第−3話 夢に生きる
彼女からメッセージをもらったのは、年が明けて間もない頃だった。
『あけましておめでとう』
『うん、あけましておめでとう』
『今年もよろしく』
『……よろしくね』
病室に着くと、彼女はこちらに背を向けて、珍しく布団にくるまっていた。むーむーの姿が見えなかったから、きっと中で抱きしめていたのだろう。
『具合悪い?』
『ううん、大丈夫』
丸椅子に座って、しばらく沈黙が続いた。話があるって呼び出したのは彼女の方だから、俺は何を話していいかわからなくて、だんまりを貫いた。
『——私、たぶん死んじゃう』
か細い声だけど、しっかりと聞き取れた。彼女が自らの「死」を言及したのはそれが初めてだった。何かの冗談だと自分の中で咄嗟に言い聞かせて、荒立つ波を押さえつけた。
『ははっ、らしくないな』
『……違う』
わざとおどけて言ってみた。彼女の態度を見たら、そんなくだらない話じゃないことくらい、わかっていたのに。
『移植手術なんだけどね——』
彼女はさらに布団を深く被り直した。聞きたくない。俺の中の何かがそう訴えてきたけど、それを口に出す勇気すら俺にはなかった。
『今の私の身体じゃ……耐えられない可能性が高いって』
余命宣告が正しければ、彼女に残された時間は約三ヶ月。看護師さんからは、当初の見通しずいぶん調子が良いと聞いたこともあった。何より俺自身、彼女はあと一年くらいは余裕そうに見えていた。
それでも、遅かった?
『受けたとしても、すごく難しい手術になる。だからお医者さん、選べって言うの』
『……何を』
自分のものとは思えないほど、酷く掠れた声だった。
『——わずかな可能性に賭けて手術を受けるか……諦めて残された時間を有効に使うか』
絶望というのはまさにこのことだと、頭の片隅で呑気に思っていた。初めて余命の話を聞いたあの春の日の感情に酷似していて、重く、苦しかった。
『……それでね、今ちょっと揉めてるんだ』
ひたすら負の感情に溺れていた俺を呼び戻すように、彼女は続けた。
『どういうこと?』
『詳しくは、また今度話す。とりあえず……しばらく、ここには来ないで』
声は出なくて、乾いた息だけが虚しく漏れた。来るなって、なんで? ただ怖がってばかりでまともに言葉を発せない自分が、嫌で嫌で仕方なかった。
『今日はありがとう。また、連絡してもいい?』
『……うん』
わかってる、辛いのは俺じゃない。俺が、彼女を励ましてあげなきゃいけないんだ。それができないなら、彼女のそばにいる意味はない。そうやって、嫌になりそうなほど、何度も自分に言い聞かせてきた。けれど気持ちが追いつかなかったのは、きっと俺の覚悟が甘かったから。
その日は勉強も何も手につかなくて、ただ一人、ぼーっとして過ごした。
『来ないで』彼女からそう告げられて、約ニ週間が経過した。言葉は冷たかったものの別に仲違いをしたわけでもなく、メッセージでのやり取りは普通にしていた。
『この問題どうやって解くの?』
『三角形ABCとGHIが相似だから、その比を使って——』
わからない問題の写真を送れば、丁寧に解説してくれた。スマホなら履歴が残るし、後から見返せて便利ではあった。でも俺はやっぱり、直接会って、目を見て、声を聞きたかった。彼女に会いたい、その気持ちは強くなるばかりで。それに、手術について詳しく聞けないままだった。誰と何で揉めていて、なぜ俺を突き放したのか。結局、手術は受けるのか受けないのか。
——彼女の両親から呼び出されたのは、ちょうどそう思っていたところだった。俺は彼女の家を訪ねた。そうは言っても一軒隣なので、訪ねたと言うには大袈裟かもしれない。
『大変なときにごめんね』
『いえ……』
ソファーに座らされて、温かいお茶と和菓子を出された。左斜め前方には、ほとんど話したことのない彼女の父親が腰を据えていて、数年前、無邪気に上がっていた家の雰囲気とはまるで違い、緊張で手に汗が滲んだ。
『……話は聞いているよ』
彼女の父親には少しばかり厳格な雰囲気があったが、口調は思いの外柔らかかった。
『ありがとう、あの子と仲良くしてくれて』
『……こちらこそ、娘さんにはお世話になってます』
しばし沈黙が続いた。彼女の両親だって、とても辛いはず。そう思いながら、続く言葉を待った。
『……君に、頼みがあるんだ』
母親は、ただ辛そうに俯いていた。そんな妻を気遣って、父親は手を握ってやる。素敵な夫婦だと思った。
『あの子を、説得してほしい』
『……説得?』
頼みだなんて何を言い出すかと思えば、説得? 話がわからなくて、反射的に聞き返してしまった。
『君は、あの子の味方をしてくれているんだろう。それは重々承知の上だ。でも親としては——』
『ちょ、ちょっと待ってください!』
いよいよ話の筋を見失った俺は、図々しくも父親の言葉を遮った。
『説得とか味方とか……一体なんの話ですか? 話が見えません』
きょとんとして俺を見ていた二人だが、俺の発言を受けて揃って顔を見合わせた。
『どういうことだ?』
『てっきり優真くんが関わってるのかと……』
『彼が何も知らないということは、自分の意思で……?』
『あ、あの!』
俺をほったらかして、二人はコソコソと話し出した。流石に気まずくて割って入ると、父親は咳払いをして続けた。
『あの子から、何も聞いてないのかい?』
『はい。……実は俺、彼女に会いに来るなって言われたんです』
二人は再度顔を見合わせた。いい加減俺も双方で大きな食い違いが起きているのに気づき、彼女の言葉の真意が少しずつ明るみになってきた。
『……ただ、揉めているとだけは聞きました。俺はてっきり、病院側と一悶着しているのかと思ってましたが……まさか、彼女とお二人の間で、ということなんですか?』
どちらも俺から目を逸らした。それはもはや、無言の肯定。
『……そうだよ』
まるで重いため息のようだった。
『私たちは断るつもりだったよ。あんなハイリスクな手術……命を捨てるようなものだ』
やはり手術の話だった。父親は歯を食いしばり、膝の上で両拳を握った。気持ちは痛いほどわかった。もし俺が同じ立場でも、迷わず断念する方を選ぶだろうから。
『彼女は、受けたがっているんですね』
『正直驚いた。あの子が私たちにあそこまで物を言うのは初めてだよ』
俺も意外に思っていた。彼女は両親が大好きだ。年頃の子で、さらには病気のこともあり、精神的に荒れてもおかしくないのに、二人に反抗するような姿は見たことがなかった。
『医者には、三週間以内に決めろと言われた。今日を除けば、残り二日』
『えっ……』
想定よりも時間が無いことに驚きを隠せなかった。だが長く待てないのは当然のことだ。臓器を求める人々は、どれだけ存在するだろう。そのチャンスが彼女のもとに回ってきたのは、ほんの数パーセントの奇跡に等しかった。
『医者が手術の難しさを説明しても、母さんが泣いて訴えても、一向に聞く耳を持ってくれないんだ。それでつい……怒鳴ってしまって……もう帰れって追い返されたよ』
自傷的な笑みを浮かべる父親に、胸が痛くなかった。あんなに仲の良かった家族までも分断させてしまう……病は、彼女から何でもかんでも奪っていた。
『それから合わせる顔がなくてね……きっともう、私たちではどうにもできない。……優真くん、知ってくれた上で頼みたい』
父親の目には、熱く燃えるようで、けれどどこか落ち着いた光が座っていた。
『あの子を説得してほしい。受験勉強で大変な君にこんな頼みをするのも心苦しいが……もう頼れるのは君しかいないんだ』
テーブルに両手をつき、父親は頭を下げた。
『ちょっ、顔を上げてください!』
『優真くん、私からもお願いっ……!』
伏せた顔から手のひらに雫が落ち、母親はすでに涙を堪えきれていなかった。二人の娘を思う気持ち、温かかったけど、俺には重くて耐え難い。この愛を受け止められるのは、きっとこの世界一人だけだけだろうと、冷静に考えていた。
『……明日、彼女と話してみます』
二人は顔を上げた。父親も、深い愛と後悔が溶けた涙を、目に浮かべていた。
『でも正直なところ、今は自分の気持ちがよくわかりません。彼女がどうしてもと言うのなら受けてもいいと思うし、もし失敗したらと考えたら……諦めて欲しいとも思います』
所詮他人の俺が、彼女と家族の問題に口出しするのは違うと思った。でも、威厳を捨てまで中坊に頭を下げる二人の思いを、無碍にすることもできなかった。
『だから、彼女と話してから俺の立場を決めます。お二人に賛同できると判断したら、その場で彼女を説得する……それでどうですか?』
二つ返事で了承を得た。俺が味方に付いてくれるという自信があったのだろう。そのとき俺も、きっと彼女を説得することになると考えていた。もしかしたら彼女は……生きることを諦めてしまったのかもしれないと思ったから。
『……お父さんとお母さんの差し金?』
放課後、アポ無しで病室を訪ねた俺に、彼女はそう言い放った。言葉は冷たいけれど口調は優しくて、なんだか変な感じがした。
『ご両親から話を聞いて来た。まだ俺はどっちの立場でもない』
彼女は黙って窓の外を眺めたままだった。
『勝手に来たの、怒ってる?』
『ううん……会いたかったよ』
ようやくこちらを見てくれた。久しぶりに見た笑顔にドキッとした。が、それは彼女が前より少し痩せ細った気がしたための、違う意味でのものだったかもしれない。
『突き放したのは私だから、会いたいって言い出せなくて……ごめんね』
『いいよ、そんなこと』
そんな可愛いことを言ってくれるのが嬉しくて、前みたいに思いきり抱きしめたくなった。本当にそれくらい、愛おしくてたまらなかった。
『——なんでそんなに、手術を受けたいんだ?』
邪念を振り払うべく、早急に話を切り出した。彼女は微笑んで、しんしんと降り積もる雪を眺めていた。その哀愁を帯びた横顔が、同い年の少女のものとはとても思えなかった。
『私ね……まだ生きたいの』
色の薄い唇を震わせて紡いだ言葉は、あまりに矛盾していた。疑念を抱いたものの、彼女が人生を諦めていなかったことには安堵した。
『じゃあ、手術はやめた方がいいんじゃないか?』
彼女は、首をゆっくりと左右に振った。
『数ヶ月とか、そんな話じゃない。高校生になって、大学に行って、就職して……できれば結婚してさ、子供が産まれて、その子たちを立派に育てて、おばあちゃんになって……全部、私の夢』
夢というには大袈裟すぎる、普通の道。それでも彼女にとっては憧れで、理想の生き方だった。
『手術を諦めて数ヶ月生き延びたとして、それって何になるの? 私の夢は何一つ叶わずに、ここで死を待つだけ? そんなの嫌。たとえ手術が失敗しても、夢に挑んで死ねるなら、何の後悔もないよ』
口調は弱々しいけど、その裏側には誰よりも力強い思いがあった。
『それと……お父さんとお母さんには、恥ずかしくて言えなかったんだけどね——』
視線を、窓から自分の手の甲に移した。どこか悲しそうな彼女を、ベッドテーブルに座るむーむーが心配そうに見つめていた。
『自分が望む道を、後悔無く進む。そんな人生を送るのが、今の無力な私にできる唯一の親孝行かなって』
今度は照れくさそうに笑った。俺は間違っていた。どんな恐ろしい病にも侵せないものがあるのだと、俺は知った。
その日の夜、彼女の両親を訪ね、事の顛末を伝えた。話を進めるにつれて曇っていく二人の表情が忘れられない。
『あの子が、そんなことを……?』
『はい。お二人には、恥ずかしくて言えなかったらしいです』
父親は、激しい後悔と感動の念が混ざった大きなため息をついた。母親は俯いて、目に溜まった涙を必死に堪えていた。
『俺は頼みを聞けなかった身ですが——』
俺は立ち上がって、頭を下げた。形は違えど、前日の彼女の父親に似ていた気がした。
『彼女が望んだことです。どうか、考えてみてもらえませんか?』
『優真くん……』
顔を上げると、二人は未だ動揺を隠せない様子だった。
『……もう一度、三人で話してみるよ。優真くん、本当にありがとう』
昨日とは違う、どこか安らぎのある声。彼女の意思を頭ごなしに否定していた二人だけど、それは娘を想うが故。ただ、彼女の幸せを願っていただけなんだ。
夢叶う夜明け〜beyond the miracle〜 星合みかん @hoshiai-mikan
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。夢叶う夜明け〜beyond the miracle〜の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます