薫には彼女の冷たさが信じられなかった。

 あの頃、彼女は確かにぶっきらぼうだったけれど、一度たりとも薫に冷たい態度をとったりはしなかった。

 抱き合って眠った幾つもの夜が、嘘だったとでも言うのだろうか。

 夜明けの少し前に仕事を終える彼女と、この世に味方はお互いだけと抱きしめあって越えた暗い夜。

 そのすべてが、嘘だったとでも言うのだろうか。

 薫は、おずおずと彼女に向けて右手を伸ばした。

 彼女の胸元に掠りもしないその手を、薫と彼女は黙って見ていた。

 昔の彼女なら、指に指を絡め、どうしたの、と微笑んでくれたであろうその仕草。

 「……あなたは、変わった。」

 ぽつりと薫が言うと、葵は赤く染まった唇で微かに笑った。

 「変わらない人間なんていると思っているの?」

 「いいえ、でも……。」

 右手を伸ばしたまま、薫はじっと彼女の黒々とした両眼を見つめる。

 祈るような気持だった。

 「変わってほしくないひとはいます。」

 勝手ね。

 囁きながら、彼女は薫の右手を自分の左手でそっと握り、下ろさせた。

 冷たい手をしていた。薫の手ではなくて、手の周りの空気を握りでもするような、それは慎重な動作だった。

 「変わらないで生きてこられたと思うの? あなたをなくして。」

 「でも、それは……。」

 薫を孤児院へ送り込んだのは、他でもない彼女だ。

 後悔しているだとか、本意ではなかっただとか、そんなことを彼女は言わなかった。

 ただ、黙り込んだ薫と彼女は、じっと目と目を見つめ合っていた。

 不思議だった。

 あの頃から10年が経ち、薫は育ち、彼女は老いた。そのことが単純に不思議だった。

 あの頃みたいに手に手を取って暮らせないことが、どうしても不思議だった。

 随分長いこと、二人は見つめ合ったまま身動き一つしなかった。ため息一つで壊れてしまう空気の中にいる自覚があった。

 その空気を先に壊したのは、葵花魁の方だった。

 「もう、戻らなくては。」

 低く喉に触れる、聞き慣れた彼女の声。

 待って、と、薫は咄嗟に彼女の方に膝を詰め、身を乗りだすようにしてその肩を抱きしめた。

 ああ、痩せたな、と思った。

 思った途端に体勢が崩れ、彼女と薫は畳の上に縺れるようにしながら倒れ込んでいた。

 ぱらぱらと、彼女が髪に挿した簪が数本抜けて畳に落ちた。

 やめて、と、彼女が掠れる声で呻くように言った。




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