桓温19 贈秀才入軍   

桓温かんおん、密かに兵士を配した状態で

盛大な宴を開くことにした。

狙いは自らの禅譲謀議を妨げる、

謝安しゃあん王担之おうたんしの首である。


もちろんこの宴会の意図を、

二人も理解している。

だが、参加しなければ、それこそ

造反としてしょっ引かれてしまう。


大いに動揺しつつ、

王坦之が謝安に問う。


「し、謝安殿、

 ここはいかがしたものであろうか」


これに対し、謝安は平静なまま、答えた。


「行くしかございますまいな。

 王坦之殿、この国の存亡は、

 我らの一挙に掛かっているものと

 心得なされよ」


こうして両名はこの宴会に参加。

王坦之は会場でも明らかに怯えていたが、

謝安は相変わらずも涼しい顔。


やがて謝安、主催の桓温に呼ばれ、

兵が伏されている

階段の近くにまで歩み寄る。


ここで謝安、少し鼻づまり気味の声で

するっと一句を吟じた。


ちなみにこの歌い方は謝安が確立した、

当時で最も風流とされる歌い方である。


 浩浩洪流 帶我邦畿

 萋萋綠林 奮榮揚暉

 魚龍瀺灂,山鳥群飛。

 駕言出遊,日夕忘歸。

  山河を活き活きと巡る鳥よ、魚よ。

  お前たちと共に山河を巡れば、

  つい俗事からも

  解き放たれたつもりとなる。


 思我良朋,如渴如飢。

 願言不獲,愴矣其悲。

  だが心は、それでもよき友を

  渇望してしまうのだ。

  そして、そのような者が

  そうそうは得られぬことに、

  胸をかきむしられるのである。


嵆康けいこうの「贈秀才ぞうしゅうさい入軍にゅうぐん」である。

任地へと向かうため、

自らの元から立ち去る

友のことを悲しむ歌。


「友」とは、誰を歌っているのか。

見果てぬ野望に、忠節を見失ってしまった

目の前の貴顕に対してか。


誰もが桓温を憚り、怯える中で、

謝安は、それでもまっすぐに

桓温を見つめている。


何と言う男だ、桓温は

謝安のその振る舞いに詠嘆し、

兵らを解散させた。


さて、謝安と王坦之と言えば、

その名声はほぼ等しい二人であった。


が、この事件があり、その評価に

優劣がはっきりと定まるのだった。




桓公伏甲設饌、廣延朝士、因此欲誅謝安、王坦之。王甚遽、問謝曰:「當作何計?」謝神意不變、謂文度曰:「晉阼存亡、在此一行。相與俱前。」王之恐狀、轉見於色。謝之寬容、愈表於貌。望階趨席、方作洛生詠、諷:「浩浩洪流。」桓憚其曠遠、乃趣解兵。王、謝、舊齊名、於此始判優劣。


桓公は甲を伏して饌を設け、廣く朝士を延き、此に因りて謝安と王坦之とを誅さんと欲す。王は甚だ遽て謝に問うて曰く「當に何を計を作すべきや?」と。謝が神意は變ぜず、文度に謂いて曰く「晉が阼の存亡は此の一なる行いに在り。相い俱に前まん」と。王の恐狀は轉じて色に見え、謝の寬容は愈いよ貌に表る。階を望みて席に趨し、方に洛生の詠を作し、「浩浩たる洪流」を諷す。桓は其の曠遠の趣を憚り、兵を解く。王謝は舊より名を齊しくせど、此れに於いて始めて優劣を判ず。


(雅量29)




こんなバケモノじみた振る舞いと比較されちゃうとか王坦之さんかわいそ過ぎます……いや、おかしいでしょ謝安さまのこの振る舞い。よっぽど桓温さまに対しての愛がなきゃこんなことできませんぞ(何かが違う)。


桓温と謝安とのやり取りは、想像を逞しくすればしただけヒリヒリした感じがあってよいですね。

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