九
ある日、文殊と名乗る男が街都にやって来た。流れ者が街に現れるのは日常茶飯事だったが、破竹は文殊に会いに街外れまで歩いた。
情報通り、文殊には角が無かった。
文殊はあえて街都に入らず、見張りに許可を得て外で野営をしていた。文殊に価値が無いため、見張りは拘禁する理由すら見つけられなかったのだ。
「こんばんは」
破竹が声をかけると、文殊は訝しそうに首を傾げた。
「失礼ながら、あなたには立派な角が見受けられるようだが……」
「これは偽骸だ。まともに生きるために特別に付けてもらった」
「ほう。模造品ということか。触ってみてもいいかね?」
「レディに対する気兼ねがないなら、どうぞ」
「おや、これは失礼」
文殊は笑って、火にかけられた薬缶からカップに中身を注ぎ、破竹に差し出した。
「お詫びの印だ。飲みたまえ」
「……これは?」
「白湯を知らんのかね? 水を温めたものだが」
「平然と客人に出しても許されるとは知らなかった」
破竹は受け取った。熱さを堪えて少しだけ口に含み、本当に何の風味もないことを確認する。初対面の自分に毒を盛るとも思えなかったが。
唇を湿したところで、ゆっくり口を開いた。
「単刀直入に訊こう。死ぬために生まれた人間を捜して集めているとのことだが、一体何をするつもりだ?」
仕事柄、破竹は様々な噂話を耳にする。文殊の情報も店の客から得た。
曰く、価値の無い人間を捜す、価値の無い人間がいる。
同類を求める心理はわかるつもりだった。だが実際に現れると、違和感の方が勝った。
本当に無価値のままなら、聖域まで人捜しになど来られるはずがない。生きていくのが精一杯だろう。普通の生活を送る何らかの手段を手にしているなら、あえて同類を捜す感覚がしっくりこなかった。
まともに考えて、角の無い人間が他の無価値な人間に救いの手を差し伸べる余裕など、あるはずがなかった。何しろ、自分さえ死ぬのだから。
文殊は、指の組み方をしきりに気にしながら告げた。若干の迷いが見られた。
「まず、言っておきたい。あなたがたにとっては異常なことかもしれないが、私の国では人が死ぬのは当たり前のことなのだよ。全員が角を持たないし、全員が死ぬ。一人の例外も無い」
破竹は耳を疑った。
「もしかして今のは笑うところだったのか?」
「違う。私は真剣な話をしているのだ」
「馬鹿なことを。あんたの話を真に受けるなら、あんたの国では民が減り続け、いずれ誰もいなくなってしまうじゃないか」
「自分が死ぬ頃には子供がいる。子供が死ぬ頃にはその子供がいる。親から子へ、子から孫へ、文化を継承していくのだ。そうやって国家を維持しているのだよ」
「まさか……。どうせ誰もが死ぬとわかっているのに、こぞってそんな真似をする、と? 普通の者なら徒労を厭うだろうに……。あんたの国の民は聖人君主ばかりなんだろうな」
感想を言ったつもりが皮肉のようになって、破竹は思わず口を閉ざした。文殊はむしろ快活に笑んだ。
「私にしてみれば、永遠の命を持つ者が増える一方なのに、どうしてこの国の都市部がパンクしないのか疑問だったよ。貨幣も無いし王もいない。奇蹟としか言いようのない事象で溢れている」
「何を言っている。人間の価値に応じた社会生活が神意で保障されているのは当然のことだろう? せっかく価値を持って生まれたのに、空間的、物理的な制限を受けて自らの真価が侵害されるなら、生きている意味がわからなくなる。些末な問題で価値あるものを腐らせるのを、神は良しとしない」
文殊の笑みは苦笑に変わった。
「神の実在、無限の都市空間、永遠の命、人間本意性価値経済……全く、あなたがたは出鱈目過ぎる。一般常識と形而上学を取り違えているかのようだ。あまりにも恵まれた環境にあるからこそ、ただ死ぬというだけの者に対する謂れのない差別が生じているのだよ」
文殊との会話で破竹が確実に掴んだことは、どうやら文殊が本当に異邦人らしいという事実だけだった。
この国に、神に背く者はいてもその存在を疑う者はいない。
神が人間の価値を保障しないのなら、文殊の国では何を基盤にして生活を組み上げるのだろうか。
「私は、そうして虐げられている人々を迎えに来たのだ。あなたもどうだろう? 私の国に来る気はないかね?」
文殊の言葉は強い力を伴って破竹の胸に突き刺さった。人生を大きく左右する局面が来たことを悟った。
文殊に反駁ばかりしていたが、基本的に破竹は彼の同類であった。それを思い知らされた。
街都での生活は気に入っていた。
しかし、その根底には偽りがのさばっている。聖域内ですら、本質的に破竹は無価値であり、異端であった。この国にいる限り、それは覆らない。
結局、死ぬために生きるしかない。
死ぬことが破竹の自由を奪っていた。
例えば、破竹が鳳と結ばれることは絶対にない。鳳のことを想う以上、してはならない。引き返せる段階で引き返さなければ、鳳に三度目の喪失を味わわせることになる。破竹が子を産めば、四度、五度だ。
幸福な未来は描けない。永遠の命を持つ鳳には、最終的に何一つ残らないからだ。
ここは文殊の国ではない。万が一孫や曾孫が生まれても、通常の価値感覚では無為の連鎖が続くだけに過ぎない。そこに価値を見出す鳳の場合さらに悪い。悲劇が際限なく繰り返され、鳳に何度も無力を突きつける。
破竹は、自分が幸せになる以上に鳳に幸せになって欲しかった。どうせ死ぬ自分は、分不相応な幸福を求めてはいけない。そんな引け目がある。破竹と鳳では住む世界が違うのだ。
鳳ならば、永遠の愛を誓える相手がすぐにでも見つかる。まともな若い女性なら放っておかないだろう。破竹さえ傍にいなければそれで事足りる。
文殊の国では、死が当然だという。誰にも角など無いという。
死を前提にした秩序が構築されているという。無価値と差別されることはないという。
……誰もが無価値だからこそ、平等。
ありのままの破竹が受け入れられる国だ。
神はおらず、都市空間は有限で、人は死に、貨幣とやらで経済を動かす。
不便で窮屈そうな煽り文句に、何故か胸が疼いた。
行ってみたい。見てみたい。触れてみたい。感じてみたい。
破竹の世界を生きたい。
求めていた活路を、未知の国に見つけた。
「三日後の深夜までここにいるから、気が向いたら来たまえ。知り合いに角の無い者がいれば、是非誘ってみてくれ」
文殊は人好きのする穏やかな笑顔になった。笑ってばかりいる。信用に足る人物であることは雰囲気でわかった。
破竹は温くなった白湯を飲み干し、礼を言って辞した。
角の偽骸がやけに重く感じられた。こんなことは初めてだった。
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