毒煙

五月女 十也

毒煙


 思えば、心がもう限界だったのだろう。

 無性に煙草が吸いたくなって、私は充電の残り少ななスマートフォンと千円札を一枚だけを掴んで家を出た。とっくに蝉の声は消えて、鈴虫が鳴いている。肌を撫でる空気はひんやりとしていて、もう夏はここにいないと教えてくれる。

 これまでの人生で、煙草を吸ったのは一度だけだ。飲みの席で、後輩からもらって。20ミリグラムだかなんだかの甘ったるい煙が肺を満たす感覚は、言い表しようがないほど幸せなものだった。

 商店街を抜けた先にあるコンビニは煙草を取り扱っていなかった。仕方が無いので足を伸ばして、少し先にある別のコンビニに向かう。けれど一件目で目当てのものがなかったことになんだか拍子抜けしてしまって、足が重くなった。飲み屋の前で屯する若者や、耳に当てたスマートフォンに真面目腐った声で応対しながら早足で通り過ぎるサラリーマンなんかを横目に、のろのろと歩を進める。

 多分、今私が歩いている道がダメなのだ、と誰に言うでもなく呟いた。道というのは学問であり職業であり、私の生き様でもある。私が立っている地面の先にあるのは、誰かの役に立ちたいと願う反面、誰かを不幸にはしたくないと心の奥底から願う私の本質と、水と油ほど相性が悪い道だ。医師になるのだと、物心ついた時から漠然と思い続けた結果、私はここにいる。大学に入ってから三年と少し、これまでにも何度も膝をついたし逃げようともした。でもできなかった。目の前の道から少しでも目を逸らそうとすれば、実習で見た遺体の影が視界に映り込んできては許さないと言わんばかりに私の傍に寄ってきてじっと佇むのだ。

 二件目のコンビニには煙草もライターも置いてあった。いつだか後輩に貰った銘柄は忘れてしまったので、適当な銘柄を選んで代金を支払う。思ったより値がする。僅かな生活費の一部をなんてくだらないことに使っているのだろうかと我に返ったものの、買ってしまったものは仕方がない。そのままコンビニを出て、近くの公園に向かった。

 あのとき。二年ほど前の実習でお世話になった遺体のことは鮮明に覚えている。取り上げた心臓の軽さも、脂肪を掻き分けた先で横たわっていた腸の固さも、目蓋を持ち上げた奥で鎮座していた生気のない眼球の色も、手に取るように覚えている。覚えているから、逃げられないのだ。私はあの命を、無駄にはできない。半ば自分を呪うように、そう思い続けている。

 少しばかり広い公園には誰もいなかった。木々の葉が擦れる音だけが辺りを支配している。私は手近なベンチに座ってライターの火をつけた。青い炎だった。当たり前のことだけれど。なんだか人魂みたいだなと思ったのは先程から思考を埋めつくしていることのせいだろうか。煙草の箱を開け、銀紙を剥ぐ。想像していた以上の数が入っていて、心が踊った。一本だけ抜き取って、いつかの後輩の仕草を思い出しながら火をつける。火は簡単に付いた。噎せることはなかったけれど、煙は初めてのときよりも不味かった。

 長く、長く煙を吐き出しながら、空を見上げる。どんよりとした曇り空だ。私の口から漏れだした煙が、雲と同化して見えなくなる。美味しくない。まさしく毒煙だ。

 明日、私は誕生日を迎える。私が生きている間に、二十と少しの数だけ季節が繰り返された。地獄のような日々だった。とは言っても実際のところ、私はとてもとても恵まれていて、百人に聞けば九十八人は、それは恵まれている人生だろう、と答えるようなものだ。食いっぱぐれることはなく、やりたい学問をし、良き友人や師に囲まれて、何不自由なく暮らしてきた。けれど、私の人生を表す一言を付けるなら、地獄のような、になる。嬉しいことも、幸せなことも、たくさんあった。けれどそのどれもが、その瞬間が終わった途端に絶望に変わる。そのうち、終わった後の絶望が怖くて、良い時間すらもなければいいのにと願うようになった。光と影が対であるように、喜びと絶望も対なのだ。どちらかが要らないなら、もう片方も必要ない。私はそう思うし、絶望なんてないに越したことはないとも思う。

 持っていた煙草が短くなる。フィルターの間近まで火が寄ってきたので、足元に落として踏みつけた。勿体ないから何本か吸ってやろう、と思っていたけれど、なんとなく気乗りしなくて箱を閉じる。無性に胸が苦しくなって、笑いと涙が込み上げてきた。感情に任せるまま、私は笑いながら泣いた。理由はわからなかった。

 ある友人は、夢を追って旅をすると言った。夢が叶うかどうかは分からないけれど、夢を追うことが楽しいのだと言った。別の友人は、好きなことを仕事に据えて、やりたいことをやって生きていくと言った。これが私の天職だと。では私はどうだろう。見下ろした両の手には何も乗っていない。夢も好きも、昔はあったのかもしれないけれど今は見失ってしまっていて、その幻覚を見ながら生きている。

 一頻り笑って、泣いてから、私は立ち上がった。一本分だけ空間の空いた煙草の箱とライターはベンチに置いていくことにした。この公演は喫煙者の溜まり場になっているようだから、きっと誰かが持っていくだろう。口の中の独特な風味と少し苦しい胸を味わってから、私は公園を出た。

 けれど、なんだかんだ言いつつも、私はこの人生を嫌いになりきれていない。本当に嫌なら、とっくに海だか線路だかに身を投げている。それをしていないということは、まあ、生きる気持ちがあるのだろう。と、少し軽くなった心で思う。煙と一緒に、胸の中の悪いものが吐き出されていったようだった。

 帰り際、スーパーに寄るとケーキが半額になっていた。少し悩んで、ポケットの小銭を確認してから小ぶりのケースを手に取る。てっぺんに乗った苺が妙に輝いて見えた。そのままレジに向かいながら、私はひとつため息をつく。

 明日からもまた、生きていくのだ。この地獄のような毎日を。








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