岳カンバの木の下で(初期の作品です)

上松 煌(うえまつ あきら)

岳カンバの木の下で(初期の作品です)



          「1日目」

              1 


「え~っ?怖っ。やだぁ、なんで今そんな話?」後ろの席で、優実(ゆうみ)が気味悪そうに肩をすくめる。「ねぇ?愛ちゃん?」

「でも、昔の話だし…。オカルトってウソくさいから」

愛莉(あいり)がクスクス笑って答える。優実の一番の親友だ。

「そりゃそうだけど。そういうの苦手。愛ちゃんってけっこうドライなんだ」

「なんで?ウソなんかじゃない。『雲取山伝説』って言って、おれの母校のワンゲルにつたわる由緒正しいお話だよ」運転席で梶原(かじわら)が楽しそうに2人を振り向く。「おれ、今、優実ちゃんと愛ちゃんに、モーレツに話してあげたい気分」

「いや~、初耳っすよ。」助手席から3年後輩の斉藤(さいとう)がちょっと興味ありげに言う。「そういうのって、けっこう部外者でも知ってるけど、おれ、聞いたことないっす」

「そう?ワンゲルじゃ、知らんヤツはいないよ。もう、ずいぶん昔だけど、うちの8人のパーティが雲取山縦走したんだけど、悪天候にみまわれて、1人が行方不明になった。死体も出ず、月日がたつにつれて、その遭難者がどこで行方不明になったかも忘れ去られた。だから、奥多摩山塊を8人で登ってはいけない。8人だと必ずその遭難者が後に付いてきて、8人のパーティになろうとする。そして、仲間の1人を遭難させる。つまり、遭難者はそいつを自分の身代わりとして行方不明にし、自分は8人パーティの仲間として下山しようとするんだ」

「へ~。人数がミソっすね。最初8人で来て、7人しか下山できなかった。頭数だけあわせても、現実のソイツは死人で数には入らない。8って数の呪いっすね。入れ代わり立ち代り、永遠に8人目にはなれずに彷徨うんだ」

「やだっ、そういうの可哀想すぎる!」

けっこう眉唾っぽい話なのに優実が本気で嫌がっているのを見て、梶原も斉藤も吹き出した。

優実は斉藤のカノなのだ。

ふだんの優実は仲良しの愛莉にいつもくっついているから、斉藤がどうやってそのあいだに割り込んだのかが、まわりの謎になっている。

「ともあれ、昔、昔のお話でした。さぁ、優実ちゃん、愛ちゃん、トイレは?ここから先『七ッ石小屋』までないよ。バテないように、山では水分をじゃんじゃん補給するからね」

車は西東京バスの『鴨沢バス停』裏の駐車場に止めてある。これから4人は東京都最高峰の雲取山頂を目指すのだ。山歩きの経験のあるのは梶原だけだった。その彼もワンゲルは1年やっただけで、2年目からは馬術部で活躍していたから、初心者に毛の生えたようなものだ。ワンゲル時代を思い返しても雲取山のみを目的に登ったのは1回しかない。

それだけに日程には余裕をもった1泊2日で、メインイベントとして富士山の見える『奥多摩小屋』前でのテント泊を入れてある。

6月14日の今頃は、白い深山ザクラや樺色の山ツツジが盛りだろう。

軽い準備運動の後、しばらく舗装道路を歩き、午前7時丁度に『雲取山登山口』に到着した。

幾組かのパーティも散見できる、杉あり雑木ありの坂道をゆっくりと登ってゆく。

野郎どもはモンベル・ムーンライトテントをそれぞれ1張りづつしょってはいるが、水場には困らないので、そのぶん携帯水の重量は少ないから、たいした苦行でもない。

「ほら、ピンクのツツジ。きれいぃ~」

「こっちもぉ。かわいいー」

「東国ミツバツツジっていうんだよ。こんな里近くでまだ咲いてるんじゃ、今年は寒かったんだね」

「天気いいっすね。来てよかったぁ」

梶原を先頭に女の子をはさみ、しんがりについた斉藤は、木漏れ日の空を見上げて上機嫌だ。

「西に低気圧が発生してるようだ。でも、1泊2日じゃ心配ない。夜間行動用のヘッドランプもあるし、奥多摩駅の登山ポストには登山計画書を放り込んでおいたしね」彼はザックの左を指差してみせた。「ほら、ヒルよけスプレーもバッチリだ」

「やっぱ、主任はぬかりないっすね。会社でもおれ、見習えっていわれてんです。でも、なかなかできない」

「バカ、新卒が最初から何でもできたら、おれたち先輩はリストラだ。怖えーよ」

4人は顔を見合わせて笑った。

梶原だけが25で、残る3人は押しなべて22歳。まだまだ、ピッカピカの社会人1年生だ。全員、ある商社の人事部に所属していて、先輩、梶原芳樹(かじわらよしき)・後輩、斉藤了祐(さいとうりょうすけ)・斉藤のカノ、木村優実(きむらゆみ)・優美の親友、吉田愛莉(よしだあいり)という内訳なのだ。

写真を撮ったり、雲取山は野鳥の宝庫だから鳥や花を観察したり、水場に寄ったり、初心者のお楽しみをさんざん実行したから『堂所(どうどころ)』を通過したのは9時半をまわっていた。

だが、早出の余裕で時間だけはたっぷりあるのだ。

休憩をはさんで『マムシ岩』を過ぎると山道が急になり、岩がむきだす歩きにくい道に入る。

倒木があったり、雨水で道がけずれて細くなり、すれちがいも困難な場所がある。

(昔より道がずいぶん荒れてるな。異常気象の影響かなぁ)

ワンゲル以来、山には縁のなくなっている梶原は最近の山事情には詳しくない。

「優実ちゃん、愛ちゃん、あしもと気をつけて。ココで転ぶと痛いよ」

「主任、ちょっと」斉藤が呼び止める。「さっきの炭酸が出たいって」

「わかった。じゃ、おれもついでに。よくぞ男に生まれけりだ」たいして尿意はなかったが、後輩と山の連れションもいいだろう。「2人ともそろそろ行ってて」

女の子を先に行かして、登山道をちょっともどる。比較的傾斜がゆるい場所を見つけて数メートル下り、アオキのやぶにかくれて天下泰平を決めこむ。眺望はないから絶景ではないが、野生がもどってくるようで気分がいい。

そんな後ろを、急ぎ足で登りあげる登山者の気配があった。

「きゃあっ」

優実の声に斉藤が本当に跳びあがった。

「早く来い!」

言いおいて、梶原が先に駆けつける。優実がガケから2mくらいすべり落ちていて、愛莉がかがみこんで一生懸命、手を伸ばしている。すぐに引き上げると幸いケガはないようだった。偶然にも、うまく泥の斜面に落ちたのだ。岩の部分だったらこんなことではすまなかっただろう。

「後ろから来た男の人。ずるい。山側から追い抜くの。あたしは前だったから逃げる時間あったけど。優実ちゃん、後ろだったから…」

「怖かった。ジャマって感じで突き飛ばされて、気がついたら落ちてたの」

「マナー違反っしょ。抜くなら声かけて谷側から抜くべきっすよ!」

斉藤の鼻息は荒い。彼が怒るのも無理はない。山に登る者としては言語道断の行為だ。

「うん。山も人心も荒れてるな。許されるべきことではないよ。これからはお互いに気をつけよう。少し、休む?」

「ううん、平気。ごめんなさい。びっくりしただけ。泥だらけだけどすりむいてもいないし」

優実はわざと元気そうに立ちあがって、パタパタと汚れを払った。

「ホント?だいじょうぶ?どっか痛くね?荷物持とうか?ほら、よこせよ。持ってやるって」

執拗に優実のザックをひったくる斉藤を、梶原も愛莉もほほえましく見守る。

「あ~、いいな。彼がいて」

愛莉がつぶやく。

「そう?じゃ、愛ちゃんはおれがエスコートする。ほら、荷物持とうか?ほら、ほら、オジサンに持たせて~」

梶原が斉藤のマネをしてしつこく手を伸ばすと、愛莉はわらって逃げ出した。

「いい、まだ、いいの」


             2


 落石事故のあった『七ツ石小屋』手前から『ブナ窪』への巻き道は復旧していないので、『七ツ石小屋』まで急坂を上がることになる。梶原は女の子よりむしろ、ハリキリ過ぎの斉藤を心配した。だが、彼はますます元気になり、頭上に『七ツ石小屋』が見えるや、みんなを追いぬいて蒸気機関車のようにガシガシとつき進んでいった。好きになった子が頼ってくれてるおかげで勇気百倍らしい。

「ったく、わかりやすいヤツだよな」梶原は愛莉にささやいて笑った。

「はい、ここが出来たての『七ツ石小屋』バイオトイレね。100円だから話の種に入っとけば?」

(おれはトイレの話ばかりしているな)

我ながら滑稽に思ったが、初心者の女の子を2人も連れているんだからしかたがない。

化粧直しだってしたいかもしれない。

「うん『堂所』からここまで1時間20分か。アクシデントのわりには順調だったなぁ」斉藤が優実にむかってリーダーのような口を利く。「靴ズレとかはない?愛ちゃんも丈夫?」

気配りまでしている斉藤に、

(いいカノができると男はいいほうに変わるな。会社でもその調子でたのむぞ)

と、梶原はすっかり、部下を見守る上司気分になっている。まぁ、考えてみれば、3年まえには新卒だった自分が、そう思えるまでに成長したわけでもあるのだが。

「さぁ、『七つ石山』から『奥多摩小屋』前のテント場まで登りつめるぞ。このペースだと遊びながら行っても1時間40分くらいだな」

「は~い」

今度は引率する先生の気分だ。ここまでくると、ハイテンションだった若い3人が、さすに口数が少なくなっている。通行止めになっている巻き道の終点を右に見てから『ブナ窪』に合流、『石尾根』に至る。

「あっ、あれがダンシングツリーだな。写メ、写メ」

雲取山で一番有名な木だから、斉藤も知っていたらしい。踊るようにS字型にくねるカラマツをいろんなアングルで撮りまくる。女の子たちの要望に答えて、妙なポーズまでやっている。

明るく前向きで体力もある斉藤は、これからもいいパートナーになりそうだった。

その先、一変する長い尾根の風景に、

「わ~、きれい。やっぱ日本100名山だよね」

「開放感~!あ、むこう、富士、富士。七つ石山では雲で見えなかったもんねぇ」

「おほっ、いいとこだぁ。あっちは南アルプスじゃね?」

彼らが小学生のように歓声をあげる。眺望のいい尾根道は頂上とならんで、山の醍醐味の一つだ。おまけに今日は天気がいいから空の青がスコーンと抜けている。

(こりゃ、いい夕日が見られそうだ。女の子たちが喜ぶぞ)

梶原の期待もふくらむ。初心者にとって深い思い出となる演出を、山は見せてくれそうだった。

まもなく『五百人平』のヘリポートを過ぎた。

「もうすぐテント場だ。先にテントを張って荷物を置いてから雲取山山頂を目指す。身一つだから楽だよ。いいね」

「は~~~い」

超いいお返事がかえってくる。やっぱりバテていたのだろう。

奥多摩小屋に1人500円+消費税のショバ代を払い、小休止の後に2張りの天幕を張る。

「主任、もっと見晴らしのいい草地に張りましょうよ。ほら、あの人たちみたいに。きっと夕焼けや星がきれいっすよ」

傾斜がないことを確かめ、カラマツが数本手前に立つ場所をえらんだ彼に斉藤が異を唱える。5張りほどの先住者のうちの3張りが、気持ちよさそうに吹きっさらしに並んでいたからだ。

「だめだ。低気圧が近づいてる。気圧が変化すれば突風が吹くかもしれない。ここはハサミ虫もいないし、ペグだってしっかり立つ。寝てしまえば景色は関係ないよ」

斉藤は素直に納得した。低気圧の接近はラジオが繰り返し伝えている。まぁ、明日以降のことだから直接的な影響はないにせよ、不慣れな自然の中では用心にこしたことはないのだ。

「じゃ、13時も近いことだし、ここで大休止。昼食後、雲取山2017,09mを踏破しよう」

「わ~~~~い!」

「やったぁ!」

小休止のたびに何かしら口に入れては来たけれど、後輩たちは空腹だったらしい。

各種の菓子パン、チーズ、チキンロール、ビーフジャーキ、揚げ物、ピクルス、ナッツ、カステラ、トマトにきゅうり、果物…。6月という季節の気温をじゅうぶん意識した、乾き物系の昼食が並んだ。梶原が七ツ石小屋で調達した人数分のビールで、全員が歓声をあげて乾杯した。

「うめえっす。ホット・ビール」

斉藤がのどを鳴らして飲む。彼が言うとおりのヌル癇になっていたが、なぜかそれが微妙にうまかった。非日常の象徴である山は、文字どおりの別天地なのだ。


             3


 山頂までまだいくつかのアップダウンがあったが、カメラとスマホ、貴重品だけ身につけた体一つなので驚くほど楽だった。まだ若い4人の体力は、1時間あまりの昼食でずいぶん回復していたのだ。もう一度、奥多摩小屋を通りすぎ、振り返ると絶景の『蓬の頭』。

『小雲取山』の急坂を越えると、最期の登りのわきに『雲取避難小屋』が見え

てくる。

「わ~、ボロな奥多摩小屋とはえらい違いだぁ」

斉藤が遠慮なく大声をあげる。

「ホント、新しいし…。きれい。奥多摩小屋のトイレ、怖いんだもん」

愛莉が言うと、優実も口をとがらす。

「そう、そう。臭いが恐怖だよぉ。こっちは新しいから、すっごいマシ」

「そうだね。この先の『雲取山荘』も新しいよ。今日、こんなに天気がいいのにテントが少ないのは、そっちが人気なのかも。でも、ピークからはまた200m以上も下るんだ。だから、きみたちには奥多摩小屋のテント場のほうがいいと思ったんだ。ロケーションもいいしね」

梶原が弁明する。

「いいの。私は今の所が好き。だって、帰り道に近いんだもん。愛ちゃんなんか、あと10mで死んでたって。私はあと50mはもったけど」

「え~?優実ちゃん、あと1歩でダメだったんでしょ?50mは、わ、た、し」

「それは愛ちゃんの気のせい、気のせい」

「あ~、なんという醜いオンナの争い。これこそ50歩100歩ですよね、主任」

「ええっ、それ、オレに振るの?」

急坂の多いルートを越えてきたから、頂上に至る最期の胸突き八丁はけっこうきつい。

それでも全員が競争のようにして登りきり、3角点に殺到した。

「やったぁ、ついに来たぞ。東京都民としてはここを制覇しないと、山は語れねえっすよぉ」

「気持ちいい~。山って、ホントいいねー。ズーっとここにいたい。やみつきになるかも」

「うん、また来たいよね。ってか、帰るのイヤだな~。また、業務が始まるもん」

「はいはい、お2人さん、主任のわたくしの前でそのような発言は禁句ですよー。なまけ者をつくるために連れてきたのではありませんぜ」

「わ~、鬼主任」

「てか、会社のイヌだよな」斉藤がここぞと言う。「もろ、社蓄だぁ」

「あ、おまえ、言ったな。査定はないものと思えよ」

「ひぇ~、ブラックだ。労働基準局にチクったるでぇ、もう」

斉藤は言いながら、さっさと逃げていった。

「口の減らないヤツだよな。ありゃ、人事より営業にむいてるワ。課長に進言しとこう」

梶原は笑いながら女の子たちにボヤいたが、斉藤はあっというまに駆けもどってきた。

「主任、ほら、スカイツリー。あそこ、ね、ね。ここからも見えるんですよぉ」

西からの陽に照らされて、かすむように、浮かぶように、特徴あるかたちがほんとうに小さく見えていた。4人はあらためて、雲取山が東京都最高峰であることを認識した。

帰り道の途中で4~5分下り、水場に寄って水を調達する。使い勝手のいいエスビットのストーブで湯を沸かし、日暮れまえのコーヒーを楽しむためだ。

「そうそう、きみたち、沢水は生で飲むなよ」梶原がこんな話をはじめた。「おれが大学1年坊のころ、バイトしたとこに野中さんっておばさんがいて、今はもう60くらいかな。秋田美人でさ、いろんな話してくれて。その中の一つに、ほんとヤッベェってのがあった。野中さんの同級生の女の人で、17歳ぐらいの時だったらしいんだけど、田舎だから春は山に山菜取りに行く。秋田フキか何かだろーね。沢沿いのとこでさ、夢中になって取っていて気がついたら、見たこともない谷川に入り込んでた。びっくりして帰らなきゃって、ちょっとガケの上を見たら、見知らぬ男の人がいて、手招きしている。そのとたん、何かに見込まれたように頭がボーっとして、フラフラと近づいて行っちゃうんだって」

「きゃぁ、ウソッ」

オカルトはウソくさいと笑っていた愛莉が一番に悲鳴をあげる。こういう実話は怖いらしい。

「ウソじゃないよ。野中さんが直接、本人から聞いた話だよ。それから記憶がはっきりしないらしいんだが、つまり、その男は蛇で、体の中に入って来ちゃったらしい」

「ええっ????」

「ま、結果として、その女の人は家に帰ったんだけど、だんだんにお腹が大きくなってくる」

「やだ、その蛇男の子?」

優実が気味悪そうに、恐る恐る聞く。

「そう、医者に行っておかしいってことでレントゲンを撮ると、小さな蛇の子がお腹の中にいっぱいいたって」

「キメェ、ウソっしょ、生物学的にありえねー。気色わりい」

「いや、正真正銘の事実だって。珍事件ってことで新聞にも載ったそうだ。しかも野中さん、その切抜きをずっと持ってたけど、引越で残念ながら紛失したって」

「……」

「まぁ、たしかにありえないことだ。だが、可能性はないことはない。おれが思うには、沢水にごく小さな蛇の卵があって、それを水といっしょに飲み込んだ。卵のまま胃で消化されずに通過して、腸で孵化する。X線にはそれが写ったんだ。脊椎を持ってるから白く写る。実際に地ムグリなんて黒くて小さい蛇もいるしね。その卵なら気づかないかもしれない。現実に内部ヒル寄生症っていうのもあるから、蛇だっておかしくないよ」

「でも、その、体に入ってきちゃったっていう蛇男はどうなるの?」

「そう、そう。人の形をしてたんでしょ?化かしたのかしら」

女の子にとって生理的に受け付けがたいのだろう。この辺が一番解明したい部分らしかった。

「それは、後から脳が作り出した幻覚というか、思い込みじゃないかな。覚えもないのにお腹が大きくなってくる。おれは男だからよく解らないけど、女性はすごく不安で不安定になると思う。人間はやっぱり、そういう時には原因を求めるよね。そんなとき、医者にお腹に蛇の子が沢山いますとか言われたら、水を飲んだせいだとは思わなくて、やっぱ、それっぽい行為のほうが思い浮かぶんじゃないか。蛇男に会った後の記憶がものすごく曖昧だって話は、恥ずかしくて口じゃ言えないんじゃなくて、実際にはそういう行為がなかったことの裏づけだと思う」

「おお~。主任、すげー。探偵物のコナン・ドイルだ」

「でも、その人は今、どーしてるの?」

「ふつうに結婚して子供もいるってさ。だから、実はあの時って思い出話みたいに、野中さんに話してくれたんだって」

「そっかぁ、良かった。トラウマにならないかなって、心配しちゃった」

「ニュースになったのが、かえって良かったのかもねぇ。逆にヘンにうわさされなくて」

「そうだね。ともあれ、今から40年以上前のお話でした。めでたしめでたし、どっと晴れ」

4人はそろって、すっかり冷めたコーヒーを飲み干した。


           4


「ほら、夕日が沈むよ。すげー劇的な雲。映画みてぇ。すごすぎるっしょ」

「ああ~。ほんとうにきれい。ちょっと怖いような不思議な夕焼け」

「空気が澄んでるのね。すごい濃い赤。…牡丹色。なんか、自分がすっごくちっぽけだな」

「天気がかわる前兆だ。晴れはあしたまでかもよ。いいときに来たよな」

スカッとひらけた西の空は、赤・オレンジ・黄・青・黒の饗宴だった。それが夕風とともに刻々と動いていく。太陽は雲のあいだからときおり顔をのぞかせたが、富士はもう見えなかった。

テント場には20張りほどが並んでいて、誰もが外にでて空を見ていた。もう、口をきくものはいなかった。赤々とした夕日の残照が弱く淡く薄れて、驚くほど多くの星々のまたたきに満たされるまで、誰もが押し黙ってその一日の終わりを見送っていた。

このような光景に触れたくて、人は重い荷物と自分をかつぎ上げるのだ。

「さぁ、感動のあとは待ちに待った夕飯だ。人数分のレトルトおでんがあるぞ。夏でも冬でもおでん。うちのワンゲルの伝統なんだ。旨いぞう」

「わぁ、重いのにすみません。私、おでん、だ~い好き」

愛莉は本気でうれしそうだ。

「愛ちゃんおでん好き?私も夏のおでんいいわぁ。カラシいっぱいつけて、山に合いそう」

雨でもないかぎりテント内で調理はしないから、テントの出入り口を背に4人で風下に集まる。

風が全くないおだやかな晩で、いまのところ上着はウインドブレーカだけで十分だった。

「重いといったら、おれですよ。ほら。これ、これ」

斉藤が自慢げに持ちだしたのはなんと自衛隊の缶飯(かんめし)だった。

2缶ある。これは市販されない自衛隊御用達で、斉藤の持ってきたものは主食用の鳥飯と赤飯だ。缶飯は自衛隊ばかりでなく、味を知っている一般人にも大人気のシロモノなのだ。

「わ、大きいカンズメ」

「アーミー・グリーンじゃない。しぶいー」

「お、すげーな、斉藤。今の自衛隊はレトルトか野外水具だから、缶飯はだんだん減ってきてる。愛ちゃんも優実ちゃんも、ありがたくいただきなさい。めずらしいものだよ」

「そう、この赤飯は貴重品っす。この間の東北大地震のとき、旨くて腹もちがいいって人気の赤飯を出したら、だれか、災害時に赤飯かって文句つけたヤツがいて、その後、製造中止なんです」

「あ、それ知ってる」優実が怒った調子で言った。「ニュースで見た。お赤飯って栄養価高いから、体のためを思って出したんでしょ。その気持ちも解らないで文句つけるなんて非常識よ。そんなら災害時には、お爺ちゃん、お婆ちゃんに人気の真っ赤な下着もダメってことになる」

「そうよねぇ。助けてもらってるのにって、言い方はしたくないけど…。でも、災害の時って、そういう自己顕示欲の強い嫌な人が生き残っちゃう気がする。だから、災害ってキライ」

愛莉も全面的に優実に賛成だ。たしかに人の素直な善意がそのままに受け止められない、奇妙に歪んだ社会になっていることは事実だろう。斉藤は女の子2人の全面バックアップに、我が意を得たりとばかりにうなづいている。

梶原は可笑しくなった。

(おれも社会に出たころは、同じだったかもな)

ちょっと水をさすのは悪いけど、彼は口をだした。

「いや、世の中はそうとばかりは言えないよ。おれたち若い連中は慶事用の赤飯だって、滋養があって旨けりゃバクバク食う。合理性で動けるんだ。だけど、年配の人や文化伝統を大事に受け入れて生きてきた人はどうだろう?お祝い事の赤飯がでてきたら、ショックだよな。被災してみじめな気持ちになってるんだもの、前向きには捉えられない。赤飯に自分の楽しかったころを重ねて、悲しくなったり、腹が立ったり、災害はお祝い事かよって、ひがみたくもなるよ。おれは思うんだけど、人事課だっておなじだ。人の表面ばかり見てチェスのコマみたいに配置しても、それがその人にとって赤飯だったら戦力は半減だ。今の会社は人間を意識的に人として見ない一面がある。それは企業の驕りにすぎない、決して戦略じゃないんだ」

「ああ…。たしかに。コンピュータでデータ化して、その蓄積のみが判断材料で、数字だけが神みたいなとこが多々あるし。スベってる感じってありますよ。じゃあ、将来的にはカウンセリング+人事課みたいになっていくべきっすかね」

「うん、いいぞ、斉藤は頭がやわらかいな。これは時間をかけてみんなで考えることだよ。愛ちゃんも優実ちゃんも、自分なりに考えていってほしいんだ。自分の職場だもの」

しばらく沈黙がつづいた。

「スゴイ。山に来ても会社のこと考えてる。私にできるかな?」

「うん、やっぱり私たちにとって、会社の比重って大きいよね~。でも、主任、山に来たときくらい会社のこと忘れません?これじゃ、モロ、社畜ですぅ」

優実の言葉に梶原は苦笑した。

「あっ、そういえば山頂でも、おれ、なんか言ってたワ。やだねぇ、3年ですっかり会社の人だ。ごめんごめん、はい、お2人のリゾットが温まりましたよ~」

愛莉も優実もちょっと頭をさげてレトルトに手をだした。6月も半ばになろうとしていても、夜はけっこう冷えてくる。持ってきたダウンベストをひっぱりだして着るほどでもないが、シャツにフリース、ウインドブレーカでは、あったかい食べ物はご馳走だ。

「あ、そういえばタレントのあの人…ね」と、愛莉が話題を思いついて、優実に話を振る。「やっぱ、あれホントだったんだって。すっごくイヤなヤツ」

「うん、知ってるよ。そうそう。聞いたところでは、そんな話みたい。それでね…」

女性陣のこの手の話が始まると、男どもは完全にカヤの外だ。梶原は醤油マヨネーズをつけたサキイカで秘蔵の名酒YK35をちびちびやり、斉藤はチーズやビーフジャーキを速いペースで食いまくっていた。そのあいまには優実からレモンを何枚かもらってホット・チューハイを作ったり、梶原の酒の味見をしたり、けっこうアクティブな酒飲みだった。         

日没が18:55だったから、20時をすぎるころにはぽつぽつテントの明かりも消えてくる。

「明日の日の出が4:25っすよ。どうします?」

「うん、このテント場は朝日が拝めるんだ。日の出と同時に起床だな。…もう、21時か。楽しい時間は一瞬に過ぎるね。じゃあ、そろそろお開きにしよう」

彼はヘッドランプを出して渡した。

「斉藤、女の子をトイレにつれてってよ。あそこ電気来てないからランプを頭につけてやって。おれはここの後始末しとくワ」

男は男、女は女で別のテントにすべり込む。余った衣類やゴミを枕に丸めこみ、夏用シュラフの足元にはザックを敷き詰めてやったから、その分スペースがとれる。元気に見えても疲れていたのだろう。酒の勢いもあって、さっそく眠りこむ斉藤は、けっこう大物かもしれなかった。

いくらか寝た頃だろうか。変に気温が上がり、今まで快適だったシュラフの中がいやに寝苦しくなった気がした。ザワザワとした奇妙な予感があって、キーンと耳鳴りを感じたようだった。

いきなり、ドシンッと衝撃がきた。

同時にバババババッと連続的にテントがゆさぶられ、ズォーンをいう重たい咆哮が聞こえた。ザザザザザーッとなにかをめちゃくちゃにかき回す音が交って天井が思いきりひしゃげた。

「何っ?地震っ?熊っすかっ?」

斉藤が目をさまして叫んでくる。梶原は経験があった。

「いや、風だっ」

となりの女子テントが気になる。びっくりしてこっちに来ようとでもすれば、かえって危険だ。

「斉藤、出るからすぐ口を閉めてくれ。おれが出たら軽くなって、テント飛ぶかもしれん。ナイフ渡しとくから、飛んだらテント切って脱出しろっ。いいか、絶対にいつまでもしがみついているな!」

首にさげていたナイフを渡し、月明かりの外へ丸まるように這い出す。耳にゴワワワーンというようなものすごい圧迫があって体が少し運ばれ、一瞬、やけに澄んだ星空が見えた。

そのとき、風上の草地のあたりから、なにかが凧のように舞いあがり、いったん地面にドシンと落ちて、またコロコロところがって目の前のカラマツにぶち当たった。

ポールがめちゃくちゃに折れ曲がったテントで、少なくとも1人が中にいるようだった。

いくら風下でも女子テントの出入り口をあけるのはかえって危険かもしれなかった。風が回っていたら、タイミングが悪ければ悪魔を招き入れるようなものだ。

彼はテントのすそに這い回り、倒れこんで体重をかけた。聞こえないだろうとは思ったが「出ちゃダメだ。たいじょうぶ」と声をかけ続けた。

高山の恐るべき自然は都会に暮らす彼らには想像もできないものだった。

ヒュオーンという金属音と地震のようにゴンゴンいう重低音がしばらくつづき、木のしなるギシギシいう音や天幕のはためく音が入り混じったわけのわからない轟音が、脅しつけるようにくりかえし渦巻いていた。たぶん、まわりの20張りの中でも、驚天動地の出来事にどぎもをぬかれた登山者たちが、なすすべなく右往左往しているにちがいなかった。

だが、人の声はまったく聞こえず、ほんの数分で風はいきなりピタリとやんだ。

突風は吹きはじめと同様に唐突に去ったのだ。

しばらくは一切の音が消え、ソヨとの葉ずれもなかった。そろそろと這い寄ってテントの口を引きあけると、愛莉も優実もびっくりした子猫のような真ん丸の目を向けてきた。彼女らは恐怖のあまりシュラフにもぐり込んだまま、蓑ムシのように微動だにしなかったのだ。

「こわかったぁ」

「死ぬかと思っちゃった」

2人とも緊張で白っぽくなった顔で訴えてきたが、それでも元気そうだった。

その時の斉藤の安堵の表情は、彼の優実への思いを明確に表現して余りあるものだった。

(あ、こいつら、結婚するかも…)

まったくの場違いだったが、そんな予感がぼんやり頭をよぎった。

ザワザワとまわりでも安否確認のさわめきがあった。梶原が見た他にもテントごと吹き飛んだ登山者が数人いて、中には骨折や脱臼をした人もいるとのことだった。

本当にヘリポートが近いのが幸いだった。

「山ってこわいねー」

愛莉も優実も真顔で言ったが、それでも山に懲りたようすはなかった。


            「2日目」

              1


 もう、眠ることはできなかった。

日の出まで1時間ほどだったから、早出することにして朝食にした。ほかの登山者たちも同じ考えのようで、ライトをつけながらさっさと出発していくパーティもあった。

ドライカレーとカロリーメイト、残りの揚げ物、トマト、コーヒーの朝ごはんを食べはじめたころ、テント場の東から真っ赤な朝焼けとともに太陽が昇ってきた。

「御来光、御来光」

一日の最初の光をあびながら、彼らは山の楽しさをしみじみと感じていた。きのうの突風だって、自然がくれたエンタティメントにすら思えるほどだった。

山は怖い。だが、それすらも山の魅力の一つと考える彼らには、やはり、驕りがあったのだろうか。斉藤はいっぱしの山男の顔つきをし、ひしゃげたテントをテキパキとたたんだ。愛莉や優実ですらハイになっていて、荷物をまとめる手順も別人のように手早くなっていた。

食後の休憩をきちんととり、出発は5時半とした。荷物がかるくなった下りは、やはり楽だった。空は変わりやすく、パラパラと小雨が木々の葉をぬらしたりした。開けた尾根道を過ぎて樹林地帯に入ると、空気はジトっとして梅雨入りがちかいことを思わせた。

休憩をはさんで、『七つ石山頂』ではるかに『石尾根縦走路』をふりかえり、『雲取山』に別れをつげる。

『七ツ石小屋』を過ぎてしばらくしたころ、斉藤がいきなり立ち止まり、樹林の奥を見透かした。体を乗りだすようにして一点をうかがっている。

「え?なに?」

言いかける優実に「しっ」と指を立てる。身振り手振りで、なにか動物のかたちをつくる。手でしきりに小さい、小さいと示している。

「あ…。こ・じ・か?」

愛莉が言い当てる。まちがいなく子鹿だった。雲取山は鹿が多いので、昨日も成獣は何頭も見た。だが、本物の子鹿は初めてだった。まだ、生まれて3週間ぐらいで、乳離れして草を食べ始めて1週間ほどの個体だろうか。体にはバンビの証拠の白いきれいな斑点が並んでいる。

「いっ・て・み・よ・う」

斉藤がささやいて、先頭に立って登山道を外れる。傾斜は急だが、人の踏み跡もあるので、まあ、安全だろう。愛莉も優実も目を輝かして、ワクワクしているのが見てわかるほどだ。

10mも進んだだろうか。あと5~6m。もう少し、もう少し。

「ピィー」

鋭い警戒音がして、母鹿が人との間をさえぎるように姿を現した。子鹿はピョンピョンと愛らしく跳ねて母の陰にかくれた。そこからまた10mほど奥に逃げて、今度は母子ともに興味深そうにこっちを観察している。母鹿自体も若い個体で、あまり警戒心がないのだろうが、雲取の鹿は人馴れしてるという話は本当らしかった。

「かわいい~」「かわいい~」「かわいい~」

愛莉・優実ばかりではなく、斉藤までがとろけそうな表情で「かわいい~」を繰り返している。

「おい、ほら、鹿のいるところにはヤマヒルがいるぞ~」

脅かしても、昨日なら顔色をかえて身震いした女子たちが、

「うん、だいじょぶ~」

と、意に介さず突き進んでいくのだから、子鹿の吸引力は大したものだ。5月下旬から6月いっぱいは鹿の出産期だから、早生まれの子鹿は今がかわいいさかりだ。

「しょうがないな。じゃ、ザックは置いていけ。ここにまとめておれが面倒見るよ」

梶原は3人の荷物を奪いとって木の根元に寄せかけ、あらためて周りを見回す。どこをみても同じような風景の山の中だ。それでも登山道からはそんなに外れてはいないようだった。

どれくらい時間がたっただろう。

「おーい。どこにいるー?そろそろもどれ。道がわからなくなるぞー」

「はーい」

さほど離れていない下のほうから元気な返事が返ってきたものの、だれも姿を現さない。

太陽が雲にかくれて、スッとあたりが陰った。

突然、

「いやぁっ。だれかっ、主任っ」切り裂くような愛莉の悲鳴が聞こえた。「あっ、あっ、きゃあ~ぁああ」

同時に斉藤の緊迫した怒声も響いた。

「やめろぉっ」

まぎれもなく緊急事態だった。

「どうしたっ」

瞬間的に声のほうに下ろうとして、梶原は踏みとどまった。

ザックの場所を見失ってはいけない。とっさにポケットからゴミ袋を引きだし、広げて風をはらませた。手の届くぎりぎりの枝を引きよせて、左右の持ち手を別々にしばりつけた。目印として有効かどうかは不明だが、ないよりはマシなのだ。

「おい、斉藤!どこだ?愛ちゃんっ、優実ちゃんいるか?」

とにかく悲鳴のほうに下るしかなかった。

とちゅうで出会いがしらに、登ってくる登山者にぶち当たった。勢いがついていたので、心ならずもその人を突き落とすところだった。

「あ、今、声が…」

言いかけて目から火花が散った。意味がわからなかった。見知らぬ登山者がいきなり、何かで思いきりぶん殴ったのだ。左の鎖骨のあたりをもろにやられて息が止まった。

「なにをするっ?」

突き飛ばしたことに対する報復なのか、相手はまったくの無表情だった。

がっしりした体躯の男で30代だろう。トレッキングのような軽装備でバンダナを頭に巻き、サポートタイツの上からひざサポータをつけている。

無言のまま、片手で何かを出すように合図した。万国共通の金をあらわす手振りや耳になにかをあてる動作。

これでピンときた。最初はキチガイかと思ったのだが、ちらほらウワサに聞く山賊だったのだ。

金や免許証やカードはいいが、スマホだけは渡したくなかった。愛莉の悲鳴からすると、かなりの切迫事態だ。救助を呼ぶにしてもスマホがなければ手遅れになりかねない。

一瞬、ワンゲル時代から山に登るたびに首からさげている登山ナイフを思い出した。それで渡り合おうかとも思った。だが、ムダだった。昨夜の突風で斉藤に渡したきり、どさくさで返してもらっていない。

梶原の逡巡に相手はイラついたらしい。きらっと光る何かを見せつけるように構えた。

それを見て仰天した。

斧と鉈のあいのこの様なブッチャー・ナイフだった。本来は動物の解体用だが、その用途からは遥かに進化している。重量のある幅広の刃は、切る、突く、投げる、叩くに有効で、柄にはしなやかな湾曲がつけてある。熟練者が使えばランボーでも三舎を避ける最強の武器なのだ。

(こいつ、プロだな。日本人じゃない)

登山ナイフがなくてよかった。うっかり手を出していたら、2度と忘れられない目にあわされていただろう。もう、言うとおりにするしかなかった。断腸の思いであらいざらいを差し出し、コンパス付きの腕時計もはずした。

山賊はそのへんで拾ってきたような何の変哲もない袋にすべてを入れさせると、顔色もかえず引ったくり、そのまま平然と背を向けて去って行った。デイパックの背に、あのブッチャー・ナイフの鞘がついているのを除けば、ふつうの登山者と全く変わりがなかった。

我に返ると、とにかく3人の後輩たちが気になった。無防備のところを殴られた後遺症か、体の動きにキレがなく声も出にくい気がしたが、左半身がしびれているのでそのせいだろう。

「斉藤!愛ちゃん!優実ちゃん!」

何度目かの呼びかけに、やぶの陰から小さくかがみこんだ誰かがひざにしがみついてきた。

「こわい、こわい、こわい」

小刻みに震えて、それしか言わない。

「優実ちゃん!」梶原は少しは安堵した。とにかく1人は無事だったのだ「大丈夫だ。もう、こわくないよ。どうしたのか教えて。みんなをはやく助けなきゃ」

「変な人が来て、私隠れたの。愛ちゃんと斉藤さん、何か取られて、愛ちゃん腕つかまれて引っ張られそうになって、逃げようとして落ちちゃった。斉藤さんも変な人ともみあって、やっぱり落ちたの」

(ああ、ここじゃ、落ちるな)

目の前が暗くなった。

獣道の下側はいきなり急傾斜になっている。ここを落ちたらどこで止まるのだろう?

「優実ちゃん、スマホあるよね」

「あ~っ」優実は悲鳴をあげて顔色をかえた。「私、手に持ってて…。ない、ない。落とした?ああ、ない。どうしよう!」

体中をいそがしく探ったが、肝心な物は出てこない。

「どのへんに隠れたの?近くにあるさ。心配しない」

励ましながら探したが、彼らには二度と探し当てることはできなかった。

「あれっ?けがしてる?優実ちゃん、ほら、血」

またまたの心配事だ。優実の手や上着にもあちこち赤いものがついている。

「えっ?」自分をくまなく探っていた彼女が、梶原をあらためて見て、目を見張る「ちがう、私じゃない。主任だよ!」

「えっ?」

こんどは梶原が自分を探る番だったが、傷はすぐにわかった。あの山賊は殴ったのではなかった。ブッチャー・ナイフで冷酷に切りつけたのだ。首すじから鎖骨の下にかけて縦一直線の傷があり、鎖骨が切断されかけていた。出血もひどかったが真っ赤なシャツに赤のウインドブレーカだったので、本人は全く気づかなかったのだ。

(ちくしょう、不可抗力でぶつかったのに、この仕打ちかよ)

自覚して初めてはっきりとした苦痛がきた。彼は今後の時間が、この痛みとの戦いになることを覚悟した。


            2


「待って。なにか聞こえる。呼んでる、斉藤くん?」

「斉藤か?…おい、斉藤!どこだ?…そっちか?今、いく」

(斉藤が生きてる。愛ちゃんも無事かもしれない!)

希望に痛みを忘れた。右に15mほど離れた潅木の向こうから、誰かが必死になって這いあがってきていた。

「斉藤!よかった、心配したぞ」

駆けよって手を貸そうとしたが、恐ろしいことに左手は指先しか動かせず、力をいれるとちぎれかかった鎖骨がたわんで、悲鳴をあげるほどの激痛が走った。

梶原はほとんど役にはたたなず、優実が機転をきかして斉藤を下から押しあげた。

斉藤は傷だらけになりながらも愛莉を背中にしがみつかせ、この傾斜を登ってきたのだ。

「あ、主任、ああ、よかった…。愛ちゃん、足くじいてますよ。おれは大丈夫っすけど」

「愛ちゃんっ!やだぁ、心配したよぉ」

優実は愛莉にしがみつき、声をあげて泣いた。

愛莉の足首はすでにかなり腫れていたから、バンダナを巻いてからそのへんの木切れを両側からあてがい、ウインドブレーカの襟ひもでしばった。枝や葉で切ったらしく顔や手などに擦り傷、切り傷がいくつもあったが、これは大したことはなかった。

「主任、きのう優実ちゃんを落としたの、今の人よ。服装も同じ。私、覚えてる」

「そうか…。やりそうなことだ。斉藤はひどいケガはないか?すげー刃物持ってただろ」

「いや、おれは女の子がいたから、逆らわなかったっすよ。でも、調子にのって愛ちゃんに手を出したんで殴りあいになって、愛ちゃん落っこっちゃって…。やっぱ、場数踏んでるヤツは強えーワ。おれ、カウンターで谷底っすよ」

大体状況はわかった。早いとこザックを見つけて、登山道にもどったほうがよさそうだった。

それでも打撲や切り傷、擦過傷でボロボロになっている斉藤を休ませたかった。この最高の功労者を疲弊させては今後の行動に影響する。せめて消毒液でもあれば、彼の満身創痍を手当てしてやることもできたのだが、斉藤は気が立っていて、ポケットから出した水をがぶ飲みするとすぐ立ちあがった。

これでは止めてもイライラさせるだけだ。3人は愛莉だけをやぶ陰に隠し、白いレジ袋を目標に探しはじめた。

「主任、愛ちゃんといっしょにいてください。ムリっすよ」

「そう、そう。愛ちゃん一人置いとくのあぶなそうだし」

斉藤も優実も心配してくれたが、やはり、そんな心境ではなかった。

だが、いくらそれらしきところを往復しても何もなかった。だんだんに捜索範囲を広げ、ときおり立ち止まってポリ袋のガサガサいう音を聞き分けようとしたが、音どころかなんの痕跡も見つけることはできなかった。

空はもうすっかり曇って、変に風のないイヤな日だった。

どれくらい時間がたっただろう。

探しあぐねて、彼らは声をかけあいながら一旦、愛莉のもとにもどった。

「さっきの人、来ないかしら。私たちは隠れてて男の人が聞けば、道だけなら教えてくれるんじゃない?」

優実が希望的観測を口にしたが、犯罪者の善意には期待しないことにした。虫の居所がわるければどんな行動にでるか、梶原の痛々しい傷がそれを物語っているではないか。

いったいどれほど登山道からはずれたのだろう?晴れていれば太陽の方向から、方角を割りだすこともできる。が、この曇天ではそれも期待できなかった。

「切り株があれば年輪の幅で南北がわかるんだ」

だが、見通しの悪い樹林では、年輪のわかるほどの切り株を探すこと自体が困難だ。

少し高度を上げて探索するも、このあたりは踏み跡が縦横に走っていて、よけい本道が解らない。登山道でないことは確かなので、雲取山に数千頭いるという鹿の捕食道かもしれなかった。

「あー、腹へったなぁ」

「のどかわいちゃった」

「何時ごろかしら?」

3人がとほうにくれた声をだした。梶原は多少の食料を持っていた。

山岳行では基本、小休止のたびにおやつを口にするのだが、いちいちザックからだすのが面倒なので、ポケットやウエストポーチにゴチャゴチャとつっこんであったのだ。

カロリーメイトが1箱、かりんとうの小口袋が5つ、柿ぴー小袋7~8個、干し梅1袋、都こんぶ1箱などだった。探せばでてくるもので、斉藤が100ml少々の水とチーズたら1袋、愛莉はこんにゃく畑4つ、ミックスナッツの食べかけ、優実がドライマンゴーの袋をもっていた。水が少ないないことが不安だったが、小休止をとることにした。

「配分は斉藤にまかせる。この先、付加はすべておまえにかかるのだから、おまえは余分に取れ。もし、今日下山できなくても、明日には救助がくる。それでも念のため3日はもたせてくれ。おれは今のところ、食い物はなにもいらない。さっきから吐き気がするんだ」

「はい、慎重に配分します。その吐き気って、骨やられてるからっすよ。骨折でもそうすよ」

今日下山できないという言葉に女の子たちが顔色をかえて身震いした。

「近くに優実ちゃんのスマホが落ちているから大丈夫。家から電話がかかってくるかもよ」

「そっか、優実ちゃんのは、おれたちみたいに盗られたわけじゃないんっすね。じゃ、スマホも探さなきゃな」

斉藤はわざと明るく言ったが、なにか頼みの綱に見はなされたような心細い不安が、重い帳のようにおりる気がした。

その後、太陽は一度も顔を見せることなく、夕方の光線になりつつあった。それまでに何度か人の声らしきものは聞いたが、風向きや地形のせいらしく呼んでも全く反応はなかった。

樹林がさえぎって、こちらの声はとどきにくいのだ。

ザックもスマホも登山道も、すべてが消滅してしまったかのように、見つけだすことができなかった。

あせりと不安と夜への恐怖で、愛莉も優実も泣きそうな顔になっていた。斉藤がいくらのん気にふるまって見せても、彼女たちの額の縦じわを消し去れなかった。

「明るいうちにビバークポイントを探そう」ついに梶原が言った。「洞穴のようなところで、4人が固まれるようなところがあればいいんだが…」

そんなに都合のいいところはなかった。かれらはそのあたりで一番大きな木の風下に集まった。

「斉藤、左右の潅木の枝を一箇所にたわめて、屋根にするんだ。優美ちゃんは葉っぱのいっぱいついた枝を集めてよ」

だれもが瞬時に意味を理解して行動した。靴ひもをはずし、怪力の斉藤が手繰りよせる、かなり太い木の幹もしばった。

しばらくして作業は終わった。薄暗くなりかけていたからだ。4人は木の根元にめいっぱい集めた枝を敷いて寄りかかった。斉藤はうしろから優実を抱き、梶原は愛莉を大切に抱え込んだ。靴をゆるめて足を投げだすと4人は緊張がゆるむのを感じた。

梶原は前かがみになると骨に負担がかかってひどく痛むので、こうして胸を張るように後ろに体重をかけていられるのは本当に楽だった。

今のところは暑くも寒くもなかったが、夜中から明け方にかけてきっと気温がさがるだろう。全員がウインドブレーカをつけているのが、せめてもの幸いだ。

「のどかわいちゃった」優実が訴えた。「がまんできない」

斉藤は了解して、夕暮れのわずかな残照を頼りにペットボトルのふたに水を入れ、2回皆に回した。もちろん誰もが足りないと感じたが、梶原だけは水すら受けつけない吐き気で、あやうく貴重な水をムダにするところだった。何とか飲み下したものの、吐き気の強い筋肉収縮による痛みはかえって体力を消耗させる気がした。彼はそれっきり、水にすら手をださなかった。

夜中に弱い地震があった。震度3くらいのたいしたものではなかったけれど、真っ暗闇の中、まわりじゅうの木々が鳴動する山鳴りは4人を震撼させた。

(山は怖い)だれもが思った。そう、山の素顔は怖いのだ。

「電話、来ないね」優実が悲しげに言った。「お母さん、心配していないのかしら?」

「もう、とっくに警察に連絡しているよ。鳴らないのは電波がとどいてないからだ」

斉藤が安心させたが、彼自身も着信音を心待ちにしていたことは事実だった。

着信すれば光るから、それを目当てに拾いあげられれば万事問題はなかったのだが…。


            「3日目」


              1

 夜が明けたとき、4人は夜露にぬれて凍えていた。

体がかたくこわばって、しばらくは自分の体が借り物のようにうまく動かせなかった。

気温があるていど上がるまで、4人は変温性の海イグアナのようにじっと動きを止めていた。

心配だったカやブヨ、ヒルの被害がなかったのは、ひとえに気温の恩恵でもあった。

「今日、どうするかっすよね」

「稜線をめざそう。発見されやすいし。上手くしたら来た道に出られるかもしれない。山賊がでるくらいだもの、登山道からそんなに離れていないさ」

「私は下りたい。下には沢があるわ。そのまま麓まで行けるかもしれない。もう、のどがかわいて死にそうなの」

「だめだよ。上をめざすのが登山の鉄則なんだ。沢は足場がわるくて危険だし、行き止まりのことも多い。それでみんな遭難する。そのテツを踏んではいけないんだ」

「私は遭難なんかしない。みんなだって。ただ、水かなければ結局、動けなくなっちゃうわ。下には水があるのよ。一息ついて、それから考えたっていいと思う」

「ごめんなさい。歩けない私が口をだしちゃうけど…。私、下りなら腰を下ろして自分でズッて行けると思う。斉藤さんには迷惑かけられないし、私、これからは自分で動いて行きたいの。それには下しかない」

「心配するな。愛ちゃんは軽いから、おれは2人ぐらいしょっても上がれるよ。でも、主任。おれ昨日、落っこって見たんですけど、けっこう沢はひらけてて、あっちのほうが発見されやすいんじゃないかな。このごろのレスキューは川筋を先に探すっていうし。下りましょう。たいした距離じゃないから、そのほうが体力を温存できるっすよ」

「お願い!下りましょ。ね、ねっ」

「こうやって考えてるヒマがあったら行動ですよ。声だって、沢のほうが届くっしょ。ここはもう『堂所』にかなり近いと思うんです。険しい上をめざすなんてムダなことっすよ」

「…そうだな。…下りよう…」

みんなに押し切られたような苦渋の決断だった。谷筋が危険だという知識は初心者にだってあるのに、結局、こうしてみんな谷をめざしてしまうのだ。

下りる前に愛莉の捻挫を点検した。昨日より腫れは引いているが、痛みは残っているはずだった。だが、愛莉はガンとして痛いとは言わなかった。優実のハンドタオルも総動員して、添え木をきっちり当て直す。しっかり固定しておけば痛みも少なく、何よりも後の回復が早いのだ。

傾斜は急で地面は泥に落ち葉がつもっていた。所々に岩が突きだしてもいたが、潅木の枝につかまりながら尻をズッったり、うつぶせたりして下りるのは思ったほど困難ではなかった。転げ落ちないように神経は使ったが、けっこうつかまり所があったので、体はかなり安定した。

「愛ちゃん、ほら、ここ、この枝つかむと楽だよ。そうそう、こんどはこっちの左側ね」

優実は一生懸命、愛莉の面倒を見つづけている。

腕力のある斉藤がまっさきに下りきり、

「ここ。ここのほうが楽に下りられる」

と道案内したり、優実や愛莉を抱きおろしたり大活躍だった。

下りてみると、たしかに沢は広かった。

斉藤も優実も愛莉まっさきに水辺へ這い寄った。上を見上げると雲の切れ間が見え、太陽がさしこんできた。遠くで雷が鳴っているのが不安材料だったが、木々や藪や下生えにさえぎられた山の中より、はるかに見通しがきく。

更にうれしいことには、下流の方に両岸の樹木が伐採されて山肌が開けた大きな空間があった。

「家に帰れるかもしれない。ううん、ぜったいに帰れる」

優実のつぶやきはみんなの実感だった。

希望がみえると元気がでる。

(やっぱり、沢筋に下りて正解だったのか)

反対した梶原ですら、そう思った。

「おーい、おーい」

と叫んでみても、声が吸い込まれるだけで返事はなにもなかったが、開けているせいで山の中よりは失望も落胆も少なかった。雷雨の前の蒸し暑さがムッときて、優実がウインドブレーカを腰に縛りつけた。

「雨が降りそうだ。早めに行き着きましょう」

斉藤は遠慮する愛莉を強引に背負うと、下流の開けた場所に向かった。岩がゴロゴロして歩きにくく、なかなか距離が縮まない。パタパタと音がして大きな雨粒が叩きつけだ

した。雷鳴もおどろくほど近くではためいた。

「川から離れよう」梶原が叫んだ。「水が来る。玄倉川になるぞ!」

キャンパーが増水で流されたあの事故は、だれもが知っている。みんな顔色をかえて岸の高みをめざした。ザアザアという沢音に石の流れ下るガチャガチャという聞き慣れない音が混じりはじめた。

鉄砲水の第一波だ。

「みんな、もっと上がれ」

怒鳴った梶原の目のはしを、オレンジ色のものがスルリと落ちる。

優実のウインドブレーカだった。

「あっ、ああっ」優実が必死で手をのばし、つかんだと思った瞬間、彼女はもんどりうって水中におちていった。間髪をいれずに梶原が飛びこむ。

激痛に悲鳴をあげながらも、ひっつかんだ優実を岸辺に押しあげようとする。さっきまで腰ほどだったのに泥水は一瞬で彼の胸をひたしていた。じりじりと流されるので斉藤がせっかくつかんだ優実の手がはずれる。

(優実だけでも助けたい。連れてきた責任がある。おれは女ひとり救えないのか?)

必死で力をふりしぼるが、水は肩をこえて踏みとどまるだけで精一杯のありさまだ。彼ははじめて絶望の目を空に振りむけた。

大胆にも斉藤は躊躇なく飛びこんでいた。強い腕力で優実を確実に岸に取りつかせる。

力尽きた梶原が流されていくのを目のはじに捉え、水流に乗って追う。さえぎるように突きでた大岩に引っかかった彼が、まだ意識があるらしく這いあがろうとするのが見える。

追いついて先にあがる。かなりの大岩なので、第二、第三の鉄砲水が来たとしてもなんとか避けられるだろう。襟首をつかんで強引に引きあげると梶原がそれに反応して自力で這いあがろうともがくのがわかった。

斉藤も梶原もしばらく全く身動きがとれなかった。驟雨が去り雷鳴もおさまると、ふたたび太陽が顔をだしはじめた。

斉藤は立ち上がろうとした梶原が変によろめいてひざをつくのを見た。はだけたシャツから見える鎖骨は完全に折れて、長いほうの一端が肩からななめに体の中に埋没していた。さっき優実を岸にとりつかせようとして折ったのだろう。わるくすれば肺上部が傷ついているかもしれなかった。

斉藤は痛ましさに目をそらした。同時にこの緊急事態に、梶原が完全な戦力外になったことも自覚した。

だが、こういうときにどうすべきかを斉藤は知っていた。

「主任、あなたには責任がある。これからのことを教えてください」

絶望と放心の入り混じった梶原の目に光がよみがえるのがわかった。

「女の子を呼ぼう。あの広い所で、日のあるうちに濡れたものを乾かさなきゃいけない。川原に干せば救助ヘリからも見えるだろう」

まったくそのとおりだった。斉藤は優実と愛莉を呼びよせたが、おびえた彼女らはなかなか沢に下りようとはしなかった。

「あはは、薬がききすぎちゃったな。いまさらこわがっても水はこないよ」

豪快な彼はこんなときでも意識して笑うことができた。愛莉を背負い、下流のひらけた空間に向かって、斉藤は重戦車のように進みはじめる。増水でぬれた岩肌はかなり歩きにくいものだったが、なにがなんでもたどりつかなければならなかった。雷雨が過ぎてからというもの、ひんやりと空気温がさがり、夏を思わせる日差しでもなかなか回復しなかった。

太陽の位置から見て午後2時ごろだろうか、やっと目的の場所についた彼らは下着だけになって衣類を日に干した。おそらく夜は冷えるだろう。日のあるうちにできるだけ乾かしておかなければ生死にかかわる。

「ヘリの音じゃない?」

このころから優実はこんなことを口にするようになった。彼女か言うと愛莉もすぐに同じことをいう。仲のいい2人には、幻聴も連動しておきるようだった。


            2 


「やだ、お母さん?ほら、あそこ、あそこ」

「え?愛ちゃん、ちがう。警察の人よ。助けに来てくれたんだわ」

愛莉と優実は交互に幻を見るようになっていた。走り寄ろうとするのを抱きとめて確認させるとすぐにまちがいに気づくのだが、認知症の人を介護するように気がぬけない。

午後4時をまわったころだろうか、まだ陽があるのに陰った沢沿いはしんしんと冷えてきて、今夜の寒さが思いやられる。衣類はあらかた乾いたので、彼らは増水の危険のある川のそばを避けて高みに上がり、大木の根元が大きくえぐれて、屋根のように張りだしたところを見つけだした。1泊目よりはるかにいいビバーク地で、4人はそうそうに敷枝を取りに散った。

その最中に、梶原は自分の傷口に違和感を感じた。さわってみるとぬるりとした、いやな感触があった。それでハッと気付いた。

ヒルの生息地であることをわすれていたのだ。血のにおいに誘われて、5~6匹が貪欲に吸いついて、丸々と5cmくらいに血ぶとりしている。まるでパニック映画そのままだ。

さすがにゾッとしたが、女の子に知られてはいけなかった。

彼はそっと斉藤を呼んだ。

「ほら、これ。ひっぺがすから、石でたたきつぶしてくれ。おれ、傷にひびくんでできないんだ。愛ちゃん、優実ちゃんにはないしょな」

斉藤はいざとなるとほんとうに肝のすわった男で、顔色も変えずにヒルを丹念にたたきつぶし、血の飛び散った凄惨な現場を土にうめた。しばらく血が止まらず、梶原はそれを指にうけて舐めた。ムダにはできない貴重な血だった。自分の血だからだろうか、吐き気はせず、気味が悪いとも思わなかった。

日が暮れると、気温はますます下がった。きのうの晩のように斉藤は優実をうしろから抱き、梶原は愛莉を担当した。斉藤は暗闇のなか手探りで、カロリーメイトとこんにゃく畑を1つづつ配った。満腹感のあるほうが女の子たちが落ちつくだろうと考えたようだった。

「主任、食べてください。ケガしてるんだし、だいぶ体力落ちてるんじゃ?」

「人間、4~5日は食べなくても持つよ。水は昼間、イヤというほど飲んだし」

うかつにも、こんなことを口走ってしまった。

「ごめんなさい」優実が必死に言った。「私よ、私のせいだわ。不注意でちゃんと上着を巻いていなかったから。…主任も斉藤君もほんとうにあぶなかったもの。私なんかあのまま流れちゃって、死んじゃえばよかったのよ」

「いやだ、優実ちゃん、そんなら私はどうしたらいいの?」愛莉も泣きながらいう。「もとはといえば私なの。私が悪いんだわ。足なんかくじいちゃって、ほんとにみんなのお荷物だもん。もう、どうしていいかわからない」

「バカだな!」斉藤が2人の頭を交互にゴツンとやった。「優実ちゃんがいなくなったら、おれはどうなるよ?おまえよりいい女なんか見つけられないだろ。愛ちゃんだってそうだ。主任は前から愛ちゃんのことが大好きなんだよ」

「っちょ、ちょっと待て、斉藤」

「主任、いいじゃないっすか。主任はコミュ症だから、バレたほうがいいんじゃねーの?」

「え?いや、あ?そんな…」

体温が急上昇した。身も蓋もなかった。彼は傷の痛みを忘れるほど狼狽した。

そのくせ、暗闇にまぎれて愛莉をちょっと強めに抱きしめていた。されるままになっている愛莉のやさしい温もりが、彼女の無言の返答の気がした。

外は星明りがあるらしく、暗闇に慣れるといくらか周りのやぶが見えた。だが、晴天の夜だけに、空気は放射冷却で冷えに冷えた。4人は寒さで一睡もできなかった。

夜半を過ぎたころだろうか、

「ヒ、ヨーーーーン」「ヒ、ヨーーーーン」「ヒ、ヨーーーーン」

という金属音が響いてくる。鳥の声なのだろうが、都会人の彼らが初めて耳にするもので、寂しいといえば寂しい、不気味といえば不気味だった。愛莉と優実がぎゅっと身をかたくするのがわかった。

「鳥っすよね?」

「うん、トラツグミだ。悪霊島って小説で『鵺の鳴く夜はおそろしい』って有名なあれ。昔から相鳴鳥(あいなきどり)っていわれてるから、雌雄2羽で鳴きかわしているみたいだ」

「やだ、『鵺の鳴く夜は人が死ぬ』ってあれでしょ。私たち、ほんとうに助かるの?だって、助けが来ないもの。昼間だってぬれた物を干してたのに誰も来てくれない。ヘリだって通らずにシーンとしてたわ。私たち、見棄てられたんじゃない?」

「まさか。レスキュー隊だって、やみくもに探すわけじゃない。山頂のほうから裾野に向かって探すんだ。おれたちはずいぶん下ってきているのかも知れない。だから、かえって捜索に時間がかかってるんだ」

「しっ、だれか呼んでる。ほら、ねっ。え?あっ、あー、あっち。ほら、声がする。いっぱい人が来てる。たすけてぇっ」

優実がいきなり斉藤の手をふり払って、天井の木の根に頭をぶつけながら飛びだした。

「斉藤、とめろっ」

言うより早く、斉藤は優実に追いついていた。薄暗がりの中で2人は動きをとめて沢のほうをじっとみている。

「あれが、救助隊か?しっかりしろ、斉藤。しゃがめ、かくれろ」梶原が這ってたどりついてきた愛莉にささやく。「愛ちゃん、こっちへ」

白いものがゆらゆらと隊列をくんで川向こうからこっちへ近づいていた。

たしかに人の形はしている。よく見るとぼんやりとザックをしょった登山者のかっこうで、足もあって交互に踏みだしてはいたが、どうみてもそれが沢の石を踏んでいるようには見えなかった。なんの音もしない。登山靴の音すらしなかった。

さらに奇妙なのは先頭の白い人がこっちの岸にとりつくと、そのまま川霧かモヤのように消えて見えなくなるのだ。

幽鬼だった。

この世のものではなかった。10人ほどはいただろうか。最期の1人が消えてからも4人は全く身動きがとれずにいた。白い存在外の存在。そんなものを見たのははじめてだった。

「ヒ、ヨーーーーン」「ヒ、ヨーーーーン」

トラツグミが再び鳴きかわしはじめた。生き物の声に、彼らはビクッと体を震わせて硬直からもどった。そのまま地面を這い、えぐれた大木の根元にそうっと帰っていった。

外気の寒さと心霊的な怖さとで、しばらくは激しく震えるだけで声すらだせなかった。

「あれ、なんだったの?」

「救助隊でないことはたしかだ。集団催眠だよ。みんなで幻覚を見たんだ」

梶原の言葉に優実は本気で聞きたかった。もうほとんど口から出かかった。

「私たちもああなるの?」

さすがに口にはだせなかった。優実は必死でその言葉を飲みこんだ。

その後は夜明けまで、寒さとの戦いになった。

幽鬼も心霊も直接的には命を奪わない。

だが、寒さはちがう。着実に彼らを疲弊させ、体温と体力を奪い、緩慢な死へとみちびくのだ。


             「4日目」

               1


 凍るような一夜が明けた。6月の山は冬に逆戻りしたようだった。空は朝から雨模様で、さらに気温が下がり、身を切るような風が吹きはじめた。梶原はみんなから離れて、出水で荒れた木々のあたりをさまよっていた。なにか心に秘めているらしく、聞かれてもわけをいわず、手伝わせようともしなかった。

「みんな、こっちに来てくれ」やがて彼が叫んだ。喜色をふくんだ声にだれもが懸命に駆けつけた。「これを見てごらん。この岩の赤いしるし。人工のペンキだ。ここはきっとだれかが前に遭難した救助現場なんだ。木が切ってあるのは上空からのヘリのローターにふれないよう、この赤いペンキは地上から駆けつけたレスキュー隊がつけたんだ。たどっていけば必ず道か人家にでる。現に、ほら、あそこの枝の赤い布、ほら、あの奥にも。道しるべなんだよ」

だれもが歓声をあげた。助かるかもしれない。いや、きっと助かる。

希望は体力も気力もよみがえらせる。

「やったぁ、さすが主任っすよ。なんで言ってくれなかったんす?皆で探せば早かったのに」

「いや、確証がなかった。期待させて失望させるのが一番いけないんだ。ここで2手に分かれよう」

「え?どうして?」

「全員で行かなきゃ。バラバラになるのが一番いけないっすよ」

「そうよ。愛ちゃんは斉藤君におんぶしてもらって。私も手伝うから」

「それがいい。おれはまだそれぐらいできるよ」

「みんな、よく聞くんだ」梶原の声には強い決意があった。「道がわからなくなってから、もう、3日たった。遭難して救助率が高いのは2日目までなんだ。もう、おれたちには時間がない。斉藤と優実ちゃんが2人で道しるべをたどって救助を呼びに行ってくれ。足手まといになるおれと愛ちゃんはここで待つ」

「いやだっ」優実は子供のようにじれて泣きだした。「いやっ。絶対にいやっ。私も愛莉といっしょにいる。せっかく、皆でここまで来たのに。私と斉藤君がいなくなったら、主任も愛ちゃんもお終いだわ。絶対にそんなことできない。ほんとの親友なの、ずっといっしょに生きてきたのに」

「斉藤、優実ちゃんを説得してくれ。ここがもし『堂所』に近いとしても、麓まではまだかなりある。今日のこの天気では登山道にでても、登山者にすぐに会えるとはかぎらない。救助を求めて行くほうも大変な労力なんだ。1人より2人のほうが何かあっても対処できる。だから、できるだけ元気なうちに、2人で行ってくれ。そしてできるだけ早く通報してくれ。それが4人とも助かる確実な方法なんだ」

斉藤はすぐに理解してうなづく。

「優実ちゃん、いっしょに行こう。夜になったら、今日はもっと寒くなる。それまでに救助を呼ぼう。おれたちならできる」

「頼む。食料は1人分だけ残して、後はもって行ってくれ。おれと愛ちゃんの希望の綱は、おまえら2人なんだ」

斉藤はあたりを見まわした。

「わかりました。まかせてください。そして全員助かりましょう。そしていつの日か、みんなでまたここに来ましょうよ。全員が顔を合わせるんだ。ほら、このL字型の特徴ある岳カンバの木の下で」

「そうだな。生きて帰ってまた、ふたたびここに集おう。さぁ、行ってくれ、斉藤。優実ちゃん。愛ちゃんもおれも絶対ここで待ってる。だから、安心して」

「優実ちゃん、私には主任さんがいてくれる。優実ちゃんの斉藤さんみたいなもの。だから優実ちゃんがいるとちょっとお邪魔ムシ」

「はい。はい」

愛莉の言葉に優実はちょっと泣き笑いした。斉藤はもう振り向かなかった。彼は決然と歩き出し、優実は2人に手をふって彼に従った。姿はすぐにやぶの向こうに消えた。愛莉も梶原もしばらくは身じろぎもしないでじっとその方向を見つめていた。

「さあ、これでいい。今日か明日にはレスキューが来るよ。おれたちは体力を温存しながら待つんだ」

木の根の下の空間は2人減ったぶん、隙間ができていた。今夜の寒さを思うと彼らは枝集めにかなりの時間をついやした。

「愛ちゃん、足、大丈夫?戻ったら、すぐ医者に行ったほうがいい。折れてるかもよ」

「平気。私、足に負担かけないように、こうやって横に動くワザを編みだしたんです。ゆっくりとだけど。主任は肩どうですか?痛いでしょ」

「いや、おれはずいぶん楽になった気がするよ。脳内麻薬がでてきたのかな。なんだか何でもできそうだ」

パラパラと小雨がやってきて木々の葉を叩いた。彼らは体をぬらさないよう、すぐに木の根の間にもぐりこんだ。斉藤と優実が気になったが幸いにもすぐに雨はやんだ。

「ああ、おれ、幸せだな。愛ちゃんをこうして抱っこしてると、なんか、こう、将来的に結婚したくなっちゃう」

「え?私でいいんですか?私、前から主任のこと大好きだったんです。でも、私なんかじゃダメだろうって。ステキな先輩たちたくさんいたし」

「おれには愛ちゃんしかいないよ。愛ちゃん、もう一度言って。大好きって」

「主任、大好き、大好き、だ~い好き」

「ああ、何という甘美な言葉。斉藤だったらこう言うな。もう、最高っすよ、って」

「斉藤さんもいい人ですよね。頼りになるし。優実ちゃん、斉藤さんにベタ惚れだもん」

「そうか、斉藤も幸せだな。あいつはイザとなると本当に腹が据わる。会社でも出世頭になるよ。…あ、また会社のこと言っちゃった。優実ちゃんがいたら、怒られるな」

2人はちょっと笑った。救助が来るかもしれないという希望が、彼らの心に余裕を生んでいた。

風がまた強くなり、外気温がさらに下がった気がした。アンダーシャツと長袖シャツ、ウインドブレーカではどうにも寒さを防ぐことはできなかった。見失ったザックにはダウンベストやフリースなど暖かい衣類が装備してあったのだ。いまさら悔やんでも仕方がなかった。彼らはふるえながら抱き合って固まっていた。

梶原は体がかなり熱っぽい気がしていた。(破傷風でも感染したかな?潜伏期間は最短で3日だよな)熱でうまく働かない感じの頭で、ぼんやりとそんなことを考えていた。

「もう、何時ごろかしら」

「そうだな。まだ、午前中だな。この寒さじゃ、斉藤も優実ちゃんも苦労してるだろうな。なんとか無事にたどり着ければいいが…」

本当に祈る気持ちだった。4日や5日たっても助けだされる遭難者はもちろんいる。

だが、たいていは高い外気温に助けられたり、装備や食料もしっかりあり、なによりもケガをしていない。ないない尽くしの彼らは、一刻も早い救助が大きく明暗をわけるのだ。

「優実ちゃん、大丈夫かな。私と同じで幻覚見てたりしてたから、変なほうへ行っちゃうとかないかな?」

愛莉は心配そうだ。やっぱり、思いは悪いほうへと傾くのだろう。

「斉藤がいるから大丈夫。それに山で幻覚を見るのはそんなに珍しいことじゃない。おれの友達の自衛官なんか、レインジャー資格持ってるんだけど、重いフル装備で3日も4日も徹夜で山中突破をするんだよ。そうすると、幻覚幻聴なんて日常茶飯事だって」

しゃべるのは体力を消耗するが、確かに気はまぎれる。愛莉には余計な心配をさせないほうがいい。それに自分自身だってぼーっとした頭でいるよりは、しゃべっていたほうが良かった。

彼は続けた。

「山中突破は食料や水だって、自分で調達しなけりゃいけないんだ。そいつは腹がへって、蛇をつかまえて焼いて食ったって。なんだか骨っぽかったそうだよ。でも、体が疲れきっているんで味は旨いんだか、まずいんだかわからない。だから、またチャンスがあれば食ってみたいってさ」

「私たちもやらなきゃいけないかしら」

「その前には助けだされるよ。心配いらない。…それでね、そいつ、山ん中できれいなモノを見たって。愛ちゃんは知ってるかな?妖怪図鑑なんかに出てくる『茶袋』ってヤツ。そいつ、それを見たんだよ。レインジャー訓練は時間が決まっていて、遅れると失格だから、夜だって月明かりをたよりに山を登る。そしたら、西陣織みたいなキラキラのきれーな袋が目の前の枝に下がってる。それが目の前すぐに見えたり、2~3m先に見えたり、所を定めない。きれーだなとは思ったけど、訓練の真っ最中だし、時間が押してるので、無視してさっさと通りすぎた。『茶袋』は無視するのが正解なんだ。きれいだから欲をだして取ろうとすると、ガケなんかから落とされちゃうんだ。そういう悪さをする妖怪なんだよ。『茶袋』って名前は茶道なんかでちゃわんや茶壷を包む『仕覆(しふく)』のことで、買えばけっこう高いものなんだ」

「悪い妖怪なのね」

「そうだね。人間の欲を刺激するっていうかね。おれだったら、たぶん取ろうとするね」

「私も」

もう、午後の何時ごろだろう。考えまいとしても最悪のシミュレーションが頭に浮かぶ。斉藤や優実がもし、登山道や人里にたどりつけなかったとしたら。いや、そんなことはない。4人全員が生きて帰り、ふたたびここにある岳カンバの木の下で笑いあうのだ。

ついに雨が降りはじめた。風もかなり強くなったようだった。

雨は風にあおられて木の根の間から吹き込んできた。彼らはできるだけ体を縮めて、奥の土にぴったりとくっついた。

天候はますます悪くなり、山ははっきりと荒れ模様の様相を呈してきた。雨脚は激しくなり、沢への傾斜を雨水が川のように流れた。しばらくして、いよいよ恐れていたことが起きた。天井の根っこと土を通して雨漏りがはじまったのだ。まわりに敷いていた木の枝を根と土の間にはさんだが、そんなことではどうすることもできなかった。

彼も愛莉もこうなってはぬれるに任せるしかなかった。

「愛ちゃん、待ってて。外にでてもっといい場所を探してくる」

愛莉は寒さのために白くなって朦朧としていたが、必死でしがみついてきた。

「だめ、…外は体が…ぬれちゃう」

とぎれとぎれの言葉は彼女の懸命の努力によって発せられたものだった。最悪の低体温症の兆候がすでに彼女にもあらわれていた。外に出ればどうなるか、愛莉もそれを知っている。

だが、移動するなら、体の動くいまのうちなのだ。

「ここにいても同じだ。すぐ帰るから、ね」

梶原は風雨の中に出ると、体感温度は氷点下の気がした。山全体がゆれうごくような風が吹いていた。沢がまた増水するだろうから、あまり水のちかくは危険だ。しばらくさがしまわったが、この状況では乾いた場所を見つけるのは至難の業だった。彼はびしょぬれになって愛莉のもとに帰るしかなかった。

体の熱がさらに上がった気がした。

梶原はウインドブレーカを脱ぎ、彼女に着せ掛けた。

「…だめ、なに?…だめ。…だめ」

「いや、おれ、熱くてたまらない。着てると熱がこもって苦しいんだ」

愛莉は緩慢に手を伸ばして彼の体に触れたが、熱っぽさはまるでなく皮膚は氷のように冷えきっていた。

「うそ。…だめよ、脱いじゃ。…こごえ…ちゃうわ」

彼女はせっかくの上着をふりはらおうと力なく身悶えた。

「本当に熱いんだ。破傷風かも…しれない。…きっとその熱なんだ。…体を…冷やさなきゃいけない」

体の芯から猛烈に熱かった。吐く息すら、熱気で燃え上るような気がした。

梶原は長袖のシャツもむしり取るように脱ぎ捨て、それを愛莉と自分の渡したウインドブレーカの間に押しこんだ。せめてもの保温のつもりだった。

だが、濡れた衣類は逆効果だ。すでに正常な思考を失っている証拠だった。

彼女は拒否の動作をしたが、弱くゆるやかで、そのまま睡魔に吸いこまれるように動きを止めていった。

彼はささやいた。

もう、ほとんど言葉にならなかったから、もどかしい想いを念じただけにすぎなかったが。

「愛ちゃん、帰って。おれも帰りたい。ホントに一緒に帰りたいよ。でも、もう帰れる気がしない。…愛ちゃんといっしょの4日間、楽しかった、最高だった。おれは愛ちゃんをいつも見てるよ。だから、君だけは帰るんだ」

つかの間、体が冷やされて呼吸も心臓も楽になった気がした。

だが、次の瞬間には焦熱地獄のなかにいた。梶原は悶えるように最期のアンダーシャツも脱いだ。それでやっとの思いで彼女のひざから下を覆った。

彼は愛莉を目に焼き付けると、嵐の外によろめきでた。肩の傷が焼けるように痛んだ。

彼は地面の流れを見てそこに横たわり、水に傷口を押しつけた。冷やされて痛みが軽減され、少しは楽になった気がした。


           2


「今、何時ごろかしら?」

優実が聞いた。

「さぁ?午後1時ごろかな。よくわからない。おれたち『堂所』より、かなり上にいたみたいだ。今がやっとそのへんかな」

優実は言葉もなくその場にへばった。彼女の体力はかなり落ちていて、もう、これまで何度となく休憩をしていた。もちろん道ははかどらない。斉藤もクツズレをおこしていたから、努力と時間のわりには進んだ距離は微々たるものだった。

「ごめんなさい。私はほんとうに足手まといだわ」

「そんなことはない。おれは優実ちゃんがいるからガンバれる。優実ちゃんがいなければ、おれとっくに、どうにでもなれってそのへんにひっくり返ってるよ。こっちの風下で少し休もう」

「愛ちゃんどうしてるかな。私たち、いつもいっしょだったから…」

「大丈夫。しっかりした子だし。なによりも主任がついてる」

斉藤は優実をうしろから抱きかかえたが、2人とも寒さでガクガクと震えていた。

「山って6月でもこんなに寒いのね」

「うん、寒冷前線が通過してるんじゃないのかな。かりんとうがある。少し食べよう」

「私、あんまり食べたくない」

優実は渋った。

「だめだ。食べろ。舐めていれば溶けるよ。ほら、水もあるから飲んで」

斉藤はせっせと優実のめんどうをみた。彼女がいるからガンバれる。これは本当の実感だった。

寒さに耐えかねて、2人はまた立ち上がって赤い道しるべをさがした。風で枝が動くので、古い赤い布はかえって見つけにくかった。それでもたどって行かなければならない。さしあたって彼らの唯一の命綱なのだ。

「優実ちゃん、ほら、雨だ。体をぬらしたら、ホントやばいことになる。急ごう」

優実も顔色をかえて必死に足を前に動かした。どこまで行ってもかわりばえのしない木立だけが続く風景だった。風が強くなり、雨もしだいに本降りになっていった。彼らがどんなにがんばっても、腰から下は雨にぐっしょりぬれてしまっていた。

優実は眠そうな表情になり、足がしっかり上がらず、つまずきがちになった。危険な低体温症の症状だった。斉藤は彼女を背負い、さらに先をめざした。

(ここはどこだろう?)

鈍くなった頭の中で、その疑問だけが渦巻いていた。彼は知る由もなかったが、赤い道しるべは小袖集落の裏に通じる道だったのだ。どれくらい進んだのか、いきなり舗装道路に出た。久しく見ていない物を見たように、戸惑わざるをえなかった。立ち止ってよく見ると地元の人のものらしい物置と屋根付のガレージがあった。人気(ひとけ)は全くなかったが、とにかく人工物のあるところにでたのだ。

様子からして、山仕事の道具を置く小屋と、そのための駐車場に見えた。ここに人家はなくても、下ればきっと人が住んでいる。斉藤は気力がよみがえる気がした。

「優実ちゃん、ほら、見てごらん。人が住んでいる証拠だ。人のいるとこにでたんだよ!」

「…うん?」

全く無関心な返事がかえってきた。低体温で周りの状況を察知して判断することができなくなっているのだ。とにかく道に沿ってひたすら下った。

「優実ちゃん大丈…夫?かんばって」

彼自身、ろれつが回りにくいもどかしさを感じていたが、背中に向かって声をかけ続けた。

「もう少し、もう少しだ」

雨はたたきつけるように、風は行く手をさえぎるように吹きつのった。斉藤は自分の足がよろめくのを感じた。石垣の上になにかがあった。彼はそれを振り仰いだ。

家だった。

激しい風雨に雨戸をかたく閉ざしてはいたが、まぎれもなく人のぬくもりのある家なのだ。

道路から玄関までの石段が戦いになった。さすがの彼も朦朧とした優実を背負っての強行軍は骨身にしみてこたえていた。それでも斉藤は這い登った。

「優実ちゃん、ほら、ここで通報してもらうんだ。きっとだれかいる」

もう、全身がぬれそぼって、ふるえすら弱くなり、体が思うように動かなかった。最期の石段を登りきったとき、優実が背中からすべりおちた。

「優実ちゃん、そこで待ってて」

助けあげる力はもう残っていなかった。玄関の開き戸にすがりついた。

「助けてください。だれか、だれか」

くぐもるような弱い声が、中の人に届いたかどうかもわからない。斉藤は地面をはいずりながら軒下までもどり、雨落ちの石を掴みとった。握り拳大の石が巨大な巌のように重かった。

自分自身をも叩きつけるように、石でガラスを打った。ガラスが割れ、ギザギザの破片が腕をしたたかに切った。ビンッとした痛みが一瞬だけ彼を覚醒させた。

「助けてくださいっ。遭難したんですっ」

あわただしく、複数のだれかが出てきていた。びっくりした声や励ます言葉が聞こえた。

「外に、1人そこに」

その指の先に、もう優実はいなかった。助け起こされて、彼女は死力を振りしぼって自力で歩いたのだ。生きようとする強い意志と力が、彼女の細い体ををささえていた。それを見て斉藤も猛然と立ちあがった。自分が何のためにここに来たか、使命感が彼を捕らえたとき、彼ははっきりとした言葉で自分の目的を伝えていた。

「仲間がまだ山の上にいます」


          3


 愛莉は夢見るような世界にいた。

遠くから、斉藤と優実が手をつないで、にこにこしながらこっちに来る。

(あ、そうだ、優実ちゃん、斉藤さんと結婚したんだ)

周りはガヤガヤと、複数の人のにぎやかなさざめきがしていて、なにかの楽しいセレモニーらしかった。オレンジ色の派手なスーツの一団が、隊列をくんでしずしずとこっちにやってくる。礼儀正しい動作で恭しくなにか言って、彼女を丁寧に持ちあげた。

(あら、お姫様抱っこ?)

そう思った時、向こうに梶原がいるのに気がついた。白いタキシードで颯爽と愛莉を見ている。

(主任、ステキ。私のバカ。私の結婚式じゃない。だめよ、お姫様抱っこは新郎の仕事よ)

スーツの人をつきのけようとした時、上空に迫る大きな紅白のヘリコプターが見えた。

大きくドアが開いていて、梶原が先に乗り込んだらしく、笑いながら彼女を招いている。

(ああ、そっか。このオレンジの人が私をヘリまで運ぶ役目なのね。主任かっこいい。すごいお金持ちだったんだ。私、幸せだな。このヘリで新婚旅行なのね)

上にあがると梶原ばかりでなく、斉藤や優実、その他の知らない人々までが彼女を取り囲み笑いさざめいている。明るく楽しい雰囲気に心までが暖かく浮きたってくる。

(斉藤さんや優実ちゃんまでいっしょの新婚旅行?最高。だれが考えてくれたのかしら?)

さっきのオレンジスーツの人がまた彼女のそばに来て、にこにこしながら何かを飲むようにすすめてくれる。受け取って飲んでみると、なんだかふんわりと眠くなってくる。

(あら、何これ?ああ、眠っているうちに旅行先に着くっていう演出ね。すっごいサプライズ)

愛莉は眠り込んだようだった。ヘリは高度を上げ、ゆっくりと向きをかえて風雨の中を飛び去った。

梶原は上空のヘリには乗っていなかった。彼は最期に横たわったままの姿で地上隊の収容担架を待っていた。雨にぬれてまだ生き生きとした瞳は、そのまま愛莉のいた木の根の下を見ていた。

「岳カンバの木の下で」

彼ら4人が再会を誓ったあのL字型の岳カンバは、今もその現場に立っている。

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岳カンバの木の下で(初期の作品です) 上松 煌(うえまつ あきら) @akira4256

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