謝安4  大権を握る

謝安しゃあん尚書僕射しょうしょぼくしゃとなり、吏部尚書りぶしょうしょの職掌も確保、さらに後將軍こうしょうぐんとなる。加えて王坦之が徐州刺史じょしゅうししとして外鎮となると、王坦之が着いていた中書令ちゅうしょれいの官位も自らのものとする。これは謝安がいくらでも孝武帝の名を借りて思い通りの命令を下せるに等しい特権的立場である。また孝武帝からも詔勅が下り、謝安がそうした立場をとることに太鼓判を押した。とはいえそれは謝安の態度があくまで孝武帝を補い、導く方向性のものだったからであった。そしてこの頃司馬道子もまた謝安の指導を頼る状態であった。


とき折しも徐々に前秦の脅威が大きくなってきており、地方から次々と届けられる手紙は益州えきしゅう襄陽じょうようの陥落を伝えてくる。そのような中謝安の統治は和をもって尊しとなし、長期的な防衛計画を立て、内には徳政を敷き、文官武官の任命には細々としたことにこだわらず、大局を見据えたものとなり、このため外国の者たちは東晋の武威をまざまざと思い知らされることとなった。人々は皆謝安の統治を王導おうどうと比べ、その文雅さについては上回るものであると評価した。


かつて王羲之おうぎしとともに冶城やじょうの望楼に登り、二人であたりの眺めを見渡したことがあった。この時の謝安の様子はいかにも悠然としたもの。このため王羲之が謝安に言う。

禹王うおうはその精勤のため手足が使い物にならなくなった。しゅうの文王は日々の政務のため満足に食事にもありつけぬほどだった。いま、この国は四方を堅固に守り、その成果を外部に向け発揮していくべき頃合いであろう。だというのに中央のものは虚談をなし、ろくに政務も取らぬ。浮かれた文章は要点をぼやけさせている。このままでは宜しからぬことが起こるのではないか」

謝安は答える。

商鞅しょうおうしんより政を委ねられたところ、次の王の時に滅んでいます。どうして清談ばかりがわざわいを招こうというのでしょうか?」


この頃宮殿が痛み、謝安は修繕をしたいと考えた。しかし尚書令しょうしょれい王彪之おうひょうしらは今の財貨は外患防衛に当てるべきだと諌めるが、謝安は受け入れず、独断で進めた。宮殿が落成すると、その壮麗さを前に、修繕に従事したものたちで駆り出されたことを恨むものはいなかった。


その後揚州刺史ようしゅうししをも兼務。孝武帝は謝安に甲仗百人を伴っての入殿を認めた。この頃にもなると孝武帝も加冠し、自身で政務を取るようになる。そこで謝安を中書監ちゅうしょかん驃騎將軍ひょうきしょうぐん錄尚書事ろくしょうしょじとしたが、謝安は将軍号については辞退した。この頃異常気象が続き、連年旱が起きていた。謝安はここまでの頭身の更新の中で祭祀が途絶えた家を復活させるよう奏上した。ふたたび侍中じちゅう都督ととく揚豫徐兗青ようよじょえんせい五州ごこく幽州之燕國ゆうしゅうのえんこく諸軍事しょぐんじ假節かせつが加えられた。




尋為尚書僕射,領吏部,加後將軍。及中書令王坦之出為徐州刺史,詔安總關中書事。安義存輔導,雖會稽王道子亦賴弼諧之益。時強敵寇境,邊書續至,梁益不守,樊鄧陷沒,安每鎮以和靖,禦以長算。德政既行,文武用命,不存小察,弘以大綱,威懷外著,人皆比之王導,謂文雅過之。嘗與王羲之登冶城,悠然遐想,有高世之志。羲之謂曰:「夏禹勤王,手足胼胝;文王旰食,日不暇給。今四郊多壘,宜思自效,而虛談廢務,浮文妨要,恐非當今所宜。」安曰:「秦任商鞅,二世而亡,豈清言致患邪?」

是時宮室毀壞,安欲繕之。尚書令王彪之等以外寇為諫,安不從,竟獨決之。宮室用成,皆仰模玄象,合體辰極,而役無勞怨。又領揚州刺史,詔以甲仗百人入殿。時帝始親萬機,進安中書監、驃騎將軍、錄尚書事,固讓軍號。于時懸象失度,亢旱彌年,安奏興滅繼絕,求晉初佐命功臣後而封之。頃之,加司徒,後軍文武盡配大府,又讓不拜。復加侍中、都督揚豫徐兗青五州幽州之燕國諸軍事、假節。


(晋書79-4)




■斠注


德政旣行、文武用命、

政事 23

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054886684090

の注に『續晉陽秋』が引かれ、世説新語本文中では兵の脱走ぽく書かれているものが「いやいやそれ前秦の脅威から逃げてきたひとたちだったんですってば」と書かれています。そして謝安がそういったひとたちを取り締まるのではなくて厚く遇するようでなければ、どうして王の都と言えようか、と語ったそうなのです。そこが直接書かれていないと言うことは、何か別箇で信頼に足る記事があったんでしょうね。


嘗與王羲之登冶城、

言語 70 。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054886608433

吳の孫権が建てた鍛冶のためのお城で、王導が治所として用いたそうです。ふーん。ところで謝安が建康に出てきたときって王羲之とっくに会稽に引っ込んでんじゃねえかいいかげんにしろと斠注のひとが怒ってて面白かったです(此事亦出於世說,則『世說』之妄,唐時執筆者蓋乏學識,故所取舍皆謬)。お前は裴松之か。ていうか謝安さまだって出仕前に建康に旅行くらいなさったでしょうよ。

あと秦が商鞅に国を任せて二代のちに滅んだ、の所はなんで盛大にスルーされてんでしょね? 「商鞅に国を任せて」を単純に拾うと六代あとの王様のときに滅んでるんですが。謎。



■斠注


都督楊豫徐兗靑五州幽州之燕國諸軍事・假節。

『十駕齋養新錄』『謝玄伝』にもやっぱり見える幽州燕国の文字。ただ正直これが何を指しているのかいまいち判然としないそうです。宋書地理志を見ると東晋の南徐州淮陵郡治下には下相、廣陽の二縣が僑置されていたとの情報があり、ここのことを指しているのではないかしら、と推測がされていました。

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