この澄んだ夕焼けに
雪村悠佳
この澄んだ夕焼けに
夕焼け空を、ずっと眺めていた。
足下から広がる緑の野原。草をはむ牛。その向こうに少し霞む山々。……まるで絵に描いたような大草原の光景。その全てを朱く染めて、山の間へと夕日が沈もうとしている。
静かな時間の中を、夕暮れになって少し冷たくなった風が吹き抜け、さわさわと草擦れの音を響かせる。
「きれいだね」
すぐ隣で同じように柵に手をかけて、サヤカが言った。……同い年で幼なじみ。気が付けばいつも一緒にいるような女の子。
「そのままじゃん」
そう返しながら、でもそうとしか言いようがないよな、と少し思う。……視覚的な意味だけではなく。聴覚も、嗅覚も、触覚も。五感の全てで触れるものが「きれいだ」と思った。
僕が立っているのは、そんな風景の中に突き出た崖の上。腰ほどの古い木の柵は黒く変色して微妙に傾いていて、あまり強く体重をかけたら倒れてしまうんじゃないか、と思うような状態だ。
その柵を支える柱の一つに、僕は手を添えて軽く体重をかけている。身を乗り出そうとするとゆさゆさと柱が揺れて、慌てて体を引っ込める。
「なんか、いつまでもこうしてたいね」
切なそうにサヤカが言った。
「僕も」
サヤカの肩に手を置いたのはなんとなく……気が付いたら自然とそうしていたというような感じだった。
前髪が、風に吹かれてふわふわと揺れる。普段から少し細めのサヤカの目がさらに細くなる。
どちらともなく照れ笑いをして、互いに自分の腕に目を落とした。
「……わ、そろそろ帰らなくちゃ」
その時、サヤカがそうつぶやいて、一歩後ろに引いた。
「もうそんな時間?」
「うん」
「……タイミング悪すぎ」
小さく言うと僕はもう一度、目を細めて夕日をじっと眺めた。澄み通る夕日を、空を飛ぶ鳥たちの影がゆっくりと横切る。
大きく息を吸って、吐き出す。
山の端を染める朱。
止まっているかのような時間。
「うん、じゃあ行こ」
サヤカと顔を見合わせてうなずく。
そして僕は、腕輪の小さなボタンを押した。
途端に、辺りの光景が全て消え失せて、代わりに目の前に、狭いカプセルを覆う透明の蓋が現れる。
全身を覆っていた液体がゆっくりと出て行き、身体のあちこちを覆っていたケーブルが自動で外れる。
そして、最後にゆっくりと蓋が開いて、僕は目を開けた。
体を起こすと、隣のカプセルから同じように上半身を起こしたサヤカと目が合う。
「きれいだったね」
そう言って苦笑した後、ちょっと切ない表情を浮かべる。
僕はそっと周りを見回した。やわらかいクリーム色の、少しだけオレンジがかった……せめてものという感じで暖色系に統一された壁。窓すらもなく、同じ色で前後左右が包まれている。
さっきの余韻を楽しむかのように、もう一度目を閉じた。
しかし、それを遮るかのように、もう一度サヤカが急かす。
「急がなくちゃ。交代まであと5分だよ」
「え」
僕は腕時計をちらっと見た。
液晶表示で3本の針が表示されている、アナログなんだかデジタルなんだかよく分からない文字盤。その長針は、11を過ぎて12の数字に近づこうとしていた。
「やばっ」
そう小声でつぶやいて、そして僕はサヤカの手を引いて廊下の向こうへと駆け出していった。
今から数百年前。船の外の時間で言えば、既に数千年前、あるいは数万年前になっているのかもしれない。
その時までごく普通にあったはずの景色。
地球のこんな平和な景色は、永遠に失われてしまった。
温暖化。人口爆発。オゾンホール。際限ない化学技術の進歩。放射能汚染。食料不足。死の灰。……そして、果てしない戦争と。
わずかに生き残った人類が選んだのは、もはや青さを失い土気色になってしまった……もう生きていけない場所、故郷の星からの脱出だった。
宇宙船という巨大な密室に閉じこめられて。当てもなく……もしかしたら永遠にさまよう旅。
一緒に旅立った99隻の船の消息は、もはや分からない。
自分が生きてどこかの大地に辿り着くとは、もはや誰も思っていない。今までにもいくつかの星系を通り過ぎたが、人間が生きていけるような世界はどこにも残っていない。
……でも、未来の子孫のために、そして未来に人類を残していくために、僕たちは今日も銀河の海をさまよい続ける。いつの日か、どこかに辿り着くことを信じて。
今はもう船のコンピューターだけが知っている故郷の景色を、僕たちは一つ一つ焼き付けていく。
……この小さな船の中の世界しか、知らない僕たちは。
この澄んだ夕焼けに 雪村悠佳 @yukimura_haruka
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