第10話 茉莉と待ち合わせと袖

 茉莉と美術館に行く日になった。


 晴樹は今朝食べきったマーマレードのジャムの瓶に、十円玉を一枚投入する。


 茉莉が以前やっていると言っていた取り組みをまねすることにしていた。


 自分の幸せを見つけたら十円玉、誰かの幸せなら百円玉をジャムの瓶に貯金するというもの。


 午後のゆったりとした空気の中、晴樹は舌に残る甘ったるさを思い出す。


「茉莉さんと二人きりか……」


 状況を整理すればするほど気恥ずかしくなって、晴樹はさらにもう一枚の十円玉をジャムの瓶に入れた。


「多くなって困ることはないよな」


 なるべく浮ついた気持ちを抑えてから家を出たかったが、そうすると約束の時間に間に合いそうになかったので、晴樹は少し早めに待ち合わせ場所の駅前に向かった。


 昼間とはいえ休日なので、駅前にもちらほらと人が見受けられた。


 彼らが晴樹の姿なんてわざわざ見るわけないとわかってはいるが、普段しないファッションをしているせいか、周囲の目線が全部自分に向いている錯覚を覚え、落ち着かない。


 とはいえ奇抜な恰好をしているわけではなく、白のシャツに黒のスキニーパンツ、色も生地も薄いカーキ色の上着を身にまとった、いわゆる無難な見た目ではあるのだが、大学では服装にこだわらないので、己を奮い立たせてからこのファッションを選んだ感が否めなくて、舞い上がりすぎている奴と思われてそうで不安なのだ。


 視界の上の方でちらつく前髪の毛先も、いつもは雑草みたいなのに、今日は明らかに人為的な手入れが加わっているのがわかり、茉莉にどう思われるか考えていると、とてつもなく怖気づいてしまう。


 集合時間の五分前になると、安心するようで緊張するあのくすぐったい声が聞こえてきた。


「おまたせっ」


 振り向くと、ポニーテール姿の茉莉がいた。


 ベージュのワンピースを着ている茉莉からは全体的に大人びた雰囲気を感じ取れて、晴樹の浮ついた感情とは対照的だと痛感してしまう。


「あれ? 晴樹さん、今日、いつもと雰囲気違うね」


「えぁ? ああ、これは、その、まぁ、茉莉さんに迷惑かけたくなかったし……」


「いいと思うよ。大学もそんな感じで来たらいいのに」


「考えとく」


 なまじストレートに褒められただけに、言い訳をこぼすみたいに言い淀んだことに罪悪感を抱く。


 不安視していた見た目に関してはとりあえず及第点を頂けたと確信し、喜びというよりも肩の荷が下りた感覚の方が強かった。


 けれども、見えないところで努力したことを褒められるのはこれだけ安心するし、気持ちのよいものなのだと学ばされたからには、晴樹も一人間として奉仕感覚で声を出す。


「茉莉さんこそ、……なんか大人びてる感じがしていいと、思う。ポニーテールも、僕はけっこう、似合ってると思う、な」


「え、と、その……あ、ありがと……」


 褒められた茉莉は、恥ずかしそうに俯いて、前髪をそっといじった。


 茉莉のうぶな反応はとても言われ慣れているとは思えないが、あらゆる意味でいっぱいいっぱいな晴樹には彼女のそんな様子を評する暇もなく、むしろ――


 ――僕と違って茉莉さんはデートぐらいしたことあるだろうし、言われ慣れているんだろうな。


 なんて考えていて、勝手に落ち込んでいた。


「い、一旦電車乗ろっか」


「そ、そうだね」


 そうして、駅のホームで約十分ほど余計に待ってから電車に乗った。


 通勤通学の時間帯ほど車両内が込んでいるわけではないが、どんどん都会の奥地へ進んで行っているということもあり、徐々に人が増えている。


 座れる席は空いていなくて、茉莉は窓側に背を向け、横に並んで晴樹と話している。


「今日、楽しみだね」


「だな」


 建物が右から左へと流れていく。


 電車の窓枠が額縁に見えるほど、何でもない景色が綺麗に映って、晴れ晴れとした心持ちを自覚する。


 遠くの方に昔の偉い人が建てたと思われる城がそびえ立っていた。


 会話のネタになると思って、とりあえず指を差した。


「あの城、教科書で見るより大きいな」


「……どれ?」


「あの奥の方の、あ、もう過ぎ去ったな」


「そっか、ごめん」


「いやいや謝るほどじゃないって」


 口に出してから察した。


 茉莉は半身の体勢で窓の外を窺っているのだが、臀部の辺りの布生地を不用意に引っ張ったり、あるいは片手を所在無げに徘徊させていたりしていた。


 まるで何かを警戒するかのように。


 ここで晴樹は茉莉と初めて出会った場所が電車であることを回顧する。


 特に女性にとっては、痴漢される経験なんてトラウマそのものといっても過言ではないだろう。


 普段から大学に通う際に電車を利用しているとはいえ、トラウマの記憶が消えるわけではないだろう。


 タトゥーのように簡単には離れられず、日常の一挙手一投足に警戒が帯びてしまうのかもしれない。


 あの日、恐怖からの解放のあまり、泣き出してしまった茉莉の心情を考えたら、何とか電車に対して茉莉が心を許すための足しになりたいと思った。


 晴樹は周囲の人間から覆い隠すように茉莉の背後に立った。


「僕でも不安かな?」


 おそるおそる訊くと、茉莉は電車の窓を見つめながら晴樹のシャツの袖をギュッと摘まんだ。


「晴樹さんなら、大丈夫」


 転瞬、顔が熱くなったのを実感した。


 摘ままれた右腕は石にでもなったかのように動かせない。


 そっか、と最小限のエネルギーで言葉を紡いで、何となく右から左へ流れる建物を見ようとした。


 けれど、窓におぼろげに映る茉莉の恥ずかしげな顔が絶句するほど可愛くて愛しくて守りたくて、自分の容姿とか過去とか立場とか何もかもがわからなくなって、茫然としている間に、目的地に到着した。

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痴漢から助けたからかい上手の彼女が僕の女友達にNTRれるまで~純愛甘々からのNTRからの…?~ 下蒼銀杏 @tasinasasahi5

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