謝安8  召伯に比す

謝安しゃあんは幼いころより名高く、多くの者より愛され、慕われていた。同郷者で夜中に県府を追い出され、帰還せねばならない者が出た。彼は帰還の挨拶のため謝安のもとにやって来る。謝安が帰るための費用に当てがあるのかと問うと、「五万本ある蒲葵扇ほきせんが売れればなんとか……」と答える。すると謝安はすぐさまその扇をひとつ手にし、これ見よがしに仰いだ。建康けんこうの人々はたちまちその扇を争うように買い、扇の取引価格も数倍になったという。


謝安と言えば歌い方のスタイルのひとつ「洛下書生詠らくかしょせいえい」を得意としていたのだが、鼻の病にかかったためその歌声が濁るようになってしまった。しかし名族たちは謝安のその歌い方を愛した。真似しようとするも、うまく謝安のようには歌えない。そこである者は自らの手で鼻を覆う形で歌うと良い、と教えるようになった。


新城しんじょうに拠点を移したとき、城の北にたい、水運のための堰を設けた。後の世のひとたちは謝安を慕い召伯埭しょうはくたいと名付けた。


淝水ひすい直前で名の挙った羊曇ようどんは、羊祜ようこを擁する泰山たいざん羊氏ようしの血を引く。名士のなんたるかを知悉しており、謝安より愛され、重んぜられた。謝安の死亡後、何年も音楽断ちをした。また謝安が自らの夢の頓挫を痛感した場所、西州門せいしゅうもんに至る道を使おうとはしなかった。しかしあるとき石頭城せきとうじょうにて催された宴にてしたたかに酔い、皆と肩を組み、歌をうたいながら帰途につく。そうして、うっかり西州門の道にたどり着いてしまった。左右にいた者たちが言う。

「こ、ここは西州門じゃないか!」

それに気付いた羊曇も、すぐさまその顔に悲しみを浮かべ、馬鞭でもって西州門の門戸をしたたかに打ち、曹植そうしょくのものした詩『箜篌引くごいん』を歌う。

「生き存らえて華屋に處るも、零落せば山丘に歸す」

そして慟哭し、西州門を去った。


謝安には二人の子がいた。謝瑤しゃよう謝琰しゃえんである。

謝瑤が謝安の爵位を継承、琅邪王友ろうやおうゆうとなったが、早くに死亡した。子の謝該しゃがいが爵位を継いだが、東陽太守とうようたいしゅで終わった。子がいなかった。そのため弟の光祿勳こうろくくんとなった謝模しゃもは子の謝承伯しゃしょうはくに伯父の爵位を継承させたが、罪を得て除かれた。

劉裕りゅうゆうは謝安の功績や徳が世を救ったとし、特例として謝該の弟の謝澹しゃせん柴桑侯しそうこう、食邑千戸とし、謝安の祭祀を執り行わせた。謝澹は幼いころから顯位を歴任。桓玄かんげんが簒奪をなしたときにも兼太尉けんたいいとして王謐おうひつとともに典冊を姑孰こじゅくに駐屯する桓玄のもとに送り届けた。やがて光祿大夫こうろくたいふとなり、今度は兼太保けんたいほとして旗を持ち、劉裕のもとに禅譲の意向を示す典策文をもたらした。




安少有盛名,時多愛慕。鄉人有罷中宿縣者,還詣安。安問其歸資,答曰:「有蒲葵扇五萬。」安乃取其中者捉之,京師士庶競市,價增數倍。安本能為洛下書生詠,有鼻疾,故其音濁,名流愛其詠而弗能及,或手掩鼻以斅之。及至新城,築埭於城北,後人追思之,名為召伯埭。

羊曇者,太山人,知名士也,為安所愛重。安薨後,輟樂彌年,行不由西州路。嘗因石頭大醉,扶路唱樂,不覺至州門。左右白曰:「此西州門。」曇悲感不已,以馬策扣扉,誦曹子建詩曰:「生存華屋處,零落歸山丘。」慟哭而去。安有二子:瑤、琰。

瑤襲爵,官至琅邪王友,早卒。子該嗣,終東陽太守。無子,弟光祿勳模以子承伯嗣,有罪,國除。

劉裕以安勳德濟世,特更封該弟澹為柴桑侯,邑千戶,奉安祀。澹少曆顯位,桓玄篡位,以澹兼太尉,與王謐俱齎冊到姑孰。元熙中,為光祿大夫,復兼太保,持節奉冊禪宋。


(晋書79-8)




■世説新語


洛下書生詠

既に紹介した雅量 29

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054886263619

に出てきたものだが、正直その歌い回しがどういうものなのかはよくわからない。ただし一応ヒントはあって、容止 36

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054887059731

の謝玄のコメントからは「鼻のねじれたような歌」というのが伺えるし、また輕詆 26

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054888819558

からは「ババアみたいな歌い方」というのが伺える。たぶんホーミーみたいな歌い声だったんでしょうね。


召伯埭

なんやねんいきなり召伯って、だが、これも世説新語にヒントがある。規箴 27

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054887036775

に、謝安死後、孫の謝混が桓玄との会話の中で祖父を召公奭しょうこうせき、周の初期を大いに支えた名宰相と引き比べている。とは言え召公奭と言えば自分の執務のために下手に役所なんて建てるなって倹約の精神を打ち出したひとなのに、謝安は真逆なんですよね。いいのかそれで。




箜篌引

http://sikaban.web.fc2.com/kugo.htm

こちらで訳してくださってました。羊曇が引いたのは、この詩のまさにクリティカルなところ。「どんなに繁栄を極めた者だって、結局は死んでしまうのだ」と、まさしく謝安の生涯を凝縮して歌った感がありやばい。そしたらこの詩は曹植の晩年にものされたんじゃね? と思いたいのだが、なんか公式記録では加冠してそこそこのときのものだったらしい。とは言え「栄枯盛衰」なんて若くても歌いたくなるしねえ。平家物語の冒頭は厨二も大好き!




ところで南史に謝澹のまとまった伝がありましたので、謝琰に移る前に謝澹をやりたいと思います。

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