謝安7  薨去

やがて司馬道子しばどうしが権勢を振るうようになり、阿諛追従の徒らを引き連れて朝廷で我が物顔となっていた。そこで謝安は廣陵こうりょう步丘ぶきゅうに出鎮し、新城しんじょうなる名の砦を築き、そちらに退避した。


孝武帝こうぶてい西池せいちに遊覧したとき、觴賦詩しょうふしを献上するのみで、実際に出向きはしなかった。謝安は朝廷よりの期待を寄せられる身ではあったが、結局東山で引きこもっていたいという気持ちを抱き続けたままでいた。その思いは常々表情、言動に表れていた。新城には建康にいた者を皆引き連れて引っ越しし、再び海の上での船遊びをするための服をしつらえさせ、今後の軍略をあらかた定めたところで、再び前線から会稽に引き返そうと考えていた。しかし、その思いが叶うことなく、病を篤くした。


謝安は上疏し、進出戦略を見直すよう願い出た。あわせて子の征虜將軍せいりょしょうぐん謝琰しゃえんには軍備を解き兵を休めるよう命じ、代わりに龍驤將軍りゅうじょうしょうぐん朱序しゅじょ洛陽らくように出て駐屯するよう命じた。前鋒都督ぜんぽうととく謝玄しゃげんには彭城ほうじょうはい方面での示威をなすよう命じた。また彼らには全権委任という形をとらせるようにした。もし二賊(不明、慕容沖ぼようちゅう翟遼てきりょうのことだろうか)が東晋とうしんの領域を襲撃しようとしたら、年が明けて川の水量が増えるのを待ち、東西より一斉に挙兵せよ、としたのだ。


孝武帝こうぶてい侍中じちゅうを派遣し謝安を慰勞、ついに謝安を建康に呼び戻した。謝安の乗る輿がいよいよ西州門せいしゅうもんより建康城内に入ろうかと言うとき、謝安は自らの本懐を為し遂げられないことを実感し、深く慨嘆し、がっくりした様子で、親しい者に告げる。

「昔、桓溫かんおんがいた時、わしは常にお役目を全うできぬことを恐れていたものよ。すると突如夢にて、桓溫の所有であるはずの輿に乗って十六里を進んだ。やがて目の前に白い鶏が現れたため止まった。やつの輿に乗っていたのは、やつの代わりを務める、と言う意味であったのだろう。ならば十六里とは、十六年目となったいまのことを言うのだろう。白雞とは酉の干支の象徴。今、木星が酉にある。この病は、もはやわしを再起させることもないのであろうな!」

謝安は孝武帝に官位から退きたい旨を告げた。孝武帝は侍中じちゅう尚書しょうしょを赴かせ、引退の撤回を説得した。


これより以前、謝安が石頭城せきとうじょうを出発すると金鼓きんこが突然破砕した。また謝安と言えば一切言い間違えもなかったのだが、このときにも初めて言い間違いをやらかす。人々がこれはおかしい、と怪しんでいるうちに、謝安は死亡した。66 歳であった。


孝武帝は朝堂にて三日間謝安を見送り、東園秘器、朝服一具、衣一襲、錢百萬、布千匹、蠟五百斤を贈った。太傅たいふを追贈し、文靖ぶんせいと諡した。建康に謝安のための府が存在していなかったことから、朝廷のいち府にて葬儀を進めた。葬儀には殊禮しゅれい、国の特に貴賓たる人物のための式辞が採用された。そのおおよそは大司馬だいしば桓溫のときのものに依拠した。


苻堅ふけん平定の功績から、廬陵ろりょう郡公ぐんこうに追封となった。




時會稽王道子專權,而奸諂頗相扇構,安出鎮廣陵之步丘,築壘曰新城以避之。帝出祖于西池,獻觴賦詩焉。安雖受朝寄,然東山之志始末不渝,每形於言色。及鎮新城,盡室而行,造泛海之裝,欲須經略粗定,自江道還東。雅志未就,遂遇疾篤。上疏請量宜旋旆,並召子征虜將軍琰解甲息徒,命龍驤將軍硃序進據洛陽,前鋒都督玄抗威彭沛,委以董督。若二賊假延,來年水生,東西齊舉。詔遣侍中慰勞,遂還都。聞當輿入西州門,自以本志不遂,深自慨失,因悵然謂所親曰:「昔桓溫在時,吾常懼不全。忽夢乘溫輿行十六里,見一白雞而止。乘溫輿者,代其位也。十六里,止今十六年矣。白雞主酉,今太歲在酉,吾病殆不起乎!」乃上疏遜位,詔遣侍中、尚書喻旨。先是,安發石頭,金鼓忽破,又語未嘗謬,而忽一誤,眾亦怪異之。尋薨,時年六十六。帝三日臨於朝堂,賜東園秘器、朝服一具、衣一襲、錢百萬、布千匹、蠟五百斤,贈太傅,諡曰文靖。以無下舍,詔府中備凶儀。及葬,加殊禮,依大司馬桓溫故事。又以平苻堅勳,更封廬陵郡公。


(晋書79-7)




■斠注


今太歲在酉、吾病殆不起乎。

『廿二史攷異』二十二には「按桓溫以寧康元年薨,安始代之,至太元十年乙酉,祇十有三年耳。」とあります。

は? 十三年じゃね? と、えげつないツッコミ。オウ……


薨、時年六十六。

『太平廣記』一百四十一の引く『異苑』では「謝安於後府接賓,婦劉氏見狗銜安頭來,久之乃失所在。是月,安薨。」とあります。

別のところで謝安が客を応接していたところ、謎の犬がりゅう夫人の前に謝安の頭を持って現れたけどすぐ行方をくらました、とのこと。同月に謝安死亡。えっ何この意味のわかんなさ。こわ。


及葬、加殊禮、

『元和郡縣圖志』二十五「謝安墓在上元縣東南十里石子岡北」

『太平寰宇記』九十四「長興縣南六十五里三鳴岡有晉太傅謝安墓」

『輿地紀勝』四「謝安墓在長興縣南六十五里三鵶村。」

上元じょうげん県から東南十里にある石子岡せきしがんの北、もしくは長興ちょうこう県から南六十五里のところにある三鳴岡さんめいがんあるいは三鵶さんあ村に謝安の墓がある、とのことです。


『太平御覽』五百八十九の『李綽尙書故實』には「東晉謝太傅墓碑樹貞石初無文字蓋重難製述之意」とあります。

墓石めっちゃ硬かったんで文字掘れなかったねん。謝安様の操の硬さだね! とのこと。


『輿地紀勝』四には「安初葬建康之梅山,陳始興王叔陵發其墓,安裔孫長城令夷吾徙葬于此,有大觀三年墓田。碑案:《紀勝》卷十又云謝安墓在上虞,不足信。」とあります。

初め建康の梅山に葬られたんだけど陳の時代、陳叔陵ちんしゅくりょうが掘り起こしやがった! なので子孫の謝夷吾しゃいごこの地に移したよ、というのです。彫られている暦は大觀三年。えっ趙宋まで下るの……?

輿地紀勝十には謝安の墓が上虞じょうぐにあると書かれているけど、まぁデマだよねと切り捨てられています。

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