2
薫には彼女の冷たさが信じられなかった。
あの頃、彼女は確かにぶっきらぼうだったけれど、一度たりとも薫に冷たい態度をとったりはしなかった。
抱き合って眠った幾つもの夜が、嘘だったとでも言うのだろうか。
夜明けの少し前に仕事を終える彼女と、この世に味方はお互いだけと抱きしめあって越えた暗い夜。
そのすべてが、嘘だったとでも言うのだろうか。
薫は、おずおずと彼女に向けて右手を伸ばした。
彼女の胸元に掠りもしないその手を、薫と彼女は黙って見ていた。
昔の彼女なら、指に指を絡め、どうしたの、と微笑んでくれたであろうその仕草。
「……あなたは、変わった。」
ぽつりと薫が言うと、葵は赤く染まった唇で微かに笑った。
「変わらない人間なんていると思っているの?」
「いいえ、でも……。」
右手を伸ばしたまま、薫はじっと彼女の黒々とした両眼を見つめる。
祈るような気持だった。
「変わってほしくないひとはいます。」
勝手ね。
囁きながら、彼女は薫の右手を自分の左手でそっと握り、下ろさせた。
冷たい手をしていた。薫の手ではなくて、手の周りの空気を握りでもするような、それは慎重な動作だった。
「変わらないで生きてこられたと思うの? あなたをなくして。」
「でも、それは……。」
薫を孤児院へ送り込んだのは、他でもない彼女だ。
後悔しているだとか、本意ではなかっただとか、そんなことを彼女は言わなかった。
ただ、黙り込んだ薫と彼女は、じっと目と目を見つめ合っていた。
不思議だった。
あの頃から10年が経ち、薫は育ち、彼女は老いた。そのことが単純に不思議だった。
あの頃みたいに手に手を取って暮らせないことが、どうしても不思議だった。
随分長いこと、二人は見つめ合ったまま身動き一つしなかった。ため息一つで壊れてしまう空気の中にいる自覚があった。
その空気を先に壊したのは、葵花魁の方だった。
「もう、戻らなくては。」
低く喉に触れる、聞き慣れた彼女の声。
待って、と、薫は咄嗟に彼女の方に膝を詰め、身を乗りだすようにしてその肩を抱きしめた。
ああ、痩せたな、と思った。
思った途端に体勢が崩れ、彼女と薫は畳の上に縺れるようにしながら倒れ込んでいた。
ぱらぱらと、彼女が髪に挿した簪が数本抜けて畳に落ちた。
やめて、と、彼女が掠れる声で呻くように言った。
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