間違い
【間違い】
オシラが部屋に籠ってから四日目。琥珀が見えなくなると、私の世界は途端に暗くなった気がした。単純に外の天気が良くないだけだろう。だが、直視しなければいけない問題から目を避け続けているのだから、この状態を続けていれば私の世界はずっと曇ったままなのは間違いない。
今日は金の日。いつも通りに講義が終わっていく。座学ばかりで退屈だった。体を伸ばせば肩や首が鳴るほどガチガチに固まっている。
外を見やれば荒れた天気、天空都市と行っても雲の下にあるものだから天候の影響は受ける。豪雨は壁に打ち付けて大きな音を立たていた。
……嫌な天気だな。
轟々と鳴り響き、まるで叫び声みたいでもう治ったはずの頭痛が再発しそうだ。
「オシラに食事を持っていくのか」
寮内の食堂でフィッシュスープを受け取って食堂から出ようとした時、アンスズが私の横を並んで歩いていた。一瞬立ち止まりかけるが、スープが冷めるから歩みは止めない。
「そう」
「毎晩、甲斐甲斐しいね。オシラはそれをちゃんと食べているのか?」
「食べている……はず」
捨てていなければ、だけど。自信を持って言えたらいいのだが、確信がないせいで言い淀む。
もしかしたら講義の時間帯は食堂に行っているかもしれないと思って引きこもり始めた初日の夜、なんとなく食堂担当の人に聞いてみたらオシラを見ていないと言われた。彼女との関わりを避けるが、さすがに飲まず食わずはいけない。だから夜の時間帯、ご飯を持ってきたことだけ伝えて部屋の前に置いておくことを四日間続けた。スープ皿は空になっているし、浄水器はどの部屋にもあるから水を飲むことも出来る。さすがに引き籠もりを極めすぎているから不安にはなってきた頃だが。
「カノ。スープが冷めない少しの間だけいいか?」
「……部屋に行くまでの道のりで話すくらいなら」
「それで構わないよ」
含みのない、至って普通の笑顔をへらっと浮かべられて思わず驚いた。アンスズと言えば裏で何を考えているんだと間潜る笑みがデフォルトだというのに。そんな失礼なことを考えていれば横を歩くアンスズは話を切り出す。
「この間はオシラに関わることに意味なんてないと言っていたが、誰かに深く関わろうとするのに理由がないわけない、と私は思うんだ」
歩むスピードは緩めず、私は少し悩んでから口を開いた。
「理由なんて……」
「オシラをどう思っているんだ、ということだ。何を思ってオシラに近づくのか、私には理解できなくてな」
……どう思っているのか。
わからない、と私の中で完結したことを、また掘り返されて頭を悩ませる。このままではスープが冷めるほどの時間を有することになるだろう。
しいてあげるなら、綺麗だからというのが挙がる。しかしこれは適切と言えない。かと言ってあの衝撃を他で表すのは……。
あれよこれよと悩んでいると、痺れを切らしたアンスズが口を開く。
「……深く考える必要はないと思うんだが?」
「……なんで?」
「忖度なしにオシラと関わりたいと思うのは、単純にオシラと良好な関係を築きたいだけにすぎない……そうじゃないのか?」
未知と遭遇したような反応をするアンスズは首を傾げて聞いてくる。
良好な関係、わざわざ堅苦しい表現をしているが、さらに噛み砕けば仲良くなりたい。しかし仲良くなりたいはまあ当てはまるがどうもしっくりこない。では何か、と探してみる。
えーと、恋慕。……これは違う。別にオシラに対してそのように感じてはいない。まあ、初恋もしたことがない私に恋だ愛だ語る資格はないが。
あとは……少し意味合いを変えれば敬愛なら、と思うが、合っているけど違う気がしてならない。歩を進めていく度に思考がぱちり、ぱちりと弾けていくから、何かないかと探る。
他だと―――憧憬、とか。
ふと、これだとしっくりきて腑に落ちた。
……そうか。私は、オシラに憧れているのか。
綺麗だから見惚れたとか色々思っていたけれど、結局のところ私はオシラの自由で、縛られない姿に憧れた。息の詰まる生き方をしていたが、彼女の近くにいると呼吸が楽になり、自然と頬が緩む。きっと敬愛もこめられているから、こうなるのだろう。……友愛、とも言えるか。意味だけ理解しているつもりの言葉をつらつらと並べていけばパースがかちりかちりと噛み合っていく感覚になる。
憧れの彼女と仲良くなりたい、今まで友達などいたことないからこの感情がよく分からないけれど、きっとこれは憧憬と敬愛、友愛も織り交ざった何か。一言でまとめることなんて出来やしない。
「私は、オシラと話がしたい。思考放棄せず、きちんと彼女と向き合いたい」
「……そうだな。それが、一番だな」
そう言って息を吐くアンスズだが、呆れというより安堵の意が込められているように受け取れた。
「カノ、やっぱ面白くないというのは訂正するよ。……オシラと出会ってから変わった」
同じ十六歳には思えないほど大人びた顔で、彼女は眉尻を下げて微笑んでいた。
なぜそんな顔をするのか、アンスズとの付き合いなんて所詮学園に入ってからの三年と少しなのに、ずっと昔から見ていたような。
不思議な感覚に浸る中、アンスズは「じゃ、私は部屋に行くから」と別れた。いつの間にかオシラの部屋の前に辿り着いていたことに気づく。軽く返事をしてからドアの前に向き合い、一つ深呼吸をしてからスープを置いてノックをする。なんだか昨日より少し緊張するのは、意識を変えた影響かもしれない。
「オシラ、スープ置いておくよ。……あと、明日、話したいことが色々あるんだ。だから、その時は部屋から出てきて欲しい」
こんな短い文面で彼女が応えてくれるのか。そんなのわかりもしないが、やらないよりはマシだと思える。少しずつでいいから行動に移さないといけない。話さなきゃわからないこともあるのだから。
「明日の朝、また迎えに行くから。良かったら、顔見せて」
そう言って自分の部屋に戻った。シャワーを浴びて寝る前の支度を終えたらベッドの上で目を瞑る。次、目を覚ましたらオシラと話し合うと決めた。
まずは自己紹介をきちんとする。始まりから間違えていたのだからちゃんとしなければいけない。私について話すなんて本当はやりたくないし、なんならオシラが興味無いはずだ。でも、彼女には必要な情報だから。知ってもらわなきゃ、いけないから。
―――そう決心した、夜中。
昼間と変わらずいまだ荒れた天気、壁に勢いよく打ち付けられる雨風の音は夜に聞くと恐怖と不快感で満ちる。この不安を煽る音で起きるほど繊細な神経をしていないが、腹部にかかる圧で多少息苦しさを感じて目が覚めた。さすがに腹に圧迫感があればぼんやりと目が覚醒していく。
寝そべったまま、寝ぼけ眼で顔を下向きの腹部に向かって目を凝らせば、巨大な純白の羽根がいることに気づく。
まあ羽根など、そんなわけあるはずもなく目を擦って視界をはっきりさせ、目と同じように頭もさらに覚醒させれば―――オシラがいることに気づく。
圧はかけられていて息苦しさはあったが、明らかに人間の重さではない。人間と同じ体積ではないのだろう、嘘みたいに軽いオシラは一瞬見間違えた羽根のようで、腹の上に跨られているというのに不快感はない。今も不快感を募らせるのは外の荒れ狂う天気くらいだ。
しかし、虚ろな琥珀のまま私を見据えている彼女は、どこまでも無だった。そこにいるのにいない、確かに彼女の圧力を感じるのに何も無いような、そんな無。
「オシラ」
なぜ、この部屋にいるのか。
そもそも鍵はかかっているはずなのにどうやって入ったのか。
……聞きたいことは山ほどある。それでも私は、四日ぶりに、しかも予定より暗い時間帯に見れる彼女の姿に思わず喜んでしまった。だから、名前だけ大切に呼んだ。
だが、オシラは私を見ることは無い。いや、目は合っているが、彼女の視界に霧がかっているのか私が映ることがない。
「……神造自律生物兵器、別名、白妖精、炎の一族最後の一人、スルトの残滓を殺すために遣わされた、個体識別名オシラ……」
呼応するように一つ一つ情報を整理していく、いつもより饒舌なオシラの様子をただ見ている。聞き慣れない言葉も今は深く聞かず、耳通りのいい愛らしい声に耳をすませる。
神に造られた白妖精。そうか、君は。
「……妖精なんだね」
「白妖精と、お前たちは何度も呼んだだろう」
「あだ名のつもりだったあれ、間違いじゃないんだ」
どうりで人間離れした美しさなわけで、合点がいく。人間たちが勝手に滅んだと決めつけていた白妖精は今もこうして生きていた。なんて自分勝手な人間たちなんだろうと、つい乾いた笑いが出そうになる。
妖精ははるか昔、人間と共存していたものだった。神の使いとして神が生み出す不思議な生物。決まった形はないが、大雑把に分けて白と黒の二種類の妖精がいて、人間は美しく優しい白を好んだ。醜くて人間に害をなす黒を嫌った。
約三百年前、神と人間の戦争で白妖精は完全にいなくなったものだと思われていた。人間に裏切られた神が、人間に良くあろうとする白妖精を残すはずがないのだから。
人間からしたら長い時の間。白妖精というあり方自体変わっていることに、人間は気づけなかったことが自業自得で、笑ってしまうほどだ。こうやって見目のいい妖精を生み出し、油断させ、粛々と人間の首を狙うだなんて考えもしない方が阿呆だ。
神に人間が適うはずないんだ、と。脳を掠める。このことを口にすれば私の首は間違いなく飛ぶな、とも。この国は本当に恐ろしい。
そして、オシラはその琥珀で私を見つめてきていた。―――やはり目は会わないまま。
「お前は、誰だ」
「私は……カノだよ」
「違う。何者だ」
いつものような、名前をすぐ忘れるオシラ……ではないことくらいわかっている。それでも一度名乗ったがやはり違ったようだった。
何者。その問いかけは、私の本質を捉えようとしているアンスズよりずっと直接的で暴かれるという居心地の悪さはない。
おそらくオシラの眼光で射抜かれている私には今更隠し通せるわけないと自覚しているから、だろうか。
改めて名乗るのは、久しぶりだ。おかげで少し緊張する。軽く深呼吸でもしなきゃ心臓が押し潰されそうだが、明日するはずだった自己紹介が早まっただけ。そう考えると少しは気が楽になった。
「―――カノ=スルト。スルト一族、最後の生き残り。……スルトの残滓、なんて呼ばれ方もされているね」
簡潔に。わかりやすく。登校初日にする自己紹介よりも丁寧なものを自嘲じみた笑みと共にする。爽やかに、気持ちがいい笑顔で出来れば良かったが生憎そんな芸当は持ち合わせていない、不器用な人間だ。
「カノ、スルト」
ぼんやりした口調で呟いたオシラはいまだ虚ろな目で、何回か私の名を反芻していく。初めてオシラの口から呼ばれる名前にじわりと広がる歓喜を感じながら次の言葉を待った。
「……そうか……やっと、思い出した」
ふっと光を灯す琥珀。その輝きをずっと見ていたいと思うほど、熱の篭ったもの。太陽のような熱さ。
「あたしは、カノを───殺さなきゃ」
だが、太陽よりもずっと熱があり、月よりも美しい色、星の瞬きよりも煌めいて、唇から零れる心地よい音で呼ばれた私の名前が特別に感じ、見蕩れた。
見下ろしてくる彼女はどこか妖艶で、ああやっぱり私はオシラにどうしようもなく、惹かれてしまうのだと確信した。
―――炎の一族、スルト。圧倒的戦闘能力を持ち、その力は神にも匹敵する巨大で、神が統べた世を炎で覆い尽くし、この炎の力は神が忌み嫌ったもの。そして地上を焼き払った人間たちからも嫌われた一族。
私はそのスルト一族、最後の一人。それ故かスルトの残滓と呼ばれる。決して良い呼び名ではない。なんせ早く滅んでくれないものかと神からも人間からも嫌われているのだから。
六年前に神々が遣わしたであろう黒妖精によって一族はほぼ全滅。生き残った唯一の肉親であった兄は四年前に自死を選び、ついに私一人となった。
「……確かに私は、殺されるべき対象だろうね」
地上を覆った炎の魔法はスルト一族しか使えない特異なもの。神すらも焼き払い、神々から嫌われた力を有するせいか、どうもその神から賜った刻む方の魔法はどうも扱いにくい。反発しあっているのか、単純に素質がないだけなのか、定かではない。普通に魔法を使う分には随分と慣れたものだが、人より努力してようやく人並みの位置に立てるのだから、やはり素質がないだけかもしれない。
「……殺す、殺す殺す殺す、お前を殺さなきゃ、いけない……」
しなやかな白い手が私の首に伸びてきて、そのまま手をかけられる。力を込めていないのだろう、首に多少の圧迫感があるだけで苦しさはない。
このまま殺されるのだろうか。このまま死ぬのだろうか。そう思うと、体の先端が冷える。
だが、恐怖よりも、感謝の気持ちで満ちている。
「―――オシラ、君に出逢えて良かった」
心からの本心だった。今、彼女にこのまま首を掻き切られても、きっと安らかに眠れる。その自信があった。
ゆるりと微笑むことが出来て安心した。最期くらいオシラに、ちゃんと笑顔を浮かべられたのだと。
「……な、にを」
初めてオシラの顔が苦痛に歪む。そんな顔も出来たのかと驚いていればオシラの手は僅かに力がこもって空気が入りにくくなった。
意味がわからないと言いたそうに眉間にシワを寄せて苦から怒へと感情は移行していくのを見て、私は眉尻を下げて笑った。
「元より私は嫌われ者だから」
いてもいなくても変わらない。ただ、戦力の一つとして生かされているに過ぎない。それは、スルト一族に含まれず他の人たちもそうだ。反乱分子と判断されれば処刑される。学園では神への反抗心を育てるためでもあるのに、その成果が見られなければ意味が無い。反抗心も対して育たず、忌み嫌われた力を持つ私などいない方がいい、私が死ぬことでオシラのためになるなら、やぶさかでない。
死ぬことを拒んだはずの私は、オシラにならいいと感じていた。
「どうぞ、オシラ。ひと思いに頼むよ」
「…………」
広がる沈黙。彼女のために何が出来るのか、わからないけれど、出来るとすれば彼女の目的を達成させること、それくらい。
なぜオシラにならいいと思えるのか。わからないけれど、彼女のためならいいかとつい思ってしまうのだから、そう説明するしかないのだ。
「死にたくないと思ってたはずなんだけどな」
ふいに漏れた言葉。ああ、これじゃ私は、兄と何も変わらない。神に反乱することを拒み、自死を選んだ兄。死にたくないがために見逃されたが、結局神の使いに殺されることを選ぶ私。何も、変わりはしない。
「……」
だがオシラは何も言わず、行動を起こさなかった。その手に力を込めれば私の首はねじ切れるのではないのか。はたまた、神々とその関係するもの使えない魔法を使い私の首を木っ端微塵にできるのではないのか。でも、何もしない。
不意に口を開いたと思えばまたすぐに閉じてしまう。空気を食むばかりのその小さくて薄紅色の唇から言葉が生まれない。
……やがて、手は離された。だらりと両腕がオシラの左右に垂れるものだから、殺す気がないことに驚きを隠せなかった。
「どうかした?」
だから私は問いかけを投げる。いつものオシラならまた物騒なことを返してくれるだろうし、そこからなにか対話が出来るかもしれない、と思った故の行動だった。しかし、驚くべきことにオシラは美しい顔を苦痛に歪ませ、私を見下ろす。
「あたしは怒りしか知らない。神たちはお前ら人間が憎くて仕方なくて、その感情しか組み込まれていない。だからあたしにも怒りしか、ない」
怒りしか知らないと言う台詞の中には無感情しかない、淡々とした声音で紡がれていく。
「……でも、この怒りは、本当にあたしの怒りか?」
その無味乾燥とした中に、どこまでも無機質で誰も映さない琥珀が潤み、その瞬間私が映りこんだ気がした。
オシラは間違いなく、何かと悩んでいる。どう言った経由で、なぜ悩んでいるのか。私には分からない。ただ、間違いなく何も声をかけないことだけは間違っている。
「オシラ、君は、何に悩んでいるんだ」
「……あたしはただスルト一族を殺せればいいだけの存在、容量が小さいただの兵器、不良品……悩みとかいうものじゃ」
「ただの兵器なわけない。オシラにも感情があるよ」
「……感情」
「オシラは自覚していないだけで、日々色々学んでいる。……それこそ人間みたいに、情緒を培っている最中なんだね」
そうじゃなきゃ今みたく悩んだりしない。そんな苦しそうに言葉を選んだりしない。
不良品と言われるだけで欠陥品とは言われていない。だからオシラは、きっと人間に寄りすぎてしまった。だから〝神造〟として〝不良品〟なのだろう。
「……あたしは、何がしたいのかわからない。カノを、殺せば終わりのはずなのに……」
一度唇を噛み締め、その綺麗な顔立ちの一部に傷がつくことを恐れてそっと手を伸ばした。噛んではいけない、と意味を込めて頬に手を寄せれば、力強く掴まれる。嫌だったか、と後悔したが、オシラの顔を見てその考えを撤回した。なんせ、子どもが親に縋るような顔をしていた。私はそっと寄り添うのが正しいと瞬時に判断した。
「それは、オシラ自身が殺しを否定しているということ?」
「知らない。こんなの、知るはずもない」
「じゃあ、考えよう。オシラには感情がある。ちゃんと思考できているのだから」
「思考……」
一つ一つ丁寧に言葉を拾っていく。きっとオシラは今、考えている。造られた存在だとしても、考える力がある。私はそれの手助けをしていけばいい。
「オシラ、何か感じたことはあった?」
「そんなの、何も……」
「なんでもいいんだ。このアースに落ちてきてからの短い期間で、得るものは何もなかった?」
「……あるわけ……」
ない。と言いきろうとしたのだろうか。その言葉は彼女の口の中で溶けて消え、代わりに「……食べ物」と、つい溢れてきたようなものが出てくる。
「食べ物?」
「食べる行為なんて、したことなかったから……」
それは人間ならありえないことだが、彼女は人ではないためすんなり受け入れられた。
……そうか、食べることがオシラの中で得れた有意義なこと、なんだ。
いつも不機嫌で、怒っていたように見えたオシラ。何が気に食わないのかもよくわからなかったが、食事自体を嫌っていないことが今になってわかって少し安心した。
「じゃあ、何が一番好ましいとかあった?」
「好きだの嫌いだの、そういうものはない」
「そっか。でも、何かあるかもしれないよ。探してみない?」
「……」
私の促しに対して一度黙り、何かを考え込む。すぐに思い当たるものが見つかったようで
「口に入れるつもりなかったけど、興味本位で口に入れたら、存外悪くなかったのがあった。……スープとか言うもの」
と。初めて会った時に部屋まで持っていった物を挙げてくれた。確かにオシラはスープ類しか口に含んでいなかったし、食事を気に入っていないのなら性質的に食べることすらしなさそうなのに、律儀に与えたものを食べてくれていた。
初めての食事を気に入ってくれたからこそスープならいい、と今も思ってくれている。そう思うと溢れそうになる熱が、体内からこみあげてきた。
これはまずい、にやけてしまう。鋼の意思で破顔しそうになるのを堪えて、しかし堪えきれない微笑は漏らしながらオシラに語りかける。
「そっか。まだ美味しいものたくさんあるんだ。オシラさえよければ、他にも色々食べよう」
「……無駄。どうせ無意味、あたしには必要ないことだから」
「無駄じゃない。それに、オシラがオシラらしくあるために必要な事だよ」
「……必要……」
「うん」
オシラはちゃんと好みがあるはずだ。こうやってスープならいいと思ったように、まだまだあるに違いない。だから、少しずつ紐解いていければいい。
対話を嫌っていた彼女がここまで自身の考えを話してくれたのは気まぐれなのかもしれない。それでも、ずっと何者かわからず蜃気楼のようだった君の輪郭がようやく見えてきた。
私は手を伸ばし、オシラの頬に掌を添える。さっき掴まれた手と同じくひんやりと冷たく、つるりとした肌は意外と柔らかい。
ちゃんと触れられる。オシラはここにいる。幻でもなんでもない。
ああ、だからこそ、だろうか。まだまだ知らないことの方が多い君を知りたいと思ってしまう。
「ねえオシラ。私は君のことを全然知らないから、もっと話をしたい」
口と連動しているのか、考えたことと似たようなことをつい口走る。オシラはぴくりと眉を動かすが、それに怒りはない。私は思わず添えた手を下ろしてしまったが、その手は自身の肋骨辺りの上に置く。
「……でも君は、対話を嫌うよね」
「それは無駄だと判断しているから。あたしはただでさえ記憶媒体の容量のほとんどが紋で埋められている」
「……つまり、対話は嫌いではない?」
「……知らない。とにかく、お前たち人間とは造りが違う。そのことは念頭に置いておけ」
気持ちのいい両断から一変、歯切れが悪くなる。オシラの中でもまだ好きか嫌いか判断しかねているのかもしれない。
だが彼女は真っ直ぐ私を見ている。美しい琥珀の目を、こっちが照れてしまうほど真摯に、だ。明らかに以前と違う様子にこちらはたじたじになってしまう。
「……それにあたしは、自分のことを語れるほど自分のことをわかっていない」
そんな中、当然の返答をされる。オシラには自我があってもそれを抑制されていたようなものだからこれは当たり前と言える。私が、少しづつ考えていこうと言ったのだ、知らないことを否定する気はさらさらない。
そっか、じゃあ今はやめた方がいいよね、と。私が言うよりも先に、割り切った清々しい鈴の音が差し込まれる。
「だから、わかる範囲で、教える」
苦虫を噛み潰したような顔、と一見するも、決してただの嫌悪感から出たものではないオシラの顔。
「落とされた衝撃で、馬鹿になってしまった。だから命令されたことも、仲間に忠告されるまで忘れていた」
そんな悔しさの滲む声音に対し、表情は幾ばくか明るさがある。
彼女の中で答えが少しづつ確立しているのが聞いている私にも伝わった。そして今、着実にオシラという人格が見えていく。
「あたしは命令されることが嫌いだと自覚した。不良品だと蔑むあいつらに従うのも嫌いだと自覚した」
それに、と。オシラは口元に弧を描き、笑みを浮かべる。初めて浮かべた笑顔。初めて見た笑顔。
スルト一族が誇る太陽も星も月も叶わないほど眩く美しいものがあった。
「腹が立つ、というのをあいつらに抱いてしまった。だから、カノ。お前が責任を取れ」
―――脳裏によぎるのは、初めて会った時のこと。あの時はずっと眼力で射殺されるのではと思うほどで、ずっとオシラに近づきたくても近づけなかった。なんらかの不思議な力に引かれるように、私は無我夢中だった。
しかし今は、攻撃はされていないが殺されかけ、殺されることを「君ならいい」と一度は受け入れた相手に、対話をまだしたい、君が知りたい……笑みを見ていたいと、自らの意思ではっきりと願うようになった。間違いなくこれは私の変化だ。
極上の笑みに囚われてしまったような感覚に陥るが、その極上の笑みはすぐさま消えて「返事はどうした。脳天に穴を空けられたいの」と、歓喜に打ち震える隙すら与えてくれない彼女から理不尽な言葉を吐かれて目を覚まされる。
そうだ、これがオシラ。幻惑でもない実在する子。
……笑顔、恐ろしいな。オシラが比較的無表情が多く、変えたとしても怒りの感情よりなことが救いだ。これでは簡単に恋に落ちる人が続出してしまうのではないか。
余裕のある考えをしていたら、ずいっと彫刻のごとき美しい顔を寄せてこられた。さっきの魔法のような極上の笑みがまだ脳にこびりついているせいもあって、思わず私の頬が染まる。そんな熱を全く気にしない相手はじっと見つめて答えを待っている。
私は失礼がないよう控えめに言葉を選んでいくことにした。
「私で、良ければ責任を取る。どうか、私の手を取って。白妖精の君。作られた運命だとしても、君に出会えて私は変わったんだ」
言った直後に、キザすぎるのでは、馬鹿なのか、など、自分に対しての罵倒が止まらなくなった。
「……歯が浮くかと思った。いや、間違いなく浮いた。どうしてくれるんだ」
オシラも案の定呆れた口振りで私を見ている。それでも、私の右頬に片手を添えられて撫でられた。初めて、まともに彼女から触れられた。
「私もくさすぎるかなって思った。でも、本心なことに変わりないよ」
はにかんで答えれば、オシラは呆れたように微笑する。それにまた目を奪われ、ああやっぱり君は誰よりも美しく綺麗な白妖精だと、確信した。
……少しずつでいい。オシラが、少しでも生を謳歌するきっかけになればいい。
ふと外を気にすれば、明るさを取り戻していて―――轟々の雨が、止んだ。
リーヴ・モルゲンタウ きよはる @yoha_529
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