謝混   少有美譽

謝混しゃこん、字は叔源しゅくげん。幼名は益寿えきじゅ。幼い頃より美名を博し、文章を得意とした。


あるとき孝武帝こうぶていが娘の晉陵公主しんりょうこうしゅにめあわせるべき婿の候補を求め、王珣おうしゅんに問い合わせる。

「公主の婿たるもの、劉惔りゅうたん王献之おうけんしくらいの格があってほしいものだ。王敦おうとん桓温かんおんのような才覚あるものであれば誠によろしかろうが、才は小さくとも富貴でさえあればまぁ、婿殿の家のことも切り盛りできような」

王珣が答える。

「謝混は劉惔ほどとは申せませんが、王献之に劣ることはございますまい」

孝武帝が言う。

「ならばこの者こそがふさわしかろう」

しかし、間もなくして孝武帝が暴死。この話が一度宙吊りとなった。


陳郡袁氏ちんぐんえんしの名士、袁山松えんさんしょうは謝混に自身の娘を嫁がせたい、と考えていた。すると王珣が言う。

「そなた、禁臠きんれんに近づかれることのなきようにな」

東晋はじめの頃、元帝げんてい建業けんぎょうに赴任したわけだが、公私ともに諸々逼迫していた。一頭のイノシシを獲得するごと、そのうなじの上の肉が最も美味であったため、元帝のもとに送り届けられた。臣下があえてそれに手を出そうとすることはなかった。当時その肉のことを「禁臠」と呼んだわけだが、王珣はそこに引っ掛けて戯言として言ったわけである。謝混はついに公主をめとり、謝琰しゃえんの爵位を継承した。


桓玄かんげんが、かつて謝安しゃあん建康けんこうに建てた邸宅を自らの陣営に作り変えたい、と考えた。すると謝混は言う。

しゅう召公奭しょうこうせきがもたらされた仁徳は甘棠かんとうの木にすら及びましたに、我が祖父の德はこのささやかな屋敷にすら及ばぬのですね」

桓玄はそれを聞いて恥じ入り、改装を取りやめとした。


謝混はその後中書令ちゅうしょれい中領軍ちゅうりょうぐん尚書左僕射しょうしょさぼくしゃ領選りょうぜんといった要職を歴任した。しかし劉毅りゅうきと徒党を組んでいる、という理由で処刑され、封爵地は没収された。


劉裕りゅうゆうが皇帝となったとき、劉裕の側近にして謝混のまたいとこにあたる謝晦しゃかいが劉裕に言っている。

「陛下が天命を授かり、登壇なされたこの日に、謝混が陛下に璽紱を奉じることができませんでしたこと、まこと恨めしく思います」

劉裕もまた嘆じた。

「おれもまた恨めしく思っている。後進たちに、あの風流の極みを見せられなかった!」




混字叔源。少有美譽,善屬文。初,孝武帝為晉陵公主求婿,謂王珣曰:「主婿但如劉真長、王子敬便足。如王處仲、桓元子誠可,才小富貴,便豫人家事。」珣對曰:「謝混雖不及真長,不減子敬。」帝曰:「如此便足。」未幾,帝崩,袁山松欲以女妻之,珣曰:「卿莫近禁臠。」初,元帝始鎮建業,公私窘罄,每得一㹠,以為珍膳,項上一臠尤美,輒以薦帝,群下未嘗敢食,于時呼為「禁臠」,故珣因以為戲。混竟尚主,襲父爵。桓玄嘗欲以安宅為營,混曰:「召伯之仁,猶惠及甘棠;文靖之德,更不保五畝之宅邪?」玄聞,慚而止。曆中書令、中領軍、尚書左僕射、領選。以党劉毅誅,國除。及宋受禪,謝晦謂劉裕曰:「陛下應天受命,登壇日恨不得謝益壽奉璽紱。」裕亦歎曰:「吾甚恨之,使後生不得見其風流!」益壽,混小字也。


(晋書79-12)




謝晦と劉裕のやり取り、ほんに好き。ただこのやり取り、理解するためのバックグラウンドが足りなさすぎてやばい。この二人、かなり懇ろに語らい合ってるはずなんですよね。そうした部分なしでこのやり取りだけ見るとめっちゃひりつくけど、もう少し織り込まれた感情のひだもあったんでしょうね。そういうのを、うまく小説で拾い上げられればなあ。



■世説新語


孝武帝為晉陵公主求婿

排調60。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054885731219

まーたバフ掛けるために順番入れ替えてるよ世説新語さん……ていうか正直晋書の内容、イマイチ意味取り切れない。世説新語のほうがわかりやすい。


桓玄嘗欲以安宅為營

規箴27。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054887036775

謝晦と劉裕のやり取りをこちらでも紹介していて、ほんとうに俺この話好きなんだなーと思いました。




■斠注


・混字叔源,少有美譽


『北堂書鈔』一百六の『謝混歌記』には「余少好瑟,長而愛歌。」とあります。

謝混自身の言葉が残されている数少ない事例ですね。幼いころは琴を、成長してからは歌を愛した、と語っています。


『太平御覽』九百七十一の『風土記』には「王高麗年十四五時,四月八日,在彭城佛寺中,謝混見而以檳榔贈之,執王手謂曰:王郞,謝叔源可與周旋否?」とあります。

高麗は確か琅邪王氏の誰かの小字だったと思うんですが、うまく見つけられませんでした。ただまぁ謝混は「あまり人付き合いをしなかった」とされていますので、かなりの名士だろうとは思います。そんな王高麗が年十四、五の時の四月八日。彭城佛寺ほうじょうぶつじにて(彭城の名がついている建康中の寺だと思います)謝混と会った。そこで謝混は檳榔びんろう(ヤシの木系の実で、噛み煙草のような楽しまれ方をする)を王高麗にプレゼントした上、その手を取って「王どの、この謝叔源、そなたと連れ歩くに値する人間でありましょうや?」と問うたそうです。……うっおエロいなおい。



・善屬文。


世説新語言語篇注の引く『晉安帝紀』では「混文學砥礪立名」とあります。

謝混のものする文学はとにかく研ぎ澄まされていた、と言うことですね。


『隋書』書籍志には「左僕射謝混集三卷」が保存されていたそうです。

安史の乱……五代の争乱……貴重な文学が……。


『宋書』謝靈運しゃれいうん伝の史臣評では太古から謝霊運の時代にいたるまでの文学の総覧が為されており、そこに「仲文始革孫許之風,叔源大變太元之氣。」と書かれています。孫許は恐らく、孫綽そんしゃく許絢きょじゅん。ひと世代前の大文人ですね。彼らの作った雰囲気を殷仲文いんちゅぶんが大いに改め、さらに謝混が太元年間の文学の気風を大いに改めた、とされています。い殷仲文思った以上の大物だな……。

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