後編
7
またしばらく日が経って土曜日、日曜日と月曜日が過ぎ、そして検査当日、今日は火曜日。
布団の中でむくりと体を起こす。時刻は朝の7時。今から支度しないと学校の遅れてしまうが、全くと言っていいほどやる気が起きない。
今日の検査、もとい潜入調査が不安で昨日から一睡もできていない。上手くいくだろうか?失敗したらどうしよう?やっぱり断ろうかな?などと考えている内に朝になっていたのだ。
机の上にはヘアピン盗聴器と、ボタン型の盗撮カメラが置いてある。これらを破壊してしまえばこの不安はなくなるだろうか?いいや、不安の根源である深羽田は消えないから無意味だろう。その場しのぎにしかならない。
どうにか奮起してベッドから這い出る。寝不足のせいで体がいつも以上に重い。気分も良くない。口に何かを入れただけで戻してしまいそうだ。
リビングに向かうとスーツ姿の母がいた。時間的にそろそろ家を出る頃だろう。母は私を見るなり、心配そうな顔をした。
「おはよう。顔色悪いけど、どうかした?」
「おはよう……ちょっと寝不足で……」
「学校は?今日、検査の日なんでしょ?」
「うん……大丈夫。どっちも行く」
「そう。体調キツいようなら早退しなさい。研究所も無理していかなくていいんだから」
「うん……わかった」
「じゃあ行ってくるね。あと、今日は早く帰ってくるから」
「いってらっしゃい」
足早に家を出る母を見送る。
母は私が研究所で検査を受けることに関してあまり良く思っていない。治る見込みがないとわかっているのに、わざわざ怪しい場所に行く必要はないと考えているようだ。
母の気持ちはわかる。右目は閉じてさえいれば実害はないのだから、頑張って治す必要はない。一生、目を閉じて誰にも他言せず墓の下に持って行ってしまえばいい。
わかる。わかるが……それでも私は諦めきれない。見えないからと言って、実害がないからと言って、なくなったわけじゃないから。信じられない異物がこの身に宿っているという事実は、違和感は決して消えない。
仮に一生かけて治らなくとも、治る可能性がある限り、私はこの不安を取り払おうとするだろう。
母はよく思ってないが、反対はしていない。今はそのことに感謝しよう。
テーブルの上には作り立ての卵焼きとみそ汁が載せてあった。どう考えても食べれる気がしないので、作ってくれた母には申し訳ないがラップして台所に下げておく。
朝食を下げた後、洗面台に向かった。顔に冷水を浴びせて少しでも眠気を取ろうと言う算段だ。
鏡には左目の下に深い隈を作り、右目を白い布製の眼帯で覆った、いかにも不健康そうな少女が映っていた。
これは心配されてもおかしくはないな。と思いつつ、視界が見えないように右目の瞼を強く瞑って眼帯を外そうとしたその時、
——世界がねじれた。
なぜ。どうして。という疑問が湧き上がるよりも早く。私の世界に根付いた常識が歪み、ねじ切られ、壊されていく。
縁が水紋のように揺らめく鏡の中で幾万人もの異形が私を覗いていた。
赤い目、冷めた目、好奇の目。
彼らに目はなくとも。常識を超えた形状を成していても、様々な思惑で思考で感性で、私という人格を覗いて吟味していることがよくわかる。
鏡の縁は揺らめきながらも私を包むように広がっていく。己を映すはずの鏡面は、不埒な傍観者たちを映していく。
いつしか縁は消え去り、鏡面のみが私を包んだ。見渡す限りの魑魅魍魎。視線が私という存在を塗りつぶす。
ふと、一体の異形がこちらに向かって手を伸ばす。それを皮切りに異形たちは物乞いのように手を伸ばして、私に、鏡面に近づく。
しかし、その手が届くことはない。私と異形たちとの間には決して超えられることのない境界がある。いくら醜悪な体を押し付け、張り付こうが向こう側に干渉することはできない。届かない、悲しい、嬉しい。
私から見た鏡面は瞬く間に異形の寿司詰めとなった。隙間なく敷き詰められた幾万の化け物たちがそれぞれの感情を持って触ろうとしてくる。
だが、触られることはない。それは私たちが住む世界と、彼らが住む世界が違うことを示している。
見てくれや肉体の組成は些末な違いだ。最も重要なのは価値観。物の定めを計る常識。私たちの世界と違うものであれば、仮に人の形だったとしても、それは人間とは言えない。
私は大丈夫。この鏡面が隔てている内は私はみんなと同じ価値観を持っているハズなのだから。
ピキリ
背後から音がした。振り向くと鏡には小さなヒビが入っていて——
「あああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
気が付くと正面にある鏡が粉々に砕けていた。破片のいくつかには赤い液体が付着している。
その事実を認めた時、拳に鋭い痛みが走った。震える拳には切り傷が複数、そこからにじむように血が流れ出ている。
右目は……開いていない、眼帯も付けたまま。鏡を壊したのは……私か。母になんて言い訳をしよう。
湧き上がる吐き気に抗うことなく、私はその場で嘔吐した。
*
学校は休むことにした。さすがにこの状態で行く気にはなれない。行ったとしてまともに振る舞える気がしない。
だが、研究所には行くつもりだ。自分の常識が擦り減る感覚。精神疾患なんて生ぬるいもんじゃない。本物の狂気だ。
右目を閉じても見えてくるあの視界。
早急に検査しなければならない。この際、怪しいことも裏があることもどうだっていい。
右目が治らないことは既にわかっている。だから、これは最後の確認だ。このまま完全に気が狂って化け物になるなんて嫌だ。
拳の手当てと洗面台の掃除を終えた後、少し休んで私は家を出た。気分は最悪。
異形が蠢く様子が頭に張り付いて離れない。できるなら頭を掻きまわしてこの光景を消し去りたい。その願いが叶うことはない。
通行人、標識、地面、車、幼子、犬、空。見る物体全てが歪んで見える気がする。自分が正しいことが信じられない。なんでみんなまともじゃないのか。どうして私だけ異常なのか。
研究所に向けておぼつかない足取りで歩みを進める。ここで止まるわけにはいかない。
時折、強い吐き気に襲われ、空っぽの胃から黄色い粘液を吐いた。鏡を見る前に朝食を食べてなくて良かった。そんな常人めいた思考に少しだけ安堵を覚える。
「白谷くん!!」
後ろから自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると深羽田が息を切らしていた。
「はぁ……はぁ……キミ、学校を休んでこんな時間にどこ行くつもりだい?」
私は無言で返した。吐いた後で体力的に疲れるからという意味合いもあるが、一番大きな理由は純粋に話したくなかったからである。
そういえば、深羽田には、帰りのホームルームの時に瞼と眼帯を貫通して右目の視界が見えたことを話していない。深羽田はあくまで右目に関わった組織や人々に執着していて、病状そのものには興味がなかったみたいだから聞かれもしなかった。
真相の究明に協力するのであれば言っておくべきだった。実際に眼帯で塞いでも見えるようになったのであれば、研究所の対応も変わってくるだろうし。右目の視界が見える頻度が多くなれば、私は正気を保てずに病院送りになるだろう。それこそ、右目を取り巻く環境を調べたい深羽田にとっては格好のチャンスだ。
けれども今は言うつもりはない。研究所にたどり着く方が優先だ。
これ以上返事を待っても仕方ないと判断したのか深羽田は勝手に喋り始めた。
「最初にキミが休むって聞いた時には、今日の潜入調査が嫌すぎてバックれたと思ったんだ。メンタルの弱いキミならあり得ないことはないからね。想定内だったし次の策もあったから今日は普通に学校で過ごすつもりだったんだけど。引っかかることがあったんだ。それを確かめるために学校を抜け出したってワケさ」
嫌な予感がした。この探偵が感じる勘が良い方向に進むわけがない。
無視することも考えたが、吐いた直後で体が動かない。立ち去るべきではないと考えた私は近くの家の塀に寄りかかり、深羽田の話を聞くことにした。運が良ければすぐに終わるかもしれない。
「これを聞いたら確実に警戒されるから今まで言わなかったんだけど。キミは先週の午後、倒れた後に研究所に行ったよね?検査は月に1回の検査の日は今日の予定だったハズ。右目は閉じてさえいれば不調はないんだっけ?それで、キミはどうして研究所に行ったんだい?」
再び無言で返す。諦めて帰ってくれるのを待つしかない。
言いたくない。バレたくない。隠し通さねばならない。そう思っても、彼女の前では何を隠そうが無駄な気がする。どんな手を使ってでも、いずれ真実にたどり着く。隠匿された事実を暴きだし、公然の目に晒す。
ぶちまけてしまった方が楽なのだろうか。いや、駄目だ。こいつは私の全てを暴く。全て……私の知らない私のことでさえ、知ってはいけない真実にさえ到達する。そんな真実があるかどうかはわからない、でもそれは駄目な気がした。
だから、言わない。
「ふぅん。ま、いいか。話を戻そう。キミは以前倒れた後に研究所に行った。今日は体調不良を訴えて学校を休んだ。些細なことだけど関連性があるかもと思ってね。学校を抜け出して思い当たる場所を当たってみたら満身創痍のキミがいた。それじゃあ再度聞こう。キミはなんで今から研究所に行こうとしているんだい?学校を休むほど調子が悪いなら研究所にも行かない方がいいと思うんだけど」
鋭い瞳が私を貫く。やっぱり多少無理をしてでも無視すれば良かった。
私はよろよろと手をついて、体を起こし踵を返して歩き出した。これ以上は構っていられない、時間も体力もない、何か適当なことを話すだけでもリスクがある。
深羽田の様子はわからないが、強い視線で私を見ていることだけはわかる。思わず逃げ出したくなってしまうくらいに、強い視線だった。
「黙秘し続けてもいいけど、ボクは勝手にやらせてもらうからね!」
その発言がたまらなく恐ろしい。何故かわからないけど、深羽田に右目の本質を探られるのが怖い。
逃げるようにその場を離れた。
研究所の周辺ははいつもと変わらず鬱蒼とした雑草に囲まれていた。黒く汚れた白い外壁が特徴的な一階建ての建造物。
車が1台、駐車場に停まっている。あの車は宮地のだ。ということは今日はゆいさんはいないのだろうか。今日はカウンセリングをすると言っていたが、今は午前だし、もしかしたら午後になったら来るのかもしれない。
最悪、宮地さえいればいい。ゆいさんが検査に関わったことはない。問題視することではないだろう。
無理に体を動かしたせいか、頭が痛む。体が鉛のように重くてだるい。熱があるのかもしれない。不快を感じるのは自分がまだ正常な証拠だ。
まだ正常である内に確かめなくてはならない。
壁伝いに研究所のエントランスから廊下を通り、そして「宮地」と書かれた無機質なネームプレートのかかった扉を開く。
中には検査に使用する顕微鏡のような機材をいじっている宮地がいた。
「おや、これは驚いた。白谷さん、かなり早いね。学校は?」
宮地は張り付いた笑顔で向き直った。驚いている様子はない。
「検査……おねがい、します……右目、とじてる、のに、み、見えちゃって……」
「なるほどなるほど。それは大変だ。ちょうどこちらも準備が終わったところだから、横になってていいよ。今、睡眠薬の準備をしてくるね」
早口で言うと、宮地は部屋から出て行った。自分で睡眠薬を取りにいくあたり、やっぱりゆいさんはいないのだろう。
私は白いシーツのかかった無機質なベッドに倒れ込んだ。ベッドは固く、睡眠には適していない。絶不調の私にとっては安息の場所だ。
瞼が重い。早く意識を手放したい。だが、まだ寝てはいけない。頭痛と倦怠感とは無縁の夢を見るためにはあの睡眠薬が必要だ。この数分間、耐えなければいけない。
この部屋は全体的に白い。天井、壁、床、ベッド、机、パソコン、そして白衣を着た宮地。度合は違えども、白で埋め尽くされている。
白い部屋に取り残された私はまるで異物だ。そこにいてはいけない存在。常識の範疇から外れた物体。
ふと、天井と壁の境を眺める。どこまでが天井で、どこからが壁なのだろうか。どちらも白いくて平べったいのに、向きの違いだけでなぜ意味が変わるのだろうか。天井と壁とを隔てる境がなくなれば、本質はどちらになるのだろう。どっちもなくなってただの白い平面になるのかもしれない。
何分、いや何秒が経った頃だろうか。がらりと扉が開く。
「お待たせ。すまないね。いつもあやさんにやらせてたから時間が掛かってしまった」
片手に紙コップを持った宮地が部屋に入ってきた。それに合わせて最後の力を振り絞って私も起き上がる。
起き上がった途端に吐き気が湧き上がり、痛みが頭を駆け巡った。呻きそうになるのを必死にこらえてコップに手を伸ばす。
苦い苦い液体を吐き気と一緒に飲み下す。これでひとまずは大丈夫。
私が体を倒して弛緩していると、宮地は再び扉を開けて部屋を出た。今日はゆいさんがいないから、まだ宮地だけでやらなければならないことがあるのだろう。
もし、これで何もわからず、もう何も手立てがないのであればこの目を抉ろう。目の摘出に関して、私はかなり前から提案していたが、どの医者からも止めらていた。宮地からもだ。
宮地によると眼孔と変質した眼球が張り付いている上に、視神経までが変質しているかわからないから、摘出すると脳に傷がつく可能性がある、と。そう聞かされた時は私も納得して摘出を諦めたが今は違う。
脳が傷つくよりも、この右目の方が恐ろしい。
誰かが止めるなら自分でやるまで。わざわざ研究所に来たのは最後に本当に治らないのか確かめたかったから。覚悟を決める、という言い方が適切か。
決心を固めながら、緩やかな睡魔に身を委ねる。
そして、私の意識は遠くに落ちていった。
8
夢を見る眠りは浅く、夢を見ない眠りは深いらしい。夢を見ない間、意識は深い深い闇の中にある、とイメージすると少しわかりやすい。
物体も思念もない闇の中。不安も恐怖もない深海で安息を享受する。実際に安息を得られているかは不明だ。
意識は暗くて何も見えない闇の中にあるのだから、本当は不安と恐怖で溢れた世界が広がっているのかもしれない。安息なんてただの錯覚なのかもしれない。
見えない限りは確認する術はない。つまり、何もないのと一緒だ。闇とはすなわち無なのである。世界はものに溢れすぎているから、少しくらい何もない方がいい。
更なる闇に沈もうとしたその時、二の腕の辺りに違和感が生じる。細長い針が体内に入っていくような不快の一歩手前の感覚。不快ではないが違和感がある。
違和感の正体を確認するために闇の底から這い上がる。腕に違和感を感じていた時点で無が広がる世界である闇にいる資格などないのかもしれない。
そして目を開いた。白い光が左目を照らし、意識は覚醒する。
白衣を来た男性が私の二の腕を掴んでいた。もう片方の手には注射器が握られており、針は二の腕の肉で埋まって見えない。針を注射器の下の部分とするのであれば、上の部分、押し子と呼ばれる部位は伸びきっている。注射器内の液体はまだ注入されていない。
私が唖然としている間に男の指は押し子へと伸びる。今までの検査で注射をされたことは一度もない。何かがおかしい気がする。
そして、液体が私の体内に押し込まれ——
その瞬間、男の体が『く』の字に曲がった。男が苦痛の表情を浮かべるよりも早く、そのまま真横に吹っ飛んでいく。男の体は機材を巻き込み、最後には盛大な音を立てて壁に衝突した。
吹っ飛ぶ前に男が座っていた真後ろには背の高い、見るだけで人を殺せそうな眼光を宿した女が立っていた。ゆいさんだ。
ゆいさんが注射器を持った宮地に蹴りを食らわしたんだ。凄まじい戦闘能力を持っているとは聞いていたが、まさか男を一蹴りで吹っ飛ばせるほどとは。
壁に衝突した宮地は大丈夫なのだろうか。死んではいないだろうけど。体が本当に『く』の文字になっていたし、最低でも骨折はしているだろう。
2人は仲間ではなかったのか?
そんな疑問をよそにゆいさんが私に近づく。険しい顔で私を一瞥した後、二の腕に刺さったままの注射器を抜きとり、更に険しい顔をした。
「……クッッッソ!」
そして、注射器を握りつぶした。
初めて聞いたゆいさんの声を聞いた。その声色からは明らかな怒気が含まれている。
「おいお前、白谷」
一連の出来事が処理しきれずに呆けていたのと、ドスの効いた声で呼ばれて恐怖したのが相まって硬直してしまった。
「聞いてんのか!お前、今殺されかけたんだぞ!」
ゆいさんの発言で私の処理能力は限界を超えた。宮地が私を殺そうとしていた?なんで?どうして?
自分を納得させるための言葉と事実を否定するための言葉が頭の中を埋め尽くす。しかし、どんな言葉を使っても今の状況を理解するには至らず、余計に混乱するだけだった。
私が目を白黒させていると、ゆいさんは強引に私を立ち上がらせた。一瞬で脳内が恐怖で満たされる。
「なんでこいつがお前を殺そうとしたは私にも見当がつかない。今から尋問する。お前は逃げろ。家はやめとけ。変な連中がここら辺をうろついてやがる。理由はわからねぇけどお前か私関係だ。お前の母親は私が保護したから心配すんな。お前はあれだ……あの探偵を頼れ。外にいんだろ」
「……え?」
母さんが保護?
状況が飲み込めない。現実感のない情報が脳が処理しきらない内に入ってくる。
まるで夢みたいだ。夢であってほしい。だが、拳の切り傷に走る痛みが、この現実が夢ではないことを知らせてくる。
「早く行け!」
あやさんにどやされ。足を動かす。体調はさっきよりはマシになったが、本調子ではない。少なくとも走ることはできない。
ゆっくりと今にも崩れてしまいそうな足取りで部屋の出口を目指す。
ふと、後方で機材が崩れる音が響く。振り返ると、宮地が腹部を押さえながら上体を起こしていた。張り付いたような笑みは消えていないが、どこか苦しそうだった。
「ははは……ゆいさんには反対されるから黙っていたんだけどバレちゃったか……」
力なく笑う宮地の右腕は曲がってはいけない方向に曲がっていた。
「気ぃ失ってなかったか。ちょうどいい。なんで白谷を殺そうとした?お前、最悪保護はするって言ってただろ?」
「すまないね。当初はそのつもりだったんだけど。放置できないくらい最悪だってことがわかっちゃってね……」
「はあ?何言ってんだ?ふざけるのも大概に」
「消す以外に方法はなかったんだ。白谷さん。君は自分が思ってる以上に危ない存在なんだ。薄々わかってたんじゃないかな?」
宮地は私を見てゆいさんの発言を遮った。
宮地の顔から笑みが消える。これまでにない程真剣な表情を私に向けている。
「君の右目には超高濃度のエネルギーが込められている。数パーセントでも漏れ出ればこの町が吹き飛ぶレベルだ。治す治さないなんて話じゃない。世界の存命の話なんだ。それでも僕は君を治したかった。殺すのは最終手段だったんだ。ゆいさんだって反対しただろうしね。だから上には黙って個人的に色々模索していた」
「じゃあ」
「タイムリミットが来てしまってね。上にバレたんだ。捕まえて何をするかは想像がつく。良くて即殺、悪くて死ぬよりひどい人体実験だ」
「……」
ゆいさんは黙った。ただ怒気を孕ませて宮地を睨んでいる。
「だから、白谷くん。逃げるならとことん逃げろ。僕はもう何もできないけど。上の連中はまだ君を簡単に捕まえられると思ってる、身を隠すなら今しかない」
宮地はひどくせき込んでから、ゆいさんに向き直った。
「なんだよ」
「白谷くんを助けてやってくれないか?君もそろそろここを出るべきだ」
ゆいさんはため息をついて頭を掻きむしった。
「あーわかったわかったよクソ野郎。やっと資格取ったのにお釈迦にしやがって。じゃあなクソ野郎」
少しだけ空気が弛緩した。宮地はゆいさんが悪態をつくのを見て一瞬だけ笑うと力を抜いて目を閉じた。気を失ったのだろうか。
ゆいさんは自分の頬を叩いて「おしっ」と言うと扉にいた私に向かって来た。
「私はここら辺にいる連中、政府のやつらを動けなくしてからお前らと合流する。話はそれからだ。行け」
ゆいさんはそう言うと、ものすごいスピードで走っていった。
私は……膝が笑って立つことができなくなっていた。もう、何も考えたくない。
その場でへたり込んで呆然と玄関を眺める。宮地によるとこのままへたり込んでいると誰かが来て殺されるか死ぬよりもひどいことになるらしい。信じられない。
私の目の正体はエネルギーの詰まった爆弾だったようだ。何がトリガーかは結局わからないが下手をすると地球が吹っ飛ぶらしい。規模が大きすぎていまいち危機感が感じられない。
いっそのこと爆発させてしまおうか。誰かに即殺されるよりかはマシだろう。
目から涙が出た。抑えようとしても勝手に溢れ出る。
逃げるってどこに?母さんは本当に無事なの?なんで私が政府に狙われなくちゃいけないの?
突き付けられた不条理を頭の中で整理していく。不条理は理解が進めば進むほど、信じがたい内容だった。何が真実で嘘なのか。本当に信憑性はあるのか。精査しきれない。
もう嫌だ。こんなことになるなら、学校なんて頑張らなければよかった。どうせ全て無駄になるなら初めから家に引きこもっていればよかったんだ。
嗚咽を吐き出しながらうなだれる。このまま泣いていても事態は進展しない。真偽はともかく状況は最悪だ。
とりあえず移動をしようと立ち上がると、深羽田が駆け込んできた。今日の彼女は何かとよく駆け込んでくる。
「はぁ……ふぅ……大きな音が聞こえたと思ったら、一体何が起こってるんだい?さっきすれ違ったゆいさんにあいつは任せたなんて言われたけど」
「………こっちが聞きたい」
「ケガは……ないみたいだね。良かった。ってうっわぁ。あれが宮地令斗?腕ひん曲がってるけどあれ生きてるのかい?つくづく怪物だねぇゆいさんは。一体何なんだろう。あれだけ凄まじい膂力があるならもっと有名なはずなんだけどなぁ。白谷くんと同じパターンかな。うーん」
深羽田は息を整えた途端に部屋を覗いていつもの調子で呟き始めた。そしてそのまま部屋に入っていく。物色しているのだろう。念願の証拠の在りかだ。飛びつかないはずもない。数時間はこの施設から出ないんじゃないだろうか。
微かな物音が聞こえた後、予想に反して数秒程度で戻って来た。
「問題ない。宮地令斗は生きている。至る所が骨折してるけど。それよりキミは大丈夫かい。さっきより顔色が悪いよ。立てる?」
「う……うん……」
休息を取った分、体力は回復したが、予想以上のショックはそれを有に上回っている。体調は今朝よりもひどい。
だが、どうにか立つことはできた。足の震えが止まらない。こんなに歩きづらかったことが今まであるだろうか。
「ひとまず、移動しよう。ボクの家に行こう。ボクもキミも付けられてるみたいだし迎えを呼ぶよ」
「……付けられてる?どういうこと?」
「跡を付けられてる。ボクが普段ターゲットを付けるみたいに。全く、誰の差し金なんだろうねぇ?」
「……?」
深羽田はそれ以降口をつぐんだ。
差し金、心当たりは確かにある。宮地はさっき「上」と言っていた。つまり宮地の上司が動かしている誰か。ゆいさんは「政府の連中」と言っていた。政府と言ったら国家を運営する機関だ。国民にとって絶対の信頼がある組織が指示を出して中学生2人の跡を付けさせている???
ゆいさんが動けなくすると言っていたのは私たちの跡をつけている人達のことだろうか。
大丈夫だろうか。成人男性を吹き飛ばせる膂力があるとはいえ、相手は複数人。正確な数はわからないが派手に戦えば警察も来るだろう。さっきは後から合流するって言ってたけど……どこで合流するかは言ってなかった。けど、集まれるとしたら深羽田の家くらいだから、もしかしたらそれを見越しての発言だったのかもしれない。
研究所から出ると、黒い車が停まっていた。普段あまり見ない、高級そうな車だ。
「安心してよ。僕んちの車だから」
そういえば、深羽田の家はそこそこ良い家、という噂を耳にしたことがあった。探偵の要素が強すぎてあまりその噂については気にしていなかったけど。
この車を見るに、その噂は本当みたいだ。こんな高そうな車、一般家庭で持っている人はあまりいない。
なるほど。名探偵とはいえ、中学生が専門家との人脈があったり、特注の盗聴器を作れるのは金のお陰か。
「さあ、乗って乗って」
周りを警戒しながら車に乗る。運転席には黒スーツを着た大柄な男性が座っていた。年齢は30代前半くらだろうか。只者ではない雰囲気が漂っている。
男は車に乗り込んだ私たちを一瞥すると、表情を変えることなく前を向いた。
「この人は家のドライバー兼用心棒。この前、研究所でノックアウトされた人だよ」
用心棒。そういえば言っていた。投げ飛ばされたんだったか。この人も深羽田に振り回されている被害者と思うとちょっと可哀そうな気がする。
私と深羽田がシートベルトを締めると車は動き出した。
普段と変わらない住宅街の景色が流れていく。この住宅街に政府直属の人さらいが私たちを探し回っているハズだ。
未だに信じられない。私はまだ直接その人たちを見ていない。家に帰れば、そんなのはただの思い違いで、普通の日常に帰れるかもしれない。
だが、宮地は確実に私を殺そうとしていた。宮地本人が認めたのが何よりもの証拠だ。
おぼつかない思考を回転させる。考えれば考えるほど、不安は募っていく。
色々と考えている内に車は門を通り、竹林の中を走っていた。ここはどこだろう?研究所からそう遠くはないはずだが。この辺りは行ったことがない、家とは正反対の方向だ。
竹林といって整備された庭のようなものだ。深羽田の家は広い竹林を私有地として整備できるくらいに広いらしい。
「ついたよ。降りよう」
おずおずと降りると巨大な和風建築の屋敷が建っていた。表札には「深羽田」と書かれている。二階建てだが、とりあえず奥行きが広い。まさかこの辺りにこんな屋敷があったとは。
そして深羽田は思った以上にお嬢様であることがわかった。これはすごい。もしかしたらここら一帯の地主なのかもしれない。
「ほら、上がってよ。用心棒って言ったって1人しかいないんだから」
そう、促されて家に上がるとそのまま屋敷の地下へと案内された。地下は薄暗く、床や壁面はコンクリートで構成されている。豪華な上階と違って無骨な造りだ。
コンクリートの廊下をしばらく進むと鉄製の、厳重そうな扉にたどり着いた。扉には取っ手以外何もついておらず、銀色に輝く表面は蛍光灯の光を反射している。
「ここはもしもの時の地下シェルター。晩年の祖父が疑心暗鬼に陥って作ったものでね。外からは開けられないようになってる。密室トリックにはうってつけの部屋だ」
「……開けられないんじゃ?」
「問題ないよ。祖父はこの部屋に入る前に死んでしまったから。そんなことより、入ろう。ゆいさんがここに着いたらボクに連絡が来るようになってる。それまで待機だ」
深羽田は取っ手を開き、重そうな扉を動かす。体全身を使って動かしているあたり扉は重そうだ。
私も手伝った方がいいかなと思ったが、体がボロボロなので止めておいた。
数秒後、扉は完全に開き切った。中は廊下よりも無機質で、家具らしきものは机と椅子と棚しか置かれていない。大きな白い箱みたいな部屋だった。
私はよろよろと中に入って、椅子に座った。やっと一息付けるような気がした。しかし、なんだか落ち着かない。
この部屋は病的なまでに白く、そして何もない。よく見渡すと壁に小さな通気口があるが、それもなんだか無機質で部屋の異様さを際立たせているようだった。
私が一息ついている間に深羽田は扉を施錠していた。扉の裏側は銀行の金庫のように、いかにも開けるのが難しそうな作りになっている。こちら側からなら開けられるようだが、それさえ一苦労しそうだ。
「施錠は済んだ。シャワーとトイレはそっちの部屋、食料は使用人に数日分用意させた。まあ、数日もいる気はないけど。念のためにね」
深羽田は机の下からバックを取り出し、中身をぶちまける。中からは大量の簡易食料が出てきた。乾パンやブロックタイプの菓子、飲むタイプのゼリー。数日は過ごせるが米が恋しくなりそうだ。
「棚の中には寝袋もある。すまないね。こっちについては失念していて1つしかない。長くなりそうなら用意させるよ」
私はうなずくこともせずにじっと俯いていた。
「そういえばさ白谷くん。さっき研究所から持ち出した資料を読んだんだけど……この話、聞くかい?」
私は無言で返した。聞きたくはないが否定する気力もない。
「じゃあ勝手に語らせてもらうよ。ボク自身も整理したいからね。この資料にはゆいさん、相良唯についてのことが書かれてあったんだ。なんと彼女、常人の5倍もの筋肉密度があるんだってさ。ボクたちはかなり手加減されてたみたいだね。それだけじゃなくて興奮状態になると額から尖った硬質の部位が生えて、目は真っ赤になる……まるで『鬼』だねぇ。この資料が正しければだけどね。まさしく彼女は異能者だよ。疑いようもない。『異能力の研究』っていうのも案外嘘じゃないのかもね
キミについての資料も持ってきたけど、こっちは難しすぎて全然わかんなかった。オカルトから超常科学まで色んな専門分野について書かれている……これは解読するのも時間かかるかな。後で時間がある時にやっておくよ。そんなことよりっ!」
深羽田は手を机に置いて、勢いよく立ち上がった。その目はこれまでにないほど、煌めいている。
「……ひっ」
「あの研究所、やっぱり政府と繋がっていた。『裏』っていうのは政府そのものだったんだ。この資料はまだ証拠が薄いけど、突破口は見えた。研究所はもう手薄だし、キミを捕らえようとしている手先が近隣をうろついている。ああ、キミに話しかけて本っ当に良かった!!」
心の底からの歓喜。彼女の満面の笑みは不気味なほど喜びに満ちていた。
ここまで喜びを露わにした深羽田を見るのは初めてだ。
「そうだ。今の内にキミの右目の写真、撮っておこう。復元できた病院のカルテにも、研究所の資料にも右目の写真がなかったんだ。物的証拠はこの先強い武器になる。あと、ゆいさんがキミを迎えにきたらこの先会えるかどうかわからないからね。いいかな?」
「い、嫌だ」
私は首を強く横に振った。あの光景をたかだか調査が有利になる程度で見たくない。
それとは別に深羽田にだけは見られてはいけない気がする。深羽田に見せることを想像すると、表しがたい抵抗感が背筋を走って気持ち悪くなる。
「ふむ」
私の否定を受けた深羽田は、一瞬だけ無表情になり、再び満面の笑みを浮かべて私の真横に立った。
嫌な予感を感じ取った私も立ち上がり、深羽田と同じ目線に立つ。今の深羽田は何かおかしい。欲しいものを前に暴走する子供みたいだ。
「大丈夫だよ。一瞬だけだから」
私が強い否定の言葉を発する前に、視界が横にブレる。
気が付くと、眼前に深羽田の顔があった。体は仰向けに倒されていて、深羽田は私のお腹の上に乗っている。
深羽田を押し返して立ち上がろうにも、両の腕を掴まれて体が思うように動かない。私は完全に深羽田に馬乗りにされてしまったのだ。
「………やめて」
「ごめんね」
深羽田は片腕を放し、私の頭を強く殴った。意識が曖昧になって、体全身に力が入らなくなる。そもそも不調だったことも相まって、私は微かな抵抗をやめてしまった。
視界がぼやけていてよくわからなかったが、深羽田はテキパキとカメラを用意し、そして私の眼帯に手をかけた。
「や、やめ……」
「真実のためなんだ。この前も言っただろう?ボクは隠された真実が目前にあるといても立ってもいられないって」
ダメだ。ダメなんだ。理由はわからないけど深羽田だけには見られちゃダメなんだ。隠された真実は、時に暴いてはいけない事実、知ってはいけない事柄ということもあるのだから。
たどり着くことで元に戻れなくなる。そんな気がした。
しかし、そんな不確かな思いが深羽田に届くことはなく、眼帯は外され、瞑った瞼が開かれる。そして——
9
無機質で白かった部屋はドクドクと脈打つ赤黒い肉塊で埋め尽くされていた。
私の目の前に大きな瞳が浮かんでいる。全ての隠匿を破壊し、真実を衆目に晒す、解明の力を持つ瞳。この瞳の前では何人たりとも、たとえ超常の存在であったとしても隠し事はできない。暴き追い求め、かならず1つの真実に辿り着く。それこそが存在意義。深羽田てる子がこの世に有る理由。私の魔眼が見た本質の形。
その瞳は時に万物の真実を映し出す鏡となる。今映っているのは右目を開いた私自身の本当の姿。
私の存在意義。白谷夏美がこの世に有る理由。それが私に晒されている。知りたくなかった、深羽田と出会った時から知ってはいけないと本能で感じ取っていた。
知って知って、理解する。人間の理解力を遥かに超えた、禁断の叡智。知るだけで価値観を歪めてしまうような歪んだ知識。
人間としてのジョウシキが崩壊していく。止める術はなく、殻を割るように世界が移り変わっていく。
鏡に映った右目が世界の崩壊に呼応するように、変化する。
踊り狂う3つの黒目はその中央に炎を灯していた。燃える三眼は超常の到達に歓喜し、炎を激しく揺らす。
禁断の文字が書かれた帯は、文字列に意味を見出す。それは世界の黎明を唄った祝詞だった。
最後の人間としての理性、「まだ人間でいたい」という想いが消し去られる寸前、深羽田へと手を伸ばす。だが、その手が深羽田に届くことはなく。私のジョウシキは粉々に崩壊し、新たな価値観へと生まれ変わった。
*
ぐにゃぐにゃに砕けてほつれて、私という輪郭はついに意味をなさなくなった。どこからが私で、どこからが私以外なのか。体内にある臓器が確かに自分であると言い張れるように、抜け落ちた髪が自分であると言い張れるように、自分を成す線が広がっていく。屋敷、敷地、街、国、世界。至る所が私、自分、白谷夏美の臓器、脳、手足になった。
世界の意味が手に取るようにわかる。まさかこんなにも陳腐な意味が込められていたとは。物理法則も精神の在り方も、■■■の前では馬鹿らしい。人間がこれまでの歴史で見出してきた法則や意味は真実の一端に過ぎない。そんなのはもはや偽りだ。
なんて清々しい気分なのだろうか。価値観が変わっただけで、ここまで別の存在になれるなんて。世界はなんら変わっていないのに。
どうして今まで気づけなかったんだろう。今にも世界は破壊と創造を繰り返しているのに、歓喜で満ち足りているのに。確かに人間のままでは気づけなかった。ただただ輪廻の内を彷徨うだけの劣等存在にはこの感覚はわかるまい。
概念へと昇華した身体が全てを包み込む。この世界の一部となった私へと、祝福の鐘が鳴り響く。それがとても心地よくて笑いが止まらない。
ふと、ある衝動が感情に震える身体を貫く。
——■■しなければならない。
その衝動は食欲よりも飢えていて、睡眠よりも安らかで、性欲よりも刺激的だった。理由なんてわからない、でも、いても立ってもいられない。考えるより先に私は動いた。
世界に満遍なく散らばっていた自分を1つの空に集約させる。
たまたま生まれ育った町の真上に浮かんだそれは、『目』を象っていた。
10
相良 唯は結局、研究所に戻っていた。
追跡者に返り討ちにされたからではない。現に彼女の頑丈な体には傷1つ付いていない。拳には血が付着しているがそれは彼女自身の血液ではなく、殴った相手から出た血液だ。
宮地が心配になって戻って来たからでもない。相良唯はあれだけ啖呵を切っておいて、先に逃げた子供を置いて戻ってくるなんてことはしない。
では何故。ここにいるのか?
約2時間ほど前のこと。
まず、相良唯は辺りに潜んでいる怪しい連中を1人残らずぶちのめし、忌々しい中学生探偵がいる屋敷に向かったのだ。
到着すると屋敷周辺は異様な雰囲気に包まれていた。相良唯は難しいことを考えるのは苦手だが、くぐって来た修羅場の経験と鬼の一族としての能力から勘は鋭い方だった。
警戒しながら、静かな林を抜けて巨大な屋敷に入ろうとした瞬間、悪寒が相良唯を襲った。経験豊富な彼女でさえも感じたことのない強い悪寒。屋敷内の使用人たちは1人残らず意識を失っており、相良唯はここで深羽田と白谷の身に何かが起こったのだと確信した。
鬼の一族の力を全開放しながら、屋敷を探索する。直感は地下室を示していた。だが、感じたのは敵意や人の気配ではない。「早急に立ち去れ」という警鐘だった。
警鐘に抗いながらコンクリートの廊下を進むと、鉄の扉に行き当たった。常人ならば押しても引いてもビクともしないであろう堅牢な鉄扉。警鐘は扉に近づくにつれて強くなる。
相良唯は恐怖と焦燥を理性で押さえながら、怪力で扉をぶち破った。
白い部屋は妙に生暖かかった。床全体には魔法陣に似たヘタクソな絵が描かれている。何をモチーフにしているかは見当もつかないが、長い間直視してはいけないものであることを本能的に察した。
そして、部屋の中心には深羽田が倒れていた。
「あぁあああぁぁ、あぃぃぁあああああぁあああ」
顔は土気色で、口から泡が出ている。あれほど知性のあった目は白く濁り、まるで痴呆のようだった。
何があったのか問いただしても呻くばかりで、明らかにまともではない。だが、その様子からこの部屋で何かしらの異常事態が起こったのは間違いない、と相良唯は判断した。
白谷夏美は……どこにもいなかった。深羽田を連れて屋敷内を探し回ったが、ここにいた形跡すら残っていない。深羽田は使い物にならなず、使用人たちも意識はない。
思い当たる節はあった。屋敷の異様さと、白谷の魔力の籠った右目。
思い立った相良唯は深羽田を連れて、最も魔眼に詳しい男の元に戻ることにしたのだった。
そして現在に至る。宮地は応急処置を済ませていたようで相良唯に蹴られた時よりも顔色は良くなっている。満身創痍なことに変わりはないが。
今はいつものスツールに座っていつもの無機質な表情を浮かべている。
「なるほどなるほど。それで、戻って来たんだ、ね……なるほど」
だが、長年宮地を見てきた相良唯にはわかる。この男はこれまでにないほど動揺している。
「ヤバいのか?白谷はどこ行ったんだ?どうなってんだよあの屋敷?政府の仕業か?」
「いや、違う。あの人たちに短時間で人を発狂させる技術力はないよ。そこの探偵が正気を失ったのは明らかに白谷さんの仕業だ」
「どうしてだよ!!」
自分自身が冷静さを欠いているはわかっている。この男を問い詰めた所で事態は進展しない。ただ状況を理解したい一心で宮地に詰め寄っている。
「あの目は、なにからなにまで『謎』だったんだ。どんな検査方法を用いてもわからない。どういう物質で構成されているかすらわからない。ありえない分子構造をしているんだ。人体に生じる新たな器官について調べた、オカルト的な文献もたくさん漁った、でも、かすりもしないんだ。ただ、多大なエネルギーが内包されていること、『何が起こるかわからない』ことは確実だった。
だけどそれ以上に、あれはパンドラの箱だった」
「ああ?」
「解明してはいけないんだ。ああいう禁忌的なモノは。僕たち人間が軽々と超えて良い領分じゃないのさ。元々、少し研究したところで解明なんてできるハズもなかったんだけど……不幸なことに、白谷さんは解明の天才と出くわしてしまったらしいね」
宮地は悲しそうな目でベッドの上の深羽田を見た。
「白谷が消えたのはどう説明すんだ」
「白谷さんは知っちゃいけない事実に耐性があったんだ。異常だったのは目じゃない。『白谷夏美』という存在そのものが触れてはいけない禁忌だったんだよ。それを自認してしまった彼女は」
おもむろに宮地は窓の外を見上げる。
「神にでもなったんじゃないかな」
「あ?」
「ほら、空、見てみなよ」
つられて空を見上げると、オレンジ色に輝く夕焼けの中に見慣れない物体が浮かんでいた。
丸く、なだらかな弧を描いたその形に見覚えがある。それは物を視認するための、世界を認知するための、最も重要な器官。
それは、『目』だった。巨大な『目』が街を見下している。そこに一切の感情はなく、存在するために有り、起こる。まさに超常現象そのものだった。
「……冗談だろ」
『目』に感情はない。敵意もなければ慈悲もない。
街を照らす夕焼けの空がにじむように歪んだ。一体、それは何を予兆する現象なのか。祝福か厄災か、はたまた『目』は浮かぶだけなのか。
この先の未来は誰も予想がつかない。
ただ1つ分かることは、今日、この時をもって世界は確変した。1人の少女が開いた魔眼によって。
完
魔眼 在雅 @saizaiga
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