第五話:おっさんという存在①
晴れて三人プラスアルファのパーティとなったシャギ一行は、次の町へ進んでいく。
時折ぽつりぽつりと会話をしながら、またまだ遠い魔王の根城を目指して。
進んでいるのだが。
「そういやマリー、この間の魔王の復活のとき、お前の町は被害はなかったのか?」
とことこと歩く馬を引き、御者のならした山道を行く。
ラビは引かれる馬に跨がっていた。
もう一頭の馬には大量の荷物が括り付けられていた。
軽戦士の装備をまとうマリー、その腰には双刀の短剣と、何かが入ったレザーのポーチがいくつか提げられている。
腿のベルトのホルダーには大口径のリボルバーと、背中には自動小銃。
さらに腰のベルトには謎の巾着が括り付けられていた。いろいろな金属が、彼女が歩くたびにチャリチャリと音を立てる。
「被害っていう被害はなかったね。あの町はさ、ほら、あたしみたいに血の気の多いやつが多いから。入ってきたやつは片っ端からこうさ。」
親指を立て、首を斬るモーション。
なるほど確かに、あの夜の酒場の雰囲気からして納得できる。
穏やかな村で平和ボケして生きてきたシャギと、サバイバルを研鑽してきたマリー。真逆の二人は今こうして出逢い、共に旅をしている。
「シャギさま、陽が傾いてきました。野営する場所を探しましょう。」
「おう、そうだな。ラビ、この辺は詳しいか?」
「少し道をそれると清流があるはずです。あちらに…」
「いいや、シャギ、こっちに行くと綺麗な湧水が汲めるから、野営に適してると思うよ。」
「清流は文字通り清い水ですので。魚もいますから食料の調達もしやすいでしょう。」
「狩りをして肉を食ったほうがいい!効率よく栄養を摂取できると思わないか?」
ラビとマリーの視線の間にばちばちと電気が弾ける音が、聞こえた気がした。
「うーん、そうだなあ…。」
空に視線を向けてシャギは考える。
二人の言うこともどちらも良い点はある。
だがどちらかの案を選択した場合、選ばれなかった方がどうなるのか、を思いぞっとする。
そうして考えついた折衷案は。
「湖とか、ねえかな?」
「「ああ、それなら!」」
訪れる沈黙。
ギスギスした雰囲気のまま、野営地へと向かう。
少し森へ入ると、川へ到達した。水辺の湿度、空気はひやりと肌を包む。
流れに沿って川を下っていく。
苔むした岩部、土の上を、足を滑らせないように注意を払いながら歩く。
せせらぎは緊張した雰囲気をかき消すように、さらさらと流れていった。
この川は途中広く膨らみ、湖のように水の溜まっている場所があるという。
水の綺麗さはお墨付きのようなので、シャギはそこで水浴びでもしようかと考えていた。
森の中を歩いて程なくして、二人の言う湖、のような場所へとたどり着いた。
「おお、これは…。」
水は透明度が非常に高く、土は湿っているが広々と休める空間もある。
夏の暑さを打ち消すひやりとした水辺は体を休めることができそうだ。
小さく波打つ汀と、清流の音がさらに心地よい。
湿った深い緑と木の香り、水面や草木はわずかに青く光っているように見えた。
いつも通り、ラビは手際よく野営の準備を整える。
その間にシャギとマリーは、食料調達のため狩りへと出かけた。
よくわからない鳥を三羽ほど仕留め、慣れた手付きで血抜きをする。
「へえ、やるじゃんか。」
「だけどさ、俺、魔物と戦ったことないし、喧嘩さえしたことないんだ。」
「ふーん。」
三羽括った鳥をシャギが肩に担いで、ラビの元へ戻る道中。
「歯ァ食いしばりな。」
言いながら、シャギの顔面をめがけて拳を振るう。
ノーモーション、しかも女性の打拳とは思えない速度で。
だがシャギは見切る。一歩踏み込んだ。屈んだ頭上で、空気を切る音。
瞬きをする間に、振るった右腕を引きながら、右足に重心を置く。ほんの刹那、左膝が閃光のように、躊躇も手加減もなく飛んでくる。
すんでのところで身を後ろに引くが、そのまま膝が伸び繰り出されるミドルキック。
ただ膝を伸ばすだけの蹴りですら、当たったらひとたまりもないような勢いだ。
精一杯身を後ろに引いた状態、これ以上は引くことができない。
ならば。
「捕えた!」
前に出した左足に体重をかけ、低く重心を置き、相手の膝と腿を腕でしっかりと掴む。
相手は今片足の状態。
ぐいと前に押して、バランスを崩したマリーは後ろに倒れ込みそうになったが、しなやかに身体を反らし、両手を地面についた。
「だから甘いってんだ!」
「うおっ!?」
マリーを押したあとのことまで考えていなかったシャギは、そのまま右にバランスを崩してしまう。
抱えられた左足もそのままに、マリーは腰から下半身を捻り勢いをつけて、右足をシャギの首を狙い放った。
なおもシャギはギリギリで屈み、それをかわした。
縺れた腕はマリーの足を開放し、彼女は器用に体制を立て直した。
「なんで反撃してこないんだい。」
不満げな声と表情のマリー。
人間だから。相手が女だから。そんなのは逆に失礼だと、ようやく気付く。
そもそも相手が女なんだから、自分のほうが強いなんて、思い上がっていたかもしれない。
マリーは明らかに、拳や蹴りの威力以外は手を抜いている。つまり彼女が本当に本気で対峙してきたとしたら、あの威力の攻撃が当たっていたかもしれない、ということ。
致命傷にもなりかねないあの威力の攻撃が当たっていたらと考えると、背筋がぞくりとした。
しかも生身であの威力。もしもマリーが身体強化の魔術を使うとしたら、その脅威は計り知れない。
「思い上がってたよ。」
「ああ、いいね、ほら、やろうよ。」
食料の鳥を放り投げる。二人は腰に提げた剣、マリーは背中に背負った銃器を降ろす。
片手をかざして、人差し指でくいくいと手招き。それを合図に、シャギはマリーへと走っていく。助走をつけて振り翳した右の拳を手加減せず叩き込む。
彼女は避ける気配はない。受け止めるつもりだ。
顔面に向かってきた、わずかに上体を傾けて、その手首にマリーの前腕が掠める。
「!?」
シャギの勢い、力はすべてマリーの後方へと受け流され重心を失った。早く体制を立て直さなければ。
彼女の前腕が彼の肘まで滑る。
「ほらね、あたしのほうが、強い!」
踏み込んだ、硬く拳を作る右腕が見えた。
筋肉や筋が浮き上がるのが見えた。
あれが当たったらまずい、思うのも束の間に。
「おげぇ!」
彼女の拳は鳩尾にクリーンヒット。
耐えることなんてできずに胃液が逆流する。
痛い、痛くて息ができない。声も出せずにうずくまる。無様に、滑稽に、自分の浅はかさを思い知る。
頭上ではマリーがそんなシャギを見下ろす視線を感じた。
肩で浅く呼吸をする。上半身のすべてが痛む気がする。
追い打ちはしてこない。
呼吸を整える。少しは動けそうになって、膝を立てた。
そのまま踏ん張って。
「お?」
勢いをつけて立ち上がる。半分やけで。
突進した、その頭頂部が、マリーの顔面に直撃。
目前に星が回る。ちらちらする視界の中で、弾け飛ぶ血が見えた。
「野郎ッ…!」
まだよろよろとしている、シャギの肩を掴んで、左ストレートは顔面を打つ。
激痛はやまない。
これが、戦いの痛み。
シャギも応戦する。打拳はマリーの顎を打つ。意識が朦朧としてきた。
「ははっ!ほら、もっとやろうよ!」
口から、鼻から、流れる血を気にも留めず、楽しそうに彼女は笑う。
シャギが一撃打つ間に、マリーは二打繰り出す。速い、一撃も重い。
こめかみを打たれた。脇腹に鋭い蹴り。
最後の力を振り絞って握る拳はまるで幼子のように、呆気なく振り払われて。
シャギはその場に倒れ込んだ。
マリーは最後まで、そこに立っていた。
負けた。
叩きのめされた。
経験の差を思い知らされる。
武術の鍛錬はしていても、彼は父親としか対峙したことはなかった。その父親も、もちろん本気で殺しに来るわけではない。
怪我をすることはあれど、歩けないほどの激痛を覚えたこともない。
「強いな…マリー。」
息も絶え絶えに、肩を支えられながら歩く。
人生で初めて、心の底から悔しいと思った。勝負や闘争のなかった世界を飛び出して、初めて敗北を知る。
さらに驚愕することに、彼女はシャギの荷物と獲物の鳥、すべてを抱え、シャギの体重のほとんども支えたまま、足場の悪い道をスタスタと歩いているのだ。
「いや、化け物かよ…。」
「ほざけ。」
ふたりとも、ぼろぼろのどろどろで。シャギなんかは意識も朧げで、時折嘔吐しながら、来た道を戻っていく。
ちょっとやり過ぎたかもしれないと、マリーは心の中で省みた。
しかしここまでやるつもりはなかった。最初の一撃で沈むと思っていた。他の男たちには一度だって、初撃を見切られたことはなかったから。
しかもあの完全なる不意打ちで。彼女は彼女で、初めて破られたのだ。だからつい悔しくなって。楽しくなって。
しかし、人間の物とは思えないその動体視力と瞬発力、体の動きは、それこそ化け物級だとマリーは思う。
いくつか攻撃をかわしていたが、彼は行動を先読みするのではなく、振りかぶった動線を見てから体を動かしていた。
もしもシャギがあらゆる戦闘の経験をしていたら、もっと体の使い方がわかっていたら。
行動を先読みできていたら。
勝てていただろうか、そう思う。
それから程なくして、野営地へ戻ってきた二人。ぼろぼろの二人を見て、ラビは驚いて問う。
「シャギさま!?一体何が…!魔物ですか!とにかく、急いで治癒を…!」
草を編んだ布の上にシャギを寝かせ、ラビは懸命に治癒を施す。
「シャギさま、一体何が…?」
「力比べを…ちょっと…。」
「…はい?」
「まあ、この怪我は男の勲章だ。」
「馬鹿言わないでください!!」
大きな声にシャギはびくりと肩を震わせ、ラビを見た。
「わかっているんですか!?これからあなたは魔王を討ちにいくのです、魔王はあなたにしか討てない、大事な体だというのに!それを身内で殴り合いですか、危機感がないにもほどがある!しかもこんな怪我をして…!」
目に薄く涙を浮かべて、ラビは彼を叱責する。
「そんな、この程度の怪我…」
「この程度…?わかってないようですから言いますけど、複数箇所粉砕骨折、あらゆる内臓損傷です。はあ、というかなんでわからないんですか!生きてることが奇跡なんですよ!マリー!!あなたもきてください!!」
陰で大人しくしていたマリーは、唐突に自分に向いた矛先にびくっと全身を震わせた。
「あ、あたしはいいよ…こんな怪我くらい…。」
ラビの血管がブチッと切れる音がした気がした。
両手を怒りにわなわなと震わせ、更に捲し立てる。
「あなたたち…揃いも揃ってこの程度とかこんな怪我とか…脳みそ筋肉でできてるんですか?さっきも言いましたがシャギさまは死んでもおかしくない怪我ですが、マリー、あなたも、顎が大幅に左にズレてますよ。あと骨も折れてます。」
「あー確かに、なんか水飲みづらいと思った。」
飲みづらい、を通り越し、口に入れた水はすべて右から漏れ出していた。
それからよく聞いたら、マリーはまともにしゃべれてもいなかった。
歩いてるとき二人は、互いの健闘を讃え合い、泥だらけでも爽やかに歩いているつもりだったが、その実顔は曲がり体はバキバキで、格好なんてまったくついていなかったのであった。
マリーは大人しくラビのそばに座る。
初めてラビの顔を間近に見る。まん丸の赤い瞳、白いまつげ。薄く開いたピンク色の唇はぷるぷると潤んでいる。肌は白く、子ども特有の張りと艶を持つ。
思わずたじろいだ。
柔らかく温かい、小さな手が、顔に触れる。
──か、かわいい。
可愛過ぎる、マリーは生まれてはじめてこんなに可愛い生き物に出会った、と、胸がときめいた。
その時。
ゴキィッ
とてつもない音が耳の奥に響いた。それから、顎に強烈な痛みが走る。
思わず転げ回りたかったが、ラビのざまあみろ、とでもいわんばかりの悪い顔にゾッとした。
「もう痛くないでしょう。」
涙を浮かべ、両手で押さえた顎に意識を持っていく、熱を感じるが確かにもう痛くはないようだった。
「動かしてみてください。」
顎をかくかく、口をぱくぱくしてマリーはその動きを確かめる。
「おお!治った!」
ふう、ラビは大きくため息をついて、再度シャギの治癒にあたった。
治癒をしてはいるが、ラビの力だけでは本当はこんな傷は治せないはずだった。
死に相当する傷はラビでは癒せない。
だが、ラビの助けを借りてシャギの傷はみるみると治っていく。
(不死性の継承と再生の連続…いや、無限の生命の生成。…どうしてこんなにもあの人に近いの。)
「ありがとう、ラビ、もう大丈夫だ。」
横になったままシャギは、ラビの頬を撫でる。
小さくて柔らかくて温かい。
「おとっ…あぁ!もう大丈夫だ、じゃないのですよ!もう!マリーも!ふたりともそこになおりなさい!」
「「はいっ!」」
コホンと咳払いして、最後のお説教。
「何も鍛錬や修行がダメとは言いません。むしろ大事なことに違いはありません。しかし限度というものがあることを覚えてください。…まあ今日のでわかったかと思いますが!」
「「はい…すみませんでした…。」」
二人の謝罪を聞き遂げて、呆れたような、労るような、俯き加減にそんな優しい笑顔を浮かべた。
説教タイムは終わり二人の傷も癒え、夕飯の仕度。相変わらずの鮮やかさでラビは鳥三羽をあっと言う間にさばき終えた。
シンプルにスパイスと塩で焼いたものと汁物の二品で、三人の穏やかな夕げとなる。
若者二人がいると、あっと言う間に食事はなくなった。
「あー食ったー。」
焚き火の炎が揺れる。
頭上に燦然と輝く月明かり、草木の露に反射して、黄金色の光の飛沫がゆらりゆらりと立ち込める。
たまゆらの命の鼓動を、大地の呼吸を感じるようだ。
肌をなめる冷たい湿気た空気にくるまれながら。
見上げた空には月と、数多の星の織り成す大河。
瞬きを終えた星がひとつ流れ、行くべき場所へと還りつく。
星の煌めく音さえも聞こえてきそうな静かな夜に、バックミュージックは湖面を渡るそよ風の音と、川のせせらぎ。
シャギはおもむろに立ち上がり、水辺へ向かった。
こんな機会は滅多にない。こんなに大きく清い湖など、なかなか出会えることはないだろう。
端から端を見渡すことすらできない広大さと、高い透明度を誇る。ここは、すべての生命の始まる場所、生きとし生けるものの還りつく場所であるようにも思えた。
「こんなの、こうするしかねえからな〜。」
細かい砂利になっている、砂浜のような場所。周囲を伺うこともなく服を脱いで、はたはたと、砂利の上に重なる布。
何もない自然の中とはいえ、屋外で一糸まとわぬ姿になることの背徳感。
さっきとは別の意味で、いろんな意味で気持ちがいい。
ひたと、足をつける。
少し冷たくて、生ぬるくもある。
一歩踏み出すたびに水音を立てながら、気付けば腰ほども水に浸かっていた。
見下ろす水底は削り磨かれた宝石が鏤められて、きらきら光る。
ざばん。
頭まで潜って、目を開く。高い透明度の水の中。立ち昇る空気の泡も輝きながら水面へと消えていく。
どこまでも泳いでみよう。そんな気持ちになってくる。
村を出てからもうどれくらい経っただろうか。深く、長く潜り、故郷を思い出す。
彼女を思い出す。
胸元から取り出した、青く、不思議に輝く大きな石のペンダント。
水底から水面へ向けてかざすと、月明かりを乱反射して、青い光が湖面へ昇っていく。
彼女の瞳もこんなに青く、透き通っていた。
こんな悲劇は自分の代で終わらせて、平和な時を取り戻す。故郷に帰って、命をつなぐ。
彼は確かに、マリーに負けた。本気ではない彼女に完全に負けた。だから、勇者の剣を携えていたところで、きっと魔王には敵わないと気付いた。
握り締めた石は変わらず輝き、指の隙間から光が滲んでいた。
「…なあ。」
せっせと後片付けを進めるラビの背中に、マリーは問いかける。
「なんですか。」
振り向かずに、少し冷たい声。
あんなことをしでかしたのだからしょうがない。
教えてやるつもりだった。痛みというものを。
ただ穏やかに過ごしてきた人間にとって、強烈な痛みは直死を意味する。
一発叩き込んで、危険を教えるつもりだった。その手段を違えた。
だがそんなのは言い訳に過ぎない。
わかっているからどぎまぎと、背筋を伸ばして、ラビの背中に謝罪をする。
ぴた、とラビは動きを止め、ぼそっと呟く。
「…でも、あれでよかったのかもしれません。」
彼の体は死の淵に立つことで、なんの派手さもなく、秘めた能力を開花した。
不思議そうな目で見つめるマリーを振り向き、ラビは問う。
「あなた、年は?」
「……じゅうしち。」
若いとは思っていた。十代だとも思っていたが。
「そうですか。ではこれは没収ですね。」
「!!」
腰ベルトに大切に括っていた巾着がいつの間にか解かれ、それはラビの手中に。
中身はアルコール度数の高い酒瓶。マリーはそれを少しずつ少しずつ飲んでいたのだ。
「待ってくれ!それがなきゃ力が出ないよー。」
法に従いなさい、ラビは言う。
「没収してどうすんのさ。」
「わたしがいただきましょうかね。」
「ガキのくせに!おまえこそいくつだ!」
「さあ?忘れましたが、あなたよりは遥かに。」
こうして、マリーの禁酒の冒険が始まったのだった。
「はぁ…。わかったよ。今は飲まないの?」
「じゃあ少しだけ。」
コルクを回してねじり、きゅぽんと音を立てて蓋があいた。
ぷるぷるの唇が瓶の口に触れる。
幼子にとても似合わない、或いは子どものいたずらみたいに、酒瓶は似つかわしくなかった。
濃度の濃いアルコールの刺激臭と、スモーキーな香りが鼻を突く。
どこにでもよくある、廉価な蒸留酒。
ごくりとひとくち。
飲み下せば、喉と胸が焼けるようだった。
口の中に残る木のような味。鼻孔をくすぐる薬草のような香り。
久しく飲んでいなかった酒に、体はすぐに暖かくなった。
そそくさと、もう一度栓をして巾着へ入れる。
「なんだ、もう飲まないの?」
「今日はこれくらいにしておきまふ。」
ラビはいつもよりもう少し舌っ足らずになった。普段から少女の見た目通り、少しは稚い話し方なのだが、今は明らかにいつもとは様子が違う。
もしかしてもうほろ酔いなのかとマリーは思った。
「あつい。」
たった一口でそんな状態。自分の飲み慣れていない頃もそうだったかもしれないと、懐かしむ。
普段は見た目にそぐわず、あんなにしっかりしているのに。
ブラウスのボタンを外して、ぱたぱたと胸元を仰ぐ。
できるだけ顔は平静を保とうとしているが、頬は仄かに赤く染まっている。
「かわいい…。」
つい漏れ出る本音。
「なっ、なにを言う!」
「口調変だよ。」
くすりとマリーは笑って。ラビににじり寄る。避ける気配はない。
「おいで。」
そっと少女の体を横たえて、背中から抱える。
顎をくすぐる白い髪は小動物のように柔らかく心地好い。
その感触を楽しみながら、戯れな会話をする。
「あんたさ、魔族じゃないの?」
「…広義には魔族になるかもしれません。」
「そう。ねえ、聞かせてよ、あんたの話。」
頭上から落ちてくる優しい声。背中を包む温もり、人間の匂い。
いたぶられてきた過去を、今更そんな記憶を思い出すこともないのに。
抱き締められた体がひどく安心するから、アルコールが体を火照らせるからか。優しい声音にほだされたのか。
「ラビは、むかしは…ただのうさぎでした。」
起伏もなく、少女は語る。静かな声で。二人だけの内緒話をするように。
少女は問わず語る。
────
魔族は元来、人間よりも長命であり、回復力が高く、それでいて強靭な肉体を持ちます。
はるか昔、人間は、魔族のそのエネルギーの源、核に目をつけました。
魔族の不老不死とも言える命を欲しました。
最終的な目標は、人間の体に魔族の核を移殖し、魔族の命の永さを手にいれること。
そんな研究機関があったのです。本当にはるか昔の話ですから。もうその機関は残っていないと思いますが。
そこで、半ば偶然、わたしという存在が生まれました。動物実験を行う最中、ありとあらゆる式を構成し、修正し、書き換え、実験を繰り返し、魔族と動物の交配に成功したのです。
そうして生まれた、動物でも魔族でもない中途半端な存在は、人間によって知恵を与えられました。教育を受けました。
その結果わたしは、人と変わらぬ頭脳を得たのです。
ですがどうでしょう。元は動物なんです、ただの。人間と動物では、まるで感情が違うのです。
痛みを感じても泣き叫びもしない。歯向かいもしない、わたしは、ただおもちゃにされました。
昼間は体の中を見るために切り裂かれて、夜は性奴隷です。
そうして満足したのかなんなのか知りませんが、その後は見世物小屋行きでした。
地を舐めさせられ、いたぶられ、暴力を受けながら、何年…何十年。
それでもラビは、人間を憎いという感情がなかった。そんな環境しか知らないから。そもそも憎いという感情がないから。
そのまま過ごしてきて。
ようやく体に限界が来たのか、自力での回復ができなくなりまして。
ほとんど動けなくなったから、そのまま捨てられました。
────
「捨てられて、その後はもう動けなくなって。諦めていたら、お父さまにひろっていだただいて…愛された。はじめて、愛されました。愛を知りました。」
死ぬはずだった、そこで終わるはずだった。そういうラビの体は小さく震えている。
その体をぎゅっと抱きしめる。小さな体に受けた屈辱と苦痛を包み込むように。
ほんの小さなその命に与えられた暴力の時間を思うと、何も言葉が出なかった。だからただ、その体を抱きしめた。
ラビは問う。
マリーの話も聞かせてほしいと。
きらきらときらめく湖畔で、そうして二人静かに過去を打ち明ける。
過去に傷を背負った二人は、慰めも傷を舐め合うこともなく、今この時間を共有した。
静かに、汀の波打つ音が、二人の声を包み込んだ。
「これは一体…。」
テントに戻ってきたシャギは呆然とその様子を眺める。
あんなに仲悪そうだったのに、マリーがラビを背中から抱きかかえて、二人ともすやすやと眠っている。
気配に薄く目を開いた、マリーはシャギの顔を見て、気を許したようにまたすぐに寝息を立て始めた。
「女ってよくわらんな。」
とりあえず二人に毛布をかけて、自分はテントに潜り込み、目を閉じた。
12代目の勇者と人喰い魔王 @amaki_kagami
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