第5話
ディミトリに用立てさせたらしい車は、中古なのかなぜか古いエビを茹でたような湿った臭いがした。
乗っている間ふたりともすっかり閉口してしまっていたし、人気のないハイウェイを飛ばして暫く経つ。ここで数分止まって捕まるようならとっくのとうに捕まっている、というアマンダの主張は正しいように感じられた。悠長にしている場合ではないのは分かっていたが、耐えられないこともある。
路肩に車を停めて外に這い出す。ふたりしてボンネットにもたれかかって、砂っぽく乾いた新鮮な空気を深く吸い込むと生き返った心地がした。
「車の臭いにはその人の生活が出るんだろうな」
「自分たちじゃわからないんだろうね」
きっとキャットたちのあの車には赤のマールボロの匂いが染みついていただろうけれど、もう確かめるすべはない。もしかしたらキャット自身からも何かが臭っていたかもしれない。アマンダの首に鼻を寄せると、まだあの馴染み深いタバコの煙のにおいがして安心した。
「あは、あいつも気が利くねえ」
ディミトリが残してくれたらしいメモを片手にトランクを開いたアマンダが、ジップロックに入ったサンドイッチを取り出す。そこにも一枚メモが添えられていた。
『生きていたら地中海で会おう
P.S.アマンダは好き嫌いせずに何でも食べること』
「改名しようかな」
アマンダは顔を大げさにしかめてサンドイッチを取り出す。
「見てよこれ、野菜がレタスしか入ってない」
「人から貰ったものに言うセリフじゃないな」
アマンダはサンドイッチからハムを抜いて、キャットの口の前にぶら下げる。キャットはそれを指で押しのけた。
「肉も食べた方がいい、アマンダ。人体はタンパク質で出来てるんだ」
「シマウマは草しか食べてない」
「いつから馬になったんだ? 昔はサラミばっかり食べてたくせに」
「太ったらあたしのこと抱えて走れないだろう?」
「抱えるさ、何を言っているんだ」
八十七キロあった時だって抱えろと言われたら今と同じように抱えるつもりがキャットにはあった。たまたまそうする機会が無かっただけだ。
「抱えて走るよ、どこまでだって走る。あなたがどんな姿で何キロあろうが関係ない。あなたなんだから」
アマンダはジーンズのポケットを探って舌打ちをする。タバコを探していたのだろう。全身の空気を絞り尽くすようなため息を吐いて、アマンダはとうとうしゃがみ込んだ。
艶のないぼさぼさの髪につむじが埋もれていたので、隣に腰を下ろして手櫛で髪を整えてやる。急に体が重く感じて、思っていたより疲れていたのだなと気づいた。アドレナリンが切れたのかもしれない。
多分もう一生分疲れている。これ以上疲れるときは多分死ぬ時だ。
アマンダがぼそぼそと何かを言う。口もろくに開かないくらいくたびれている彼女のために、キャットは顔を寄せてあげたのに、逆に顔を背けられてしまった。
仕方がないのでじっと耳を側立てていると、アマンダはサンドイッチにハムを挟みなおして一口齧った。
「キャット、好きな色は」
あんまり考えたことが無い。黒と白は似合わないと思う。
「青かな」
初めてであった時のロランスの瞳と、ダイナーの水槽を照らす照明のことを考えていた。
アマンダはもそもそとサンドイッチを食べ続けている。仕方がないのでキャットもサンドイッチを齧った。ぱさぱさしているが食べられなくはない。ハムとレタスのサンドイッチをあのうさん臭い男が片手間に作っていると思ったら滑稽すぎたから、出来合いのものであってほしい。
サンドイッチを食べきったアマンダが、目線を足元に落として言う。
「ピアスを贈ってもいい? あたしがピアッサーで穴をあけて」
思わずまじまじとアマンダの方を見てしまった。アマンダは顔を上げられないのか、じっとつま先を見ている。
「ダメ?」
ぎゅ、と握られたアマンダの手に触れると、手のひらの傷がぴりぴりと痛んだ。
たぶんこれはアマンダの新しい祈りだ。
もしくは何かに届くための手続きだ。
手のひらの痛みを無視して、アマンダの指をそっとほどいて自分の指を絡める。
「お揃いの石がついた指輪もついてくるなら、いいよ」
はは、と乾いた笑いを漏らしてから、アマンダは小さく頷いた。
指輪がふたつでワンセットじゃなかったら引っ叩いてやろう、と思った。キャットが思いきり引っ叩いたらアマンダは首が折れてしまうかもしれないけれど。
「教会、行けなくて悪かったね」
「いいんだ、別に。教会なんて向こうでいくらでも見れるし」
どちらが言うともなく立ち上がり車に乗り込む。いつもの通り運転席にはキャットが座った。
「どこまでいくんだ」
「最終的にはアカプルコの空港。道中の街でちょっと身を隠した方が良いね」
「オーケー」
アマンダは車の窓を全開にする。少しは臭いもマシになるだろう。どこかの街でタバコが買えたらもっといい。
「指輪、買ってあげるよ。二組買ってあげる」
アマンダがハンドルを握るキャットの傷ついた指を撫でた。
「そんなにいらない。一つで十分だ」
「二組買うんだよ。一組はあたしが愛とかなんとか小難しいこと言いながら海に投げ込んで、それでもう一組は」
言い淀んだ言葉を、じっと待つ。目線を送ると、ピンクの瞳がまぶしそうに瞬いて、微笑んだ。
「ちゃんとふたりでつけるんだ」
マテリアルキャット ギヨラリョーコ @sengoku00dr
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