平和

マティ

終章

合理。

理にかなっていること。

感情に流されることなく、論理的に正しいことを行うこと。


 必要な知識を必要なだけ。世界の人々にはそれだけの知識を手に入れる義務がある。老若男女関係なく、世間の流動に過敏に反応しつつ人々は新たな知識を取り入れていく。知識を取り入れるなどと言っても、本を読んだり、ネットを見たりするわけでもない。世界統制局と呼ばれる器官から、その時々の状況にあった情報が脳への電気信号として送られてくる。どこにいようが、何をしようが、その事実は変わらない。




「知ってる?数世紀前に世界中にネットワークの神経網が張り巡らされて、世界の情報をなんでも知れるようになったとき、人類はその進化を止めたの。」


 トイレへ入ろうとした私に、小さな女の子が言った。


「人間って不思議だよね。行くところまで行ったら、今度は戻り始めちゃうんだもんね。」


 私には少女の言葉の意味は全くと言っていいほど理解できなかった。進化とは、不思議とは、知らない単語ばかり並べられてはどうしようもないというもの。


「お姉さん。名前は?私はサキ。」


 唐突な出来事に困惑していた私は、局からの指示情報を待った。


「今はなんの情報も来ないよ。お姉さんが考えないと。」


 哀れみのような視線で私を見つめる少女。私はとっさに声が出ていた。


「コウ。」


「そうだよ!言えるじゃん。コウちゃん!」


 サキと名乗る少女は無邪気に笑った。




「コウちゃん、自由って知ってる?」


「いや、知らない。」


「うんと昔はね、局なんかなくて、みんな自分で考えて自分で行動してたんだよ。」


 いまのわたしたちみたいにね、と付け加えるサキ。サキとの会話はいつも新鮮だった。サキはいつも私の知らないことを教えてくれた。局がなかった頃の生活や環境など、普段誰もが気にしないようなことをたくさん。


「サキはさ、なんでそんなことを知っているの?」


 今思えば、私が初めて疑問に思った瞬間だった。


「なんでだろうね、私がみんなと違うからかな。」


 その言葉の真意が今となっては分かる。どんな重大な病気も発症前に治療できる医学ですら見つけることのできなかった病気。生まれ持った障害というものがサキにはあったらしい。それも、ヒトが生きていくためには十分すぎるほど小さくて無害なものだったが。




 サキが出会った当初と見違えるほどに成長した頃のある日の会話。私はサキから様々な知識をもらいながら、サキに自ら聞きに行くこともしばしばだった。それも現実に行くわけではなく、意思の方向としてのみだったが。


「コウちゃん。昔はね、ヒトがみんな街を歩いて、その街には知らないことばかりで、楽しいこともいっぱいあって、悲しいこともあったんだよ。」


 過去の時代の話をするとき、サキは少しだけ声のトーンが低くなった。


「空があって、ビルがたくさんあって、車が列を為して走ってたんだよ。」


 サキのいう街。それは何世紀も遡った時代に人々が暮らしていた場所だそうだ。

 今の、蟻の巣のように入り組んだ、限りなく続く通路の両脇に部屋があるような空間とは別物だったらしい。そしてそこではZ軸方向に際限がなく、無限に続く青い空が広がっていたらしい。

 そんなものが本当にあったのか、確認のしようはないがあったのならどんな感じだっただろう。


「そして、ヒトはみんな自由意志を持ってたんだ。」


 自由意志、サキはよくこのワードを口にした。


「今は誰の目も何を見ているか分からないし、着ているモノも、食べるモノもみんな同じ。」


 それより後を言おうとしても言えない。言ってはいけない。

 どこから聞かれているか分からないから。




「自由ってなんだろうね。」


 サキとの会話。数回に一度来るこの話題。


「私たちは自由なのかな。局に行動を決められたこの世界は自由なのかな。」


 ああ、サキ。それ以上は。


「局は不自由のない世界をうたっているけど、一方的に押しつけられた情報の中で、押しつけられる選択肢の中で生きるって自由なのかな。」


 サキ。ごめん。

 私はふと立ち上がると、サキにそう言った。

 数秒後、どこからともなく現れた円柱の機械が私たちを取り囲んだ。


「コウちゃん?」


 サキは全てを察したような顔で立ち上がった。


「コウちゃんは私のことを理解してくれてると思ってたんだけどな。」


 数瞬の間の後、サキは私の口に、柔らかな下をねじ込んだ。


「お返し。」


 それだけ言ってサキの姿は消えた。

 円柱によって私から引き剥がされたサキは、球状の糸のようなものに入れられると、すぐにその姿は見えなくなった。そして、さっきまでそこにあったはずの球は消え、円柱たちもどこへともなく消えていった。


「ごめんね。ごめんね。」


 私はそうつぶやくことしかできなかった。

 これが罪悪感という感情か。




 子を作る。局からの電子情報だ。

 ヒトに拒否権はない。あるのはただ行動に移す義務だけである。

 私は通路を歩いて行く。電子情報の指示に従って。

 疑問に思う。なぜ私は歩いているのだろう。どこへ続いているのかもわからない、得体の知れないこの空間を躊躇なく。


 サキの言っていたことを思い出す。

 曰く、ヒトは考える生き物である。

 曰く、考えないヒトは動物と大差がない。

 曰く、現代には動物ばかりだ。


 サキはこの世界を憎んでいたのだろうか。自分だけが他人とは違うと理解しながら、自分だけが違うこの世界を。

 私には分からない。

 サキの話を聞き、サキに同調している様子で、サキを局に通報した私には。


 電子情報だ。次に左手に見える部屋に入るようにと。

 私は身構えた。そこで私はこの体に生命を宿すのかと。

 しかしそれは誤りであった。


 入った部屋には何もなかった。文字通り、机も椅子も壁すらも。

 そこには空があった。振り返れば地平の果てまで続く無機質な白と、私が越えたであろう閉じきったシャッターだった。

 頭の中にながあれてくる情報から、全てを察した。


 私は知りすぎたのだ。

 自由を。意思を。思考を。感情を。

 この世界には不要な様々な情報を。

 局と呼ばれる存在は、私のように知りすぎた者をこのように排除しているのだろうか。それとも、私のような存在は今までにいなかったのだろうか。


 際限なき青と緑の空間に立たされている私にどうしろというのだろうか。

 中途半端に自我を持った私には到底理解できない。


 サキ。

 君ならどうしたんだ?

 世界が見せないこの世界で。

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