身代わりの部屋

真榊明星

第1話 からだ

 三十代独身のSは家政婦のような仕事をしていた。

 たとえば、上京したてのひとり暮らしの我が子を心配して一週間家事をしてほしいという依頼であったり、半月ほど家を空けるから三日に一度掃除をしてほしいといった依頼などがある。

 とりわけ難しい仕事ではない。

 多少の気遣いと一般的な家事スキルがあれば誰でもできる仕事である。

 けれど、訳あってSは、この仕事を今すぐにでも辞めたいと思っていた。

 仕事の内容自体にとくに不満はない。人間関係だってそこそこ良好だし、給料だってSがひとり生きていくには十分だった。このまま続ければいずれはマネージャークラスに昇格するのも分かっている。

 しかし、それでも続けられない、どうしても許せないことが一つだけあった――

 依頼者である。

 もちろんほとんどの依頼者は良い人だし、なんなら何度だって依頼していただきたいと思うばかりである。

 しかし中には、性的な関係を持とうとする依頼者もいて、業務中のSの身体をじろじろと見てきたり、時にはありえないタイミングでアクシデントを装って触れてきたりすることも少なくない。

 はじめのうちは気づかないフリをして、どうにか上手くあしらっていた。

 でもそんな事が一ヶ月のうちに数回あったりすると、自分はいずれ恐ろしい目に遭うんじゃないかと不安ばかりが募り、目を閉じると恐怖に耐えきれなくなって眠れなくなることが多々あった。

 ついには、別になんともない普通の依頼であっても警戒してしまうようになり、自分が人間不信に陥っていると気づいたときにはもう手遅れで、何もかもがおろそかになって、気がつけば依頼者からの評価が星五から星二まで落ち込んでしまっていた。

 ……もう辞めよう。

 ある日の休憩中、Sはそう誓った。カレンダーを確認して、今からちょうど一ヶ月後の九月三十日がいいと思った。


 来たる九月三十日――

 Sは最後の依頼者のもとへ向かった。

 依頼内容は、先日他界した母親のかわりに息子においしいご飯をつくってあげてほしい、というもの。

 最後の最後になんて素敵な依頼が来たのだろう、そしてこれでようやくこの仕事ともお別れができる、とSは妙に浮かれた状態で車を走らせた。

 事前にいただいていた情報をもとに依頼者宅を訪れると、そこは新しめの一軒家だった。

 閑静な住宅街にふさわしい物静かな、良くも悪くも他の家とそう変わらないなんの特徴もない家。

 Sはさっそくインターホンを押した。

「はい」

 依頼主と思われる男性の低い声が返ってきた。すこし気難しい人かもしれない。

「本日お世話になります、EパートナーのSと申します」

 ほんとうはお世話をするのはSのほうだが、これは決まり文句なのであしからずといったところ。

「時間ぴったりですね。今開けます」

 ガチャリ、と玄関のドアを開けて現れたのは、インターホン越しに聞こえた低い声の主とは到底思えない、スマートで理知的な男性だった。Sは依頼者に対するイメージを瞬時に修正した。声が不機嫌そうに聞こえたのは、恐らく奥様を亡くされたショックから立ち直れていないからなのだろう……と。

「どうぞ、中へ入ってください。家事全般を家内に任せっきりにしていたので、だいぶ散らかってしまっていますが……」

 と、言いつつも家の中はきれいに掃除されていて、最近流行りのミニマリストなのか、物も最低限揃えてある程度しかない。つまりSがわざわざゴム手袋を引っ張り出して、業務用の強力な洗剤を用いてキッチンの清掃からスタートするなんてことはしなくて済むということだ。

 Sは心の中でラッキーと呟いた。

 いくら依頼内容が料理だけだとしても、そもそも作業場であるキッチンが使い物にならなければ必然と業務内容に清掃が加えられるのである。そんな家をSは腐るほど見てきた。とくにひとり暮らしの部屋には多い――男女かかわらず。

「ぜんぜん綺麗じゃないですか! これならおいしいご飯をたくさん作れそうです」

「それは良かった。息子はいま友達の家に遊びにいってるので、たぶんあと二時間ほどしないと帰ってこないと思います」

「ではそれまでに御夕食の準備をさせていただきますね。念のため確認なのですが、あらかじめアンケートに書いていただいたように、献立はお任せでよろしかったですか?」

「はい。それで問題ありません」

「承知いたしました。それではさっそく調理に取りかからせていただきます」

「宜しくお願いします。私は自室で仕事しているので、何かあればノックしてください」

 こうしてSの最後の仕事は始まった。

 まだまだ母の味が恋しいであろう小学生の男の子に、まったく違和感を覚えさせないための献立はもうすでに考えてある。あらかじめお願いしておいた食材もすべて揃っている。あとは調理を妨げるようなアクシデントさえ無ければいい。

 万が一、依頼者が妙なことをしてきたら……という懸念もどうやら無駄だったようで、心からホッとした。

 Sは手慣れた手つきで下準備に入った。

 それからしばらく経って――

 煮物の味付けの最終チェックをしていた時、二階で何かが落ちたような物音に驚いた。

 それはまるで重たい本が棚から落下したような音で、恐らく依頼者が誤って落としてしまったのだろうと思われた。

 しかし、ふとSは疑問を抱いた。

(あれ? いつ二階へ行ったっけ?)

 自室で仕事をしているという依頼者は一階の奥の部屋にいるはずである。二階へ行くにはどうしたってキッチンを通らなければならない為、Sが気がつかないはずはない。

 無論、Sが背を向けてるときにさりげなく通って二階へ行った可能性もあるが、けれどそれにしたって足音すべて聞き逃すどころか、人の気配をこれっぽっちも感じなかったというのはいささか妙である。

 とはいえ――そんなこと考えても仕方がない。

 依頼者がどこにいようがたまたま本(恐らく)が落下しただけのこと。

 Sは再び仕事に集中する。

 するとすぐに――ドサドサッ。

 今度は続けざまに二つのものが落下した物音が二階からした。

 何か整理整頓でもしているのだろうか、とSは何気なく天井を見上げる。その天井の向こうにはやはり依頼者がいるのだろう。でなければ犬や猫といたペットが二階にいるに違いない。いずれにしても偶然そんなに物が落ちるなんてこと、ありはしないのだ。

 だけど、何だか不吉な感じがしてならない。

 真っ白な天井がやけに近く感じる。Sがじっと見つめているうちに少しずつ迫ってきているような……気がしなくもない。

 いや、まさか。

 天井が生きているわけなんてないのだから。妙なことを妄想するのは止そう。このお宅へは仕事で来ているのだから自分はただそれに集中すればいい。

 ――と、我に返って、天井に張りついていた視線をさげた次の瞬間、Sは「きゃっ」と思わず声をあげてしまった。

 こちらをじっと見つめる依頼者――と目が合う。

「どうかされましたか?」

「い、いえ……すみません大丈夫です」

「そうですか。でも、ずっと天井を見ていたようですし、何か気になることがあれば遠慮なく言ってください」

「あ、あの、二階には……ペットとかいたりしますか?」

「いえ、ペットはなにも飼っていません」

「そう……ですか。もしかしたらわたしの気のせいかもしれないんですけど、二階で何かが落ちたような物音が何度か聞こえてきたので……ちょっと気になってしまって」

「え? 二階でですか?」

 そう言うと、依頼者はキッチンの横を通り、

「一応確かめてきます。それがネズミの仕業だったら見過ごせないので」

「すみません。ありがとうございます」

 やがて依頼者が階段をあがっていく足音が聞こえ、彼の気配はなくなった。

 ふう、とSはため息をつく。

 別になんてことはないのに今まで嫌な目に遭ってきたせいか、色々と過敏になってしまっている……。

 どうしよう本当に困った。これがもし次の仕事にも影響したら、自分はもう外では働けないかもしれない。何かされたわけでもないのにあんなふうに声をあげてしまうなんて……。最後の最後にクレームなんて勘弁してほしい。

 時計を確かめる。

 息子さんが帰ってくるまでまだ時間はあるし、すこし休んでも結果は変わらないだろう。Sはリビングの椅子に腰掛けて五分だけ休憩することにした。

 本当は目をつむって一息つきたいところだが、それは怖くて出来ない。もし何かあったらと思うと、自宅以外では目をつむれない。

 だからボーッとただ何もせずに五分間、呼吸をひたすら繰り返す。

 そうしてふと時計を見て、二階へ行った依頼者のことが気になった。物音の原因を確かめにいっただけなのに戻ってくる気配がまったくない。

 ここは依頼者の自宅なのだから何もないとは思うけれど……。

 Sは椅子から立ち上がり、階段のほうへ向かう。

 明かりが消えていたのでポチッと点けた。

 だれもいない。

 不気味なほど、人の気配がしない。

 まるでこの家にいるのは自分一人だけのような、そんな違和感を覚える。

 Sは階段に足をかけた。

 ゆっくりなるべく音を立てないように階段をあがっていく。

 二階にはトイレと思われる扉と、そのほかに三つの扉があった。

 キッチンの真上に存在する部屋は、階段をあがって壁伝いに進んだ先にある。

 しかし、そこでSは動けなくなってしまった。

 依頼者がちょうど今いるであろうその部屋の扉には、何人たりとも寄せ付けまいとしているような恐ろしい数のお札が貼り付けられていた。

 すると、その扉がガチャリと開いたので思わずギョッとしたが、中から依頼者が現れたことで緊張が解かれた。

「あれ? Sさん? どうしてここに?」

「しばらくしても戻ってこられなかったので心配になって……」

「ああ、すみません。この中にある大量の本があまりに散らかっていたので、すこし整理していました。しかし……ダメですね。妻のものは綺麗さっぱり無くしてしまいたいのに、いざ手に取ると思い出がよみがえってきてしまって、捨てるに捨てられず、どうしたら良いものか途方に暮れてしまいます」

「それは……」

 Sはなんて言葉をかけたらいいか迷ったが、内心はホッとしていた。

「あの……一つお聞きしてもいいですか?」

「はい」

「このドアに貼られたたくさんのお札は……」

「ああ、これは亡き妻の趣味です。ホラー小説が大好きだったので、こうしたほうが雰囲気出るとかいって。なのでこの中にある本はそういったもので溢れかえってます」

「すごい。わたしなんてホラーものは全然ダメなのに。ドアまでこんなふうに演出されるということは部屋の中はもっと凝ったもので飾られているんでしょうね」

「いえ、この中にはただ本が大量に置いてあるだけです」


 そうして何事もなくSは仕事へと戻り、依頼者の息子が帰宅したときにはリビングのテーブルには二人では食べきれないほどの家庭料理が並べられた。

「せっかくですからSさんもご一緒にどうですか? ご迷惑でなければですけど」

「いえ、大切なお時間の邪魔になってはいけませんから、私はこれで失礼させていただこうと思います」

「邪魔だなんてとんでもない。むしろSさんがいてくださった方が息子も喜ぶと思います。なにせ妻に先立たれてからはずっと二人っきりなので……」

 ある程度の予想はしていたが、正直、鬱陶しいと思った。素直に帰らせてほしい。それに言い方もちょっと卑怯だ。そんなことを悲しそうな顔で言われてしまっては断るに断れない。

 とはいえ今回が最後の仕事なのだから、夕食に付き合うだけならまあいいだろう……と、Sは依頼者にうなずいてみせた。

「良かったな、Y。こんなに美味しそうなご飯、こうして三人で食べられるなんて久しぶりだな」

「うん!」

 依頼者の息子Yはとても明るい子で、優しそうな顔をしていた。おそらく母親似だろう。勉強よりもスポーツのほうが得意そうな感じである。

 三人で一緒にいただきますをすると、Yはうれしそうに肉じゃがに箸をいれた。その様子がなんとも微笑ましくて、Sは先ほど感じた鬱陶しさなどすっかり忘れ、まるで以前からそこにいるのが当たり前であるように楽しく夕食の時間を過ごした。

 午後二十時――

 スマホが鳴った。

 ちょっと失礼しますと言って確認すると、会社からの安否を心配するメッセージが届いていた。

「すみません。会社から早く戻ってこいというメッセージが……。申し訳ありませんが、そろそろお暇させていただきます」

「そうですか、じゃあYありがとうを言って、さよならをしよう」

「やだ! まだいてほしい!」

 やっぱりそうなるか……とSは項垂れる。すこしでも甘い顔をしたらこうなるだろうな、とは思っていた。大好きなお母さんを亡くしたばかりなのだから仕方ないのかもしれないけれど……。

「ごめんね、Yくん。わたしももっと一緒にいてあげられたらいいのにって思うけど、どうしてももう帰られないといけないの」

「やだ! 絶対やだ!」

「こら、Y。Sさんにワガママ言って迷惑かけたらダメだろう。Sさん本当にすみません」

「い、いえ……」

 と、愛想笑いをしつつ、父親なんだからどうにかしてよ、とSは思い、依頼者に目線を送って助けを求める。

 するといきなりYがぎゅっとSの腕を掴んだ。

「じゃあ明日また来れる? その次の日もその次の日も!」

「それは……」

「来ないなら帰らないで! おねがい! ママ!」

「は?」

 背中がぞわっとして、Sは思わず眉をひそめた。

 何この子、気持ち悪い……。

「Yくん、わたしママじゃないよ?」

 こうなったらもうハッキリ言ってやらないと収拾がつかない。あーだこーだ言ってはいるが、父親だって全然ダメだ。頼りにならない。

「いい? Yくん、わたしは仕事で来てるの。Yくんのパパとはお友達でもなんでもないし、わたしが来られるのは今日だけだよ」

 そう、この仕事は今日で最後なのだ。もう二度と来ない。本音を言えば、こうなった以上たとえこの仕事を続けてもこの家には二度と来たくない。

 Sは椅子から立ち上がった。きっぱりとこれで終わりだと暗に伝えるために。

「やだやだ、帰らないで! ここにいて、お願い!」

 ぐいぐい引っ張って阻止しようとするYに困り果てたSは、もう我慢の限界だと思い、とうとう「この子どうにかしてください!」と声を荒げた。

 だが、依頼者の姿はなかった。

「ちょっとYくん! お父さんは――」

 不意に視界が大きく揺れた。立ちくらみだろうか? くらっときて反射的にテーブルに手をついたものの、身体をまっすぐに立て直すことができず、次第にめまいも酷くなっていった。

 なんで……と思っているうちに立ったままではいられなくなり、頭の中が何もかも溶けてしまったかのように何も考えられなくなった――と同時に床に倒れ込んだ。

 頭がふわふわ浮いている。

 まるで夢の中にいるみたいに現実味が失われた。


 ひんやりと冷たい何かが頬に触れた。

 水滴がぽちゃりと水面を打つ音もかすかに聞こえる。

「起きた?」

 Sが静かに目を覚ますと、薄暗い中に自分がいた。鏡に映った自分でも見ているのだろうか……? それに自分が自分を見上げているといった構図になっていて、なんだか不思議な気分だ。

 頭はまだボーッとしている。たぶんまだ夢の中にいるのだろう。

「そのまま深い眠りについていいのよ。あなたの役目はもう終わりなのだから」

「や……く……め?」

 声が思うように出せない。喉がまるごと消えてしまったのかと思うほどその存在をまったく感じられない。

「どう……し……て……。う……まく……はなせ……」

「心配しなくていいわ。それが普通だから。もう少ししたら耳が聞こえなくなって、目も見えなくなるわ」

「どう……なっ……て……」

「ほら、最後に見ておきなさい。これがあなたの中にあったものよ」

 何故だろう。Sはこれっぽっちも動かしていないのに視界がゆっくり左に動いていく……。まるで誰かに操られているかのように。

「ごらんなさい」

 目の前に鏡がある。

 暗い空間の中にぽつんと一つだけ置かれた姿見である。

 そこに映っているのは、自分のカラダと、

 自分が手に持った……頭の骨だった。

 そしてその背後には、恐ろしい数のお札が貼られたあの扉があった。

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