第2話

「はぁはぁ。」


 久しぶりにこんなに走った。普段からこんなに走った事はない、というか走るのは嫌いだ。


 ゴロツキ達から逃げてきた2人は足場の悪い道をずっと手を繋ぎながら走り続けた。分かれ道をいくつも通り過ぎて、彼が止まったのは日の暮れかかった村だった。


「ここまでくれば大丈夫だろう。」


 そうでしょうね、というかもっと前に止まってもよかったと思うけどね。


 さすがに一時いっときも走れば追いつけないだろう。というか自分がどこにいるのかさえ分からない。周りは農作業を終えて家に帰る人がちらほら、旅人の姿は無い。


「もうすぐ暗くなるね…」


 思えば遅い昼食をとろうとしていたのに、邪魔が入ったせいで朝から何も口にしていない。それでなくても体力には自信が無いのに腹ペコもあいまって自分はもうくたくたで一歩も歩けそうにないほどだ。

私は地べたにくっつきそうなくらいにしゃがみ込んで肩を落とした。


 まずは寝る場所、それと運が良ければ食べ物……


 頭を上げる気力すら奪われ、ひび割れた地面に視線を落としながら思考する。ああ、だれかこのあわれな私に一晩の宿を提供してくれないかなあと甘い期待を胸に。


「とりあえずどこかに泊まろうか。」


 ほぼ頭上から発せられた声に残る力を振り絞って頭を持ち上げると、目の前に彼の目があった。


「ん、うん……」


近い。


 元はといえばこいつのせいだが、不思議と彼への怒りは沸かなかった。よくよく見ると割とイケメンではないか。とはいえ都の名のある大富豪の若君といった風貌ふうぼうではなく、書生しょせいとして利発で整った顔をしているという事だが。私を助けようとしてくれたのだからきちんとお礼を言うべきなのだろうか。


「ほら、立て。」


 彼のどこにまだそんな力が残っているのか、強い力で腕ごと持ち上げられ立ち上がった自分は再び気づいた。あ、まだ、手繋いだままだった…


「あ、の、手…もう大丈ぶ…」


 なんだかこっぱずかしくなった私は気まずそうに手を放そうとする。彼は薄く微笑み頷くと手を解放してくれた。


 うだうだしている間に日は瞬く間になくなり、辺りは薄暗い影に包まれていく。焦った私たちは顔を見合わせて歩き出した。こうなったらかたっぱしから家を訪ねるしかない。



    ◇



「泊まれて良かったね。」


 私たちは何軒なんげんか小さな家々を巡ってやっと泊めてもらえる心優しい老夫婦の家に入れてもらった。


 寝床は夫婦のものしかなく私たちはわらを敷いて土間で寝ることになったが、雨風にさらされないだけマシである。まあ、旅をしているので野宿もしたことがあるし問題ないのだが、彼はどうだろう?

 隣に視線を向けると藁を平にしようと押したり叩いたりする彼の姿が目に映る。良いところの坊ちゃんという風体ふうていではないが、衣服は整っているし、頭も良さそうだ、それに何事にも動じない獅子の心を持っている。自分のように長らく旅をしている様にも見えないし、これから都へ向かい役人にでも志願する途中なのだろうか、そんな感じだ。


「そういえば……」


 やっと満足のいく硬さになったのか、はたまた諦めたのか彼は藁の上にごろっと寝転がると私と視線を合わせた。


「名をまだ聞いていなかったな。」


「あ!私は張元伯ちょうげんぱくっていいます。先程は助けて頂いてお礼も言わず…」


 問われて初めて礼を欠いていた事を思い出し、焦りながらガバッと身を起こす。すると彼は指を1本出し、口元に添えた。


「しーっ 老夫婦が起きてしまう。」


 私はあっと声を出しそうになった口を両手で塞ぐ。彼は目を細めて微笑んだ。それは自分の顔が可笑おかしかったからなのか、眠いだけなのか分からない。


「私は范巨卿はんきょこうだ。」



    ◇



 早朝、まだ薄暗さの残る村はあちらこちらから煙立つ。収穫の時期ともなると農家は朝早くから暗くなるまで馬車馬ばしゃうまの如く働いている。


 元伯達が泊まった老夫婦も例外ではなく、彼らがまだ目覚めぬうちに起きて畑へ行ってしまった。


「皆んな、忙しそうだね。」


「うん。」


 行き交う農民を見つめながら立ち尽くす二つの影。老夫婦に礼も言えず、はたまたそのまま立ち去る事もできず立ち往生していた。


「どうしようか…」


 困った様子の元伯がすがるように巨卿へと視線を上げる。端正な横顔は何か良い解決策を出してくれそうだ。


「手紙を置いて行くか。」


「でも、字が読めないかも。」


 巨卿の考え出した提案をあっさりと切り捨て、やはり自分も一緒に考え込んだ。


 何処にあるかも分からない老夫婦の畑を探しに行くか?この林だかやぶだか分からない道なき道を進んで?否、迷子になるわ。

 読めないだろうけど手紙と一緒にお礼のぜにを置いておけば良いか?いやいや、貧しい小さな村じゃ留守中の窃盗なんて日常茶飯事だし、逆に危ない。


 2人は村人の出払った静かな村の路地にたたずみ、まるで変質者のようだった。あまりにも考え込んでいた為、周りが見えていないのだ。見る人が居なかったのがせめてもの救いか。


「これはもう、ご老人達が帰ってくるのを待つしかないか。」


「えーー。」


 自分も半ば諦めていたがやはりそれしかないのか、元伯はあらかさまに落胆する。


「礼を欠くのは君子としてあるまじき行為。待つのが嫌ならば君は先へ行くといい。」


 巨卿が声のトーンを下げて言うので元伯は何も言えずに口をつぐんだ。 

 このまま私だけ去ったら私はどれだけ薄情者なんだよ、出来るわけないだろう。


「それにしても…」


 巨卿は時を無駄にしない。ふてくされて土を蹴っている元伯をよそに周囲を見渡した。


「ここはかなり貧しい村だな。」


「そお?」


 巨卿が指摘したとおりこの村の家々は建て替えてもおかしくないくらい屋根や壁に穴が開いているし、道と呼ぶにはお粗末なほど雑草の好きにさせている。老夫婦の衣服はぼろぼろだったし、食事にもありつけなかった。余裕を感じさせない村の人達が脳裏に浮かぶ。


 思い出したら急にお腹がギュルギュルと鳴り出した。思えば昨日から何も食べていない。


「山の中の村なんてどこもこんな感じだよ。」


 空腹に少々苛立った元伯がぶっきらぼうに言い放つ。


「はぁ〜、このままじゃ飢え死にしちゃうよお。」


 元伯の泣き言が閑静かんせいな村に響き渡る。


「巨卿は腹減ってないの?」


 散々文句を垂れる元伯の横には涼しい顔の巨卿が我関せずといった様子で考え事をしていた。昨日は凛々しいと思ったけれど、今はその涼しい顔すらにくらしい。

 腹が減ると人間、恩も忘れて八つ当たりしちゃうよね。いけないいけない、私は善良な人間になるって決めたんだから。


 よこしまな感情を吹き飛ばすかのようにブンブンと頭を振る。そんな元伯の目の前に白い袋が差し出された。


「私にはこれがある。」


 日焼けのない白い手が袋を開けると、中身はごめだった。


 私は酷く驚いた。





ー続くー

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張元伯という男 方糖 @Liuxu

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