りに刈った。


 ──ロ、ロナルドッ!


 端正な顔が、激しく立った波でまた歪む。

 整えていた髪が振り乱れ、血の混じった汗が散った。

 どよめく観客。

 思わず叫びをあげるセコンド陣。

 さらに大きく体勢を崩したロナルドに、雄吾がとどめの牙を振り上げる。

 そこで、ゴングが鳴った。

 場内が、安堵の息で満ちていた。

 ゴングの音に、雄吾も逆らうことはできない。

 振り上げた拳を下ろすと荒げた息を残しつつ、よろめく体で自身のコーナーへと戻っていた。

 助かっ、た

 口からこぼれそうになったその言葉を、崩れ落ちる寸前だったロナルドは息を止めるように飲み込んだ。

 鼻から血を流し、足取りのおぼつかないロナルドにセコンドの一人が慌てて駆け寄ると、肩を支えながらセコンドへと戻っていく。

「ロナルド……」

 リング外にいたもう二人のセコンドは、困惑と焦燥にいっぱいな声色を漏らしていた。

 ここ数年になると、ロナルドにここまでのダメージを負わせたボクサーというのは現れていなかったのだ。

 久方ぶりにリングチャンプとしての座を揺るがす挑戦者に、胸がざわつかされてならないのだろう。

 ましてやそれがリング荒らし、敗北でもしたらこれまで積み上げてきた物に取り返しのつかない傷が付く。

 断崖の淵に立たされた気分だった。


「どうやら、ぬるま湯に浸かっていたらしいな、私たちは」


 重い空気が流れる中、ロナルドが溢した言葉は神妙なものがあった。

 口に含んだ水をべっと吐き捨てると、中をズタズタに切っていたのか赤黒い血ですっかり染まってしまっていた。

「自分が生きてきた戦いは奴と比べると、ずっとぬるま湯だった」

 汗を拭い、身体をほぐすセコンドの手に身を委ねると、静かに瞼を閉じた。

 真っ暗闇な世界になると、体の焼ける感触がよくわかった。

 体の表面だけじゃあない、中まで深く熱が肉を焼いている。

 ぬるま湯では決して味わうことのできない熱だろう。

 その熱が、リングチャンプだなんだと振る舞っていた自分を恥じたくなる気分にさせていた。

 夢がある、そう言いながらも自ら新天地へと踏み込むのをいつの間にかやめてしまっていたらしい。

 でなければ、あのクリンチがフェイントだと、奴がチャンスを窺っていたあの瞬間を見抜けたはずだった。

 こんなザマを晒すことなく、試合は終わっていたはずだった。

 しかし、ロナルドは見抜けなかった。

 奴の眼光に気づけなかった。

 もう、試合がどう転ぶかもわからない。

 互いにダメージが体に溜まっている。

 コーナーに戻る足取りで、雄吾がかなりの無理をしているだろうことは目に見えていた。

 それでも、奴は攻めることを選んだ。

 微かでも勝ちにつながるチャンスがあったなら、否が応でも獲りにいく。

 セオリーだとか、常識だとかはどうでもいい。

 たとえ博打の可能性であっても、勝ちを獲りにいかずにはいられない。

 それこそが、奴の生き様なのかもしれない。

 道理を蹴飛ばして、無理を通す。

 そうでなければ、リングチャンプという肩書きに囚われず、忌み嫌われるようなリング荒らしなんぞになってなどいないだろう。

 誰一人とて味方のいないアウェイであろうと、体格や実力にどれだけの差があろうと、常に突き進み、踏み込んでいく。

 命知らずにも程がある。が、だからこそ培ってきた強さが、今さらになって大きく見えてしょうがなかった。

 生粋の挑戦者だ。

 ──自分は、どうだ。

 夢のためと言いながら、ただただ積み上げてきたものを守るだけのことしかしてこなかったんじゃないのか。

 リングチャンプという座に、ただただしがみついてきただけなのではないか。

 待ち構えているだけだった。

 未知の敵へと踏み出し挑む自分は、いくら振り返ってみても、どこにもいなかった。


 私に無い強さを次のラウンドで剥き出しにしてくるだろうあの男を前に、立ち続け打倒することができるのか


 リングチャンプ故に、敗北は許されない。

 分かってはいても、胸の中で渦巻いた疑念がどうしても振り払うことができなかった。


「──ロナルド」

 ロナルドは、目を開く。

 眼帯をつけた男がいた。

 壮年もとっくに過ぎてしまったのだろう、皺が多く刻まれた顔だった。

 ただ、一つだけ残された瞳は衰えを見せない瑞々しさで、ロナルドを映していた。

 父だった。

 ロナルドの脚を優しくも強い手つきでほぐしつつ、眼差しは真っ直ぐに彼へとそそがれていた。

 ロナルドが憧れた背中は今、ロナルドのセコンドとして常に彼の側についていたのだ。

「リング荒らし、流石に強いな。あちこちのリングチャンプを倒してきただけのことは、ある」

「そうだね、父さん」

「でもな……私たちの戦いは、決してぬるま湯などではなかったはずだ」

 ロナルドは、向き直る。

 優しい語り口でありながらも、老境に差し掛かった男の言葉には芯があった。

 どんな言葉であっても折れない、芯が。

「君は、リングチャンプという椅子を十年以上に渡って誰にも譲らなかった。誰にも負けなかった。守り通し、踏みとどまり続けてみせた。それが、容易い道のりであったとは、君が言うぬるま湯であったとは、私は決して思わない。あのリング荒らしが辿ってきた道と比べても、決して」

「……父さん」

「気休めで言っているんじゃあないぞ、息子よ。確かにあのリング荒らしが辿ってきた道は険しいものだろう。どうやら彼は、体格以上の敵にもあえて向かっていったという話とあるしな。流石に、君はそんなことをしてこなかった。ずっと、リングチャンプという座で待ち構えていた。けれどな、リングチャンプという座に踏みとどまり続けていれば、否が応でも守らなくてはいけないものが増える。違うか?」

「守らなくてはいけない、もの……」

「そうだ。そしてそれは、一度でも負けてしまえば手を離れてしまう代物ばかりだ……そんなものを抱えて戦うプレッシャーはどうだった、怖くはなかったか? 恐ろしくは、なかったのか?」

 父の問い掛けに、ロナルドは首を横に振った。

 怖いのは今もそうだ。

 負けるのが、怖い。

 随分と遠くなってしまった敗北が突きつけられた時、築き上げてきたものがどうなってしまうのか、明日の自分がどうなってしまうのか分からなくて怖かった。

 何より、夢への道が閉ざされてしまうような気がして、恐ろしかった。

「それが、答えだよ」

 フッ、と父が笑みを溢した。

「恐怖を、君は超え続けてきた。それも、一握りの人間しか味わえないような恐怖を十年、十年もだ。私は誰がなんと言おうと、それをぬるま湯だなんて言わせない。君が辿ってきた道が生温いとも言わせない。君にだって、彼にはない強さを持っている。恐怖を超えてきた強さを、だ」

 父が、ロナルドの肩をがしりと掴む。

 体に刻まれた熱よりも、熱い掌だった。


「ロナルド……君は、強い。一人のボクサーとして、君は強いんだ。あのリング荒らしにはない強さを、君も持っている……私はそれを知っている。だから──堂々と、行ってこい」


 セコンドアウトのブザーが鳴る。

 拳を握る者達しか、リングに立つことが許されない時間がまた始まる。

 父がリングから降り、ロナルドはすくっと立ち上がった。

 父が施してくれたマッサージで幾分かダメージは取れたが、万全とは程遠い。

 百パーセント思い描いた動きは、どう足掻いてもこの試合では臨めないだろう。

 暗礁にでも乗り出したような雰囲気がリング外に立ちこめていたが、ロナルドの佇まいはどのラウンドと比べても毅然としていた。

「それでいい、ロナルド」

 父の瞳に映る息子の姿は、かつてリングの上で戦い抜いた自身の背中よりも、ずっと大きく見えていた。

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