3

 力でこの女を抑え込めるということが、ひどく奇妙に感じられた。あの頃、薫の力は彼女に到底及ばなかったから。

 ちょっと身をかがめたら、唇をふさげる。

 そんな距離で目と目が合う。

 やめて、と、彼女が再び呻いた。

 やめない、という選択肢が、薫の手の中にあった。子供の頃とは違って。

 両手で彼女の腕を押さえつけ、彼女の腰にまたがって抵抗を封じた姿勢のまま、薫は上半身を前に倒した。

 唇と唇が触れ合う。

 女のそれは氷のように冷たく、口紅の人工的な甘さが薫の口の中に滲んだ。

 10年ぶりの口づけだった。

 薫は目を閉じ、昔のように彼女の口腔を舌で探ろうとした。

 しかし硬く結ばれた彼女の唇がそれを拒んだ。

 無言の攻防は数分間続いた。

 根負けした薫が唇を離すと、彼女は薫から顔を背けた。

 「なんで……。」

 なんでこんなにも自分を拒むのか。

 薫の言葉にならない問いを、彼女は読み取って冷えた笑みを浮かべた。

 「昔のことは忘れなさいよ。」

 低い声だった。

 薫はその声の飾り気のなさに、10年前を思い出して彼女の頬に自分の頬を寄せた。

 彼女は上半身をうねらせるようにして、薫から遠ざかろうとした。

 「忘れて、もっとまともな愛を見つけなさい。」

 その言葉は、内臓の奥の奥から引っ張り出した、血みどろの告白に聞こえた。

 もっとまともな愛。

 そんなものがこの世にあるとしても、ほしいとは思わなかった。そこに彼女がいないなら。

 だから薫はそう告げようとしたのだ、彼女に。

 しかし彼女は手のひらで薫の唇を塞いだ。なにも言うな、と、目で告げながら。

 薫はたまらなくなって、口をふさぐ彼女の手に自分のそれを重ねて握りしめた。

 手のひらと唇の間にできた隙間に、必死の言葉を注ぎ込む。

 「まともな愛なんて、いらない。あなたが欲しい。」

 一緒に逃げてください。

 その一言に、千秋の思いを込めて。

 しかし彼女は当然薫を受け入れることはなく、静かに笑った。

 「ばかね。私は晴海楼の花魁よ。連れて逃げたらすぐに足がつくわ。」

 それでもいい、と更に言葉を重ねた薫に、彼女は冷たい微笑を返した。

 「いいはずがない。あなたの未来が全部、私の存在一つでめちゃくちゃになるわ。」

 淡々とした言葉だった。けれどそこには、昔の彼女の匂いがあった。

 はっとして薫が彼女の顔を覗き込むと、やはりそこには昔の彼女がいた。

 あの頃の、ぶっきらぼうだけど優しかった彼女。

 最後の口づけは、彼女から。

 「大人になったわね。」

 「うん。きっと。」

 それが最後の会話で、薫は一人、桜町を出た。



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観音通りにて・男娼 美里 @minori070830

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