四話 剣士・相澤鉄舟斎

 随分と長いこと釣りをしていた。


 齢六十ばかりか、男がひとり小舟に揺られていた。しゃんと伸びた背筋、鋭い眼光、高く結えた髷、どこにも衰えを見せない男はただ静かに座している。


 垂らした糸は一向に揺れず、男の意識は先ほどから釣り以外のものへと向いていた。静かな水面に映るのは、遠い過去の虚像だ。さざめくのは聞こえるはずのない声だ。しかし歳を重ねる毎にそれはひどく曖昧なものへと変じていく。決して重みが変わったわけではないのに、霞の向こうへと消えていく。


「あれから無為に長生きをしてしまった────」


男は悔恨を口にする。いっそのこと、後を追おうとしたこともあった。しかし男にはそれができなかったのだ。死ぬべき場所はそこに在らずと──。

 剣を取り、求められるがままに振い、名を上げた。しかし、一番求められた時に活かせなかった。その悔恨は幾年重ねようとも晴れることはない。


 ふと。


相澤あいざわ鉄舟斎てっしゅうさい先生────」


 しずかな空気を割くように声が響いた。

 一気に思考が引きずり戻される。


 見れば岸辺に、ひとり男が立っていた。不思議なことに、その気配すら感じなかった。

 見覚えのない男である。年は自分よりも上か、それとも同じくらいか、いまいち読みきれない。静かな声なのに、ここまでよく通る声でもある。不思議な昏い光が二つ、男を──相澤鉄舟斎を捉えて離さない。なんとも不思議な老人であった。


 少しだけ迷ってから、鉄舟斎はゆっくりと舟を漕いでそちらへ向かった。どのみち、今日はもう釣れそうにない。

「いかにも相澤鉄舟斎は儂だが。さて、どなたかな。儂に用向きが御座るか」

「それは手前てまえ様次第にて──」

「おう、儂次第とな……」

 鉄舟斎は眼光鋭く目の前の男を見た。


 さる武家の指南役を長く勤め、剣豪とすら呼ばれた鉄舟斎は、これまで幾度も命を狙われてきた。まつりごとでの意見の相違、最強を目指すものたちの腕試し、打ち負かしてきた数々の人々による怨恨──そういった者の襲来には慣れていた。そういった輩の内には不意打ちを好む者もいる。或いは立ち合いを求めて追い回してくる者もいる。この爺もそういう手合いかと思ったが、すぐにおや、と考えを改めた。は、そういう臭いではない。


 纏う雰囲気からして、それと違う。


 鉄舟斎は疼いた好奇心を抑えようともせず、短く尋ねた。

「貴殿の名は」

「これは失礼。それがし、蒔田まきた雨露亮うろすけと申す」

「はは、蒔田殿か。貴公もなかなか、変わった爺だな」


かかか、と鉄舟斎は笑った。のしのしと桟橋から陸に上がると鉄舟斎はどかりと土手に座った。隣に来い、というのに頷き、蒔田も鉄舟斎の左に腰掛ける。


「して、この釣り人に何の御用かな。何処ぞから儂を呼びに来たというわけでもあるまい」

「恨みを売って欲しい」

「なに? 恨みを?」

「然り」


蒔田は短く呟いた。


「貴殿には果たせておらぬ恨みがあろう」

「…………」

「無理強いはせぬ。ただ、果たせぬ恨みなのであれば、この爺に売るのも一つの手だと言うこと──」

無言の鉄舟斎を窺うその瞳。鉄舟斎は慌てて頭を振る。


「……や、あいすまぬ。恨みを売り買いするか。これはまた聞いたことのない稼業であった故にな……。ふむ、蒔田殿は恨み事を売って欲しい、その代わりに我が恨みを晴らしてくれるのだな」

「然り」

「ならば売ろう、是非売ろう」

鉄舟斎は些細も聞かずにそう言った。蒔田もすぐに頷いた。

「では売られた。して、その仇とは……」

「儂だ」

「ぬしか」

「おうとも」

「おう」


蒔田は顎に手を添えて、傍の男を見る。蒔田雨露亮、恨み屋として渡り歩いて長いが、こう言った仇討ちは聞いたことがなかったのである。


「それがしに恨みを売った相澤鉄舟斎先生自身が、討つべき仇であると。それはまた奇怪な……」

「おや、いけぬか? 我が家族の仇ぞ」

「……いや。この爺と巡り会ったのだから、間違いはないのであろう。恨みを売られた以上、話を聞かせていただきたいが、よろしいか?」

「無論じゃ」


 鉄舟斎はふう、とやや大袈裟に息を吐いた。

「蒔田殿には家族は」

「居らぬ」

「儂にはな、妻がおった。ヨシノという名でな、儂にはもったいないくらいの女だった。それから娘が一人おった。ヤエという名でな、少しばかりお転婆が過ぎた子だが、それでも愛らしい娘だった」

遠くを見る。いまだに夢に見る。あの日、己が別な風に動けていたのなら、と。


「蒔田殿は儂の名は知っておられたな?」

「この辺りで剣を握って、相澤鉄舟斎の名を知らぬとはありえない。剣豪とも呼び声高い──鉄舟斎先生自身が、それはわかっておられるかと思うが──」

「はは、これはこれは。……その通りじゃ。儂は剣の才だけはあってな。かれこれ負けたこともほとんどないのだよ」

「ほとんど、と」

「剣の打ち合いだけならば、ない。しかし、我が妻と娘を喪ったあの日────負けてはいけないあの瞬間に、儂は勝負に負けたのだ」

「ほう……それは分からぬものでもない。わかるが、先生が斬ったのではあるまいに、何故、貴殿が仇になる」

「あの日、儂はのだよ。我が命を狙う者がいる、そう告知もあったのに、じゃ。いつだってその危険を知っていたのに、じゃ。余計に不安にさせることなどないのだと、その前に先に奴らを始末すれば良いのだと、儂は警告することもせずにあの二人のもとへと。儂の力があれば、迅速に禍根を絶てるのだと慢心して────ああ、ほとんどはそうやって斬り捨てた。しかしな、家に帰れば二人はすでに骸となっておった…………」


鉄舟斎の瞳が濁る。


「奴ら、先回りしておったのだな。無論、二人を手にかけた者は全て斬ったとも。指令を出した輩も斬った」

「そんな騒ぎとなれば鉄舟斎先生もお咎めなしとはいくまい……」

「否や、儂はなんの因果かお咎めも受けなかったのだよ。あの事件自体、なかったことにされたのだ────そう、。ならば、あの日の我が妻子の死はなんだったのだ。そんなに簡単に無くしてしまえるもの故に、我が傲慢さ故に、あの二人は死んだというのか────」


鉄舟斎は顔を覆った。


「あの日、妻と娘を死に誘った者はまだ一人残っておる。咎で死ぬこともなく、だらだらと生き延びた儂じゃ。儂があの二人を唯一逃し、守れたのにな────儂はそれをせなんだ。不安がらせてはいけないと不要な格好をつけてな、この力を驕ったゆえに」

「それで、自身を仇と言うか」

「おう。儂はそれから後を追うこともしなかったのだ。剣に生きたならば剣に死にたいと思うてな。これまでと同じように剣を握り、襲いかかる輩は打ちのめし、しかし誰の刃も儂の首に届かず、ついこの年まで生きてしまった──」

「……この仇討ちは償いのつもりであろうか」

「いや」

「否や、と」

「おう」


蒔田は悩む素振りを見せると、鉄舟斎は一転、からりと笑った。


「なあに、此処で俺の始末を頼むのも、償いなぞではない、儂の為だ。儂は妻と娘の元へ謝りに行きたい。赦されたい。しかし矜持が邪魔をしてどうにもこうにも動けぬ。そう、儂はどこまでも自分本位な男だからな────どうだ、蒔田殿。斯様な仇討ちでも、やってくれるか」

「なるほど、なるほど……左様な次第か」

「頼む、己では達せなかったのじゃ。剣に生きた以上、剣に死にたいと宣うのじゃ」


「……この爺は、人の晴らせぬ恨みに呼ばれる。明確な仇がいて、それを討ち取りたいという願いに誘われる──蒔田雨露亮恨み屋とはそういう風に、在る」


蒔田は考えるような素振りを見せたが、やがて、

「なれば貴殿の頼みだけ聞かぬというわけにもいくまい。────承知した」

深く、深く、頷いた。


 鉄舟斎は早速じゃ、と立ち上がった。ちら、と蒔田の視線が持ち上がる。

「そうくこともなかろうて、鉄舟斎先生や」

「急くのも致し方なかろうて、蒔田殿よ」

「仕方なきことか」

蒔田は呟いて立ち上がる。そのまま二人並んで、桟橋から離れる。


「良いのか」

「良いのじゃ」

「ならば、この爺が言うこともなかろう」

「おう。時に蒔田殿。真剣での立ち合いは経験御座ろうな」

「うんと前に」

「うんと前か」

「なに、気にすることでもあるまい。我らのすることはひとつ、斬るのみじゃ」


蒔田は言う。


「──蒔田殿、儂を斬ってくれよ」


それに請い願う、鉄舟斎の声。すぐに是、と返す。


「無論、その為に此処に在る」

「儂は手加減を一切できぬ。ぬしが儂を斬れぬなら、儂がぬしを斬ることになる。すまぬが、それが相澤鉄舟斎という男なのだ」

「斬る」

「──ああ、そうか、長かった。儂は随分と長いこと、己を斬ってくれる男を探しておったのだ……」

鉄舟斎は安堵に表情を緩める。手を抜くつもりは微塵もない。それでも、剣だけを握り生きてきたからこそ、この結末は読める。

 終わりは、そこに在る。



+++



 相澤鉄舟斎と蒔田雨露亮の二人は対峙している。

 ところ、先ほどの河からほと近いところ──人影はなく、さわさわと木の葉と河が囁くのみのその場所で、ふたりの老人は睨み合う。

 鉄舟斎はすでに刀を抜き放ち、下段で構えた。向き合っているだけでにわかに額に脂汗が滲む。蒔田雨露亮の剣気に呑まれそうになるのを気力で押し返す。それでも並々ならぬ気に唾を呑み込む。


──まるで、鬼ではないか。


剣の鬼。復讐の鬼。そのような異物であると言われた方が納得する。

 蒔田雨露亮は、深い深い沼のような男であった。対峙してさらにそれを感じていた。覗き込んでも底が見えない。一度落ちれば二度と上がれぬ底なしの沼。このような目をした人間を、他に知らない。


──或いは地獄の獄卒が、痺れを切らして儂を迎えにきたか──。


抗ってやる、と鉄舟斎はゆっくりと呼吸を合わせた。己が望んだ仇討ち、しかしこれほどの相手と斬り合って生き延びたのならば、それはそれで今後は有為なものになろうという気持ちもある。人の生とは不可能に打ち勝ってこそのものであるのだと。


 一瞬で勝負はつく。


 鉄舟斎は蒔田を見据えたまま、ゆっくりと下駄を脱ぐ。合わせるように、蒔田も履き物を脱いだ。刀は抜かず、居合の構えである。


 視線が絡む。昏い双眸に己の姿を見る。映り込んだ己の、その傍に立つのは──。


「なんと、」


ありえぬ光景に言葉を失った。しかし、すぐにそれは隠される。目の前の鬼が声を発する。


「参るぞ、鉄舟斎先生──」

「……おう、こちらも」


律儀に交わした声。思考から懐かしい幻影を追い出して、鉄舟斎は鋭く刀を振り下ろしていた。


 にわかに散る光、音。既に迫っていた蒔田の一太刀を受け流し、身を捻り弾き返す。疾い、重い。しかし、捉えきれぬ程でもない。鉄舟斎がすかさずに踏み込んだ一閃────。


──上かッ!


 鉄舟斎の刀は蒔田を捉えきれずに空を走った。既にそこに蒔田の影はない。慌てて一歩跳び退いて、降り注いだ次の一打はかろうじて片腕で受ける。重い──受けきれずに肩口の肉が断たれ、それでもは手離さなかった。

 身を捻る。たたらを踏む。脂汗がじわりと滲む。押し返して、蒔田が跳び退く。


 河の音が人の声のように耳奥で反響していた。


 退がった足の裏が濡れた地面を踏んだ。

 その冷たい感触に、古い思いと、忘れかけていた記憶が黄泉還ってくる。


 いつの頃だったか、まだ幼かった八重は泥遊びが好きだった。土まみれになって、無邪気に笑っていた。ヨシノは「お淑やかになさい」と嫌がったが、鉄舟斎もそんな娘と一緒になって土まみれになったこともある。そうすると二人揃って妻に怒られる羽目になる。「もう、あなたまでなんてこと! 止めてくださいまし!」ピシャリと言い放つ妻の声。

──ああ、ああ、懐かしい。


 随分と長いこと思い出せなかったのに、頭の中でぐるりぐるりと景色が巡る。


 どれも懐かしい、既に届かぬ記憶だ。


 ああ、もしも。

 もしも、目の前に立つこの鬼ほどに、あの日の己に力があったのなら。これほどの男があの日、いてくれたのなら。此処まできてようやく、己の届かぬ剣に相対するとは──。この年になってようやく、こうして向き合うことになろうとは。


──否や、そうではない。あの日、剣ではなく家族の手を握っていたのなら。きっと、何かが違っていただろうになあ。


 鉄舟斎は届かぬばかりの思いに自嘲するほかない。

 鉄舟斎は蒔田そこに鬼を見た。

 剣の鬼だ、強く、圧倒的で、それでいてこの鬼はなんとも優しい表情で鉄舟斎を見る。迷いなき剣筋で鉄舟斎の迷いだらけの生を斬り捨てる。

 鬼が跳ぶ。鉄舟斎も動く。


────刹那、風が、泣いた。


 鉄舟斎の刀は空を斬る。代わりに、蒔田の放つ銀色は鉄舟斎の身体を袈裟斬りに走っていた。低く呻き声を漏らす。顔を歪め、ごぼりと湿った音を立て、刀を地に突き刺し、どうにか立っていようとするのだが、それも上手くいかない。

 霞む視界、まわる視界、そこに懐かしい景色を見る。さざめく風に、懐かしい声を聞く。ああ、これが最期なのだと、鉄舟斎は思い至る。


「蒔田、殿、お見事……」


次の瞬間には身体がぐらりと揺れていた。目の端に水面に映る己が映り込んだ。

──なんと。

己は確かに嗤っていたのだと、鉄舟斎はどこか遠いところで知る。長い長い旅路の唐突な終わりは、どこか晴れ晴れとした顔であった。

──なれば、良い。


「鉄舟斎先生も、お見事……」


蒔田は呟くと、素早く血振りをした。どさりと遅れて斃れる鉄舟斎を真正面から見る。



+++



 川を遡った先の無人の小屋。その裏手に小さな墓が三つ並んでいる。

 うち二つは古いが、よく手入れされていた。端に添えられた一つだけ真新しい墓標は、今し方作られたものである。木の柵には相澤鉄舟斎との文字が刻まれ、目の前には小刀が突き立てられていた。

 蝶々がふわりとそこに留まるのを、一人の老人が眺めている。素人造りの墓標に向けて、手にした野花をそこに添えながら、


「ひとつ、貴殿には嘘を吐いた」


老人の呟きが風に流れていた。その声を聞くものは誰もいない。


「この爺にも家族はおる。その為にこのようなことをしておるのだ────」


目を細めて、何かをそこに見る。

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