第3話 浦嶋太郎④

 司馬太郎は中年男が何を言ったのか理解できず、ポカンとしてしまった。


「消えったって言っても氷芽ひめ朱美さんは、今ごろパリに向かって機上の人となってるでしょうがね。彼女は服飾のデザイナーになるためにパリに渡り、そこで学ぶことを目指していたそうです。そのためにバイトをいくつも掛け持ちして一生懸命働いていた」

「え? なんの話か…なんであなたがそんなことを」

「わかりませんか? 彼女はもうあくせく働かなくてもよくなった、ってことです。まとまったお金を手にしたのでしょう、お芝居のギャランティーとして」

「お芝居? …も、もしかして…じゃあ朱美さんもママも最初から私を騙して…」

「騙したなんて証拠はありませんがね」

「いったい誰がそんなことを」


 そうつぶやきつつ、司馬太郎はピンとくる心当たりがあった。

 グルで騙されていたとも知らず、ここまで後生大事に菓子折りを持ち帰ってきた自分が滑稽になり、そして情けなくもなった。


「じゃぁこの菓子折りは。謹製って…」

「まぁ、開けてごらんなさい。ここなら開けてもいいですよ」


 司馬太郎は熨斗を剥ぎ取り、木箱の蓋を開けて絶句した。


「500万円。これはお母上はお亡くなりになりましたが、あなた方への地主のご厚情です。それに新しい住まいを見つけるまでには時間もかかりましょう、東京ステーションホテルに1カ月分の宿泊も用意しています。それからあなたの家財道具一式はほら、あそこのコンテナに移動しておきましたから、住まいが決まりましたら引っ越してください。こちらは2カ月以内に運び出していただけると、当方としては助かるんですがね」


 中年男はそう言うと司馬太郎にコンテナの鍵を渡した。


「あなたは騙されたと言いますが、27年間あなた方は家賃も固定資産税も払うことなく、この東京都心の一等地に暮らしてきた。お母上はパートをしたり辞めたりを繰り返され、働いていない時期の方が多かったようですが、そのわりにはお金に困るようなことはなかったのでは? あなたは私立の高校、一浪して私立の大学に進学されてますよね」


 司馬太郎は意識的に知ろうとせず、曖昧のまま放置してきた事実を突きつけられているような気がした。

 母親は彼の血縁上の父親からいくばくかの金と、都心の一等地に建つこの家を無償で借りたということだけは司馬太郎も知っていた。しかしそのというのは決して少なくない金額だったらしい。いや、その後も定期的に金の支援を受けていたのかもしれない。

 中年男は続けた。


「そのあなたもいまや就職して立派な成人になられた。独り立ちして良かろうと思いますがね。こう言っちゃぁ語弊もありますが、今までが夢、これからが現実です。それでもこれからってときに元手が500万円ある、ってのは恵まれている方だと思いますがね」


 司馬太郎はあまりの驚きに動転し激昂もしてしまったが、いまは冷静さを取り戻しつつあった。中年男の言うことも否定はし切れないと思った。


「仰ることはご尤もだと思わないでもないですが、ではなぜこんな大がかりに騙すようなことをしたんです? 地主の…父は」


 中年男は一瞬目を瞠ったようだったが、すぐに素知らぬ顔に戻って言った。


「それは存じません。ただ地主は、あなたのことを従順な羊だとは思わなかったということでしょう。羊は強力な法律に守られていますしね」


 司馬太郎はそれとはわからぬくらいの微笑を口元に浮かべた。ようやく腑に落ちたと思ったのだった。つまりこうだ。


 ――この土地が大規模都市開発計画の対象区域に含まれていることは母も知っていた。地主である父にしてみれば遊んでるこの土地を売るなり開発の地権者として貸せば、莫大な利益を得られるはずだ。逃すことのできない絶好のチャンスなのだ。

 だから母はいずれここを立ち退かなければならなくなるだろうことを覚悟していた。と同時に借地権を盾にゴネて、父から有利な条件を引き出そうとも考えていたのではなかろうか。

 その母が半年前に死んだ。

 父はこれを好機と思ったであろう。ただ借地権云々うんぬんの知識を、認知していない息子が母から入れ知恵をされているのでは、と危惧した違いない。だから面倒くさい交渉の段取りを省いて力技に出たというわけだ。


 司馬太郎はそう想像して、それが驚きのような、逆にむしろ順当なような、いわく言い難い気持ちになった。

 こんな大がかりな芝居を打つ人間だ。父という人はおそらくではないのだろう。そんな人を相手に世間知らずの自分が欲をかいて張り合おうなど、司馬太郎には思いもよらない。

 それに中年男が言ったように今まで良くしてもらったと思えば、司馬太郎には実はそれほどの腹立たしさもないのであった。壊れて欲しくない現実ではあったが、しょせん曖昧にしてごまかしてきた、成り行き任せの生活だったのだ。


 司馬太郎は今度ははっきりと笑った。なんだか昔話の浦嶋太郎に似ていると思ったのだ。

 そう言えば、と司馬太郎は首をかしげる。浦嶋太郎の結末はどんなだったろうと。

 亀を助けた浦嶋太郎は竜宮城に連れていかれ、そこに滞在した長い長い歳月の分だけ、玉手箱を開けた一瞬で年を取らされ老人となった、だったろうか。一瞬で年老いた鶴に変えられてしまった、だったろうか。どっちかよく覚えていない。

 いずれにせよ、司馬太郎はいまの自分の境遇の方がはるかに良いと思えた。文明の発展に置き去りにされた孤独な境遇の老人にされたり、人間でさえいられなくされたりするのに比べれば。


「わかりました。条件付きですべて受け入れましょう」


 ただ、司馬太郎には今回の件で恨みに思うことがひとつだけある。

 このバカげた大がかりな芝居のせいで、夢を見る機会が奪われたことだ。


「氷芽朱美さんの所在を私に教えること。それだけです」


 中年男は笑わなかった。


「ストーキングは犯罪ですよ」

「付きまとったりはしません。ただ、現実の中でも夢は見られるのか、自分で確認したいのです」


(「浦嶋太郎」了)

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現代社会の昔ばなし 乃々沢亮 @ettsugu361

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