第8話
一方この頃になると、独学だけで虚構代行技術のリコンストラクションまでを習得していた私は、後はマテリアライジングとフィールドトリップを物にすれば紫さんを直接捜しに行ける、という段階に入っていた。そう、これが私の紫さんへの献身である。横江さんばかりが走り回って調査をしており、一方で私はとんでもない恋愛沙汰の中で青春を謳歌していただけなのかと思いきやそんなことはなく、私は私なりに暇を見つけて今まで以上に漫画を読み漁り、異覚の力をぐんぐんと伸ばしていったのである。最初の頃は半信半疑で、フィクションに多く触れることと異覚の力を増すことがどう繋がって来るのかわからなかったが、意識して漫画を読んでみると、提示された異世界に引きずられて近似の世界が見えて来る(要するに、漫画の内容に触発されて自分でも物語を思い付く)感覚が日に日に増して行き、丁度中学一年の八月頃は六人とうだうだ付き合っていた時期でもあり、ありとあらゆる性的な妄想、想像に浸りまくり、だいぶ現実との垣根が低くなって来ていた(これが、何だか雰囲気だけで全員とキスしてしまった遠因になったことは否めない)。これ以上異覚を手放しに発展させるとまずい、妄想に囚われて現実を完全に見失う、そう思った私は、全くの手探り状態でジャッジメント、つまり、見えて来る異世界の鑑定を試みた。それは、自分でも何をやっているのか良くわからなかったが、自分の頭の中の妄想がどこか他の世界の現実であると強く意識することから始め、それぞれどんな異世界でどんな背景があって起こった出来事なのかを吟味して行くと、徐々に納得しやすい形での仕分けが出来ることに気がついた。爆発していた妄想は随分秩序立てられ、これは、他人に知られたくないほど破廉恥なことを普通に考える自分を正当化出来るため、アイデンティティを守り切るのにとてもとても役立った(淫乱なのは私ではなく異世界なのだ)。そして、リコンストラクションの練習としては、読んだことの無い漫画を途中まで読み進め、先の展開を予想するというやり方で行った。作者と同じ異世界を異覚で掴むことが出来たら、理論上完璧に以降の展開を当てられるということになるが、どう考えてもこれは不可能そうに思えた。けれど、紫さんのために諦めるわけにはいかない私は懸命に徒労とも思える努力をひたすら続け、最初は「あ、この人は近い内に死ぬ」とか、「こいつとこいつは恋人になる」とか、「これは仲間を裏切って敵に回る」などと、漫画のセオリーとして漠然と見えていた『ありがちな展開』が、「あ、この人は次回敵の襲撃を受けた時仲間を庇って死ぬ」とか、「こいつは、あいつに振られて落ち込んでる時にこいつに慰められた結果なし崩し的にくっ付く」とか、「これは仲間を裏切って敵に回る振りをして結局は戻って来るはずが、予定外にそのまま死ぬから誤解が解けない」などと、あり得ないくらい複雑な裏側まで予想出来るようになり、ひいては四コマ漫画の一コマ目でオチを大体当てられるまでに至った。重層化世界の関係か、一〇〇パーセント当てることは出来ないものの、それはある程度妥協するしかない点でもあるから、独学でここまでやれれば御の字だと私は考える。
どうして私が必死になって虚構代行技術を学んでいるのかと言えば、あの屋敷を直接に見て、触って、嗅いで、感じたことのある人間はこの世界にはもうおそらく私と美優子さんしかいないのであって、美優子さんが音楽家として虚構代行との両立に向かないのならば、私がそれを覚えて自ら直接フィールドトリップするしかない、と悟ったからである。私のイメージを私の言葉に変えて、それを受け取った横江さんが鑑定し再構築したところで、正しい世界を捉えられないことは既に実験でわかっている。だとすれば、残された道は他人を介さずに単独で出張することだけだ。この計画を横江さんにも秘密にしていたのは、横江さんは私が虚構代行に関わることを嫌がっていたからで、彼が最初に言った「くれぐれも軽率な行動は慎んでくれよ」という台詞が要するに、「安易に虚構代行技術者になろうと考えたりしないでくれよ」という意味だったことに、私は後になってからようやく気付いたのだった。天晴れなまでの忠告無視である。ジャッジメントを体得した段階で、あの屋敷がどんな異世界に属するものなのか私には一応掴めたのだけれど、それをどういう言葉で現せばよいのかわからず、他の人に伝える術が無かったので、単独では役に立たなかった。少なくともマテリアライジングが出来れば、その世界の詳細を横江さんに五感で正確に伝えることが可能になるので、紫さんの捜索における重大な手がかりになるはずだった。ある時突然横江さんの前で手品のように何かをぽんと現実化させ、あっと驚くその顔を見るのを半ば楽しみにしながら、『異覚でしか感じられないものを他の五感で感じられるようにする』というこれまでとは段違いに難しそうなマテリアライジングを、手本の一つもなしに模索して行く日々が続いた。
で、いきなり結論に至るが、これは無理だった。何から手を付けて良いやらわからず、私は連日連夜空転に空転を重ね、ようやく夏休みに入ったある日、ふと天啓のように訪れたある閃きをきっかけに一つの型を見出したと思ったら、それは異覚で捉えた異世界でのやり方に過ぎなかったらしく、この世界との折り合いが極めて悪いと来た。まず五感の全てを伴った鮮烈な悪夢を見るようになり、次にその残像が昼間にも勝手に顔を出すようになり、最後にはそのせいで夢と現実の境がどんどんわからなくなって来て、不眠と幻覚症状のダブルパンチを食らって完全にノックアウトされた私は、雨戸を締め切った真っ暗な部屋の中に毛布を被って閉じ篭り、小市民たる両親を恐怖と困惑のどん底に陥れた。けれども、「万が一自分に何かあった時は『横江リサイクルブック』の店員である横江銃さんを呼んでください」という書き置きを念のために残していたのが実を結び、母は私の引き篭り四日目にようやく半信半疑ながら横江さんを呼びつけてくれた。横江さんは事情が飲み込めないながらも異常事態を聞きつけて馳せ参じ、私の様子を見るなり「ああ、これは、えーと、ちょっとしたストレスから来る思春期にありがちな錯乱とか、まあそんな感じの奴です。私が今からぱぱっと落ち着かせますから、しばらく席を外して下さい」と母を追い出し、すぐさまフィールドトリップした。どうやら私は幾つかの異世界でマテリアライジングされているような状況だったらしく、多数の世界に同時に存在し、また、常時そのどこかの世界を一つだけランダムに感覚していたとのことで、横江さんはその世界全てに出向いてマテリアライジングされた私を一つずつ消して行ってくれたのだ。こうした適確な治療のおかげで無事完治した私は、同時にその思惑まで横江さんに感知され、一発軽く小突かれて怒られた。横江さん曰く、「何となく虚構代行になろうとしてるんじゃないかとは薄々勘付いていたけど、まさかもうマテリアライジングを試しているとは思わなかった。今度ちゃんとコツとか教えてやるから、今は無理せず休め。というか、夏休み中は虚構のことは忘れてしっかり楽しめ。両親を心配させるな」とのことで、あ、もう大丈夫ですから安心して下さい、などと母には愛敬を振り撒きながらそそくさと去って行き、私は礼すら言いそびれる始末だった。私が我を取り戻したことで胸を撫で下ろした母は、「あの人、横江グループの御曹司なんですって? なかなか格好良いし、上手くやれば玉の輿じゃない」ってな具合に機嫌も良く、大層彼のことがお気に召した模様で「歳の差、どれくらいまでなら許容範囲なのかしら?」などと、きゃぴきゃぴしつこく尋ねて来る。何か引っ掛かる態度だなあ、と思っていたら、どうやら母は娘の私を嫁にやるという発想ではなく自ら乗り込む腹づもりでいるらしく、冗談にしろ何にしろ、事実と照らし合わせると倫理面で多少の差し障りがあるのだが、娘の口からまさかそんなことを言い出せるはずは無い。「横江さん、許婚がいるから駄目だよ」という時代錯誤ながら説得力のある言い訳があって良かったと、この時ばかりは思ったものだ。とにかく、幻覚症状はその日を境にぴたりと途絶え、精神が昂ぶっていたせいか悪夢に魘されることは何度かあったものの、それも一週間ほどするとなりを潜めて来た。
横江さんと相談した結果、来年は高校受験だし、この夏休みは楽しめる最後の機会かもしれないのでやっぱり思う存分羽を伸ばすべし、とのことで、紫さんのことを思えばそんな暇は無い、と反駁を試みたが、一番辛いのは横江さんであり、その横江さんがこう言っているのだからと無理矢理自分を納得させ、マテリアライジングの練習は二学期が始まるまでお預けとなった。結果としてその夏の大部分は、筧と中学生らしい純朴なデートを楽しむことに費やした。私もだいぶ彼に懐いて来て、手を繋いだり腕を組んだりするだけで、心がほわんと柔らかい真綿に包まれるのを感じ、蕩けそうな熱気の中、幸福の障壁で二人だけが守られており、今ならきっと空も飛べるはずだ、などというメルヘンチックな空想にほどほどに溺れ、笑い合い、ふざけ合い、時に見つめ合ったりし、しかしもう二度と性衝動に安易に身を任せるような真似はしない。不純でない異性交遊の見本として保健体育の教科書にでも載せてはいかがか、と半ば本気で考えたりする辺りに、私の浮き足立った様子が垣間見えるが、とにかく筧と一緒にいると楽しかったのだ。それが、この恋の全てだ。
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