オシラの正体は、謎だ。まさか本当に妖精だとでも言うのか。妖精は大昔にほぼ全滅し、今では物語の中だけの存在になっているはずだが……。

 そんな謎の少女に目線を一瞬運ぶ。野菜ときのこが具沢山で旨味も豊かなスープだけを順手で掴むスプーンで覚束なく食している。具材も一応食べているようで一安心し、自分の夕食に視線を戻した。夕食に時間だからと誘えば案外素直に従うオシラを連れて寮内の食堂に行けば、アンスズと鉢合わせして三人で食事を共にすることとなった。オシラは部屋に逃げようとして結局捕まってしまったのだが大人しくしてくれているようで良かった。そして、今日のメニューは生徒からも人気なサーモンとじゃがいものグラタンで、昼と同様に食べてみないか勧めるものの嫌がられた。

寮に来て初めに持ってきたあれの方がマシと言うのだが、確かきのこのクリームスープだったはず。スープ系が好きなのだろうか。ならば今度フィッシュスープを勧めてもいいかもしれない。サーモン、貝、エビをじっくり煮込んだ料理で魚介の風味と塩味がきいていてパンがよく合う。あぁでも、パンは好きじゃなさそうだしな。

 ううん、と唸りながらグラタンとライ麦パンを交互に食べる。酸味のあるライ麦パンも美味しいし、濃厚な生クリームが鮭とじゃがいもを優しく包んで、さらにその上に塩っけのあるチーズを被せられたグラタンなんて食べれば幸福感に満ちるほど美味しい。もちろん好みはあるし無理強いはよくないから、本人にそのことは言わない。

 アンスズは食育根性があるのか、単純に暇を持て余して構うのか、オシラ本人に問いを投げ続けている。

「オシラ、スープしか飲まないが本当にいいのか? 深夜に腹減っても食堂は閉まっているぞ?」

「……」

「おーい、オシラ~、彫刻の如き美しさのベルンシュタイン~」

「……」

「あっはは、視界にすらいれてくれないや」

 無視をされ続けているのに、何が面白いのかアンスズはからからと笑っている。愉快そうで何よりだ。

 夕食を終え、三人揃って部屋に戻る。アンスズがオシラに「どうせなら部屋に集まってお話するか」と誘うが見事に無視され無言のまま部屋へ入ってしまった。笑顔のまま固まる彼女を横目に部屋に戻ろうとする、が。

「カノ〜オシラが私の存在の認識すらしなくなってきたことが悲しい。慰めておくれ」

 と腕に絡みついてきた。素早く部屋に戻らなかった私が悪いが、これは面倒なことになってしまった。

「……少しだけだからね」

「もちろんだとも」

 入室許可をしてから部屋に招き入れれば軽い足取りでアンスズが入ってきた。苦手なのは間違いないが、断ろうにも面倒なことになる。それは何度も行ってきた対話で学んだ。その度にアンスズは「つまらない」「面白くないな」と吐き捨て、次の話題に移る。私は平々凡々、ただの人間、面白みなんて求めないでほしい。

「相変わらず物が少ないな」

「人のこと言えないと思うけど」

「ははは」

 以前、アンスズの室内を見た時ベッド付近しか生活感がなくて本当にこの部屋で生活しているのか疑問に感じたことを思い出したながら聞いても適当にあしらわれる。都合の悪いことは触れない姿勢らしい。

 ……やっぱり苦手だ。

 お茶の一つでも出せればいいが、部屋にはそんな嗜好品はなく、精々浄水器の刻印具しかない。水だけでも出すか、と用意しようとすれば「おかまいなく」と断られた。そんなことはいいから話をしようということか。

「言っておくけど、私からは何もない」

 あらかじめこう言い切れば問題ないはずだ。どうせまた面白くないだの言われるだけで、何も無いはずだから。

「じゃあ、カノ。歴史学の復習でもするか」

 ―――そう思っていた。断ち切ろうとした私に向かって、ニコリと深まった笑みを向けられる。こちらから進めるまでもなくベッドに腰かけて隣を見やる。

「……次の試験も近いし、いいね」

 気乗りしない口調で返してしまうがアンスズは特に気にしていない。私はアンスズに従い、ベッドに腰掛けた。

 アンスズはなぜか私に関わる。―――いや、なぜかのところは訂正した方がいいか。私の出生に興味を持って近づいているのはまあ明白と言えるからだ。対話の中から人の根本を見抜こうとする癖があるのはわかっているが、それを私に何度もやるのは根本が見抜けていない証、と捉えていいだろう。

 別に隠しているつもりはないが、何度も言うように私は平々凡々な人間。一族のことなど過去のことにすぎないが、背負っていかなければいけないことなのは分かっている。

「数百年前、多くの人間は焼き死んだ。炎の一族―――スルトの力が暴発して火花が落ち、その結果炎の海に覆われた。事実上、歴史が一度リセットされたわけだ。生き残ったのは天空都市を制圧するべくアースにいたヴァルハラ、ノルン、フォール、ヒミン、そしてスルトの一族のみ。地上を覆った炎を生んだのは当時のスルトで……ああ、一族の代表者は敬虔を示して一族総統の名で呼ぶ決まりは言わずもがなだが、わかっているね?」

 わざとらしく、教師よりも砕けた口調で問いかける。

「……そりゃね。常識だし」

「上出来。で、新たに始まった新暦、現在は三百四年。アースは元より神々の住んでいた土地とはいえ、神樹の大元である宇宙樹 ユグドラシルはいまだ神々の手元。この宇宙樹があって人間は神々を上回ったと言える。だからこそ今も尚、人間の数は極力増やさず、選定を続けている。神にふさわしい人間を、な。……さて、カノ」

 アンスズは言葉を一度区切る。ひと呼吸おいた彼女は黒い目をじっと、静かに私に向けた。

「オシラは落ちてきた。……どこから? そんなの一つしかない、人間の天上にいるのは神々のみだ。神々の袂からこぼれ落ちた何かと見て、ほぼ間違いない。加えて本人には周囲に作用する強い認識阻害の魔法が刻まれている。私は、まあ効きにくい体質だからいいとして、カノも多少は効きにくいみたいだね」

 ―――おそらく、今回の本題はこれ。オシラは間違いなく人間ではないし、天空都市で生まれたわけでもない、草も木もなく、土も荒れ、荒廃した地上で生物が生まれるわけもない。何より天空都市に落ちてきたことが大きい。神々が反乱してきた人間を殲滅するために遣わせた、何かであると。

「オシラに近づくということは、なんらかの意図があるんだろう? 私に教えてくれ」

 アンスズは深淵に繋がっていそうな目を向ける。

 ……意図? そんなの、ない。ただ、オシラにどうしようもなく惹かれるだけで、仲良くなりたいなと考えることもあるが、基本何も考えちゃいない。損得で量れるほど頭の回転は良くないのが私だ。

「ないよ。何も、ない。私はただオシラと仲良くなりたいだけ」

「……本当かぁ?」

 本心のままに言えば黒い目を細めて探りを入れてくるアンスズがすぐ近くにまで迫っていた。なんと言われて疑われようが、答えは変わらない。

「本当だよ。だって、オシラは人じゃないのは確かだとしても……彼女自身が、何もわからないんだから」

「それが嘘だとしたら?」

「多分だけど、違う。皆が皆アンスズみたく上手に嘘をつけるわけじゃない」

「……ほう? 言うね」

「そうかな。私はいつも本心をそのまま伝えているだけだよ」

 いつもコテンパンにされる仕返しも込めて、下手に笑ってみせる。何も嘘は言っていないのだから、堂々としていればいい。やましいことなどない。アンスズの口振りからしてオシラと関わることでなんらかの損得があることは確かだが、手柄を横取りしかねない私が邪魔なのか、それとも……。

 考えたところでわかるわけない。結局、言葉を飲み込んだ。何度も何度も飲み込まれていく言の葉は喉を通り抜けて胃液溶かされ、どこへ行くのだろうか。

 長く時間が経った気がしたが、時計を見ればそこまで時間が経っていない。しかし、お互いにこれ以上の対話は無意味だろうと彼女も判断しているはずだ。

「夜も更ける頃だけど、どうする?」

「……そうだね。そろそろお暇しようかな、復習に付き合ってくれてありがとう。また明日」

「うん。また明日」

 社交辞令を交わし、飄々としたままのアンスズがみえなくなったことを確認。どっと疲れが押し寄せてきて勉強机前にある椅子に腰掛けた。

 ……痛いところを突かれた。逃げた。仕返しはできたが、結局私の負けだ。

 もっと口が上手くなれば切り返しも苦戦しないのだろうか。そんなことを考えても何も始まらないが、いくらか悔しさを帯びた溜め息を零す。

 こんな時はさっさとシャワーを浴びて寝るに越したことはない。私は怠さを感じる体を引きずるようにシャワー室へ向かった。


***


 あれから数日後。今日は月の日。七日に一度行われている儀式がある日。魔力を高めるために行われるもので、来るべき時に備えて増幅させるもの。儀式の間には二百名弱の全生徒、そして教師たちが集まっていた。

 そして、教師ではない人たちもいる。緑のローブを着て目深に被られたつばありの帽子の大人たちが十数人、円形に並んで剣の柄に魔法を刻み、天高く掲げていた。祈りの儀式の一種で、体内を巡る魔力の濃度がぐんと濃くなるのを感じる。

「地上は業火に覆われ、現存する人間は天空都市にいる五百名弱のみとなっている」

「我々は選ばれし人間だ。神になるべく日々邁進せよ」

「焼き払われた地上の無念を無駄にしてはならない」

「神を討つぞ」

 いつもの儀式。いつもの言葉。私は存在を極力消す。いつぞやのアンスズとの会話を思い出しながら眉間にぐっとシワを寄せる。

 

 ……儀式中はどうも、気分が悪くなる。

 込み上げてくる不快感を飲み込み、早く終われと祈りながら儀式を終えた。

 月の日は儀式があり、実習室で魔法を刻むための講義があるくらいで、午後からは何も無い。ぼんやりしたまま講義を終えて、まっすぐ寮に戻るか悩みつつオシラに声をかければ「帰る」とこちらになど目もくれず寮に戻った。珍しくアンスズの姿は見えなくて、一人になることで何か用事はないかとじっくり考える。

 ……そういえば黄色の染色液が足りなくなっていたな。神樹の間に行って染色液の補充をしよう。

 そうと決まればすぐさま移動する。アンスズもオシラもいない移動が久しぶりに感じるが、本来私は一人で行動することの方が多かった。前に戻っただけ。

 移動先の神樹の間は学園の全生徒が余裕で収まるほど広々とした石造りの空間で、目を凝らさなければ一番上が見えないほど高い天井に届く大樹、もとい〝トネリコ〟〝エルム〟〝キャラ〟三本の神樹が等間隔に地面の見えない石畳の上に根を生やしている。植物に必要な日光も水も気温も空気も必要ない神聖なもので、淡く光る神樹は正しく神の所有物だ。

 既に数人の生徒が神樹の間にいて抽出をしているが、先客はキャラとトネリコにいる。私はエルムのため気にせず神樹に近づいた。

 ベルトと繋がっている革ポーチから空になった小瓶、ペンを取り出し、ペンを神樹の根元に近いところに突き刺す。するとペンが黄色に染まっていった。手を離して小瓶をペンに近づける。神樹の部位によって抽出できる色が変わるのだが、ここは黄色。魔法は〈記憶〉が一番使うのもあって消費量の割合を示すなら黄色の染色液がほとんどを占める。ペンから滴り落ちる染色液は吸い込まれるように小瓶に入っていく。

 神樹から染色液を抽出する瞬間はまるで血液を採取しているようで、苦手だ。目を背けたくなるが見ていなければ小瓶に収まってくれないから逸らしてはいけない。それに、人間の罪の証から目を逸らしたら、それこそ大罪だ。数秒もせず滴り落ちるのが止まり、ペンからも黄色が抜けていく。これは抽出が終わった合図。

 特になにかした訳でもないが、精神が摩耗した。やはり神への反抗心が薄いせいもあってか罪悪感が凄まじい。こんなこと、バレてはいけないけれど。

 ……こういう時こそ食堂に行き甘いものを貰おう。シナモンロールあたりならありそうだが、どうだろうか。想像を膨らませて門をくぐり、くるりと方向転換してまたⅤの門と向かい合って食堂に繋がるよう浮かべる。

 食堂にもあまり人がいない。過ごしやすくて何よりだ、と思いながら私はさっさとシナモロールを注文しに行く。シナモロールとコーヒーを受け取ったら食器返却棚に近く、門がよく見える一番端の席に座った。

 コーヒーを一口飲んで香ばしさと酸味を堪能していると、食堂にアンスズが入ってきたのが見える。彼女もおやつを求めにやってきたのだろうか、と考えながら拳よりも大きいシナモンロールにかぶりつく。

 シナモンより強く香るカルダモンの風味は鼻を抜け、水分の抜けたパサパサもそもそした触感で口の中を占領する。しかしこれがいい。浅煎りの酸味が引き立つコーヒーのお供として最適なのだ。いわば相棒といったところ。そんなシナモンロールとコーヒーを食していると、いつの間にか目の前にアンスズがいた。

「席、いいかい」

 トレイを持ったアンスズが問いかけてくる。どうせ拒否をしようが前に座ることがわかるため「どうぞ」と短く答える。シナモンロールをまた齧り、もそもそした触感のパン生地をコーヒーで流し込んだ。

「オシラには逃げられちゃってね。仕方なくちょっと時間潰しをして、食堂に寄ったんだが……カノがいてついているな。ふふ」

 全くそんなこと考えていなさそうに笑うアンスズが目の前の席に腰掛ける。視界はいっきに青一色となった。

「オシラと一緒に居なくていいのかい」

「何もいつも一緒なわけじゃないよ」

「そうか。じゃあ私も押してダメなら引いてみろ作戦で彼女と関わろうかな」

 別にそんなことを考えてオシラと接しているわけでもないが、否定が面倒くさい。目線はシナモンロールに落として、「そうした方がいいよ」と適当に返した。

 返したとほぼ同時、翼の羽ばたく音が聞こえ顔を上げる。案の定、伝達鳥(ムニン)が壁をすり抜けて私とアンスズの頭上で止まった。食堂内にいる他の生徒の元にも伝達鳥(ムニン)がいて、今来るということは緊急連絡と理解する。

『伝達、《こちら、全生徒に向けています。黒妖精が南東の森にて出現しました。学園内にいる生徒は後ほど寮まで転移するため伝達鳥(ムニン)が来るまでその場で待機。寮内にいる生徒は部屋に戻るように。繰り返します―――》』

 無機質な伝達鳥(ムニン)に負けず劣らず、無機質な声音の教師の声が食堂に響く。

 また出たのか、と思いながらシナモロールとコーヒーの最後の一口を食べる。ふやかされた生地を咀嚼していると。

「黒妖精が出現したって」

 淡白なアンスズの声がかけられた。目線はテーブルの上にあるきのこのキッシュに向いて会話を切り出す。さくさくしたパイ生地にきのこ以外にも具沢山なフィリングが入っていてこんがり焼かれている、バターの香りが豊かで美味しそうなキッシュだ。中指と人差し指、それと親指で持ったフォークで切り分けて刺したら、口に運ぶ様は美しく、相変わらず礼儀作法がしっかりしているなと食事する姿を見る度密かに考える。

「で、カノ。見に行く?」

 そして、オシラが落ちてきた時聞いたことと全く同じ調子でら私が面白いことをしてくれるかどうか聞いてくる。

 ───黒妖精。これも絵本に出てくる人外。恐ろしい異形だったり、人型でも腕が異常に長かったり様々だが、おぞましき容姿なのは共通。そして、人間に害を及ぼすとされるもの。白妖精と違って神の使いとして現在進行形で現存している、私たち人間の首を狙う恐ろしき刺客。

 国を乗っ取った人間を恨む神々の怒りの現れだろうか。その妖精たちは御使いなだけあって神々を代弁するがのごとく、憤怒の感情で満ちている。

 生徒たちは黒妖精が出るたびに寮に閉じ込められる。学園内にいた場合、大人数での移動時にのみ使用している〈航海〉の魔法が刻まれている転移陣を円形大ホールに広げて寮に直接送られる。今回もそうされるだろう。黒妖精は教師たちが対処している、生徒の出る幕はない。

「……行かないよ」

 何も変わらない返答に、アンスズは溜息を吐く。そのような反応をされても、人間がそう簡単に変わるわけないのだから当然だ。キッシュをぱくぱくと頬張っていく目の前のアンスズはただ腹を満たす行為を進めていった。そして飲み込んだちょっとの隙間に言葉をずらっと並べ立てる。

「いつもそれだね、つまらない。オシラが来てからのカノは面白くなってきたと思ったが気のせいだったね」

 最後の一口であるキッシュが、先端からなくなったフォークを揺らしている冷めた態度のアンスズを、同じように冷めた態度で返す。

「……そうだね、私は、何もしたくないんだ」

 目立ったら私が困るから。

 何か大きな問題でも起こせば何をされるかわかったもんじゃないから。

 私が何かしたわけじゃなくても、一族の罪は一族の血を引く者たち全員一生背負わなければいけないから。だから私の周りに人は寄り付かない……アンスズを除いて。だが、これはただの、私の出生に興味を持っているからこその言動。

 私は所詮、全部保身のためにしか動けない。自分が可愛いから自分を守っている。自分が一番大事。

 ―――死にたくない。しかしこれは不死を望んでいるわけではない。神へ、なり変わろうなど考えもしない。だけども神の袂に昇ろうなど考えもしない。ある意味、このどっちともつかない考えのおかげで命を拾われたようなものだ。神への反乱の意思があればこの都市で生きることを許されるのだから。

 私のこの思いを理解しているわけじゃなかろうに、アンスズは全てを見通したように黒い目を閉じ、緩やかに微笑む。見覚えのある、見切りをつけた誰かの顔と似ていた。

 ―――ああ、わかった。この顔は、神に従うことを選び、神の袂へ向かうべく高みへ昇った兄の顔によく似ている。

「やっぱり面白くないな」


 今回は随分と、胃痛のする対話だった。転移陣で寮に戻された後、アンスズの最後の言葉が身に染みている私は重い足取りで自室に向かう。いつもより部屋が遠く感じた。

 自室のドアノブに手をかけた瞬間、オシラの部屋の方へ視線を向けた。私が呼びかけなければ部屋にいることが多い彼女のことだ、ちゃんといるはずだと思っていたが、なんとなく。

 そこでようやく、オシラの部屋の扉は人間が入れる隙間ほど開いていることに気づいた。不用心にも程がある。

 世話の焼ける子だなと苦笑して近づけば、さっきよりも足取りが軽くなって、あっという間に目の前まで辿り着き、室内が見える。調度品は備え付けのもののみ、私とほとんど変わらない簡素な部屋。

 他の人の部屋を見る度に、寮内に本人の趣味嗜好が反映された部屋にしている人はどれほどいるのだろうかと思う。届け物を渡すくらいで友達のいない私に大して交流などないが、今まで見てきた限り凝らされた部屋の生徒はそう多くない。

 ……本当に牢獄みたいなところだな、ここは。私も、人のこと言えないけれど。

「オシラ。部屋、空いてるよ。ちゃんと閉じないと」

 牢獄みたいな部屋に閉じこもる彼女に優しく声をかける。神経質そうでそうでもなく、だが気難しいことに変わりはない、そこが愛おしくも感じる。手のかかる子どものようで、弟や妹はいなかった私にとって新鮮な感覚。返答が来ないのもいつも通り。仕方ない、と隙間から顔を覗かせれば、オシラは窓の方へ向いている。部屋の位置的に森寄りなため窓からは木々が揺れているのが見える。魔法を刻まれているため外から窓の中を見ることはできないが、寮内から外は見えるようになっている。

「……」

 まるでとりつかれたように、琥珀の目は森―――黒妖精が出現したという南東の方へ向いている。その姿が、不穏だった。

「オシラ?」

 声をかけても無反応。ただいつものごとく無視しているわけではない、聞こえていないように見える。

 そしてオシラは、こちらへ真っ直ぐ歩いてくる。なぜ、と思う間に扉が開かれて黙って部屋を出た。その間に私とは目が合わなかった、というより見えていないように感じた。明らかに様子がおかしい。

 行先はどう見ても外。何度名前を呼んでも返事がなく、彼女だけ別世界に飛ばされたみたいだ。必死にあとを追いかけて手を伸ばしても空を掻くだけで、あの細い肩も、腕も、掴むことはない。蜃気楼に手を伸ばしている気分になった。

 必死に追いかけるもののオシラとの距離はなかなか詰まらない。やがて外へ、森へと入ってしまう。外はやたらと風が強い。人間を拒むように強風が吹き抜けていく。黒妖精が出たと報告のあった方向ではないとはいえ、無断で外出してしまった。もしこれが教師にバレでもしたらどうなるのだろうか。そう考えると息が詰まる。でも、オシラを放っておくことができない。

 どんどん進んでしまうから、ついには見失った。どこへ行ったんだ、怒られるだろ、早く帰ろう、交錯する思いを抱えて探索を初めて数秒。オシラはすぐに見つかった。それほど離れていなかったみたいだ。

 よかった、今からすぐに帰れば怒られずに済む……と、足を踏み出そうとした瞬間だった。

 醜い、異形の何かがいる。

「っ───」

 黒妖精。昔見たものと形は全く違うが、漂う雰囲気が似ていた。

 ……一族のほとんどを掃討し、私も死にかけた、恐ろしき化け物が、オシラの目の前にいる。

 足が竦む。膝が笑う。全身の震えが止まらない。魔法を学んだところで所詮このありさま。あの時と違うのはわかっているのに、なぜこんなにも恐ろしくて仕方ないのか。

 人間を憎み、一切の慈悲なく首を狙う暗殺者である黒妖精なのだから当然か、と考えても、落ち着くことはない。それでも、私はオシラを助けなければいけない。だから、私は笑う膝に喝をいれて進もうとした。

『いつまで人間の真似事をしているつもり?』

 だが、前から襲う強風に足を止められ、搔き消されることなく届いた音。異形のなにかは声帯から発していないとわかる音を発していた。人間ではない、なんらかの音はオシラに向けられている。彼女の華奢な背中しか見えないため、今オシラがどんな表情をしているのかわからない。

 無言を貫く彼女は今、どんな顔をしているのだろう。

「……」

『まぁ、良いわ。人間共に見つかって動きにくいから、落ち着いた頃にまた来るから』

 黒妖精は異形の体をゆらり、輪郭を失わせて影へ溶け込もうとする。一度区切った音を紡ぐように、

『お前のその見た目は神々の憎悪の権化、炎の一族を滅ぼすための一手に繋がるのを理解している? 不良品。少しは気を遣いなさい』

 森に入った際にあちこちにひっかけて汚れた頭や服を見ながら勧告し、完全に溶けた。ゆらゆらと、まるで陽炎のように空気が蠢く。オシラは黙ったまま、まるで時が止まってしまったかのように動かない。強風が吹き抜けるから今も時は流れているのだと理解に及べる。

 ……知らなくていいことがこの世には、ある。それは今、聞いたこととかが当てはまる。

「オシラ」

 だから私は聞かなかったことにしようと思った。思考を止めたとも言える。立ちすくむオシラに声をかけて、寮に戻ろうと。これでまた明日からいつもの生活に、と。どこに置くべきか悩み、宙に漂わせながら手を伸ばした。

「触るな」

 だが、日常ははたき落された。前聞いた、アンスズの手を叩き落としたものも変わらない声音、口調だというのに、ぱきりと、彼女の左琥珀にヒビが入ったように感じた。相変わらず美しい琥珀の双眸を揃えているため幻覚だろうと何度か目を瞬く。その琥珀と私の茶色の目が合うことはなかった。

 だんだん頭も目も冴えていくのに比例して頭が痛む。胸騒ぎもしてきて、気分が落ち着かない。

 そしてオシラは私を置いて亡霊のように歩いて森を出て行った。その背後を眺め、見えなくなった頃にようやく動く気力が湧いて、足元の生い茂る雑草を踏み進むが、牛歩でしかない。

 自分でも驚くほど傷ついたのかもしれない。少しずつだけれど、仲良くなっていると思っていたから。一人であればこうやってじっくり考えることが出来る。今は、思考を回す時だ。

 ―――オシラ、私は確かに自分が一番大事で、家族たちのように処されたくないから優等生であろうとする。だから余計に君に惹かれてしまうのだろう。どこまでも自由で、縛られることなく、揺蕩う君は綺麗だから。

 ……あれ。でも、なんで私は、こんなにも惹かれるのか。

 自由? アンスズを見てきて散々嫌気がさしているはずだろ。

 縛られることのない? 拘束されなければ上手く息すら吸えない自分が何を言っている。

 あ、れ。私、なんでオシラのこと、気にかけているんだっけ。

 あの美しい琥珀を見た瞬間から、だ。そう、あの……。

 ……なん、だっけ。


 ───気が付けば、私は部屋にいた。たとえ牛歩でも、先生に発見されることを危惧した結果だろうが、無意識の内にしっかり部屋に戻っていたことに感心した……と言うより、呆れた。結局のところ、私は保身のためにしか動けないのだろう。この日はごちゃついた思考を洗い流すようにシャワーを浴びて、すぐに布団に入った。

 そして、朝。いつも通り私の支度が終わった後、オシラを起こしに行こうとする。しかし、ノックする、すんでのところで軽く握られた右手は止まる。なぜこのようなことをしていたんだっけ。彼女が気になっていたから、だが、あんなに嫌われているのになぜあそこまで関わろうとしたのか。

 ……わからない、わからない。なんでこんなに頭が混乱するのか、わからない。

 ぐっと握る拳に力を入れ、ヤケになってノックをする。オシラからの返答はなかった。返答がないから、オシラと顔を合わせなくて済むと思わず考えてしまった。だって今はどんな顔をして会えばいいのかわからなかったから、そう、仕方ない。仕方ない。

 ……最低だ。

 後悔が募るまま、その場を後にした。結局その日オシラは部屋から出てくることがなかった。だと言うのに、一瞬気にしただけで生徒も、教師も、気にも留めていなかった。私はそれがたまらなく気持ち悪い。

「オシラは?」

 だから、アンスズのこの言葉に心底安心した。いつもなら無理矢理にでも連れてきているオシラがいないことに訝しがる姿を見て、私が異端なわけではないことと、オシラは蜃気楼なのではないと、同時に実感できた。

 連れてこなかったのは私の上手く作用しない感情が大きいのだが、内へ内へと飲み込んでいく。

「……閉じこもってしまったようで、部屋から出てこない」

「ついに嫌気がさして引きこもりか? カノと喧嘩をした、とかじゃないんだな?」

「……なにも、ないよ」

 なにもない。これは嘘だが、嘘ではない。森にて、オシラの身に何かがあったことはわかる。ただ、あの状況素材だけでは判断のしようがない。だから、なにもない。

「……ほう」

 アンスズの黒い目は鋭利に光っていた。私には少なくとも、そう見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る