第7話

 さて、私が虚構の世界の実在を知って足元をぐらつかせている間、そんなこととは関係なしに邁進していたのがこの現実世界という奴であり、紫さんの失踪やら漫画の濫読やらの中迎えた最初の考査試験(中学一年一学期中間試験)で私は、クラス内後ろから数えて三番目という壊滅的な成績をもってそれを思い知らされることになった。「成績の良し悪しと頭の良し悪しは関係ない」と負け惜しみでなく私は割り切っており(テストで点が取れなかったのは勉強してなかったからだとわかっていたし)、何も気にせず飄々としていたが、むしろ周囲が過剰に心配し、事故で頭を打ったせいで馬鹿になったのではないかという危惧が生じ(そんな漫画みたいなことあるか)、それに責任を感じた志村君が「暇な時に勉強を見てあげましょうか」などと殊勝なことを言い出して、ボランティア家庭教師の誕生と相成ったのである。基本的に志村君のバイトが無い月曜と木曜に家に来てもらうことになったわけで、木曜と言えば横江さんとの密会(?)の日でもあり、時間をずらすことでどうにか対応したものの、何だか自分が人気者にでもなったかのようでとても気分が良かった。成績が悪くなったおかげで良いことがあるなんて、考えてみればだいぶ矛盾しているようだが、塞翁が馬という言葉もあるし、こんなのもまたありなのかもしれない。二股をかけているわけでもあるまいに、お互いにお互いの存在を知られないよう気を遣ってみたりして、何だか悪女みたい、と調子に乗っていたら、そんな風に年上の男性と交流があって対人関係に余裕のある点が功を奏したのか、学校で何故かやたらとモテ始めた。六月初めのある日、下駄箱の中に一通の恋文が入れられており、差出人も宛名もないし、どうせ誰かの悪戯か、乃至は下駄箱を一つ隣と間違っていましたっつう落ちだろ、なんて斜に構えてみたものの、内心恋に恋したい乙女モード全開炸裂で、ドキドキ胸を高鳴らせたまま放課後指定された場所(屋上や校舎裏でなくて、理科実験準備室というのがやけにリアルだった)に行ってみると、驚くべきことにそこには深間靖章が待っていた。この深間というのは、背が低くて声変わりもしていない可愛らしい外見の割にサッカー部に所属してスポーツ万能で抜群に頭が切れ、クラスの中心グループの一人で、席が私の斜め後ろということもあってそれなりに話をする間柄ではあったが、まさか私に好意を寄せているとは想像だにしなかった。とは言え、実はドッキリでしたひっかかってやんの馬鹿じゃーん、というオチもまだまだ考えられるぞ、と警戒を捨てずに臨んだが、深間は私の顔を見るなり耳まで真っ赤になり、好きです、付き合ってください、返事は今週中ならいつでも良いんで、よろしくお願いします、それじゃ、と何故か敬語で言うだけ言って、廊下を走って逃げ帰ってしまった。うわー、本気だ、とここに来てようやく確信し、どうするどうすると一人おろおろしていたら、見回りに来た警備員さんにどうやって鍵を開けたんだ、などと不審がられ、弁明も出来ずに慌てて帰宅の途についたのだが、道中でも気が気ではなくあからさまに周辺への注意を散じており、真横を戦車が走り抜けても全く気付かなかったと思う。その日は漫画の立ち読みの予定を急遽中止し、自室にて秋吉鈴桐会議が開催された。深間に対してどう返答するべきかうんうん言いながら様々な案を吟味していったが、どれもこれも決め手に欠けるなあ、と思っていたら、要するに私は自分の恋心みたいなものが全然見えていないのだと気付いた。横江さんに対する絶対の信頼とか、志村君に対する親しみの情とかが、単なる年上の異性に対する憧れなのか、むしろそこから発展した恋の一形態なのかよくわからなくて、とりあえず人並みにちやほやされると嬉しいので、自分に好意を寄せているらしい深間が急に魅力的に見えてきたりするのだ。こんなことではいけないんじゃないか、と思いつつ、一方で、恋愛って所詮そんなもんかもしれない、と達観したような部分もあり、最低でも深間を傷つけたり私が傷ついたりすることのないやり方を選ばないとな、と方針だけが宙ぶらりんに決まっている状態で、あーもう、どうしたらいいの紫さん、とこんな時に何でも頼りになる相談相手がここにいないことが悩ましくて仕方ない。他に親しいクラスメイトもいるにはいるのだが、誰にアドヴァイスを求めても、「え、マジ、深間が? 超良いじゃん。何迷ってんの? 付き合っちゃいなよ」以上のことを言いそうにないし、何よりミサ辺りは深間のことを好きそうで(勘だけど)、今回の件を相談すると大変なことになりそうな気もする。で、結局どうしたのかと言うと、返事は今週中にと言われたから、金曜まで先送りにすることにして、木曜の放課後に横江さんと志村君にそれぞれ相談してみた。山川一家失踪事件の進展が無かったことを申し訳無さそうに伝える横江さんにさらに輪をかけて申し訳無さそうな態度で、私は自分が陥っている危機(?)を説明し、人生の先達としての指示を仰いだ。あるいは嫉妬の一つでもしてくれれば、と思ったが、そこはポーカーフェイスで乗り切られ、まあ、そういう風に一般中学生らしいスクールライフをエンジョイするのが君のためだと思うよ、と暗に虚構代行に深入りするなと忠告された。身の無いアドヴァイスに膨れていると、俺はこう見えて純情野郎だからそういう経験はあまり多くないんだが、と前置きした上で、

「若い内から恋愛を多く経験しといた方が良い、とかいう奴もいるが、正直そんなのは人によると思う。恋愛ごと自体、つまり、彼氏と一緒に買い物行ったり、映画行ったり、そういう浮かれた事象を楽しめると思うなら付き合えば良いし、感情の行き違いから間違いなく勃発する諍いとか、多分最終的には別れ話とか、そういうのが鬱陶しいと思うなら止めとけば良い。まあ、君は好かれてる側なんだから、多分向こうは君が楽しくなるよう一所懸命頑張ってくれるはずで、付き合ってる間は大体楽しいと思う。君の年齢から考えて、将来的にプラスになるとかマイナスになるとかいう深刻な交際にはならないだろうし、気楽に決めればいいんじゃないのか? ああ、ただし、これだけは念を押しておくが、付き合うことになったら避妊は絶対しろよ」

 だってさ。馬鹿! とチョップを繰り出したら、真剣白羽取りの要領で止められた。にやにやしてるのかと思いきや、何だか少し寂しそうで、たぶんこうやってふざけ合っている私の後ろに紫ちゃんの影を見てるんじゃないか、と思い至り、後ろめたさも手伝って私まできゅんと切なくなる。横江さんがロリコンかどうかは知らんけど、これこそ愛だろ、愛。で、一方、夕食後に勉強を見に来てくれた志村君は、私の話を聞くなり、へえ、凄いな、鈴桐ちゃんモテるんだね、と世辞を飛ばし、僕は専ら好かれるより好きになる側だから参考になるかどうか知らないけど、という極めて謙虚な前置きをした後、

「鈴桐ちゃんが、相手を傷つけたくない一心で付き合うつもりだとしたら、それは止めた方が良いと思う。すっぱり振られるよりも余程大きな傷を、後々相手に与えることになるかもしれないからね。だからといって、きっぱり振ってしまえ、というのも暴論だ。それが出来るくらいなら、最初から迷ったりなんかしないよね。だからさ、付き合うとか付き合わないとかいう二者択一の返事じゃなくて、正直に、自分の気持ちがよくわからないから迷ってる、ってことを相手に伝えてみたらどうかな。そうしておいて、お互いよく話し合って、二人の距離感を決めていけば良い。徐々に親密になって、自然と付き合うようになるかもしれないし、もしかするとそのままずっと友達で終わるかもしれない。恋人ってのは、本来二人の人間の距離関係を示す言葉なんだから、告白という一度のやり取りだけで、はい手続きが済みました、今この瞬間から二人は恋人同士ね、なんて決めるべきものじゃないと思う。恋人がいる自分に酔いたいわけじゃないなら、二人の距離をこそ重要視した方が良い。相手も本当に鈴桐ちゃんのことが好きなら、きっと納得してくれるよ」

 と、にっこり。なるほど、確かにそれは一理どころか二理も三理もある。さすが志村君、穏やかでいながら型破りな、第三の選択を提示してくれた。彼の言うのは所謂「お友達のままでいましょう」と「お友達から始めましょう」の中間形態であり、「お友達のままでいるのもそれ以上の関係になるのもはたまたそれ以下の関係になるのもこれからの二人次第よ」という、告白という儀式を無効化して人間関係一般まで立ち返った概念論だったのである。凄いな。どさくさに紛れて、今恋人いるんですか、と思い切って訊いてみたら、志村君ははにかみながら、友達以上恋人未満みたいな相手ならいるよ、と答え、私は見知らぬ誰かに猛烈な嫉妬を覚える自分に驚いてしまった。こういう感覚が私を悩ませるのだ。でも何となくそれ以上は距離が縮まらない感じ、と彼は笑い、じゃあちゃんと告白とかすればいいんじゃないですか、と言おうとしたが、たぶん、そういう『きっかけ』があってすらなおその曖昧な距離感が維持された時のことを恐れて、踏み出せなくなってしまったんじゃないかと思い口を挟めなくなった。志村君の言うのってそういうことだもんなー、人為的に告白とかのラジカルなアプローチをしないでも、なるべき人は恋人になるよって話で、何も無ければ恋人になれないなら、その人たちはそれまでの関係なのだってことだ。うーん、そんな日和見主義でいいのかしらん。いざという時、好きな人を横から奪われて後悔したりとかしそうに思えるけど……。

 まあとりあえず、そんな風に誰かを好きになる側だったらもどかしそうだが、好かれるサイドにいる分には、志村案はなかなか良さそうに思えたので、私は次の金曜日、深間に自分の気持ちをしっかり説明し、二人で距離感を探っていこうよ、と説得し、まあ何とかことなきを得た。早速その週末に映画に行こうと誘われたが、急に二人きりっていうのは何だよね、と二人とも照れ臭かったこともあり、男女三対三のグループ交際みたいな形にして、ああ、そうか、これが適切な距離感という奴か、と妙に納得したのだった。

 ところがである。ここから怒涛のように訪れる告白ラッシュが私の平穏を根底から覆してしまうのだ。まず、深間の二週間後に小学校時代からの知り合いであり今は隣のクラスにいる吹奏楽部の荊木光太郎に音楽準備室に呼び出されたのを皮切りに、その四日後にこれまで接点の無かった二年生の陸上部エース鏑矢如月先輩に校舎裏に呼ばれ、さらにその一週間後に深間とのグループ交際のメンバーの一人であるサッカー部の佐和田啓と偶然帰宅時間が一緒になった際その思いの丈を告げられ、さらにさらに期末試験の直前には入院の時にノートを貸してくれた秀才の学級委員筧基晴が電話で告白して来て、とどめに終業式の日にそれまでノーマルな友人と思っていた手芸部の三崎朋絵が禁断の愛を語らって来た。私はその都度志村君流の告白返しを懇切丁寧に説明し、ありがたいことに皆物分かりの良い人ばかりだったので、深間、荊木、鏑矢先輩、佐和田、筧、トモちゃんの都合六人と曖昧な交際形態でお付き合いすることになり、その全員が、「私には特定の恋人がいない」と思い込んでいる(実際そうだけど)状態になった。横江さんにそれを報告すると、最初の三人くらいの時は笑い話のように聞いていたものの、数が増えてくると徐々に難色を示し始め、それってなんかヤバいんじゃないか、泥沼化しそうな気がするんだが、なんて言うから、どうしてですか、自然な距離感で全員と付き合うわけですから問題なんて生じるはずありませんよ、と有頂天だった私はからから笑って呑気に返した。ただ、志村君にはこのことは秘密にしていて、それは要するに私の中で彼も恋人候補の一人だと無意識的に自覚していたからで、それでも何のきっかけもないまま、家庭教師と良き生徒という関係がしばらく続くことになった。志村君の熱心な指導と委員長の筧が貸してくれたまとめノートのおかげで、一学期期末試験の成績はクラスの平均くらいまで一気に上昇し、両親や担任をあからさまにほっとさせ、私も中庸の頭脳の面目を躍如した。終業式直後は志村君>深間>筧>鏑矢先輩>佐和田>トモちゃん>荊木だった私との親密度は、二日に一度くらいの割合で誰かに呼び出されてデートに出かけるという充実した夏季休養中に目まぐるしく変遷を遂げ、横江さんが二週間に一度しか店に来なくなったことと合わせて、私に青い春という現実を強く意識させた。夏休みの宿題を兼ねて、深間、佐和田を含む六人で上野の美術館へルノワール展を見学しに行って、どこから仕入れたのか芸術薀蓄を朗々と披露する佐和田の株が上がったり、トモちゃんを誘って荊木の所属する吹奏楽部の定期演奏会を聴きに市内のホールに行き粛々とヴィオラを弾く荊木の横顔に見惚れたり、読書感想文用のお勧め本を図書館で筧に薦められて(国語教師の恐ろしさに負けて、さすがに漫画で書く気にはならなかった)本に詳しい彼の語り口に紫さんの幻影を見たり、鏑矢先輩の参加する県の陸上競技会を応援に行ったりと、とにかくイヴェントが目白押しで、日によってはダブルブッキング、トリプルブッキングすらも辞さず、奔放極まりないと言われれば否定のしようも無い、べらぼうに破天荒な日々を私は送っていたのである。八月の中半に横江さんと店で会った時、連日のデートで日に焼けて小麦色になった私を見て、ゼミに篭り切りで文献を当たっているらしく生白い肌の彼は、羽目を外しすぎるなよ、人間はいつまでも無邪気でいられないんだから、と警告したが、要するに夏休みに毎日遊べる中学生がうらやましいんでしょ、と私は笑って取り合わなかった。志村君以外の恋人候補に、一体私のどこが好きなの、と乙女の誰しもが一度はするだろう質問を投げかけてみたところ、深間は「一緒に話して楽しいところ」、荊木は「全体的な雰囲気」、鏑矢先輩は「ルックス」(笑いながら)、佐和田は「一見軽薄そうで実は何か色々考えてるところ」、筧は「怪我のことをいつまでも引きずらない強靭な精神力」(笑いながら)、トモちゃんは「なんだかわからないけど惹かれる。たぶん前世から結ばれる運命にあったんだと思う」(勿論笑いながら)とのことで、結局どれもこれも好きな相手が私である理由になってるようななってないような感じで、「人を好きになるのに理由なんて要らない」、という陳腐な言葉が六人分両肩に圧し掛かった感じだった。

 八月中旬、市内の神社で行なわれたお祭りに私はとっておきの浴衣姿で登場し、深間と佐和田の目を釘付けにした(この時はいつもの男三女三のグループだったのだ)。綿飴を食べながら歩いていると、偶然、可愛い女の子を二人連れて両手に花状態で向こうから歩いてくる志村君とばったり出会い、ずきりと胸が痛むのを感じた。話によるとその内の片方は田舎から遊びに来ていた従姉妹で、もう片方が近所に住む幼馴染だということらしく、去年までランドセルを背負っていた私などとは比べ物にならない艶やかな女性的魅力を備える女子高校生二人に、私はただただ圧倒され完膚無き敗北を予感した。二人は私を丸っきり子供扱いして、可愛い可愛いと褒めそやした後、志村君にこれ見よがしに甘えかかりながら手を振って去って行った。綺麗な人ねー、とミサが呟いたけど、私は聞こえなかった振りをして返事をせず、深間と佐和田もそちらを目で追っていたものだから、二人の向こう脛の辺りをそれぞれこっそり蹴りつけてやった。駄目だなあ、私。けれども、そんな中途半端な嫉妬心みたいなものがハートに火を点けたのか、仲間が解散になった帰り道、人気の少ない川沿いの県道を方向の同じ佐和田と二人、談笑しながらゆっくり歩いていたら、街灯の下でファーストキスを経験することになった。なんか急にそんな雰囲気になったのだ、と漠然としたことしか言えないが、それはレモン味でも何でもなく、でもふにゃりと柔らかな唇の感触は心地良くて、二人とも緊張で震えているのがダイレクトに伝わり合い、何だか少し可笑しかった。五秒くらい続けていたのだけれど、私はその途中で急に我に返り、目を開けて、焦点の合わない距離にある佐和田の色黒の顔をぼんやりと眺めていた。顔が離れた後、二人とも何事もなかったように雑談を再開し、顔の火照りと胸の高鳴りは涼やかな夏の夜風の中に紛れていつの間にか消えてしまって、家に辿り着く頃にはあれは全て私の妄想だったんじゃないかと首を傾げたくなるくらいで、その余韻すら残っていない有り様だった。この時点で、佐和田>志村君>深間>鏑矢先輩>筧>荊木>トモちゃんみたいな順位になって、キスまでしたから佐和田に当確が出たのかと思っていたら、次の日荊木と二人で見に行った隣町の花火大会の帰り、全く同じような流れから人生二度目の接吻を体験し、自分でもわけがわからなくなってしまった。どうも私は、暗い中二人きりで歩いているというシチュエーションに弱いらしく、しかも気分が盛り上がるとそのままキスくらいは誰とでもしそうな尻の軽い女であるようで、こりゃまずい、何か妙なことになりそうだぞ、と思っていたら、当たらんでも良い時に限って予想は当たるもので、八月の二六日までにあれよあれよと言う間に志村君を除く六人全員とキスしてしまい(トモちゃんとも!)、その内二人とは探り探りの内に舌まで入れ合ってしまった。本格的に六股をかけているような状況になってきて、このままでは横江さんの言う通り泥沼化するかもしれない、とようやく危惧を覚えたが、今更この中の誰か一人を選んで決めた方が間違いなく泥沼になるだろうし、このまま上手く皆と均等に付き合いを続けるのが誰にとっても幸せな気がして、私はこの関係に強く固執し、維持して行くことを決めてしまう。あまりにも目まぐるしく順位が変動するものだから、むしろ、志村君=深間=荊木=鏑矢先輩=佐和田=筧=トモちゃん、という図式化を狙ったわけだが、勿論そんな見通しは甘過ぎた。誰もが無邪気でいられるわけではなかったのである。

 当然のことながら、関係の瓦解は深間と佐和田の間で始まった。二人とキスしたことがお互いにばれ、九月の二日に早くも理科実験準備室に呼びつけられて、どういうつもりか説明してくれ、と強く迫られた私は、二人に対する好意が本当のものであることを懸命に主張したが、問題はそんな精神面でなく、実際に二人とキスをしたという現象面にこそあるわけだから、何の解決にも至らず、気まずい雰囲気を払拭することは出来なかった。それはそのまま、男三女三の仲良しグループの中に不和を呼び込み、どこからか事情を察したらしいミサがまず私を問い詰めてきて、私は懸命に自己弁護に努めたが、予想通り深間のことを好きだったっぽいミサには全く通用せず、見損なったよ、とか言われて友達の縁を切られた。さらにそれを発端に、そう言えば二年の鏑矢先輩と秋吉が二人で歩いてるの見たよ、え、鈴桐って委員長と付き合ってるんじゃないの、などと奔放な夏休み中の私の行動が察知され始め、申し開きのできる状況でもなく、私はクラスの女子の中でかなりまずい方向に孤立し始めた。これは小学校時代の紫さんとは全く場合が違う。表面上はこれまでに似た友人関係が維持されているのだが、皆その心根で私のことを軽蔑しているのが明らかで、腫れ物に触るみたいな扱いになってしまっており、一言で言えばクラスの嫌われ者のレッテルをべったり貼られた形なのだった。それは、六股の相手それぞれにも影響を与え、深間と佐和田に関しては私を含めた三人の関係がぎくしゃくし始め、筧は逆に俺は気にしてないからお前も気にするな、と却って優しくなり、荊木は再度私にはっきりと付き合うかどうかの選択を迫り、鏑矢先輩は、俺ももう一人付き合ってる人いるんだ、ととんでもないことを平然とカミングアウトし、トモちゃんはクラスの女子の中で唯一私と仲良く出来ることに歪な優越感を覚えているようだった。なんかまずい、これはまずい、と追い詰められた私は、急遽関係の差別化を図り、深間と佐和田は許してくれそうに無いからアウト、鏑矢先輩はどうせ遊びだからアウト、トモちゃんは女の子だから除外して、筧と荊木のどちらかあるいは両方と正式に付き合おうと決め、まずは明確な指針を欲していた荊木に自分の浮ついた性格を何度も丁寧に説明した上で、こんな自分で良ければ付き合って、と言ったら何とあっさり袖にされた。何だってんだよ、もう! そんなわけでめでたく筧と恋人同士になったような形に収めたのだけれど、勿論それは名目上であって、鏑矢先輩に誘われればひょこひょこ付いて行くし、トモちゃんとはヤバいくらい親密だし、荊木も自分から振っておいて私に何となくまだ未練があるのか構って来る。深間と佐和田も徐々に割り切った考え方で友達以上恋人未満くらいの位置をそれぞれ取り戻そうとしてくるし、大外には本命の志村君が控えている。そんなわけで、相変わらずクラスの女子の間での評判は芳しくなく、私としても謂れの無い誹謗中傷というわけでもないので被害者面ばかりはしていられず、その内面倒になって崩壊した関係の修復を諦めてしまい、十月を過ぎる頃には私と積極的に話をしてくれる女子は本当にトモちゃんしかいなくなった。それでも何となく大丈夫だったのは、私には漫画という虚構への逃げ道が開かれていたからで、異世界への渇望が自身の中で日増しに強くなって行くのを感じていた。

 結局そのままずるずると六股のような状態が続き(その噂が広まったせいか、それ以上私に告白してくるような人間はいなかった)、一応本当の彼氏は筧ということになっているから、それ以外の男の子達との間である程度の格差を保つことを意識しなきゃ、などと自分に言い聞かせる内、気の遣い過ぎで脳がパンクしそうになり、ある日の深夜思わず横江さんに電話をかけてしまった。横江さんは帰宅しており、私の話を黙って聴いてくれて、てっきり「だから言わんこっちゃない」など苦言を呈されるものと思っていたら、

「気楽にやれよ。誰を傷つけても良いから自分が一番楽しいと思うやり方でやれ。深く考え過ぎるんじゃねえ。楽しく生きればいいんだよ。ああ、ただし、避妊だけはしろ」

 と、前向きにアドヴァイスをくれた。この期に及ぶと避妊という言葉が妙に現実味を帯びて聞こえるから怖い。いやいやだからこそ絶対に貞操だけは守ろう、と私はこの時誓い、それが無ければ絶対に中学一年の間に初体験を済ませてしまっていたと思う。クリスマス直前に志村君が家に来た時クリスマスプレゼントと称して冗談めかしてその唇にキスしたり、一月にトモちゃんの両親が出張でいなくなるからと泊まりに行って一緒にお風呂に入って一つのベッドで寝たり、鏑矢先輩と放課後の部室でかなりヤバいラインまで試しにやってみたりしたものの、どうにか一線を越えることなく進級し、その年の六月に私はいささか早目に大人の階段を駆け上ったわけだが、その相手が誰あろう横江銃だったのは運命の皮肉としか言いようがない。

 横江さんの名誉のために言っておけばこれは九割九分まで私が悪くて、丁度この時期、志村君が幼馴染の女の子と付き合い始めたらしく私は一つ失恋し、トモちゃんが男の子に告白されてそちらに夢中になり始めて二つ失恋し、荊木に他に好きな人が出来て三つ失恋し、深間が何となくミサになびき始めて四つ失恋し、勝手なものでその一つ一つに大きく傷つけられ、それを癒してもらいたい一心で彼氏である筧に依存したが、筧は絵に描いたような朴念仁でどんなチャンスがあっても絶対に軽いキス以上のことはしようとせず、それはきっと私のことを大切に考えてくれていたためだろうけど、当時の私が欲していた愛情には余りに力不足だった。もう誰でもよくなって佐和田に接近したが、他の男との失恋を慰める役回りなんて願い下げだ、というよくわからん矜持を発揮されて断られ、こうなったら鏑矢先輩との愛の無い放課後の情事にもつれ込もうかという段に当の先輩が先客とよろしくやっていたので、私は弾丸にも優る勢いで学校を飛び出し、増改築して大きくなった『横江リサイクルブック』に駆け込んでレジ前で号泣した。困ったのはレジ番の横江さんで、どうにか傍迷惑な闖入者を宥めようとするのだが、ぷっつりと何かの糸が切れた私は泣き崩れるばかりで会話が成立しない。お客の目もあったし、「とりあえず彼女を家に送り届けて来ます」と店番を他の店員に任せ、横江さんは私を引きずるように店の外まで連れ出した。歩けるか、と聞かれて首を横に振り、仕方ないな、自転車の後ろに乗せてってやるよ、家どっちだ、と言うので、嫌です、帰りたくありません、横江さんの家に連れてって下さい、じゃないとまた店内で泣き喚きますよ、と不条理極まりない脅迫で切り返したところ、余程のことだと思ったのか横江さんは渋々セーラー服の私を荷台に乗せたまま、えっちらおっちら一〇分以上かけて郊外の1DKのマンションまでママチャリを走らせてくれた。荷台に横座りで腰掛けながら、私はその大きくも無い背中にぎゅっと掴まって、心地良い温かさに身を任せた。鼓動が、横江さんの常ならぬ緊張を伝えて来ており、マンション前の自転車置き場ですんすんと洟を啜っている私を渋面で眺め、言いたいこと言ってお茶飲んだらすぐ帰れよ、と自室に招き入れた時の彼は、どことなく精彩を欠いているように見えた。私はそんな彼の隙に巧みに付け込み、突然のタックルで横江さんを押し倒し、私ってそんなに魅力無いですか、女として見えませんか、とピントのぼけた悲嘆にくれて泣き喚き、落ち着け落ち着けと言い聞かせようとする彼の唇を自らのそれで塞ぎ、自分でも問題の本質を見失っていたので、その場の勢いだけで、死にます、抱いてくれなきゃ私死んじゃいます、と一方的に宣言して、確かに何となくそれで自分は楽になれそうだと気付き、壊れたレコーダーのように同じことを繰り返し続けた。それでもなお横江さんは大人として振る舞い、懸命に私の説得を続けようとしたが、私が台所に行って果物ナイフに手をかけようとするとさすがに根負けして、途中で嫌だと思ったら意地張らずに絶対すぐ言えよ、とだけ忠告して私を強く抱き竦め、深い口付けに応じてくれた。横江さんの手付きはいやらしく、私は泣いていたのも忘れてすぐにその気になり、セーラー服はするすると剥がされ、優しい手引きもあったお陰でそれほどの恐怖や痛みも無く、ベッドの上で彼を迎え入れてしまった。なんだか生まれて来てから一番エッチなことをしているというのに、この時私が感じていたのは性という次元とは遥か別の場所から来る幸福な感情で、横江さん……、と相手の名前を呼ぶいつに無く甘い自分の声すら自分を酔わせ、下腹部から脳天を貫くようなじんじんとした快感に身悶えしながら、この瞬間が永遠に続いて欲しい、とまで切に願ってしまった。横江さんは、とにかく私の身体的、精神的苦痛が無いようにと配慮してくれて、ことが終わった後、これは俺が君の魅力に負けたから起こったことで、責任の所在はあくまでも俺にある、良いな、と有無を言わせぬ口調で断定し、宙を漂うようなぼおっとした浮遊感の中仰臥していた私は、自分の頬を伝う涙のわけを探した。念のために言っておくと、ちゃんと避妊はしていた。たぶん最初から最後まで私に欲情してはいなかった横江さんは冗談ぽく、あーあ、紫には秘密にしとけよ、絶対、と笑い、たぶんそんな横江さんに清々しい失恋をした私は、今後も体だけの関係を続けてくれるなら考えておきます、と答えて、びしっとチョップで額を殴られ、その痛さのせいで涙をぼろぼろ零した。そう、きっと痛さのせいで。この後私は、股に残るかすかな痺れと腿の内側の筋肉痛をおしてよろよろ立ち上がり、シャワーを借りてさっぱりすると、バスタオル一枚の姿で横江さんの用意してくれたミルクティーを飲み、そもそも号泣して店に駆け込んだ理由を洗いざらい全て説明した。尤も、その時には自分でもどうして泣いていたのか、何が悲しかったのかよくわからなくなっていて、横江さんはビスケットの袋を開けながら、

「俺の見立てが正しければ、今の君の彼氏は本物だ。本当に君のことを大事に守ってくれる人だ。これから楽しくやっていきたいなら、この機会に彼氏以外はばっさり切れ。あとちなみに、君の家庭教師はたぶん、幼馴染と付き合い始めたりなんかしていないと思う。何らかの理由で、君の恋を諦めさせようとしてそういう嘘をついたんだ。一応、その優しさは汲み取っておいてやれ」

 とコメントし、私の個人的危機に終止符を打ってくれた。何だかそんな横江さんが堪らなく愛しくなり、ぎゅってして下さい、という無茶なお願いを、これで終わりですから、最後ですから、と拝み倒して聞いてもらい、バスタオル一枚という破廉恥な格好のままその逞しくもない胸の中に抱かれた。ごめんなさい、と小さく呟くと、うん、と力無い返事があって、送って行くから着替えろよ、という優しい真面目声が、何となく筧に似ていて私に希望を与えてくれた。服を着替えている間、横江さんは律儀にも退室してくれたので、その間こっそり彼の部屋を物色したら、経営関連の専門書のぎっしり詰まった本棚の上に写真立てが伏せられていて、豪華などこかのホールをバックに、晴れやかなパーティー衣装に身を包んだ紫さんが両親に挟まれてゆったりと上品に微笑んでいた。うわー、許婚だとはいえ、自分の部屋にこんな幼い少女の写真飾るのって問題だろう、と茶化してやろうかと思ったが、それが私との例の行為の間ずっと伏せられていた事実を鑑み、黙って元通りにしておくに留めた。もう、最後に会ってから一年以上経つけれど、紫さんは今頃、どんな一三歳になっているんだろうか。そして横江さんはやっぱり私の中に、紫さんの影を追っているんだろうか。悔しいけれど、私は紫さんには到底敵わないんだろうな、などと感慨に耽る。セーラー服のリボンを整えながら部屋を出ると、ダイニングルームで横江さんが待っていて、『横江リサイクルブック』に電話して支店長に謝罪しといたから、明日からも気兼ねなく店に来ると良い、と言ってくれた。私は丁寧に礼を言い、わざわざ自宅の真ん前までママチャリで送ってもらった。横江さんの背中はやっぱり逞しくも何とも無かったが、でもすごく頼りになることは私が一番良く知っている。

 その日、志村君が大学受験のために予備校に通い始めること、ついでに大型バイクの免許を取るために教習所に通い始めること(普通自動二輪の免許があるから、こっちはそんなに時間かからないはずだけど)、その二つを理由にして、なかなか秋吉家に来られなくなるのでボランティア家庭教師を打ち切りたい、とおずおず申し出た。このことか、と私は何となく横江さんの言ったことを思い出しながら、成績もずっと中の上くらいを維持しているし、もう一人でも勉強は平気ですよ、受験とバイク両方とも頑張ってください、免許とってもバイクは安全運転でお願いしますね、と笑顔で見送った。喪失感も衝撃も少なく、むしろ前よりずっと晴れやかな気分だったのは、志村君と横江さん、二人の優しさのおかげだった。次の日学校で、鏑矢先輩と佐和田に「完全お友達宣言」をして過去を一方的に清算し、筧にこれこれこういう理由で今後は真剣に一対一で交際する、と自分の覚悟を伝えると、筧は小揺るぎもしない真面目な顔付きで、絶対いつかは俺に振り向いてくれると思ってた、と言い、彼にしてはあり得ないことに、周囲の目を盗んでそっとキスをしてくれた。不器用ながらやっぱりこいつは私のことを考えてくれているんだ、と幸せな気分になる。そして、これを境に、私は失ってしまった信用を取り戻すべくクラスメイトに積極的に話し掛け、自分の居場所をこじ開いて行き、クラス替えで別の組になっていたミサと完全に和睦する(彼女は深間と付き合い始めたらしく、おかげで確執は消えつつあった)に至ってようやく、小学校の頃のような穏やかな日常に回帰することが出来たのだった。

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