第8話 茉莉と夜の帰り道
夜の十時頃。
虫の声が響くほど人が少ない田舎のど真ん中に存在する体育館の入り口前。
「お疲れ様でした!」
サークル活動が終了し、メンバー全員が解散の合図を告げる。
しかし、彼らの交流はバレーボールだけで終わらない。
もちろん、すでに帰宅した人が浩も含め数名はいるが、多くは男子グループや女子グループ、はたまた男女混合グループに分かれて、ラーメン屋であったりどこかの飯屋に向かっていくのだ。
晴樹は気が向いたらついていく程度で、頻繫な付き合いではない。
例に漏れず、今日もまっすぐ家に帰ろうかと、いや、本当は茉莉さんと外食にでも行こうかと画策していたのだが、今現在その計画が破綻しようとしている。
「ねえ、佐倉さん。オレらと飯食いに行かない?」
サークルの中核メンバーたちが茉莉をご飯に誘っていた。
そこには活動を通して茉莉が仲良くなった女性も含まれていて、彼女らは「もっとお話ししたい」と意気込んでいた。
晴樹としてはその光景を目撃しても特に心配になるわけではなかった。
サークルのメンバーに悪い奴がいないのは知っているし、そもそもこのサークルは俗に言うヤリサーでもないので、あのままご飯に行っても茉莉の身に危険が及ぶとは思えなかった。
だから今晩は一人で帰ろうと思い、踵を返そうとするのだが、どうにも茉莉の歯切れの悪い返事が気になって、晴樹は足を止める。
「んーどうしようかな」
「いいじゃん。ウチらとご飯食べに行こ」
「オレらだってサークルに入ってくれる子のことよく知っときたいしな」
女子はおそらく純粋に談笑がしたそうだが、男子はワンチャン仲良くなっていずれは付き合いたいとか考えてるんだろうな。
別にそれが悪いことだと言いたいわけではなく、むしろ健全なルートであるのは晴樹も百も承知だ。
自分じゃない男子と仲良くしている茉莉の姿は正直想像したくないが、女子たちと交友関係を深めるのは茉莉にとって大事な事だと思うので、晴樹が邪魔していい道理はないと割り切る。
そこまで考えてもなお見過ごせないのは、茉莉があまりに複雑な表情をしていたからだ。
茉莉に相対している彼らを直接毛嫌いしているわけではなさそうだ。
むしろ受け入れてくれているという安心感すら垣間見える。
けれど茉莉は彼らじゃない何かに対して、幾日も放置したみそ汁から漂う刺激臭のような不快感を抱いていて、その何かと彼らに半端な共通点があるから余計な黒々としたものが結び付けられているのかもしれない。
過去の激臭により鈍った茉莉の嗅覚で、かぐわしい香りを嗅がされているせいか、茉莉は断るのを申し訳なく思っているのだろう。
居心地の悪そうな茉莉の背後から、晴樹はあっけらかんとした調子で呼びかける。
「茉莉さん、明日の授業が一限からなんだよな。だから早く帰った方がいいんじゃない?」
「そうだったの?」
「あ、えっと……はい。だからまた後日誘っていただけると嬉しいです」
「オッケー。ごめんね、何度も引き留めちゃって。じゃ、またね」
そう言って、男女のグループは坂を下り、駅前の方角へ消えていった。
ふう、と茉莉が深いため息を吐いて言った。
「ごめんね、気を遣わせちゃって」
「こんなの気を遣ったに入らないって」
「それでもまあ助かったのに変わりはないし。ありがとう」
「……とりあえず駅まで送るよ、暗いし」
「ホントだ。もうこんな時間なんだ」
都会の機械的な冷たさではなく、田舎の自然的な肌寒さが、秋の虫の存在感と共に感じられる。
空だってこんなにも暗い。
本当は講義が二限から始まるのを知っておいて、先刻にはったりをかましたので、何となく気まずくて彼らが下りて行った坂とは逆方向に歩を進めた。
いつも利用する帰路ではないし、駅までは若干遠回りにはなるが、茉莉はそのことを知らないので特に怪しまれることはないだろう。
それに少しでも茉莉と一緒にいられる時間が増えるのを密かに喜んでもいる。
晴樹は茉莉が彼らとご飯を食べに行くことを嫌った理由を聞かないようにした。
深い仲でもないのに、茉莉を消極的にさせる心のカビのようなものにずけずけと素手で触れていいわけがないと判断したからだ。
一方で何の用意もなしに無鉄砲に興味を持ってしまうと、晴樹自体も茉莉が忌み嫌う激臭の仲間入りになってしまいそうで、率直に怖かった。
誰の姿も見えない夜のアスファルトの道路を茉莉と歩いていると、突然、喘ぎ声がうっすらと聞こえた。
本当にうっすらで、もう少し疲労が溜まっていて、ボーっとしていたら蚊の飛び回る音に聞き間違えていてもおかしくないほどだ。
幻聴かと思ったが、もう一度聞こえた。
今度は壁の薄い部屋から漏れ出ていて、嫌気が差した苦学生が管理人に苦情を入れに行くみたいな、そんな場面を連想させる嬌声だった。
気づいていないふりをして、そのままいち早く立ち去ってしまおうと晴樹は考え、早足になるが、茉莉がグッと晴樹の袖口を引っ張った。
最初は早歩きになってしまった晴樹を御する目的かと思ったが、それは半分正解で、もう半分は肝試しで常に後ろをついていく子どもと同じ心理による、ある種の抵抗なのだろう。
茉莉と歩幅を合わせ、その場を離れようとする。
頭では触らぬ神に祟りなしだと弁えているつもりだが、この世には怖いもの見たさという言の葉も流布されていて、人間の本能はどちらかというと後者の方に偏る傾向にあるのだと知った。
喘ぎ声は道路沿いの小さい休憩スペースのような場所のベンチから発生している。
晴樹は立ち去りながらもチラッと様子を盗み見る。
そこにいたのは、なんとサークルにいた、長身でクール美人な無口の先輩と可愛らしい秋っぽい服装をした知らない女性だった。
女の人同士での情交であった。
先輩の指を一心不乱にくわえている知らない女性の目には、先輩が映っているのか、何も映っていないのかがわからなかった。
逆に先輩の目は普段のクールな雰囲気とは打って変わって、サディスティックに満ちていて、一瞬で上下関係の判別がつく。
彼女らの寄り添い合う姿はまるで十一時五十九分を表す時計の短針と長針のようで、瞬きの間に魔法が解けてしまいそうな危うさが醸し出されていた。
何事もなく彼女らのいたスペースを通り過ぎた後も、駅までは茉莉とまともに言葉を交わせなかった。
じゃあまた明日、とだけ言い残して、茉莉は駅のホームへと消えていった。
晴樹の頭の中には、彼女らの営みは一切残っていない。
彼女らを窺った後に恍惚とした表情で密かに熱い息を吐いていた茉莉で脳内を支配されていた。
落雷のようにその光景がフラッシュバックして、また、ぞくっときた。
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