謝安7 薨去
やがて
謝安は上疏し、進出戦略を見直すよう願い出た。あわせて子の
「昔、
謝安は孝武帝に官位から退きたい旨を告げた。孝武帝は
これより以前、謝安が
孝武帝は朝堂にて三日間謝安を見送り、東園秘器、朝服一具、衣一襲、錢百萬、布千匹、蠟五百斤を贈った。
時會稽王道子專權,而奸諂頗相扇構,安出鎮廣陵之步丘,築壘曰新城以避之。帝出祖于西池,獻觴賦詩焉。安雖受朝寄,然東山之志始末不渝,每形於言色。及鎮新城,盡室而行,造泛海之裝,欲須經略粗定,自江道還東。雅志未就,遂遇疾篤。上疏請量宜旋旆,並召子征虜將軍琰解甲息徒,命龍驤將軍硃序進據洛陽,前鋒都督玄抗威彭沛,委以董督。若二賊假延,來年水生,東西齊舉。詔遣侍中慰勞,遂還都。聞當輿入西州門,自以本志不遂,深自慨失,因悵然謂所親曰:「昔桓溫在時,吾常懼不全。忽夢乘溫輿行十六里,見一白雞而止。乘溫輿者,代其位也。十六里,止今十六年矣。白雞主酉,今太歲在酉,吾病殆不起乎!」乃上疏遜位,詔遣侍中、尚書喻旨。先是,安發石頭,金鼓忽破,又語未嘗謬,而忽一誤,眾亦怪異之。尋薨,時年六十六。帝三日臨於朝堂,賜東園秘器、朝服一具、衣一襲、錢百萬、布千匹、蠟五百斤,贈太傅,諡曰文靖。以無下舍,詔府中備凶儀。及葬,加殊禮,依大司馬桓溫故事。又以平苻堅勳,更封廬陵郡公。
(晋書79-7)
■斠注
今太歲在酉、吾病殆不起乎。
『廿二史攷異』二十二には「按桓溫以寧康元年薨,安始代之,至太元十年乙酉,祇十有三年耳。」とあります。
は? 十三年じゃね? と、えげつないツッコミ。オウ……
薨、時年六十六。
『太平廣記』一百四十一の引く『異苑』では「謝安於後府接賓,婦劉氏見狗銜安頭來,久之乃失所在。是月,安薨。」とあります。
別のところで謝安が客を応接していたところ、謎の犬が
及葬、加殊禮、
『元和郡縣圖志』二十五「謝安墓在上元縣東南十里石子岡北」
『太平寰宇記』九十四「長興縣南六十五里三鳴岡有晉太傅謝安墓」
『輿地紀勝』四「謝安墓在長興縣南六十五里三鵶村。」
『太平御覽』五百八十九の『李綽尙書故實』には「東晉謝太傅墓碑樹貞石初無文字蓋重難製述之意」とあります。
墓石めっちゃ硬かったんで文字掘れなかったねん。謝安様の操の硬さだね! とのこと。
『輿地紀勝』四には「安初葬建康之梅山,陳始興王叔陵發其墓,安裔孫長城令夷吾徙葬于此,有大觀三年墓田。碑案:《紀勝》卷十又云謝安墓在上虞,不足信。」とあります。
初め建康の梅山に葬られたんだけど陳の時代、
輿地紀勝十には謝安の墓が
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