三話 剣士・酒丘熊之介
ふうわりと、甘い香が鼻につく。
竹馬の友である
あの
酒丘は殺された。
道場の帰りのことだった。卑怯にも、複数人で一人を取り囲んで、暗がりからの不意打ちでやられたのである。酒丘が
奴ら、白々しく
「我々が叫びを聞いた頃には既に
などと抜かして、にやにやと嫌味な笑みを貼り付けていた。
(必ず
何度目になるかもわからぬその言葉を、
ただ、魚海は剣の才に恵まれてはいなかった。もとより文官の気質で、侍の子だからと申し訳程度にしか習ってこなかったのだ。そんな腕で粕沼に太刀打ちなどできるものか。ならば鍛錬しかないと、あれから随分と時間を重ねてきたが、酒丘にも他の門弟にも届かない。
それでも歩みが止まらないのは、ひとえに酒丘が無二の友だったからだ。
道場で一番強い酒丘と、道場で一番弱い魚海。太陽のように激しい酒丘と、月のように落ち着いた魚海。妙な取り合わせだが、彼らは確かに深い友情で結ばれていた。
*
粕沼道場から気合の声が聞こえてくる。
(流石に、二十も三十も相手にはできぬ……)
粕沼兵衛に辿り着く前に滅多打ちにされかねない、それは魚海自身も分かりきっていた。道場破りの体をとっても良いが、それでもいきなり師範代と打ち合いなんてことにはならないだろう。そうなればやはり、魚海の剣が粕沼に届くことはない。
(やはり、一人になる頃合を狙う他あるまい……)
そう思って、長いこと道場そばで目を光らせていた。
陽が傾けば、門弟たちが次第にあちらこちらへと帰ってゆく。時節は寒露──晩秋の頃、夕刻にもなればそこかしこが暗くなる。
通りがとっぷりと闇に落ち、常夜灯がそこかしこにぽつぽつと咲く頃になって、ようやく粕沼兵衛らしき男と数人が連れ立って道場から出てくるのが見えた。たっぷりと間をあけつつ、しばらく跡をつけたのだが、彼らは何処を目指すのか散らばる気配も何処ぞへ寄る気配もなく、ただただ歩む。
既に町からは離れていた。
(一人ではないが……、いやしかし、あの周りの連中も仇であるやもしれぬのならば)
魚海は一瞬だけ
「待たれよッ」
そう呼び掛けた。粕沼一行はすぐに立ち止まって振り返った。
「……しばらく尾けておられたな、身も知らぬ御仁よ。それがしに何用か」
「粕沼兵衛とお見受け致す」
「いかにも」
「ならば、さ、酒丘熊之助を存じておろう!」
「酒丘ァ?」
その言葉に、ふっと笑みが広がった。にやにやと笑う顔が憎たらしい。わざとらしく
「ああ──道場破りの帰りに物盗りに襲われたという話のあの男か。残念至極、生きておったら我が道場に招いたものを──不幸であったな」
くつくつと
田舎者が
魚海はわなわなと怒りで震えるのをどうにか押さえつける。ふう、ふう、と息が荒くなる。
「そ、それだけか」
「それだけも何もあるまい」
「他に言うことはないかと問うておるのだ」
「では、お聞かせ願おうか、名も名乗らぬ無礼な御仁よ。その
童子と遊ぶかのような口振りに、かあっと血が身体を駆け巡る。もう我慢がならなかった。
「忘れたとは言わせぬ! 我が名は魚海宗治郎! 友、酒丘熊之助の無念を果たさんが為、参った!」
魚海は吼えるなり素早く抜刀し、青眼に構える。
対する一行も次々に刀に手を掛けた。粕沼は刀を抜く代わりに、門弟の一人に持たせていたらしい木刀を手に取った。碌な構えもせず、せせら笑う。
これもまた、魚海の神経を逆撫でした。
「貴殿の真剣を構えぬか!」
「ふん、見当違いも甚だしいが、どれ、今のおれは気分が良いからな。ひとつ現実を見せてくれよう」
「警告はしたぞ────ッ!」
魚海はだん、と強く地面を蹴った。圧倒的な力量の差だ、打ち合いになればすぐに競り負ける。たとえ相手が木刀であっても、だ。
それに木刀でも、人は死ぬ。
魚海は力を込めて刀を振る。しかし素人剣法──粕沼には届かない。懐に飛び込んで来た魚海を易々と
「手前ら、加勢はするなよ」
そう門弟に笑いながら、今度は腕を打ち据える。耳障りな音──激しい痛みに魚海は呻いた。すかさず腹に蹴りが入れられる。背を蹴られる。
終いに魚海は刀を取り落とした。地面に転がってげぇげぇと喘いで、刀に伸ばした手を踏まれ、更に情けなく声を漏らす。
そんな魚海を一瞥すると、殊更男たちは愉快そうに笑った。
「く、く、いや、中々の腕前に免じて、自身番には訴えないでおこう」
「おお、粕沼様はなんと慈悲深い」
「これ、魚男、これに懲りたら二度と、ばかなことをするでないぞ」
「はは、ほんに地に打ち上げられた魚同然じゃ」
「要らぬ疑いをかけるからこうなる」
土埃に塗れた魚海の頭上から笑い声が降り注ぐ。
「しかし粕沼様、よろしいので?」
「なあに、斯様な男、斬るだけ損よ」
「ははは!」
怒りに震えても、魚海には何もできなかった。
ただ、見送るばかり──。
*
暗い月夜のもと、魚海は身体を引き
己の剣は届きすらしなかった。相手にもされなかった。己の非力さが、ただただ悔しくてたまらなかった。
「──もし」
そんなところを男に呼び止められる。苛々と振り返れば老人が立っていた。
「待たれよ」
「……」
どこぞの武家の隠居が暇をしているのだろうと、魚海は見るなり決めつけた。
「失礼、私に何ぞ用が……」
「ある」
即答。少しだけ怯むのを隠して、語気を強めた。
「見ての通りの手負い故、日を改めてお聞きしたい」
「日を改めても良いが、早い方がよかろう。仇敵に手酷くやられたようであるしな」
「……もしや、粕沼道場の方でござるか」
「まさかよ。違う」
「では」
「恨み屋の
「恨み屋……」
魚海は聞きなれない単語に眉根を寄せた。
目の前の男は続ける。
「ぬしの恨み、この爺に売れ」
「な……っ」
「晴らせぬ恨みがあろう」
またも、かあっと血が昇る。痛みをも忘れて魚海は声を上げた。
「それがしの恨みを、見も知らぬご隠居に売れと申すか!」
「そうだ」
しかし蒔田は
「──強要はせぬ。己が手で果たしたいと言うならば止めもせぬ。ただ、その仇討ちが果たせぬものならば、この爺に売ってみるのもまた良かろうと思うてな」
「斯様な商い、聞いたこともないぞ」
「日の当たるものでもあるまい。殺しの仕事なぞ──」
まじまじと蒔田を見つめるうちに、魚海の心に迷いが生まれた。思考が揺らぐ。
(本当に一人で達せられるのか)
(友のために命を賭すのは無論構わぬ)
(しかし、おれが無力であるばかりに、むざむざ奴らを調子付かせるだけであるなら……)
昏い瞳が誘い込む。意識が吸い込まれる。ああ、この人には恨みを話してもよかろうと──。
平衡感覚が崩れる気持ちがして、気がつけば魚海は口を開いていた。
「恨みは、確かに、ここにある」
「誰が殺された」
「酒丘熊之助──」
「酒丘とは誰じゃ」
「酒丘は我が知己、此度、卑怯にも複数人での闇討ちにより命を落とした、我が無二の友にござる」
「恨みは売るか、売らぬか」
蒔田が低く呟いた。
「一度売ればその恨みはこの爺のものとなる。故に売った瞬間から仇に対してなんの恨みも持たぬことになる。この爺がお主の代わりに恨みを晴らす──対価は仇の死だけじゃ。それでも売るか」
「……」
「今、決められよ」
「……お、お売り致す」
絞り出した声。震える声。
「ただし、永遠には売れぬ」
「はは、期間を定めるか。まあ、それもまたよかろう。この爺は己のやることをやるのみよ」
くくく、と蒔田が薄く笑みを溢した。
「──して、仇は」
「……粕沼道場
「多いな。確かか」
「確かに御座る」
「まあ、良い。嘘ならばすぐにわかろうて……」
またも楽しそうに笑う。
魚海は途端に不安になった。得体の知れぬ男だ、名乗った名すら本名かもわからない。そんな男に、託してもいいのか。
ただ、今更やめろとは言えなかった。この男なら、と何処かで淡い期待を抱いたのも確か。誇りはある、矜持もある、しかし何よりこの瞬間欲したのは仇の死だ。
「……蒔田殿。いつまで待てば良いのか教えていただけぬか」
「じきに。二日ほど待て──」
蒔田はそれだけ言うと、さっさと踵を返した。
蒔田の影が闇に溶けていく。
*
空が明らむ。
「立ち合いを願いたい」
昨日突然、なんの前触れもなくその男はやってきた。
「それがしは蒔田雨露亮と申す流浪の者。高名なる粕沼兵衛殿とお見受けする──一手御指南を賜りたい」
蒔田と名乗った男はそんなことを言った。
男の風体から手練れという空気は感じ取れた。それも、己以上のだ。剣を抜く前から、その気配に射抜かれそうで、ついぞ隙ひとつ見出せなかった。
しかし蒔田と言う名に覚えはない。そのような無名の老剣士に無惨に敗れたとなるとやや面子が立たないのも確かだった。
突然やってきた酒丘に負けてから、どうも思い通りにことが進まなくて苛立っていた。あの男だって、最初は殺す気などなかったのだ。竹刀を片手に突然乗り込んできて、門弟の前で散々に打ち据えられた。その上、悔しさを飲み込んで褒めもした、此奴がおればもっと流派も大きくなるだろうと道場に勧誘もした。
しかし、奴はそれをにべなく断ったのである。
田舎侍が思い上がりも甚だしい──一寸思い知らせてやるだけのつもりだったのだが……。
やりすぎた。
幸い、己にはこれまで悪評はなく、ここらには物盗りが横行していたこともあり、捜査の目は逸らすことができた。
魚海と言う素人同然の男が一度来たのをあしらった時は少しばかり気も晴れたものだが、それも僅かな時間だけ。あの日以来、実際に酒丘と立ち会わなかった門弟が好き勝手に言うのだ。気が休まることもない。
そんなこともあり、最初はこの得体の知れない老人の相手をする気は露ほどもなかった。それが変わったのが、
「それがしは酒丘熊之介の
と男が
「試合は明朝卯ノ刻(五〜六時頃)。酒丘熊之介を世話した者、全てを連れて道場裏の土手まで来られよ」
言うだけ言うと、答えも聞かずに男は姿を消した。
命の斬り合いということを兵衛はすぐにも察した。万が一に備えて、近くの木影に二人、己の次に手練れの男を隠している。彼らは酒丘を襲った時にも連れ立っていた信用できる仲間だ。これならば負けるまい。なにかあっても、口封じはできよう──。
湿った土を踏みながら指定の場所にたどり着くと、蒔田雨露亮は既に朝露の中に立っていた。
「来たか」
「ははは。この粕沼兵衛、斬り合いから逃げたとされては面目立ちませぬ。して、御老人、酒丘何某の知己であられるとのことだが、何ゆえ某と立ち合おうと思われたか。某と彼の男と、なんの関係もござらぬが」
「ぬしが斬ったのであろう。あの男を」
「さてな……」
「ふむ、それでは何故お主らが酒丘の遺品をもっておるのじゃ」
「──は」
ぎろりと蒔田の目が粕沼を睨め付けた。
確かに持っていた。物盗りに見せかけるならと、財布を抜き取っていた。田舎侍の癖に中々のものではないか──そう持ち帰ったのだが、金に困ってるわけでもなく、見つかりでもすれば面倒は目に見えている。持ち歩くことはせずに隠しているはずだった。酒丘の知己が何故、という思いが渦巻く。
(まさか、それなりの武家が背後にあるのか?)
そうとすれば、まずい。
「貴様、なぜそれを──」
咄嗟に零れ落ちた言葉は、慌てようにも拾えるわけもなかった。蒔田は小さく肩をすくめる。
「……他愛ない。聞いてみただけのこと──」
「爺め、謀りおって! 後悔するぞ!」
「それはこれからじゃ──」
粕沼が刀を抜く。
ぎらりと朝霧に鈍く刀身が光るのとほとんど同時に、蒔田が目の端を走っていた。風のように走り抜けた蒔田が、走ったまま鯉口を切る。
斬、と断つ太刀筋が微かに見えた気がして、
「ぎゃあ」
野太い声がひとつ上がる。さあっと血の気が引く。蒔田は取り囲む気配に気がついていた。こちらの狙いもだ。故に最初に門弟を狙ったのだろう。
抜き身の刀を下げたまま、粕沼も音を頼りに走り出した。程なくして転がる門弟を目にする。刀は折れ、袈裟斬りに赤色が走り、痙攣したまま虚空を見ていた。
粕沼の顔が強張る。しまった、後一人も──!
「蒔田! 相手はここぞ!」
叫ぶ。霧の向こうから声がする。
「はて、立ち合いに割り入ろうとする無粋な者がおってな──」
「彼らは立会人じゃ!」
嘘を叫ぶ。叫びながらも目線を周囲に走らせる。きん、と高い音を聞いてすぐに地を蹴った。すぐ先の土手で対峙する男──蒔田と、門弟。
先に動いたのは蒔田だった。
下段に構え、少し落とした剣先を跳ね上げるようにして斬りつける。柔らかなその軌跡は、しかし致命傷となって門弟の身体を抉った。
それでも門弟は刀を懸命に突き出すが、引き抜いた刀に弾かれた。蒔田は返す太刀で真一文字に体を裂いた。悲鳴も上げずにごとりと身体が落ちる。
(これでは、あ、赤子を弄ぶようではないか!)
一人目はほとんど不意打ちだ。二人目は容易く弄び、殺された。三人目は──己だ。
「うおおおおおおおッ! 蒔田雨露亮ェッ!」
粕沼が太く吼えた。刀を手の内で持ち替えて、詰めた距離の中で更に大きく踏み出して斬りあげる。
瞬間、蒔田が地を蹴って跳躍した。空振りの太刀を飛び越え、登り始めた日を背負って顔は
(しまった!)
粕沼はなんとか身を捻るが、遅い。受けようと構えた刀は滑り、肩肉を削がれ、骨を断ち切られ、呻き声を上げる。なんとか刀を落とさずに振り上げたが、やはり老人の動きは
粕沼は最期に目の端に光を捉える。
袈裟斬りに、身体に赤い線が走った。
斬ったその身体を転じ、次の太刀が粕沼を斬り沈めた。辺りを赤く濡らして、粕沼は
「ま、まき、た……」
「……これで仕舞だ」
蒔田はそれを横目で見送っていた。
*
ひゅるりと風が吹いている。
小さな墓前に添えるのは、生前友が好んでいた風車と安酒だ。先ほど、辻売りから買ってきた。
「宗治郎さま」
軽やかな声。振り返れば、友の妻がそこに居た。慎ましく頭を下げる。
「ゆき殿」
「毎年わざわざお越しいただいて……、あの人もきっと喜んでおります」
「いえ……」
魚海はゆるりと頭を振った。
あの後、蒔田は約束通りに仇を討った。
その呆気なさたるや、自分の手から離してしまった虚無感は拭えなかったものの、それでもようやく落ち着けるような気がしたのも確かだった。
今日か、明日か、はたまた数十年も先か。いつか死んで酒丘に再会する日に恥じぬようにと、あの日から魚海は研鑽してきた。
(仇討ちについては、色々と言われそうだが──)
小さく苦笑をこぼす。あいもかわらず剣の腕はお粗末だが、学問に於いてはそれなりの成果を見せている。さる旗本に仕えてからは殊更軌道に乗っていた。
それから年を重ねて、既に魚海もおゆきも、年若くはない。当時まだ乳飲み子だった酒丘の息子は無事、元気に育った。
「……あの人を亡くしたあの年は色々と、騒がしい年でしたね。聞けば大きな町道場もひとつ、潰れてしまったとか……」
「……」
「けれど、宗次郎様のお力添えで我が子共々、健やかに暮らして参りました。なんと感謝をお伝えすべきか」
「それがしに感謝など。これは熊之助が常から私に頼んでいたことですから。礼なら十分な金子をこの私に預けていった奴にこそすべきでしょう」
──嘘だった。彼は遺言すら残せず殺されたのだから。これは勝手に、魚海がやったこと。幸い、金を稼ぐのは得意だった。
(生きてる間くらいは、あいつの心残りを減らしておかねばな)
おゆきが頭をもう一度下げた。瞳が揺らぐ。
「……ありがとう存じます」
「いいえ。また来年、来ます」
魚海は丁寧に頭を下げて、もう一度墓にも手を合わせてからその場を後にした。
からりからから、風車が歌う。
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