第9話 茉莉のお誘い
サークル活動があった翌日、晴樹は二限の講義を受けるために大学へと足を運んでいた。
通用門に差し掛かったところで、昨晩の出来事を思い出す。
また、ぞくっときた。
茉莉のことを考えると何よりも優先して、あの扇情的な顔が浮かんできてしまい、背筋に不愉快な電流が走る。
茉莉とは色んなことを話して、一緒にバレーボールをしたはずなのに、その時間がすべて晴樹の下心によって塗り替えられていく感覚がひどくうしろめたい。
家に帰ってから軽く晩飯を食べて、風呂に入って、それから寝る時間を少し削って処理し、起床してから匂いが残らないように消臭剤を振り撒き、何もかもリセットした気分で家を出たというのに、この有り様だ。
好きな人の裸体に違う女性の肉声を無理やり貼り付けて妄想したことに気づいた時の虚しさは底知れなかったが、今はもうそんな感情も薄れてきていて、すでに再放送が脳内で流れかけている。
理性と本能が水と油のように喧嘩して、まるで自分の半分は知らない不潔なおっさんに操られているかのように感じる。
茉莉と一緒にいたいと思う理由は下心以外の全てだというのに、身体の火照りがその逆が本音だと言っているような気がして、ただちに去勢してやりたいとさえ思った。
やり直せるなら、もう一度昨晩に戻って帰路の選択を変えさせてほしい。
いつも通りの道さえ通っていれば、あの情交を目撃せずに済んだのだ。
最悪の寝覚めの中、晴樹は目的の教室に辿り着き、席を探す。
前までは教室の後ろの席から順に空いている席を探していたが、近ごろは茉莉の後ろ姿を探すようになっていた。
眼球を二往復ぐらいさせて、ようやく見つけた。
また、ぞくっときた。
茉莉が「首を絞めてほしい」と懇願する気質の持ち主であることを望んでしまった自分が疎ましくて、今日は彼女の隣に座るのはやめようかと思案したが、結局は根負けして、歩いていった。
「茉莉さん、おはよう」
「おはよう、晴樹さん」
隣の席に置いてあった茉莉の荷物を彼女がどけてから、晴樹はそこに着席した。
後から来る晴樹のために他の誰かが座らないよう茉莉が荷物を置いて席を確保してくれていたことから、近しい人物として認められている嬉しさが心に染みた。
ただ、あまりに茉莉の様子が通常運転に見えて、不気味でもあった。
昨晩の出来事は晴樹が勝手に映し出した幻覚かとも思った。
幻覚かどうかを確認してみたい気持ちもあるが、どう話を切り出せばいいのかわからないし、そもそも聞いてしまえば気まずい雰囲気になるのは想像に難くない。
二人の関係が進展どころか停頓してしまうのが怖くて、つまるところ晴樹は本題に入れなかった。
代わりに茉莉が話を振った。
「教科書持ってきた?」
「ああ。今日は使うみたいだな」
「うん、よく覚えてたね」
「まあな」
「……」
「……」
……………………。
何を話そうか思考を巡らせているが、周りのガヤガヤした声がうるさくて集中できない。
二人にとって沈黙は珍しくて、晴樹はいつもなら解ける問題をど忘れしてしまった時みたいな焦燥感に駆られる。
晴樹が話題に困りそうになった時、それを察知するのか、毎回茉莉が話を振ってくれていた。
そういう時は大体晴樹がからかわれるのがオチになるのだが、今回は当の茉莉でさえも口をつぐんだ。
やはり昨晩のことが多少なりとも茉莉に影響しているのだろうかと、晴樹は深読みしてしまう。
勘ぐれば勘ぐるほど余計に口を開きずらくなって、晴樹は意味もなくペン回しを開始する。
けれど、焦りが出たのか、ペンが晴樹の手から勢いよく弾かれ、カタカタと地面に落ちた。
ごめん、と無駄に謝罪を口にし、ペンを拾おうと身体をかがめた時、机の下で茉莉の手に大事そうに握られていた二枚の何らかのチケットが目に入った。
茉莉はそのチケットの存在を秘密にしておきたかったらしく、晴樹が身をかがめた際に彼女の身体で隠すような素振りを見せたが、叶わなかった。
なんなら茉莉と晴樹の目が合ってしまった。
あ、と二人して気の抜けた声が漏れて、再び沈黙が流れた。
晴樹がおずおずと声を出す。
「それ、何か聞いてもいいやつ?」
「これは、その、美術館のチケット」
「美術館?」
「夏希がね、一緒に行こうって買ってくれてたものなんだけどね、急用が入って夏希が行けなくなっちゃったから誰か誘おうかと思ってたの」
「それで僕を?」
「違うよ」
「え?」
「嘘。ちゃんと晴樹さんの分だよ、もう一枚は」
茉莉はクスクスと晴樹のリアクションを面白がるように微笑んだ。
「ホント晴樹さんの反応って飽きないなぁー」
「もっと僕に対しての他の楽しみ方ないの? そろそろ僕の尊厳がお墓に片足突っ込みかけてるんだけど」
脱力気味に晴樹が物申すと、茉莉はチケットを一枚摘まんで、可愛らしく小首を傾げながら言った。
「じゃあ、これで私を楽しませてくれる?」
「……ま、余りものを粗末にするのはもったいないしな」
言ってから生意気な言い方になってしまったかもしれないと内省する晴樹。
だが、そうなってしまったのも、茉莉が小首を傾げた際、肩から絹のような黒髪がスルっと落ちた姿があまりにも麗しかったからだと思い出した。
「土曜の方はバイトがあるから僕は行けないな。日曜は茉莉さん空いてる?」
「空いてるよ。私バイトは平日にしか入れてないから」
「そうなんだ。ちなみに何のバイト?」
「塾講師だよ」
「うわ、頭いいな」
「みんなそう言うけど、案外教えられるものだよ」
「自分が小中学生に勉強教えてる姿とかあんま想像できないな」
「晴樹さんは何のバイトしてるの?」
「僕は牛丼屋だな」
「へぇー。私あんまり牛丼屋行ったことないや。晴樹さんは牛丼好きなの?」
「働き始めてから好きになったって感じだな。色んなメニューがあるけど、結局は一周回って牛丼が一番美味いんだよ」
「そうなんだ。じゃあ、今度晴樹さんが働いている日に夏希と行くね」
「なんか恥ずかしいな、それ」
「恥ずかしいんだ? 私は働いてるところ見られてもいいんだけどなぁ」
「まあどっちの派閥もいるんじゃないか?」
「晴樹さんは私が働いているところ見たい?」
「や、別に取り立てて見たいとかは……」
「メガネかけてるよ、塾では」
「……だから何だよ」
「今、ちょっと揺らいだでしょ」
「珍しいなって思っただけだ」
「今なら私の紹介で塾講師になれば五千円分の図書カードがもらえるよ。人が足りないとかじゃないんだけどさ、入ってみない?」
「勧誘するな」
もぅーいけずだなぁ、と茉莉がペンでツンツンと小突いてくる。
それは、これまでと同じ日常に戻った合図のような気がして、安堵した。
いつの間にか小気味よいテンポで話せたことにも気づき、満たされた気分になった。
果てしない迷子の末、自分の家を見つけた時のように長く、深く息を吐いた。
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