第9話
さて、待ちに待った新学期、私はマテリアライジングのコツを横江さんに伝授され、ようやく本格的な訓練に入ったのだが、迎えた九月三日の朝、予想だにしない事態が襲い掛かり、それは早々に頓挫することになる。
何か五月蝿いなあ、と半覚醒状態で枕元にある目覚まし時計の電子音を察知した私は、むにゃむにゃ言いながら目を擦りつつ起き上がり、ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピと空中に散乱する殴り書きの文字を見て背中に冷水をぶっ掛けられたみたいになった。「え、何これ?」と思わず呟いたはずが、それは言葉として耳には聞こえず、びよっと私の口から白い小さな塊が飛び出して来て、人魂みたいに空中に留まったそれの中に『え、何これ?』と明朝体で縦書きにされ、しばらくしたらふっと空気に溶けるように消えて行った。視界を埋め尽くすピピピピピピピピピは目覚ましのアラームを切ったら、ピピピッ……とかいう風になって止まり、さっきの人魂とおんなじように掻き消えて、「何だこれ?」が『何だこれ?』の人魂に、「夢?」が『……夢?』の人魂に変わる。試しに背伸びをしてみたら、う~~ん、とかいうちっちゃな走り書きが身体の横に現れる始末で、ようやく私は自分の置かれた状況を漠然と理解した。これらは、丸っきり漫画の書き口なのだ! うわあ、どうしよう、参ったな、これも虚構代行の副作用かしらん、とか考えたら、もわもわと楕円形の煙みたいな白い塊が頭上に浮かんで、『うわあ、どうしよう、参ったな、これも虚構代行の副作用かしらん』の文字を内包し、さらに三つ、ぽつぽつぽつと飛び石みたいな白丸が、私のおでこから煙までを橋渡しした。空中にエクスクラメーションマークが二つ現れ、私が驚いていることをいち早く知らせてくれたが、事実私は、思考まで吹き出しにされることにとても驚いており、これって他の人には見えないんだろうな、プライヴァシーは守られるんだろうな、と要らぬ心配までした。問題はそんな次元にあるのではない。『どうしようどうしよう、とりあえず横江さんに連絡かな』と煙の中に文字を羅列させていると、コマ枠の外からとしか言いようの無い方向からぬっと吹き出しが延びて来たのでそちらを振り返った。勿論振り返る際、クルッという擬態語と二本の効果線が首の辺りに浮き上がる。『鈴桐~、ちゃんと起きてる~?』という大き目のサイズで書かれた母の台詞は、たぶんそのまま声量を反映しているのだと思われ、現に『起きてるよ~! 着替えてすぐ行く!』と大声で返事をしたら、床から天井まで届く馬鹿でかい人魂がどーんと吐き出された。まずい、これは本格的に漫画だ、けれども三次元をどうやって二次元的に解釈してるんだろう、いや、そういう問題じゃなくて、そもそもまた変な妄想でも見ているんだろうか、とにかく横江さんには相談しないと、などとブツブツやっていたら、いつの間にかコマの上半分が細かい縦線で占められており、どんよりと重そうな雰囲気にされたので、えーい、ままよ、と気にせずいつも通りいそいそと着替え始めた。試しに鼻唄を歌ったら吹き出しの中に『♪』と出てきて片付けられ、自分の耳でも何となく音がしていることは感じられるのだけれど、音が聞こえている、という以上の把握は不可能で、どんなメロディーを奏でているのか自分でも良くわからなかった。ブラを着ける瞬間とか、誰かがどこかで見ているような気がして無性に気持ち悪かったが、自室でこそこそするのも奇妙な気がして、出来る限り自然に振る舞うことを心がけた。時計に目をやったら集中線が走り、鞄を掴んだらグッという擬音語が浮き上がり、ドアを閉める時にはバタンッ! が背後に現れた。放課後横江さんの家に行ってみよう、とか考えながら階段を下りていたら、途中でいきなり世界が白黒になり、ああ、そうか、ここまでは巻頭カラーか何かで、ここから先は色が無いんだ、と茫然となる。焦りが無かったといえば嘘になるが、それでも、これまでの人生経験とスクリーントーンのおかげで、完全に色がわからないということは無く、自分の髪を鏡でよーく見た時、黒く細かいドットが目も眩むほど打たれていて、まあ、要するにトーンが使われていたわけだけど、私の髪質ってベタ塗りの黒じゃなかったんだ、とちょっぴりショックを受けたりする余裕はあったのだった。むぐむぐと食べた白黒の朝食にはちゃんと味も匂いもあって、白いテーブルクロスに乗った透明なグラスとそこに注がれた牛乳も、当然ながら上手く描き分けられていてきちんと見分けがつく。日常においてはそうそう困ることは無さそうだ、と早くも順応の手応えを感じたが、思ったより厄介なのが吹き出しで、父の口からぐわっと大きな人魂が吐き出されたから大声でも出すのかと身構えたら、細々とした字で、何だかここ最近都内で制服を切り裂く変質者みたいなのが出ているけれどもこの辺は大丈夫なのか、みたいな旨の長ゼリフが『……』を多用した訥々とした語り口で書き込まれ、全部読み切れないうちに今度は母の口から、まあこの辺りは田舎だしそういう変な人はたぶんいないと思うけどそういう犯罪は便乗して遊び半分でやり始める人がいるかもしれないから鈴桐も十分気をつけてね、と来て、視界はもはや人魂で完璧に埋め尽くされてしまった。そしてそれが消える――つまり、次のコマに移る――タイミングが自分ではわからないものだから、吹き出しに集中してないと読み損ねる恐れがあるのだ。何かを聞きながら他の事をするのは簡単でも、吹き出しの中の文字を読みながら他の事をするのは想像以上に大変で、それは学校で死ぬほど味わわされることになるのだが、授業中ノートを書くために手元に視線をやるとその間先生の台詞が見えなくなるし、そもそも先生が話しながら板書すると吹き出しに隠れて黒板が見えないというあり得ない事態も勃発するし、友人との雑談一つとっても喋る人が変わるたびに相手の吹き出しの方に目をやっていたら、『ちょっと鈴桐、さっきから一体どこ見てんの?』と笑われるし、もう普段の何十倍も精神をすり減らしてしまった。とはいえ幾つか発見もあって、発言者が視界の外にいてもそれが誰だかわかるように、人それぞれ吹き出しの形と文字のフォントに個性がつけられていることや、思考の吹き出しは自分以外の誰にも見えていないこと、そして、筧がやたら美化されて描かれていること、この三つは特に大きかった。中でも三つ目、これは今まで私が気付いていなかっただけかもしれないが、筧はどう見てもクラスの女子の三人に一人くらいから懸想されていて、筧に話し掛けられて頬にさっと斜線が入る(=頬を赤らめる)くらいならまだしも、筧の姿を遠巻きに眺めて、ほう、とか切なげに溜息をつく奴までいる体たらくで、今にも『まったく、どうして筧君はよりによって秋吉さんなんかと付き合っているのかしら』などという嫉妬に燃える思念がどこからか漂って来そうなほどだった。時折キラキラと身体の周りが光る演出がなされているし、この分じゃデートの待ち合わせの時は薔薇でも背負って登場するんじゃなかろうか、という妙な懸念が私の頭をよぎる。『秋吉さん(私は筧を呼び捨てにするのに、彼は律儀に私をさん付けで呼ぶ。ちなみに学校外では名前にさん付けで呼んでくれるのだがまだちょっと照れる)、今日一緒に帰らない?』と、その王子様が華麗に問い掛けてくるのを『ごめん、ちょっと今日は野暮用があって』と、さらりかわして、どんな用かは追及を許さず、『ホントごめんね。明日はデートしたげるからさ』とウィンクまでしてしまったのは、明らかに私自身この世界に毒されて来ている証拠だろう。ヒューヒュー、お熱いねえ、お二人さん、じゃねえっつうの。
で、どうにか放課後にこぎつけた私は、大急ぎで一度家に戻り、横江さんに電話をかけ、家にいないことも多い彼を無事捕まえて訪問の意を告げ(電話向こうの横江さんの言葉が独特の吹き出しとなり空中に浮かび上がる様はなかなか見物だった)、自転車に跨った。私のスーパーヴァイザーであるところの一見無職の男性は、親の金で借りたマンションで経営の本を紐解きながら、話半分に私の説明を聞いていたが、
『それはお前……、漫画の読み過ぎで馬鹿になったんじゃねえの?』
の一言でナイーヴな中学二年生の女の子を傷つけ泣かせた。嘘泣きなのに見るも無惨なくらい狼狽してやがる。茶色に染めた髪を色抜きで表現されている彼は、オーラさえ纏っていれば立派に超サイヤ人が務められる感じだったが、その派手ななりとは対照的に、目の下の隈が若干強調されていてどことなく根の暗さが際立っているみたいだった。
『いやいや、だって、マジな話、俺そんな症例聞いたことないもん。勘違いしてんのかもしれないけど、虚構代行で漫画の原作担当する時でも、出張先の異世界は普通なんだぜ? 漫画で出来てるわけじゃない。漫画ってのはこの世界での表現の一形態だし』
『知ってますよ! それくらい』
おお、何か吹き出しの輪郭がギザギザになった。
『私だって、まだ全然一人前じゃないけど、虚構代行技術者なんですから!』
吹き出しに後押しされるように、じわり、と両目に涙が溜まる。ああ、このコマたぶん私の顔だけアップになってるんだろうな、と何となしに漫画の構図を思い浮かべた。
『いや、だから、泣くなって。君の言うことを信じるなら、今俺が喋ってることも吹き出しの中の文字として見えるわけだろ? そういう設定の異世界も探せばあるんだろうが、君の症状がそういう世界と何らかの関連があったせいだと考えた場合、それは俺にも感知出来なきゃおかしいはずなんだ。ほら、夏休みの幻覚騒ぎの時みたいに』
『……横江さん、口だけじゃなく、リコンストラクションしてみて下さいよ』
『もうやってる。全員が漫画内法則に従う世界はあるが、君のようにたった一人そうなるというケースはどうも構築出来ない』
『そんなわけないじゃないですか! もっとよく探して下さいよ』
自分でもやりたかったが、私が自分の境遇に該当する世界を探そうと考えを巡らせると、ほわんほわんした雲みたいな奴が頭上を大きく覆い、そこに安っぽいタッチの三流漫画みたいなのが描かれるだけで、ちっとも役に立たないのだ。異覚の取り扱い方が、この漫画形式ではこれまでと全く異なっているらしい。こんな陳腐な観念しか表現出来ないとは泣くに泣けない。イライラという尖った小さな文字まで空中に現れるし、たぶんこめかみには十字の血管が浮き上がっていることだろう。歯痒くて仕方ない。……せっかく練習した虚構代行技術、もしかしてもう二度と使えないんだろうか?
気付くと横江さんが、『…………』という何の意味もない人魂を真一文字に閉じた口から吐き出しつつ、じっとこちらを見つめていた。暑くもないのに私の頬を、つつっと玉の様な汗が流れて行く。横江さんはその口をおもむろに開き、立て続けに三つの吹き出しを作り出したのだが、これは長ゼリフを分割してくれるつもりらしかった。
『この状況を説明し得る、あまり考えたくない仮説に思い至っちまった。まあ、例によって例の如く、話半分に聞いてくれ。……本来、俺達に想像可能なあらゆる世界が、この現実の外側に実在している。だからと言って、一人の虚構代行があらゆる世界を再構築出来るかというのは全く別の問題だが、君の話を聞く限り、ジャッジメントもリコンストラクションもそれほど難しそうに思えない設定だ。にも関わらずどうしても見つからないというのは、この件が虚構代行絡みではないということを如実に示している』
ここで解説は二つ目の吹き出しに移った。
『説明が煩雑になるので結論から言ってしまうと、この俺達のいる現実こそが、異世界から見た時に、たった一人だけ自覚的に漫画の枠組みの中で生活している人がいる世界、という設定で認識されている世界なのかもしれない。つまり、君の症状こそが異世界からこの世界を規定する条件として用いられている要件、キーワードだということだ。そうであるとすれば、他にこの設定の該当する世界を俺が一つも再構築出来ないことを容易に説明出来る』
横江さんが強調したい場所には傍点が振ってあった。さらに三つ目の吹き出しへシフトするが、これは三つの中で一番大きい。
『君も既に気付いているかも知れないが、自分のいる現実から重層化した世界は鑑定や再構築をすることが出来ない。もしそれが出来るなら、虚構代行は皆、予言者になっているはずだ。例えば、明日のこの時間この近辺が晴れている世界と雨が降っている世界は等価に併存し得るが、今俺達がいる世界がそのどちらに所属するのか、それは現段階では鑑定出来ないんだ。再構築も然り、当然マテリアライジング、フィールドトリップも然りだ。……君の陥っている状況が、まさにこれかもしれない。世界でたった一人だけが漫画の枠組みに囚われている、という設定を共通認識にして、誰がその一人に選ばれるのかという観点からこの世界の重層化が最初に起こったのだとすれば、俺達は他の同設定の世界を想像する(=異覚で捉える)までは可能だが、それ以上のアプローチ(鑑定、再構築、現実化、出張)は不可能ということになる。仮に何億というそっくりな異世界が、すぐそこに転がっているとしても、だ』
しん、と妙な間があった。おそらく向かい合うお互いの顔のアップが一コマずつ抜かれて、そこから三コマ使って私が泣き笑いの表情に徐々に変わって行く様子を捉えたに違いなかった。『じゃあ……』と、これは力無く口から零れ出し、次の台詞は一気だった。
『この世界は私が主役ってことですか? ここでは私だけがこんな目に合うんですか? 何のために? 誰のために? どうして今日? 無限に近い重層化世界の中で、どうしてこの世界のこの私だけが、こんな風に苦しまなきゃいけないんです? 他の無限引く一個の世界で私は無事に虚構代行の修行が出来るのに、どうして私だけ、漫画の中であらゆる制限を架せられなきゃならないんです? こんな風な身体で、どうやって異世界に山川さんを助けに行けばいいんですか!』
恥も外聞も無く私は泣いて、横江さんの前では泣いてばっかりだ、と思ったがそれでも泣いて、そんな私を横江さんは『…………』の吹き出しと共に沈痛な表情で見守っている。
『気休めにもならんかもしれんが、俺は別に、この世界の仕組みを君に教えてあげる役目の賢者とかじゃない。俺の言ったことが当たっている保証なんて本当にどこにもないんだ。もしかすると今の君の状態だって、本当に単なる幻覚かもしれないし、万が一俺の仮説が当たっていたとしても、二、三日で嘘みたいに治る類のものかもしれない。君以外にも同じ目に合っている人がいるかもしれないし、治し方を知っている人もいるかもしれない。いちいちそんな風に、落ち込むことはない』
『だったら! だったら、そんな、絶望的な話、教えないで、下さい……。横江さんは、いつだって、冷静に、言う、けど、私は、私は、横江さん、みたいに、強く、ないんです!』
涙で滲む目で台詞を追うのが酷くもどかしい。もう、全部が全部煩わしい。ヒック、ヒック、とかそんな擬音全然いらないし、もわもわと煙みたいに私の頭の中を描き出そうとする吹き出しも邪魔だし、そこに書いてあるのは『もう、全部が全部煩わしい。……』から始まる一連の文章で、完全に私の思考を後追いしてるだけだし、そもそも周りの誰にも見えないのだから無駄以外の何物でもない!
確かに私は漫画が好きで、これまでいっぱい読んで来て、その中の世界に憧れたりもしたし、虚構代行の話を聞いてフィールドトリップを楽しみにしたけど、それはこの現実という鎖された世界と異なる、無限の可能性を秘めたフィクションそのものに対する憧憬であって、決して自分が漫画の主役になりたいとか、漫画みたいな生き方がしたいとか、あまつさえ漫画の枠組みに縛られて生きたいとか、そういうことを望んでたわけじゃない。私は、虚構に憧れながら、でもこの現実の中で生きていきたかったし、だからこそ紫さんを取り戻したい、と思っていたのだ。私にとっては、やっぱりこの世界が一番なのだ。母さんも父さんも横江さんも筧も志村君も深間も荊木も鏑矢先輩も佐和田もトモちゃんもミサも美優子さんも、勿論他の友達や親戚、クラスメイト、担任の先生、近所のおばちゃんなんかも、もっと言えば全然面識の無い赤の他人だって、一緒にこの世界に生きているというその一点さえあれば、私にとっては切り捨てることの出来ない掛け替えのない他者だ。憧れはあっても虚構の世界で生きて行く気なんてさらさら無くて、一時的に逃避することはあってもいつかきちんと戻って来て現実と戦わなければいけないことを、私は心の片隅でずっと意識して来た。だからこそ筧と真剣に付き合い始めたしクラスでも自分の居場所を確保するため頑張ったんだ。なのにどうしてその現実が、こんな風にちょっと滑稽でちょっと歪でかなりグロテスクな代物へと変貌してしまったのだろうか? これは、私の認識が甘かったせい? 漫画ばっかり読んでいた罰? 私はまともに生きちゃいけないの?
『すまない。……とりあえず、何日か様子を見てみよう。今はそれしか言えない。俺も出来る限りサポートするし、精神科医の心当たりがあるからそっちの方にも当たってみるつもりだ。いざとなったら、家族の理解を得る必要もあるかもな』
その日はそんな感じで解散となり、案の定というか何というか、私の漫画化生活は何日経っても一向に治まる気配を見せず、横江さんの知り合いのお医者さんによると、統合失調症の症状の一つに自分が小説の中の登場人物に過ぎないという妄想を抱くケースがあるらしく、これはその派生パターンなんじゃなかろうかという推察もなされたが、尤もらしい話の割に何の解決の糸口にもなりそうに無かった。で、このままじゃ埒が明かないと思い、直接会って詳しい診療をしてもらったら、対話の際に視線が定まらないことや幻覚といった精神性疾患の症状に加え、色覚異常や視覚封鎖時における聴覚失認といった器質的な障害を疑わせる性質まで含んでいるものだから、「最近、事故などで頭部に大きな怪我を負いませんでしたか?」なんて聞かれる始末で、思いっきり思い当たる節があって狼狽する私は、交通事故の後遺症だろうという診断がぽんと下された。MRIでも確か何の異常も無かったはずなんだけどなあ、と言っても、人間の脳神経は非常にデリケートですから目には見えないほどの微細な傷でもその人の身体に甚大な影響を与えるケースが多々あるんです、とのことで、事故から一年以上経っていることも医者にとっては十分想定内らしく、現実に即して考えれば反論の余地の無い完璧な診立てに仕上がってしまった。脳の器質的な問題だとすれば完治の可能性はゼロに等しく、現代の医療に出来ることはこの症状と生涯付き合って行かねばならない私のメンタル面でのケアくらいだということで、それを知って逆に鬱になりかけたが、そもそも医学的なアプローチでどうこう出来る問題だとは最初から思っていなかったわけで、色覚異常や聴覚異常について医師の診断書が貰えただけで御の字とすることにした。ただし、両親や知り合いには心配をかけたくなかったので、余程のことが無い限り自分の症状を口外するつもりは無く、特に志村君にだけは絶対に知られるわけにはいかない。そんなわけで私は、「ねえ、最近の鈴桐、何かちょっと変だよ」とか言われないために、この漫画化した日常に完璧に順応し、違和感の無いよう振る舞わねばならなかったのである。
空中に書き込まれる効果音や、演出のために貼られる背景効果のスクリーントーンに激突しそうになったり、突然現実を差し置いて繰り広げられる回想シーンに目を奪われたり、クラスメイト達がデフォルメされた三頭身姿でちょこちょこ走り回るのを見て思わず笑いそうになったり、ありとあらゆる漫画技法が私の穏やかな生活を掻き乱したが、追い詰められた者だけが持ち得る、意地と根性と気合の三本柱に支えられ、私はその全てを次々と克服して行った。吹き出しの中の文字を読むために会話中あらぬ方向を見てしまうという悪癖に関しても、速読術をマスターすることで視線を逸らす時間を最低限に抑え、さらにさりげない仕草と絡めて行うことにより不自然さをカモフラージュしていった。速読は、授業において先生の話を斜め読みして要点を抜き出す技術として応用され、こう書くと何だか効率の良い勉強法を編み出したようだが、理解力が向上したわけではないのでむしろ詳細を割愛した分話に着いて行けないことが増え始め、筧の助けを借りてもなお若干の成績ダウンは免れなかった。まあ、これは許容範囲で大目に見て欲しいところだ。一方、色覚異常を隠し続けるのはなかなか容易でなく、トーンの違いを見極めてカバー出来ることも多々あったが、板書させられた時にチョークの色が判別出来ず白と間違って黄色を使ったのを筆頭に、巨峰とアメリカンチェリーを混同したり、傘立てから自分の傘を見つけ出すのに難儀したりと、幾度か不自然な挙動を晒してしまった。さすがに孤軍奮闘が辛くなってきたので、ある時こっそり筧にそのことだけを告白し、さりげなくフォローを頼んでみた。筧は目を丸くして驚いたが、何せ私の王子様であるからして勿論快く了承してくれ、おかげでそれ以降色覚関連でのトラブルは比較的回避出来るようになった。だが意外と盲点だったのが出会い頭での衝突事故で、漫画では物語上不必要な効果音は書き込まれないため、死角での足音とか車の走行音は私には漠然としか知覚出来ないのだ。なるほど、これでは登校中、遅刻寸前で走って来た転校生とぶつかるのも頷ける、と他人事のように納得したが、学校の廊下でプリントを山ほど抱えた美貌の生徒会副会長と激突するくらいならまだしも、轟音を上げて疾走する五トントラックがいきなり鼻先を掠めた時には心臓が止まるかと思った。安全のため、出来る限り一人では歩かないようにし、一人の時は死角に対して並々ならぬ警戒を払うことに腐心するようにした。『かもしれない』運転ならぬ『かもしれない』歩行だ。
こうして、まさに漫画馬鹿となった私は、大きなイヴェントの際その導入シーンで不意に訪れるカラーページを楽しみに、どうにかこうにか毎日を卒なくこなしていった。正直、これが事故の後遺症だなんてことは微塵も信じておらず、何かのきっかけイヴェントさえあればある日突然回復するだろうと、現実の医学ではなく物語の万能性に賭けていたが、紫さんの時と同じく何の進展も無いまま月日だけがどんどん流れて行った。日常の波に乗った私は次のステップとして、今度こそたった一人、全くの独学で漫画の枠組みの中から虚構代行技術の確立を模索したが、ジャッジメントの段階で早くも越えられない壁に突き当たり、横江さんの家で何度目かの泣き顔を晒すことになった。横江さんは、私の頬に手を当てて涙を拭いながら、秋吉さんはもう十分良くやったよ、これからは紫のためじゃなく自分のために生きてくれ、と告げた。その言葉が吹き出しにしか見えない私には声色がわからなかったけれども、たぶんこれまで聴いたこともないくらい優しい声をしていたと思う。後は俺に任せろ、絶対に紫を連れ戻してやるから。私はその力強い説得と頼もしい笑顔に負け、二年近くに渡った虚構代行への夢を諦め、この世界でたぶん唯一漫画の枠組みを自覚している女として、自分を主役においた物語を綴り始めることに決めた。文字通り漫画みたいな現実だが、今やそれこそが私の生きる道であり、立ち向かわねばならない戦場なのだ。
その次の週、横江銃は私の前から忽然と姿を消した。ある日を境に連絡が途絶えたことを不審に思った私は、横江さんのアパートに向かいガスメーターの裏側に隠してある合鍵で勝手に住居に侵入し、ダイニングルームで『秋吉鈴桐さんへ』と書かれた封筒を見つけた。まさかと思って封を破ると、中には三つ折にされた便箋が三枚入っており、顔からは想像のつかない達筆で、長々とメッセージがしたためられていた。
『 秋吉さんへ
君がこれを読んでいる頃、俺は既にこの世にはいないだろう。
なんて書くと、まるで遺書みたいだが、これは要するに異世界にいるだろう、ってことで、早い話、俺は君に黙ってフィールドトリップすることにしたのだ。あの喫茶店での約束を破ることになって本当に申し訳ないが、実は俺にはそれどころでないくらい君に謝らねばならないことがある。本当なら面と向かってきちんと君に話すべきなのだが、どうしても勇気が出ず、手紙という卑怯な形をとることになってしまった。臆病な俺を許して欲しい。
一言で言えば、俺はこれまでずっと君を騙していた。それも、場合によっては一番残酷とも言える方法でだ。
君はあの、変電所の火災の事件を憶えているだろうか? 君が虚構代行に初めて触れた時でもあるし、山川一家の失踪を象徴する出来事でもあるので、当然、忘れ得ぬ一件であったろうと思う。喫茶店で俺が君に話して聞かせた、火災の理由を巡る一連の仮説があったね。ぺらぺらと名探偵よろしくロジカルに語っていたが、実はあれは反則もいいところで、俺は単に最初から答えを知っていただけなのだ。どういうことかと言えば、あの日俺は、駿さんに直接会って事件のことを詳しく聞いていた。あんな少ない条件から論理の玉突きで真実を見抜くなんて芸当出来るはずが無く、例えば、夜中じゃなくて目立つ昼間に行動を起こしたのは何故なのか、とか合理的解釈が不能な部分も実はいっぱい残っていた。そういうのは全部駿さんの単なる気紛れで、説明なんて出来ない部分だったのだ。
そう、駿さんは、行方不明になったりなんかしていない。今も世田谷で美優子さんと一緒に暮らしている。料理はやめて、山川の本家を継いで虚構代行で生計を立てていて、実は俺もその事務所に時々顔を出して、虚構代行業務の経営の基礎を学んでいた。家でも経営の本ばかり読んでいたのはそういう理由からだ。分家である轟嗣さんの兄弟のところとごたごたもあって、事業はなかなか一筋縄では行かない。まあ、大人の世界には色々あるもんだ。
駿さんはあの火災の日、まさに俺が説明した通りに異世界に向かい、そこで惨劇を目にして次の日にはこの世界へ帰還していた。そこへ俺が連絡を取り、詳しい話を聞くに至ったんだ。だから、彼の行方に関する話は全部俺の嘘だったことになる。本当に申し訳ない。そうまでしてぼかそうとした事件の真相は君にとって辛い話になるから、心して聞いて欲しい。
異世界のあの屋敷を舞台に連続殺人が起こり、犯人が自殺を図った。大まかな構図はこれで間違いない。ただ、おそらく君の想像の範疇を越えていると思われるのは、この犯人というのが誰あろう俺の許婚、山川紫その人だということだ。あの屋敷で紫は、両親や他の多数の人間を殺害し、最後に自分も死ぬ気で火を放った。駿さんが駆けつけなければ、命は無かっただろう。
元々、紫と両親はその考え方の違いで反目していた。轟嗣さん達は息子である駿さんに虚構代行業を継いでもらうことを既に決めていて、紫には真っ当な道を進んで欲しかったようだ。私立の中学校に進学させた辺りにそれが窺える。伝統にかこつけて自分の娘を危険な職に就かせることに、彼らなりの抵抗があったんだろう。駿さんにもしものことがあった時のため、紫には虚構代行技術の基礎のみ伝授されたが、それを紫が自主的に磨くことに轟嗣さん達は良い顔をしなかった。塾に早目に行くという名目で本屋に立ち寄っていたのを、紫が両親に秘密にしたがっていた理由もそこにあって、轟嗣さん達は娘が虚構と必要以上に戯れることを厳しく禁じていた節がある。異覚を磨けば磨くほど、真っ当な職に就くにはマイナスだからな。残念なことに、紫はこの世界よりも異世界の中にこそ生きる希望を見出しており、それを制限されたことでさらに虚構への憧れを募らせるという悪循環に陥り、才能も家柄も申し分ないのに虚構代行業務に就かせてもらえない不遇に悩まされ続けた。歳の離れた異母兄に対し忸怩たる思いがあったろうし、何より自分から虚構を奪おうとする両親には少なからぬ苛立ちを覚えていたことだろう。それが凶行の動機と言えるかも知れないし、何もそんなことで、と思うならもっと陰惨な過去でもでっち上げれば良い。俺はこれ以上フォローしない。
変電所出火直前の一ヶ月、山川さん達が夫妻で仕事に出かけていたのは間違いないが、その間紫は本来ならば家で留守番していなければならないはずだった。最初の何日かは駿さんが一緒にいたらしいが、もう大丈夫だから、と世田谷に追い返されてしまったとのこと。駿さんの方も忙しかったらしく、その後の連絡を疎かにしてしまったのをとても後悔していた。彼女が一人になってから何をしていたのか杳として知れないが、両親殺害の計画を練っていたとは思いたくない。両親の後を追って異世界に渡り、そうした自分の虚構代行技術の実力をアピールすることで二人を説得しようとしていた、とでもしておこうか。だが、全く聞く耳を持たない父母に業を煮やしたある日、突発的に二人を殺害してしまった。設定上、舞台には名探偵を始めとする異世界での轟嗣さんの友人が来ていたらしく、当然推理劇が始まった。本格ミステリにも触れていた彼女が、あらゆるトリックを駆使して連続殺人を実演してみせようと考えたことは、さほど不自然ではない。それは虚構代行で言うところの一人称レポートになるし、つまるところ異世界での殺人はこの世界におけるフィクションでしかないのだ。虚構の中の出来事。中学一年生の女の子が両親を手にかけた後、箍が外れたようになって何の不思議があるだろうか。
駿さんが駆けつけた時事件は既に終わっており、彼は、燃え盛る屋敷の一室で、血に塗れたナイフを持って立ち竦む紫を発見した。その足元には、胸を刺されて絶命していた名探偵がいたということだよ。彼女は、シリーズ物作品では到底あり得ない、クローズドサークルにおける皆殺しを完遂してしまったのさ。そして駿さんの姿を見るなり、いつものようにおっとりと笑ったんだそうだ。「これで事件は迷宮入りですね」そう言って自刃しようとする彼女を寸前で抑え付けて、駿さんはどうにか炎上する屋敷を脱出した。紫は、自分が両親を含めて何人もの人間を殺害したことを告白し、犯人の自殺エピソードまで含めてこの話をレポートにまとめ、現実で小説化して出版して欲しいと依頼してきたそうだ。そんなことは出来ない、と駿さんは勿論突っぱねた。紫を死なせるわけには行かない、やりたいなら自分でまとめろ、と説得したが、紫は頑としてその意見を受け入れず、罪を犯した自分はもうこの世界でも現実でも生きてはいけないのだと涙ながらに訴える。両親を殺した少女と、その彼女の命を救おうとする異母兄。修羅場にもほどがある。
結局、駿さんが紫をどうしたかというと、彼女を全く別の異世界にフィールドトリップさせることで、罪体全てを虚構化して負担を減らし、とにかく生き続けることを約束させたのだ。行き先は駿さんも知らないという。要するに、紫は現実から目を逸らし、文字通り虚構の世界へ逃げ込んだんだ。それは、残念ながら虚構代行の原則から逸脱していると言わざるを得ない。虚構は現実に即してこそ意味がある。現実を生き抜くために虚構が使われるべきなのであって、現実を放棄して虚構にこそ活路を見出すなんて本末転倒もいいところだ。だが、だからと言って、それでも妹に生きて欲しいと願う駿さんを責めることは出来ないし、虚構との関わり方において複雑な環境に育った紫に、現実と真っ直ぐ向き合えと一方的に迫るのは酷かもしれない。これまではそう思って迷っていたが、今日ようやく決心がついた。俺は、紫を捜し出してこの世界に引きずり戻す。言うまでもないことだけれど、今まで俺が必死に捜索していたのは、あの屋敷の世界でなく、紫の逃亡先だったのだ。手掛かりは殆ど見つかっていないが。
君は、殺人を犯した紫をすら救おうとする俺の姿に、まだ究極の愛の形などを重ね見ているかもしれないが、それは大いなる誤謬だ。このロリコンの疑いの深い邪悪なお兄さんが興味を持っていたのは、親に決められた許婚ではなく、誰にも心を開かないその少女が本当に楽しそうに語らっていた相手の庶民の方、まあ、要するに君なんだ。俺は、君に話し掛けるための口実として、紫と許婚であることや紫の一族が虚構代行という変わった職に就いていることを利用したに過ぎず、それについては酷く後ろめたさも感じたものだ。駿さんの存在を隠し、紫の事件の真相を説明しなかった理由も、君を傷つけたくなかった、という善人ぶったやつの他に、君との接点が失われることへの懸念、というのがあった。紫と虚構代行技術の二つの餌を利用し、君を俺に依存するしかない状況に追いやった。それほど君に執着していた。
それでも俺は、異世界で拠所無い状況に追い込まれている紫をそう簡単に見捨てられるほど無慈悲な人間ではないつもりで、建前上の許婚に過ぎないとは言え、いや、だからこそ、不義理にすることは出来なかった。現に君は、紫の許婚で紫に対して無償の愛を捧げている人間という枠組みでの俺を信頼しており、俺は君に関わる限りその枷を外すことが出来ず、君と真正面から相対することが許されない立ち位置にいた。だから、君を抱いたあの日のことを、ずっと後悔していた。俺は何重にも君を裏切っていた。さも君に請われたから仕方なく、という体裁を取り繕い、伏せた写真立てを用意して馬鹿な演出をし、自分を守った。俺が君に近付くためには、紫への比類なき愛が必要だった。誰も幸せになれない道を一人でひた走っていたのだ。我がことながら見苦しいだろ?
だから、俺が紫をこの世界に連れ戻す決心をしたのは、ひとえに君のためだと言える。その一方、真実を聞かされてなお君が紫と会いたがるかどうか、わからない内から出発するのは、全くもって自分のためだ。要するに、幾らか言い訳を弄しているが、俺もちょっくら現実からドロップアウトして異世界を放浪したいのだ。うじうじ引き篭っていると発狂しそうだから、しばらく外に出てみよう、という安直な発想だ。何となく、今の俺には虚構に依存した紫の心境がわかるし、それでも俺は現実にまた戻って来たいとかろうじて思っているし、一緒にこの世界に戻れれば紫のためにもなるはずだ。
まあ、君は君の現実を楽しんで欲しい。漫画化された日常はなかなか大変そうだが、俺がいたところで大した役には立たないし、筧とかいう彼氏が君に尽くしてくれることだろう。うん、仲良くやりたまえ。健闘を祈る。
そうそう、君の漫画化症状に関してだが、俺なりの根拠の無い推測を述べると、この世界の虚構代行とは異なる技術体系を持つ干渉方法で、誰かが異世界から君の生活に密着し、漫画化して週間連載してるんじゃないかと思い至った(カラーページの割合からして)。どうして主人公が君なのか、それは相変わらず良くわからないが、無理矢理蓋然的な理由をでっち上げるならば、どこかの異世界に君の行動を観察したい人間がいる、ということになり、現状そんな女の子の心当たりが一人だけいるので、まあその線から最初の出張先を選んだ次第だが、そこまで上手い話になるはずはないだろう。一挙両得は期待しないでくれ。
何年かかるかわからないが、必ず戻って来るので、心配しないで欲しい。ただ、待っていてくれ、とは言わない。待ってなくても勝手に逢いに行くから、むしろそれまでは俺のことなんか忘れて暮らしてくれ。
それでは。しばしのお別れだ。
P.S. そうそう、近い内に君に必要となるはずのものを同封しといたから、良かったら使ってくれ。余り物で悪いけど。
横江銃』
最後の追伸は何のことかと思ったら、封筒の底の方にコンドームが二つ入っていた。馬鹿! とそれを思い切り壁に投げつけようとしたが、振り上げた腕が途中で止まって、何故か瞳からぼろぼろぼろぼろ涙が零れ落ちて来る。馬鹿。馬鹿。馬鹿。馬鹿。横江さんの馬鹿!
どうして何でもかんでも私の知らないところで勝手に背負って勝手に答えを出して勝手に完結しちゃうんだ。私のことなんか何も知らないくせに、私の幸せなんてやつを考えて、そのために縁の下の力持ちみたいなポジションにおさまって、自分のことを忘れてくれとか言って、虫が良すぎるよ。どうしてそこまで自分を追い詰め自分を殺すんだ。私が紫さんにこだわり過ぎたから引くに引けなくなったの? ああ、もう、紫さんが人なんか殺したばっかりに! そのせいでこんなにごちゃごちゃしたことになっちゃったんだ。……いや、本当は紫さんは悪くない、いや、勿論悪いんだけど、ああ、もう、何ていうか、既に私の踏み込んで良い領域じゃないとこにいる。少なくとも私が泣いているのは紫さんのせいなんかじゃないし誰のせいでもない。私は、紫さんの許婚としてでなく、もっと本質的な部分で横江さんを見たかったし、だからこそ私はあの時彼に身を任せられたのだし、私にとって横江さんは歴とした一人の男性で、でも横江さん自身があくまで紫さんに固執しており、私は彼の許婚の親友以上の存在になれそうになくて、だから彼への恋心を意識する前に断ち切った。それなのに今更実は気になってました、とか蒸し返してくるなよ、馬鹿! 本当に私のためを思うなら、真相なんかじゃなくてもっと優しい嘘を書き綴っていけよって感じで、そんなことを思うのは完全に私の我侭だとわかっているのだが、これが簡単に割り切れないから困りものだ。こんな時に泣き付きたい相手が横江さんなのに(ああ、やっぱり私は横江さんに依存している)、本人がいないのだからどうしようもなく、私は意を決して筧に連絡し、虚構代行について他言無用の約束を破り、カラオケボックスの中で洗いざらい全てをぶちまけ、おそらくその全てを信じたわけでない彼に縋りつき、わんわん声を上げて泣いた。涙で海が出来るまで泣いた。筧はその背中を撫で、おもむろに尾崎豊の『OH MY LITTLE GIRL』とかを歌い出し、もう何やってんだよこいつは、って感じだったが、空中に、タイトル、作詞作曲者、JASRAC番号、そして歌詞が一挙に全文掲載され、聞こえないはずの歌声さえ、律儀に音程を一つずつ辿っていくような彼の性格をそのまま反映した素朴な歌い口となって、私の心まで直接響いたのだ。それは、思いのほか優しく私の傷に染み込んで、鈍く、弱く、だが確かに、私を安寧の中に誘ってくれた。泣き疲れてうとうとし始めた私に向かって、夢か現か筧がこんなことを呟いていたのが印象的だった。
『どれだけ魅力的な虚構の世界より、どんなに辛くても鈴桐さんと一緒のこの世界で俺は生きていきたいと思う』
うん。私も! むにゃむにゃしながら、ちゃんとそう答えられたかどうか定かではないけれど、辛いとか苦しいとか楽しいとか、そういう感情を踏み超えてすらなお一緒にいたいと思えることが、愛って奴の本質かもしれない。そんな無茶なまとめ方でこのエピソードを締めくくり、じゃあ真に横江さんに愛されていたのは結局どっちなんだろう、とか考えてみるけど、……ああ、もう、どっちでもいいよ! だって今の私には筧がいるもん。
ある日、志望大学への合格を決めた志村君が、フルフェイスのヘルメットを着けてモンスターみたいなバイクに跨り私の家を訪ねて来て、最近あの変電所が取り壊されて高い塀も撤去されたと教えてくれた。ヘルメットを一つ借りて、おっかなびっくり志村君の後ろに跨り、タンデムで見学に向かう。そのごわごわしたレザージャケットに包まれた背中は私の良く知るそれとは違い逞しくて男らしかったし、びゅんびゅんと風を切る感覚もママチャリなんかと比べ物にならないほど爽快だったが、それでも、私が好きだったあの緩さには到底敵わない。紫さんの屋敷があったあの場所は、道路に面した側に立ち入り禁止の柵が延々と設置されており、後はひたすらぐわっと真っ更な空き地が広がっていて、たぶんその広さを示すために上からの俯瞰視点で見開き一ページ使われたこと請け合いだった。私と志村君は柵を乗り越えて中に入り、これからここに何が出来るんだろうね、と他愛の無いことを喋り合った。マンションか何かじゃない、と志村君は言い、日照権で他の住宅と揉めなきゃいいけど、と私は笑った。
でも私には何となくその答えがわかっていて、私がこの漫画化生活に身も心も浸り切って、中学を卒業し高校を卒業し大学か短大を卒業しアパレル関係の会社に就職し筧と結婚し寿退社し第一子を妊娠した頃になって、ふとここに立ち寄ってみると、いつか見たのと全くおんなじ屋敷が建てられていて、まさか、と思いながら足を踏み入れると、無精髭を生やして渋くなった横江銃と子供の頃の面影を残したまま綺麗な淑女になった山川紫が揃って私を出迎えてくれて、その足元には何と四歳になるわんぱく盛りの息子が絡みついており、わあ、お名前は何て言うんですか、と尋ねたら、基晴です、とか言うもんだから、それって私の旦那と同じ名前ですね、と笑うと、だって同一人物ですから、と横江さんが真面目な顔でロジカルにそのからくりを説明して行き、なるほど道理で基晴には二人の面影があったわけだ、これでようやく話が全て一つに繋がりました、晴れて最終回を迎えられます、万歳万歳ってな具合で、長い間ご愛読ありがとうございましたの文字と共に長年苦しめられた漫画化の枠組みが解かれ、久々に聴く世界の生の音と久々に見る世界の生の色に撃たれた私はようやく本当の自分を取り戻し涙するのだ。
ほんと馬鹿だなあ、私は。そんなのは勿論虚構の中の虚構もいいとこで、私の現実がこれから先どんな風に展開していくか虚構代行業者にも鑑定出来ないし、誰にも予想なんて出来ない。だからこそ生きていきたいと私は思うし、普通の人は人生なんて元々そんなもんだと悟っているかもしれない。でも私は、万が一最後に待っているのが夢オチであったとしてさえ後悔しない人生を送りたいし、そう思えるだけの何かをこの世界に与えてもらったのだから、何らかのお返しもしないといけない。
今度誰かに、「何か面白い漫画知らない?」と訊かれたら、私はこう答えることにしよう。
「作者は誰か知らないけど、『秋吉鈴桐の受難』がなかなか良い。主人公が前向きで、読むと生きる希望とか湧いてくるよ、マジで」
勿論架空の虚構だからこの世界の誰にも読めないんだけど、だからこそ、超オススメ。……おかげで私も生きる希望が湧いてきたよ、マジで。
小説版・秋吉鈴桐の受難 今迫直弥 @hatohatoyama
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