十
破竹は普段と変わらぬ日常に回帰した。最後の三日間を平坦に過ごした。
鳳には何も告げず、破竹は出発を決めていた。街都での安寧を放棄した。
働いている店の主人にも黙っていた。いつものように忙しく働き、愛嬌を振りまいた。
誰にも異変を気付かせなかった。日常の延長上に究極の転換点を位置付けた。強く意識したせいか、不思議と涙の一つも出なかった。
深夜、書き置きすら残さずに家を出た。鳳と過ごした十年の歳月を噛み締めた。玄関口には愛用の箒が寂しそうに佇んでいた。
破竹の去った後、室内に小さな明かりが灯った。鳳が煙草を咥え、磨き上げられた椅子に座っていた。放心したように、しばらく煙の煙をくゆらせた。徐に立ち上がると、破竹のフォトグラフを書斎の机の奥の奥にそっと仕舞って鍵をかけた。満足そうに笑ったその目元に、寂寞は滲んでいなかった。
破竹は僅かな手荷物だけで、文殊の元に向かった。街外れには、文殊の他にも角の無い人間が何人も集まっていた。無名の街都で見つけた同類らしい。これまでどこに隠れていたのか、そしてどうやって生きて来られたのか、破竹は疑問に思った。彼らは破竹の角に一瞥をくれたが、何も言わなかった。揃いも揃って濁った目をしていた。
一行は、無名の街都を後にした。
破竹は街都の外から全景を見渡して辞儀し、あとは振り返らなかった。荒涼とした風が吹き、森が鳴いた。街が泣いた。
聖域を出たところに自律駆動車の巨体があった。文殊に促されて全員乗り込んだ。運転手は別にいた。破竹はシートにもたれ、エンジンの小刻みな震動に身を任せた。発進の加速度が、破竹から信仰を奪い去った。高速で流れる景色の中に、破竹の来歴が潰れて消えた。窓に映る自分の顔が虚無的だった。死はそこにあった。生に埋もれていた。
手荷物に、入れた覚えの無い手紙が入っていた。
丁寧な鳳の筆跡で、角の偽骸を外す方法が書かれていた。それ以外のことは何も触れられていなかった。
別れの言葉一つ無い無機質な紙面に、涙が一滴垂れ落ちた。小さく、だが綺麗な円を描いた。インクが滲んで無秩序に淀んだ。
「戻ってくれ!」
反射的に、破竹は大声を上げていた。叫びにも似ていた。声は掠れ、甲高く不器用に揺れた。前の座席にいた文殊が、不思議そうに振り向いた。他の者は誰一人反応しなかった。
己の過ちを悟った。
破竹は独りで生きてきたわけでなかった。独りなら死んでいた。誰彼構わず、これまで自分に関わった者達に、感謝の言葉を伝えたかった。世話になった者達だけではない。両親や東の楽園の住人、盲目の詩人や彼に抱かれた少女、破竹を見て見ぬ振りして通り過ぎた通行人、破竹の左足を轢いた女、水魚を死なせた友人達……。全員に頭を下げたかった。
破竹は今更、自らの生を祝福した。周囲で何の反応も示さない角の無い人間達のために泣いた。
涙で視界がぼやけた。止め処なく溢れ、頬を濡らした。手紙は濡らさぬよう胸に抱いた。
乱暴に顔面を拭い、全てを振り切ったつもりになった。文殊がまだこちらをじっと見詰めていた。
文殊の瞳は穏やかな色をしていた。破竹はその裏側に吸い込まれてしまうような錯覚に陥った。思えば、鳳とはこんな風にゆったり見詰めあったことすら無かった。
破竹は目を逸らし、口の中だけで呟いた。
「何でもない。さっきのはただの独り言だ。忘れてくれ」
文殊は黙って、水筒を差し出した。白湯は冷めてただの水に変わっていた。破竹の舌に甘く広がり、喉を涼やかに通り抜けて胃に落ちた。
鳳への想いは鎖骨に引っ掛かって止まった。流し去るにはどうにも勢いが足りなかった。
だが、消えないのなら燻らせておけば良い。何故か水魚の声がした。
離れたら何も残らないわけではない。価値は他人の中にも依拠する。死すら終わりではない。価値は遺された者の中に連鎖する。
だからオレは無価値ではない。母も無価値ではない。
勿論、お前も無価値ではない。
お前の中で鳳が無価値でないのならば、鳳の中でお前は無価値でない。
お前の価値は鳳の中で永遠を生きる。
お前はその仮初の永遠を抱いて死ぬまで生きろ。オレの代わりに生を繋ぎ、価値を生め。
幻聴は心地良く爆ぜて消えた。耳元で溶けた真理が項に馴染んで行く。
破竹は欠落を補完した。
「あの砂漠のど真ん中に、国境がある。それを越えれば、もう私の国さ」
文殊が、地平線の先に遥か連なる砂地を指差して説明した。陽炎が立ち昇っている。
「左京砂漠も右京砂漠も毎年広がっている。困ったものだよ。砂漠を縄張りにしている蛮族がどんどん幅を利かせている。来年あたり、砂漠が独立して新しい国家が生まれているかもしれん」
これはおそらく冗談だろうと思い、破竹はぎこちない笑みで応えた。
文殊は満足そうに微笑んだ。
国境を越えたら角を外すつもりだ。そこから破竹の本当の人生が始まる。
心からそう信じた。
虚無騙り 今迫直弥 @hatohatoyama
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