五話 盗人・おきね

※作中、不快さを誘起させるような描写があります。この文でご不安を抱かれた方は当話を飛ばしてください。

(元々各話で仇討ち完結している為、当話を未読でも今後の展開等に影響はありません)


※特に救いのない話です。(過去掲載分したものの、誤字修正したものの再掲です)




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「助けてくれッ」


 ぎゃあ、と叫んだ男は、障子を巻き込むようにして斃れた。これで全員か、とおきねはサッと見回して、すぐにに背を向けた。

 先に来ていた仲間の手に掛かり、男の家族は既に事切れて虚空を見つめている。おきねは乱暴に間を通りぬけて、家のものを乱暴に袋に詰め込んでいく作業に移った。

 売れそうな絵やら、着物やら、簪やら。

 あとの目ぼしいものは仲間が既に運び出しているらしいが、それにしても目立ったものが見当たらない。


(しけてやがる。とんだ損だな、コリャ)


 ちらと仲間を見るがそちらも収穫が乏しいらしく舌打ちが聞こえてきた。畳を剥がして、壁を壊して、乱暴に彼方此方をひっくり返すように漁っても、思ったほどの成果はなかった。

 押し入ること自体は楽だったのだが、これではただいたずらに危険を冒しただけではないか。がっくりと肩を落とした。

 そのうちに、ひょろろろ、と尾を引く口笛────撤退の合図があって、ろくすっぽ収穫もないまま立ち去る羽目になった。余計に残って、変にお上の手先に捕まるよりはずっとマシだが、どうにも苛立ちを抑えられない。


(くそ、くそ、くそ! 畜生、情報を流してきたアイツのせいだ。よくも俺たちを騙しやがったな。なァにが医者先生の家だからたんまりと金目のものがある、だ。碌なもんありゃしねェじゃンか!)


 情報を流してきた下働きの男を紹介したのは他の仲間であって、おきねではない。どうせ死ぬのはアイツ、おきねはそれで罰せられることはないのだが、機嫌が悪いであろうかしらのことを思えば、やはり気持ちは重くなるばかりである。帰ったらきっと八つ当たりされるに決まっている。

 やってられるか、と舌打ちをする。


 裏口から出ると、粗末な衣に冬の風が強く吹きつけてきた。辺りにまだ人の気配はない。素早く暗がりへと滑り込む。

 動くたびに埃や乾いた空気に咳が出る。咳き込む度に気道がひどく痛むが、構わず足を動かし続けた。目眩も酷いが、きっと風邪でも引いたのだろうと、医者の家にあった薬包をいくつか取り出して口に放る。苦い味が広がり、顔を顰めた。



          *



 おきねは十七になるまで何も知らずに生きてきた。

 貧しい村で生まれたおきねは、物心がつくかつかないかの、まだ三つか四つの頃に口減しに売りに出された。人買いの男がやってきた日の記憶はまだ夢に見るのに、その頃の名前はとうに忘れて、家族だった者の顔すら覚えていない。

 ひどく嫌な気持ちだったことだけは覚えている。

 しかし、妓楼に売られていく道中。

 幸か不幸か、おきねと人買いの男は賊に襲われたのである。人買いの身形みなりがそれなりに良い割に、伴の者の一人も連れていなかったのが悪かったのだろう。比較的治安がいい道だとしても、いつだって例外はある。

 お頭の目に留まった。

 結局男は殺されて、けれど、おきねだけは「この顔なら幾らでも使いようがある」とそれだけの理由で命を見逃された。


 彼らに拾われて、おきねと名付けられて、その後はずっと使いっ走りのように生きてきた。言われれば押し込みから殺しからなんでもやった。好きでもない男に好きだと囁くことも何度もやった。

 彼女にとっては盗賊たちの近くが世界の全てであった。故に彼女の世界はひどく狭いものである。


 生きる為には奪うしかない。

 奪われてきたならば奪い返せ。

 それを世の中の常と理解している。おきねは、だから、躊躇することなく奪うことができるのだ。おきねはだから。躊躇することを知らないばかりに、それが当たり前であるが故に、彼女は表情すら変えずに人を手にかけるようになった。


 ある頃からおきねはほっかむりに脚絆を履いた青年のなりをしている。理由は簡単、。女の姿で、立場が低いとなればどう扱われるかは嫌と言うほど理解していた。

 ある時点からは男として、おきねはお頭から与えられた匕首あいくちを振り回すようにして生きてきたのである。

 これまで苦労してきた己たちは、苦労それを知らぬ人々に何をしても良いのだと思っていた。傷ついた己たちは、それを見ようともせぬ人々に傷を刻んでも良いのだと。

 おきねはずっとそう信じて生きてきたのである。


(そうだ、おれたちは当然のことをしてるんだ)


 それなのに、とおきねは唇を噛んだ。はどういうことなのだろうか。

 根城への帰路。道を辿ってすぐに錆びついた生臭い匂いに気がついた。嗅ぎ慣れた血の匂いだということはすぐにわかる。すぐにぎゃあ、と悲鳴が聞こえた気がしてその方へ走れば、仲間のうち何人かがそこで骸となって重なっていた。

「おう、来たか」


 その中央に立つ老人と視線が絡む。


 白髪を結えた老人は大小刀を腰に下げて、随分と偉ぶった衣服で身を固め、いかにもおきねとは住む場所が違うことだけが伝わってくる。見た記憶もなければ会った記憶もない顔が睨んでくる不快感たるや!

 この男に恨まれる筋合いはない。

 仲間だって、おきねだって、命は惜しいから襲う相手は選んでいる。ぐるりと思考を巡らせてから、きっと見ず知らずの侍の、勝手な因縁で仲間を殺されたのだと判じた。

「おい、テメェだれだ」

見たところ役人でもなさそうである。

 誰かもわからぬ男に己の知ってる限りの世界を壊されて、喜ぶおきねではなかった。怒りに声を荒げる。

「だれだって聞いてんだ!」

「……儂の名は蒔田まきた雨露亮うろすけ、恨みに呼ばれて参った次第にて」

老人の瞳が真っ直ぐにおきねを射抜く。けれども口調は世間話をするような飄々とした具合である。苛々と、おきねは不機嫌を隠そうともしなかった。


(恨み? 仇討ち? そんなもンで腹は膨れないじゃないか。死んだやつの恨みなんざ晴らしてなんになるってンだ)


 第一、彼女にとって当たり前のことをしてきただけなのだ、己に咎められる所以を見つけられるはずもない。己なら恨み憎しみが募っているが、こんな男に頼った覚えもない。

「よれたジジイなんか誰が呼ぶもんか」

「否や、呼ばれた。主に殺された者に呼ばれたのだ」

「──はん、このおれに、仇討ちだって?」

おきねは吐き捨てる。気に入らない、何もかも。


「楽で良いよなあ、他人任せの仇討ちなんざ、手前の仇くらい手前自身でとれってンだよなァ? なあ、おい、仇討ち代行が許されるなら、おれの方こそ仇討ちが許されるべきだろうさ! ジジイ、おれの仇討ちもしてんのかよ!」

「……誰に、だ」

老人の瞳が光る。

「何にと言った方がよいか。何に仇討ちを願う」

「そ、そんなの、おれは」


強い光に、おきねは思わずたじろいだ。しかし何が憎いかと言われればわかりきっている。


「そんなの、この世のすべてに決まってンだろう! おれを助けてくれなかった何もかも!」

「そうか」

「な……なあ、そうだよ、あんた、一体幾らなんだ? 仇討ち屋なンだろ?」

「然り、しかし幾ら、とは」

「おれも金を出せば、おれを殺そうとしたクソな奴らを殺してくれんだろ? 幾らで何人殺せンだ? テメェにおれ殺しを頼んだそいつらは幾らだしたんだよ。それ以上を出すからよォ、おれなんか狙わずに全員返り討ちにしてくれよ」

「金は要らぬ。ぬしの仇討ちも買わぬ。儂はただ、晴らせぬ恨みを貰い受けるだけよ」

「なンだよ、それ」

おきねは益々不機嫌に顔を歪ませた。

(なんだよ、結局金持ちの道楽かよ)

暇な金持ちがそれで人を助けた気になっているのだろう。そう思うと目眩を覚える。嫌悪が吐き気となって込み上げる。


 暇人はいい。生きることに必死にならない時間を持てるのだから。目についた人を手軽に助けるだけで愉悦に浸り、さらに弱い人を踏み躙って快楽を覚えるような、どうしようもない道楽者。そういった人間は少なくない。


「果たせぬ仇討ち果たすのがこの爺の役じゃ。此度はおぬしがその相手役というだけの話──」

「はん、金持ちのお侍様はホコリの為に人を殺してご立派だなァ!」

「……誇りもなにもなかろう、ただの人斬りに」

「そンなら同じじゃねえか!」

おきねは吼える。道楽で邪魔をされてはたまらない。

「おれは生きるために人を斬る、ジジイもそうで、おれの家族だって生きるためにおれを殺したんだって頭は言った! その辺の奴らも生きるために誰かを殺してンだろ? あいつも、おまえも、見て見ぬ振りして立ち去った奴らもみんなみんなみんな人殺し! それなのになぜだ」

おきねは老人を睨みつけた。

「なぜおれだけが仇討ちなんぞに遭わにゃならンのだ!」


 老人は何も答えなかった。



          *



 その日から、おきねの行く先々に老人が現れるようになった。

 押し込みをしようとすれば邪魔をされる。

 山道に迷い込んだ人を襲えば止められる。

 その度に仲間は何人も斬られた。根城は瞬く間に空っぽになってしまった。


 けれどおきねのことは中々斬らない。おきねがやり返そうとしても煙のようにあしらって、また人を害そうとする時になると何処からか現れて邪魔をする。

 仲間を斬る太刀筋から見て、その剣はおきねには追いつかないところにいるのはわかる。それでも牙を向かずにはいられなかった。

「おい、おれと殺りあえよ、卑怯だぞ爺!」

「ふむ……卑怯か」

「おれへの復讐だろ! なんであいつらを殺した! 俺の家族だったのに!」

「簡単なこと。この恨み屋が頼まれたのは、おぬし一人だけではないということよ。依頼主の家族を奪ったという貴殿らすべての始末、それが今際に託された此度の願いじゃ」

「くそが、くそが、くそが!」

おきねは叫んだ。


 老人が現れてからというもの、おきねは碌に稼げなくなっていた。老人を追いやっても八丁堀が来る、分が悪ければ逃げざるを得ない。

 日々木の皮や野草を噛み締めるか、精々その辺の家の軒先にぶら下がった野菜をかっぱらう他、腹を満たす術がなくなる。

 医者の家にあった薬を飲んでも、咳は止まるどころかむしろ身体のあちこちに不調が現れたことも、おきねを苛立たせた。飲みきって、既に手持ちももうない。身体のあちこちが痛むが、構わず老人に噛みついた。


「誰だ、誰だ、誰だ! くそ、教えろ、こんな馬鹿げたことをテメェに言いつけたのは誰だ!」

「さてな。おぬしにも覚えのひとつやふたつ、あるのではないかな」

「くそ、くそ、くそ! わかるもんか!」

頭を掻きむしる。思い出せ、思い出せ、と記憶を漁る。そいつを先に始末すれば諦めるかも知れないと記憶を探る。どうにか引っかかる直近の記憶を引っ張る。顔までは、思い出せない。

「あの時のガキか⁈ 畜生、こんなことなら妹の方も逃すんじゃなかった! それとも村の婆か⁈ 町外れの旅の女か! くそ、くそ、くそ、どいつもこいつもおれにとっては有象無象だ、わかるもんかよ!」

「ほう……覚えは山とあるようだが、それでも尚、仇討ちは不服と申すか」

老人が顎を撫でた。おきねはキッと目を剥く。

「ああ、気に入らない! おれだって苦しかった、辛かった、助けてもらえなかった! 誰も聞いちゃくれなかった! なのに、なんで、なんでそいつらだけ恨み辛みを聞いてもらえるんだよ……ッ! なんでおれはそんな当たり前のことすら、受けられないんだよ!」

「何故か────」

「不公平だろう、おれだってなにもかも奪われたんだ。そンならなにもかも奪うしかないじゃないかッ!」

啜り泣く声が落ちる。


 おきねは何も知らなかった。

 おきねの当たり前は、日常は、常に奪うか奪われるか、生きるか死ぬかだけだった。

 当たり前に日の中を歩く人が、家族と微笑み合う人が、当たり前な平和を当たり前に享受する人が、ひどく気に食わない。その範疇に生きられない人を映さないその瞳が、映したところで勝手な憐れみか嫌悪しか浮かばないその瞳が、不愉快で堪らない。

「おれの叫びが小さかったのか? おれが強く願わなかったとでも思うのか! おれだって、当たり前に生きたかったさ! おれの仲間だって、こうしなきゃ生き残れなかったんだ!」

「ああ──そうであろうな」

「わかるもんか、テメェなんぞにわかるもんかよ! 立派なべべ着て、当たり前に自由に生きてきた爺なんかに! なんでそんな奴らのせいでおれたちが死なねばならんのだ!」


 おきねは口の中に広がる鉄っぽい味に顔を顰めた。咳を繰り返しながら、吐き出す。

「おれの思いが弱いわけがないだろう」

「そうであろうよ────」

「こんなの不公平だ」

「ああ、不公平だな。生というものはあまりに」

老人の目が細まる。光が揺らいだ。

「もしも世の理が、ひとの思いの強さひとつでどうにかなるのであれば、もっとマシな世になっておるさ────」

どんなに強く願っても、思っても、届かぬものはあると、低く溢れる言葉。おきねにその真意はわからないが。


 確かに生まれた、恨み屋の隙。


 おきねは跳ねるように身を正すと、匕首を腰に構えた。老人の視線がくべられる前に強く地面を蹴る。身体ごとぶつけるようにして、老人の骨張った身体に刃を突き立て、


「くそ!」


しかし老人はするりとそれを躱した。

 空を切る刃を、老人は無表情にはたき落とす。踏まれた刃はびくともしない。おきねは苦々しく見上げ、吐き捨てた。

「くそが、くそが、偉そうに何だかんだ言いやがって、どうせ生かす気なんざ最初からねぇンだろ! 殺るならさっさと殺しやがれ、クソジジイ!」

「今ではない」

「なんでだよッ!」

「まだ、聞いておらぬ」

「何をだよ、話すことなんざ」

「ここに在るは恨み屋の蒔田雨露亮────」

恨みに呼ばれてやってきたのだ、そう、蒔田は呟いた。

「故に、お主に興味が湧いた。此度の仇討ちの、仇たる娘の腹に渦巻く、その恨みに。それを見てからでも遅くはなかろう」

「……ンだよ」

おきねは毒づいて、咳こんだ。錆びついたような、鉄の味が広がる。視界が霞む。


(テメェを満足させてから死ねってか、クソが)

 

 力量差は明らかだった。けれども未だその剣をおきねに向けていないのもまた、事実。

 すぐに殺す気がないのならば油断させて、その隙に逃げるのも悪くはないかと算段をつける。仲間を斬った動きからして、逃げられるかどうかは大博打になるが。

 咳を一つ、二つ。


「……テメェらはいつだってそうだよな。おれたちの不幸で安心したいンだろ? 『おれらは幸せです』ってな」

匕首から手を離して、二歩三歩と老人から距離をとる。その視線はおきねを縛り付けるようではあったが、動くのを咎める気はないらしい。女一人どうとでもできるのだと思っているのだろうと勝手に決めつけて、またおきねは不愉快だと吐き捨てた。

「その眼、嫌いだ。やめろよ。誰だってそうさ、その場だけの薄っぺらい憐みだけ投げつけて、やれありがたがれだとかさ、己は善人だって面ばかりしてさ! ナァ、お偉い爺さんはこのおれを救ってくれンのかよ」

老人は答えない。ただじっと、おきねの言葉を聞いている。この世への呪詛を聞き定めている。

「前におれの恨みが何かと聞いたよな? おれはこの世だと答えた、この世にのうのうと生きてる奴らが全員嫌いだと! それが全てだ! テメェを面白がらせる何かなぞ、そンなモンどこにもあるものか!」


 帰る家も家族もなく。

 当たり前に食う物も金の余裕もなく。

 何かをする為の知識もなく。

 命のほか、何もなかった。当たり前に助けてくれるような存在もいなかった。生きるために目を光らせて、使えるものは全て使ってきた。生まれた場所が悪かったのか、時代を間違えていれば当たり前に生きられたのか。蔑まれて踏み躙られて弄ばれて、その世界で泥水を啜って生きて来た。

 それが盗人のおきねという女である。


「この爺も、おぬしも、誰も彼も、変わらぬ。生きる人は他者に不公平を与えるのは同じよ」

「は?」

「いや、独り言よ。しかし、おぬしが不公平を与えた相手は、おぬしから幸福を奪った奴らではなかろう」

「ああ、違うさ、違うけどおんなじさ! どいつもこいつも見下すだけの、おんなじ人間だろうが! おれは奪われたンだ、だから奪い返しただけだ!」

血を吐くように言葉を紡ぐ。めらめらと憎悪に燃える。

「アンタだって人殺しだ。なあ、何でアンタは許される?」

「許されることなどないだろうよ。おぬしも、この爺も、人の願いを踏み躙る者には、赦しなどあるわけがない」


 ふと。

 老人は頃合いか、と呟いた。

 その言葉でおきねは己の身体が震えていることに気がつく。やけに頭も、足も、何もかもが重い。また、咳き込む。掌に広がる色を見て、顔を歪めた。


(いつまで経っても斬らないくせに、退路ばかり絶ってくるかと思ったら、これを待っていたのか。おれが、手を下す前に死ぬのを)


 おきねが死ぬのに、手を出すまでもないと。

 その身体は既に様々なものに侵されている。じわじわと苦しみを与えて、逃げ道を目の前で絶って、この瞬間を待っていたのだろう。

「ははは、そういうことかよ、クソが」

「……悪く思え。可能な限り長くと願われてはな。断る間もなかった」

「は、クソな願いだな!」

随分と前、仲間の一人がひどい咳をして死んだことがある。何かの病で血を吐いて死んだ仲間もいる。だから医者の家にあった薬をあれもこれもと併せて飲んだのだが、どれも効果などなかった。苦いばかりで、余計に気分が悪くなるばかりだった。

「……なんで、おれだけこんな目に遭うんだよ」


 自分を売った家族はその金で悠々と暮らしてるンだろうかだとか。なぜこんなところでわけのわからない男にじわじわと殺されないとならないのだ、とか。当たり前を語る人々の中になぜ自分はあないのだ、とか。

 不満もわからないものもたくさんある。

「おれが何も知るわけがないじゃないか……」

それが悪いことかよ、と恨みをこぼせば、老人は頭を振った。

「無知は罪ではない。誰しも知らぬ瞬間はあるのもまた事実──故に、無知を盾に知ろうとせぬのが罪だ。無知に胡座をかくのが罪だろう」

「うるさい、うるさい、うるさい! だってッ」

おきねは項垂れた。

「だって、誰も教えてくれなかった……いつ知れば良いんだよ、誰も教えてくれねぇのに、そのキッカケすらわからねぇのに、何を知らねえのかを知らねえのに!」

こんなの歪んでいる、と咽ぶ。知らないことすら知らないのに、と。

「死にたくないから、こうやって生きてきたんだよ、おれは、なあ、いやだ、死にたくない」

「主に殺された者たちもそうであったろうな」

かちりと、鯉口が鳴る。乾いた笑いが溢れた。


「さて、おぬしには二つ、道を示そう。ひとつ、恨み屋の手に掛かるか。ふたつ、そのまま病に身を喰われるか」

「……なんだよ、やっぱりテメェが殺すんだな、おれを。約束が違うんじゃねえのかよ」

「さぞ、恨めしいだろう」

「恨めしいに決まってる! テメェさえいなきゃ、おれは、おれたちは明日に行けたのに!」

気がつけばおきねは泣いていた。

 このまま死ぬのは嫌で、しかし抗う術を知らない。与えられた道は、結末は一つだけだ。

「ああ、くそが、何処にでもいけたさ! おれは、だから、悔しくって堪らない……テメェさえ殺せたら、何もかも変わるだろうに!」

「ならば、主も剣を持てばよかろう。この心の蔵を狙えばよい。いつも、おぬしがやっていることを」

「……気でも狂ったかよ」

「届けばおぬしの願いも叶う。届かねば、この爺が願いを叶える。それだけの話よ」


 そう言って、老人は匕首から離れた。

 おきねはよたよたと、それに近づく。意識はどろりと重たいが、動けないほどではない。なにより病に鞭打って動くことも初めてではない。いつか流行病に罹った頃に比べれば、まだまだ自由に動ける。

 拾い上げた匕首を両手で支える。咳を何度かして、息を止めた。嘔吐きながらもまっすぐに老人を見る。どんなつもりがあろうが、この老人さえ消せたら、変わるかも知れないと。

「うぁああああッ」

匕首を構えて、おきねはがむしゃらに突進していた。老人にむけて、ただ一直線に近づいて。


 一閃。


 星の煌めきが如く眩しいものが真一文字に走ったのは見た。

 高い風切り音は聞いた。

 しかし、意識は既に断ち切られ、おきねがその正体を理解することはない。

 一歩、たたらを踏んで。

 次の一歩でどさりと斃れた。

 盗人のおきねは、何も知らないまま、根の国に落ちていく。


「……よく眠れ」


 蒔田雨露亮は素早く血を払うと、ゆっくりとそれに背を向けた。さらさらと、冷たい風が吹き付ける中、立ち込めた霧がその影を覆って、次の瞬間には消えていた。




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習作 恨み屋蒔田雨露亮 井田いづ @Idacksoy

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